強きビナスたちを描いた溝口フィナーレ。
1956年。溝口健二監督。京マチ子、木暮実千代、若尾文子、三益愛子、町田博子。
赤線地帯にある特殊飲食店「夢の里」の主人は、国会に上程されている売春禁止法案が可決されたら売春婦はみな投獄されると、女たちを慌てさせる。より江はなじみ客と結婚するが、夫婦生活が破綻し舞い戻ってきた。一人息子のために働くゆめ子だったが、その息子から縁を切られ発狂してしまった。やすみは自分に貢いでくれた客に殺されかけた。ラジオが売春禁止法案の否決を伝えると、「夢の里」は再び客の呼び込みを始めた。そしてそこには、店を辞めたやすみに代わり、下働きだったしず子の姿があった。(Yahoo!映画より)
いつもおおきに。
昨日スーパーで麺つゆを買って、うれしい心持ちがしました。近ごろ私はとろろ蕎麦ばかり食べているから麺つゆを切らしてしまっていたのです。知ってた?
基本的に年中食欲がないのに夏が近づくと輪をかけて食欲が減退するので、かないません。冷たい蕎麦ならツルッと食べられるので、週に3回ぐらいとろろ蕎麦を食べています。知ってた?
それはそうと、どうやら日本映画特集をエンジョイしてくれている人民が数名いらっしゃるようで、とても励みになります。まぁ…エンジョイしていられるのも今の内だけだろうがな!…ってぐらい今後もひたすら続いていくので、こうなるといよいよ私とあなたの我慢比べになってくるわけですよね。
ちなみにPV数は日々緩やかに下降しております。おう、落ちろ落ちろ!
てなこって、本日から三回に渡って溝口健二を取り上げます。まずは手裏剣一発、『赤線地帯』や!
◆活気で溢れた楽しい映画やで◆
以前に『現世と冥界の往還者 ー京マチ子追悼ー』を書いたが、改めて京マチ子を悼んで「独りでマチ子パーティー ~こりゃ参っちんぐ!~」を開催したいと思う。
さて何を観ようかなと考えたとき、Twitterで渋谷あきこさん(現バラカさん)が「先日『赤線地帯』を観たばかりなのでショックでした」と言っていたのでショックあきこさんの真似っこをして『赤線地帯』を観ることに。
赤線(あかせん)というのは、戦後GHQが公娼制を廃止してから売春防止法を施行するまでの約10年間に渡って日本全国に存在していた売春地域の総称である。
そして本作『赤線地帯』が作られた1956年は売春防止法が公布された年なので滅びゆく吉原・遊廓の終焉期をリアルタイムで記録した大変貴重な作品なのである。
監督は溝口健二。ゴダール、トリュフォー、ベルトルッチ、アンゲロプロスなどさまざまな映画作家に影響を与え、当時神がかっていた日本映画の恐ろしさを世界中に知らしめた二人の映画作家のうちの一人である(もう一方は小津安二郎)。
ちなみに当ブログでは以前 『祇園の姉妹』(36年)を京都弁縛りで評するというヤケにファンシーなことをした(反省済み)。
活気づく赤線。『赤線地帯』より。
さて。今回取り上げた『赤線地帯』は溝口の遺作である。公開直後、急にぶっ倒れた溝口は京都市内の病院で息を引き取ってしまいました。そんな悲しすぎるエピソードとは裏腹に、映画本編はなかなかに騒がしい。日本情緒を涼しげに綴る溝口作品にしては珍しく女たちの活気でガヤガヤと賑わう売春宿の日常が描かれた女性映画である。
どういう中身か、ご説明しましょうね。
国会で売春防止法が審議されている中、特殊飲食店という名の売春宿「夢の里」には各々に事情を抱えた住み込みの女たちがあくせく働いていた。
汚職でとっ捕まった父の保釈金のために身を堕とした若尾文子は最年少にしてこの店きっての稼ぎ頭で、客に貢がせたり仲間の娼婦に金貸しをおこなって利息で儲けるような抜け目のない娘である(かわいい)。
大年増ゆえに年中お茶っぴきの三益愛子は家を飛びだした息子との再会を願っている。折に触れてすごい声量で歌をうたう。
町田博子は水商売などやめて故郷で嫁入りしたいと考えているが、残念なことに天然記念物モノのブス。
この中で一人だけ所帯持ちで幼い乳飲み子を抱える木暮実千代は、失業したうえに結核に罹った夫に代わって生活費を稼ぐ苦労人だ。
そんな4人のもとにダイナマイトボディの京マチ子がやって来た。母の死と父の浮気癖に嫌気が差して家出してきたズベ公で、稼ぎがいいぶん金遣いも荒いので借金三昧…というデタラメな女である。
「夢の里」は今日も活気で溢れております!
左から三益愛子、 木暮実千代、京マチ子、若尾文子、町田博子。
『赤線地帯』は京マチ子、木暮実千代、若尾文子のスーパースターが共演した楽しい楽しい群像劇で、そうさな…、木下惠介の『女の園』(54年)とか成瀬巳喜男の『娘・妻・母』(60年)あたりを思わせる女性オンリー映画である。
誰も好きで売春などやっているわけぢゃない…という溝口的前提事項は『祇園の姉妹』や『夜の女たち』(48年)にも一貫している通り。みなそれぞれに人生の泥沼から這い上がろうと必死で働くさまが非常に涙ぐましい。女を描かせたら溝口は天下一品である。
とはいえ、売春防止法が可決されると仕事にあぶれて路頭に迷う…という相克が「夢の里」に重い空気を行き渡らせる。つまり彼女たちの心中には「売春なんてしたくない! したくない!」という思い半分、「でも可決されんな可決されんな」という思い半分…といったジレンマが渦巻いているのである。
そんな雰囲気が漂うなか、娼婦5人のエピソードがさらさらと並行されます。
若尾文子は大金を騙し撮った客から半殺しの目に遭い、三益愛子がようやく再会した息子は母の商売を恥じて「親子の縁を切る!」と叫んでピューッと逃走、晴れて結婚が決まった町田博子は嫁ぎ先で家畜以下の扱いを受けてスンスン泣きながら帰ってくる、木暮実千代の夫は生活苦から自殺未遂をして、母を亡くした京マチ子は自分を連れ戻しにきた父親の女癖の悪さを涙ながらに論って追い返す。
「夢の里」は今日も活気で溢れております!
そろそろキツいかな、この詐欺フレーズ…。
よしゃ、本当のこと言っちゃる。
悲惨な映画である。
5人全員が人生の隘路に立たされ、ズブズブのズブ沼にはまり込んでしまうンである。
けれどもよぉ、どんよりした暗さや重さはほとんど感じないので、読者におかれましては是非とも敬遠しないで頂きたいのです。その理由は次章でたっぷり紐解いちゃう。
あと、これは余談だけれども…
京マチ子の父親役がしゃべくり芸人でお馴染みの兵動大樹さんに酷似してらっしゃった。
兵動やん。
もう70%兵動やん。
70%も兵動なら、それはもう兵動やん。
◆うち、ビナスや!◆
プライベートでは皆一様にのっぴきならない事情を抱えながらも、5人が顔を合わせれば愚痴と冗談が飛び交い、丁々発止の女子漫才が始まる。いいよねー、こういうの。当世風に言うなら「ガールズトーク」ちゅう事になるのかなぁ。
そう、『赤線地帯』は女子会みたいな映画なのだ!
もう70%女子会である。70%も女子会なら、それはもう女子会やん。違うか?
また、5人のキャラ分けも現代に通じるものがあり、まるで古臭さを感じない。華のある京マチ子が主人公格のムードメーカーだとすれば、木暮実千代は陰気キャラで、若尾文子はツンデレ代表、急に絶唱する三益愛子がボケ担当なら、町田博子はブス担当…といった具合に。
5人それぞれの個性は、服装、所作、画面配置によっても巧みに描き分けられているのだが、とりわけ白眉なのが「夢の里」のロビーでたむろするシーン。
二軍メンバーの木暮と町田はロビーで雑談しながら客の来店をのんびり待っているが、人気No1の若尾にはいつも太客が付いているのでロビーには若尾の姿だけが見当たらない(すでに部屋で接待している様子)。
そして大年増ゆえにまったく指名が入らない三益と元気があり余っている京は店の表で客引きをするのだが、ここにも二人の性格の違いが表れている。年増コンプレックスを抱いている三益は道往くサラリィマンに声を掛けることができずにモジモジするばかり。対してナチュラル・ボーン・ズベ公の京は「おい、ヒゲのおっさん! ちょっと遊んで行かへんか?」と言ってヒゲ親父を羽交い絞めにして店内に引きずり込んでしまうという剛腕ぶり。
5人の中でも一際目立つのは、やはり京マチ子である。
個人趣味を開陳するようで申し訳ないが、わたくしは映画・マンガ・アニメ問わず、男性キャラクターなら一歩引いたクールな二枚目を好むが、女性キャラクターに関しては元気印のお転婆娘が大好きなのだ。それこそラブコメ女優の中だと断然サンドラ・ブロック。『けいおん!』で言うならドラムの律ちゃん。
そんな私にとって…京マチ子が実に愛おしいのである。
はじめて「夢の里」にやって来た日、ロビーに設置された巨大な貝殻の上に立って「うち、ビナスや!」と言ってポーズを決める京。この茶目っ気。ヴィーナスのことをビナスと言う昭和発音も含めて実にベリーキュートではないか。
マチ子だけに マいっチんぐ!
ビナスを自称する京マチ子。
そして大女将との面接では、グラマラスボディを高く評価してくれた大女将を前にガムをくちゃくちゃ噛みながら「話せるやないか、このおばはん!」と不遜な態度を取る京。
怖いもの知らずか、おまえは。
さらに自分を売り込むべく、すっくと立ちあがって決めポーズを取った京。
「8等身やっ(ドヤ!)」
8等身を誇示する京マチ子(よく見ると7等身)。
そんな京に負けじと魅力を放つのが『祇園囃子』(53年)でW主演を務めた木暮実千代と若尾文子。
木暮といえば日本人離れした美貌とスタイルで妖艶な悪女を演じてきた大スター(CM出演した初の女優でもある)。しかし本作では死にかけの亭主と幼子のために身を粉にして働くナイーブな黒縁メガネの娼婦を演じており、腰を叩きながら歩くという挙措で所帯やつれした女を巧みに表現している。ド美人の木暮実千代がまったく美人に見えないのだから凄い。
そんな小暮にもギャップがありました。自殺未遂してめそめそ泣く夫に怒りの演説をかますシーンはまさに圧巻。
「私は死なないわよ。泥をすすってでも生きてやる! 淫売に堕ちてもやっていけない女がどこまで堕ちるか見届けてやるのよ!」
自殺未遂したダメ夫を一喝する木暮実千代。
そして若尾文子。
父の保釈金のために娼婦に堕ちたことから金の亡者と化した彼女は、結婚を誓った太客に「借金さえ返せたら明日にでも一緒になれるのにナ♡」と思わせぶりな口調で大金を用意させ、せんど金をふんだくった挙げ句「結婚なんてするわけねぇだろ田吾作がァ――ッ! 娼婦相手に何マジになってんだ!」と冷たく突き放す魔性の化け狐を好演。
ツンとデレの振り幅がすげえ。
結局、騙し取った大金で貸布団屋を開いた彼女は本作でただ一人だけカタギの世界に舞い戻った勝者。しかも、もともとその土地で雑貨屋を営んでいた主人を廃業に追い込んで店を立ち退かせるという巧妙にして周到な手口。狡賢く立ち回った者が最後に笑う…という世知辛い世の中を体現するようなキャラクターでした。やるせん。
男をたぶらかす小悪魔、若尾文子。
◆十字を切る画面。そして金と女はリレーする◆
最後の章では技術論に踏み込んでみたい。
まず、本作を観ていて気づくことはワンシーン・ワンショットが存在しないこと。
溝口といえば長回し。流麗な動線によってキャラクターの心境や状況をワンショットの中で見せきってしまう、その最高難度の撮影にこそ溝口の本質があるといっても過言ではないし、現に溝口に影響を受けたヨーロッパの作家たちも「日本文化」なんかより「撮影」にこそ衝撃を受けたのだ。
だが『赤線地帯』では溝口の代名詞ともいえる長回しがほとんど使われていない。なんたる禍事か。ワンショット撮るだけで丸一日費やした溝口も当時58歳、耄碌したのであろうか?
断じてノン!
溝口は意図的に長回しを封印している。
それは本作が群像劇であること、長回しが賑わいの演出には適さないこと、何よりカメラではなく女優陣の芝居をこそ「映画の話者」とした題材であることから、溝口はあえて十八番を封印してごく穏当にカットを重ねる作風を選んだのだ。
撮影は天才カメラマンの宮川一夫。
溝口の『雨月物語』(53年)も黒澤の『羅生門』(50年)も市川の『炎上』(58年)も小津の『浮草』(59年)もぜんぶこの人。どれだけ監督が無能であっても宮川一夫が撮れば自動的に傑作になる…という最強の金棒である。溝口や市川はこれを巧みに使いこなしたのでまさに鬼に金棒。たとえば私が「ベスト撮影監督十選」を選ぶとしたら余裕で上位に入って来るような天才の中の天才。
したがって溝口は、本作のカメラが宮川一夫だからこそ安心して長回しを放棄できたのだろう。
溝口健二を囲う主要キャスト陣。ええ写真やなぁ。
さぁ、そんな宮川一夫の仕事ぶりをフィーチャーするときが来ました。
今回、長回しを封印したことの代替物として宮川が用意したのが遠近法による説話。すなわち画面の遠近法を使ってストーリーを語っていくというトンデモない離れ業である。
この映画は絶えず大勢の人間が「夢の里」をバタバタと走り回っているような群像劇なので、色んなキャラクターが頻繁に同一画面を出入りするのだ。いつもの溝口作品ならカメラを回し続けたまま右へ左へとパンすることで大勢のキャラクターを一人ずつ捉えていくわけだが、「今回はそれはナシで」と言われた宮川一夫は「だったらカメラの代わりにキャラクターを動かせばいいじゃなーい」とコペルニクス的転回に達する。
つまり、画面手前にカメラを立てて廊下の奥までディープフォーカスでバキッとピントを合わせ、その前景・中景・後景にさまざまなキャラクターを順繰りに登場させてはそれぞれのエピソードを同時並行的に進めていく…という神業である。
どういうことか? こういうことだ。
たとえば、息子が「夢の里」にやって来たことを木暮から告げられた三益が「合わせる顔がないから体よく帰してちょうだい」と頼むシーン。
カメラはロビーからやや外れた画面手前の廊下に立てられており、その位置から店の入口に佇む息子(後景)と、その様子をちらちらと覗く三益(前景)を直線で結ぶような構図を取っている。その直線を小走りで往復するのは伝令係の木暮だ。
これだけでも素晴らしいショットなのだが、なんと「画面手前の三益」と「画面奥の息子」の直線をぶった切るかのように、その中景に設けられた大階段から若尾が太客と降りてきて「今度はもっとサァビスしちゃう♡」などとじゃれ合いながら画面を横切るのである。
三益(画面手前)と息子(画面奥)の直線構図。小暮はこの直線コースを画面奥に向かって走っていく。
そこへ、直線構図をぶった切るように若尾と客が画面右側から左側へと横断する。
つまり同一ショットのなかで四者を同時に描いているわけだ。
「三益」と「息子」を繋ぐ縦の構図と、縦の往還者たる「木暮」、しかし不意に「若尾」が客を連れて画面を横断したことで横のパースが加わる。
「縦と横」あるいは「奥と手前」を巧みに空間操作しながら画面を十字に区切っていく手つき。この宮川メソッドはワンショットのなかで複数のキャラクターのエピソードを長回しを用いずして同時展開することを可能たらしめた。これぞ天才の所業ザッツオールとは言えまいか。
そして最後に記しておきたいのは金のリレー。
映画冒頭。「ツケでいいですよ!」と言って女将に布団を渡した布団屋の主人が、若尾を見た途端に「やっぱり今頂きます」と言って女将から金を徴収、その金を持って若尾に近づき「お小遣いあげちゃう!」と全額貢き、大儲けした若尾は「100円貸しておくんなすぅ…」と乞う三益に100円を貸してやる…というファーストシーン。
パンパンとカットを割りながら、流れるように女将→布団屋→若尾→三益へと金が運ばれていく気持ちよさ。まさに金がバトンのようにリレーされていく。この一連のリズミカルなシーンは長回しを放棄したからこその宮川流フットワークだろう。「金は天下の回りもの」という諺をそのまま視覚化してみせた洒落っ気も含んでいます。
そして見倣いだった娘が娼婦デビューを飾る…という暗澹たるラストシーン。彼女は店の外で呼び込みをする先輩たちを不安げな表情で見つめるが、当然これは若い女性が娼婦に身を堕とす=不幸の連鎖を象徴したものだ。
リレーされた金は世代を越えて娼婦に堕ちていく女達そのものでした。
(C)KADOKAWA
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