シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

パリの家族たち

このdvgぶbfvvbぶッ、ぶば

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2018年。マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール監督。オドレイ・フルーロ、クロチルド・クロ、オリヴィア・コート。

 

5月のとある日。女性大統領のアンヌは、職務と母親業の間で不安に揺れていた。ジャーナリストとして働くシングルマザーのダフネは、仕事を優先するあまり思春期の子どもたちとの関係が上手くいかない。独身を謳歌する大学教授ナタリーは、教え子との恋愛を楽しんでいる。小児科医のイザベルは、幼少期の実母との関係が原因で、子どもを産むことを恐れている。花屋のココは、電話にも出てくれない恋人の子どもを妊娠してしまう。彼女たちはそれぞれ事情を抱えながらも、幸せを求めて日々奮闘するが……。(映画.comより)

 

おぅ、しらばっくれてばかりのみんな。

濁世では映画好きのシャバ僧たちが「テン年代BEST10!」とか「2010年代ベスト!」なんつって盛り上がっているねぇ。楽しそうでいいな。

それじゃあ私も「10年代映画十選」を発表しようかな。超ベタなラインナップで恥ずかしい限りです。

 

~ふかづめが選ぶ! 10年代映画十選!~

 

『女の叫び』(11年)

『闇に住む女』(18年)

『フランケンシュタイン』(10年)

『カビリア』(14年)

『チート』(15年)

『イントレランス』(16年)

『犬の生活』(18年)

『チャップリンの拳闘』(15年)

『チャップリンのスケート』(16年)

『散り行く花』(19年)

 

ザッとこんな感じでしょうか。こうして見ると結構充実してるなぁ。やはりチャップリンが強い。20年代以降のベストも発表できるけど、まぁ遠慮しておきます。

そんなわけで本日は『パリの家族たち』。先に断っておきます。なるべくキレまいと努力はしました。

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◆母の日群像劇◆

1858年、社会活動家のアン・ジャーヴィスはアメリカの公衆衛生改善を掲げて「母の仕事の日」を発足し、世のマザーズを集めてコミュニティを形成した。アン率いるマザーズは自分たちで金を工面し、医療や教育を天下万民に供給したことで病気や乳児死亡数の引き下げに貢献。南北戦争中は多くの負傷兵の手当てもした。

これにいたく感動したのが女性参政権運動家のジュリア・ウォード・ハウ女史で、彼女は南北戦争終結直後の1870年に「母の日宣言」を発したが、天下万民からは「一人でやってろ」と無視されてしまう。「母の日宣言」がまったく浸透しなかったことをハウ女史はとても残念に思った。

さらにその30年後、アン・ジャーヴィズの死から2年経った1907年5月12日に、その娘アンナ・ジャーヴィスが亡き母を偲んで記念会を開き、そこで母の魂に白いカーネーションを捧げた。これを見た天下万民は「素敵やん」、「美しいやん」、「母の偉大さをヒシヒシと感じるやん」といたく感動。爾来、5月の第2日曜日は「母の日」となり、白いカーネーションがそのシンボルを担ったのでありました。

まぁ、母の日の母体となった「母の日宣言」の提唱者たるハウ女史が手柄を横取りされたみたいでちょっぴり気の毒だが…アンナ・ジャーヴィスこそが母の日の設立者である。

 

…このような母の日の起源を生徒たちに語った大学教授オリヴィア・コートは、プロジェクターでアンナ・ジャーヴィスの写真を映して「この女は忌々しい記念日を作りました!」と怒った。

オリヴィアは母との確執から世のマザーズを目の敵にしており、街中で母子を見かけると見境なく牙を向ける狂犬女だったのだ。

一方、オリヴィアの姉クロチルド・クロは二人のキッズを持つシングルマザーで、仕事を優先するあまり思春期の長女から牙を向けられていた。

妹のパスカル・アルビロは幼少期に母から牙を向けられたことがトラウマになり子作りを躊躇っていた…。

 

この三姉妹のほかにも様々なマザーズが登場する本作。

女性大統領のオドレイ・フルーロは公職と育児の狭間で神経をすり減らしており、思わず誰かに牙を向けそうになった。

物忘れが激しくなった舞台女優ニコール・ガルシアは自分を病人扱いする息子に牙を向けて舞台復帰をめざす。

花屋のノエミ・メルランは妊娠報告した途端に連絡が取れなくなったボーイフレンドに牙を向けてシングルマザーになる決意を固めに固めた。

ゲイのパスカル・ドゥモロンは片想いの相手がノンケであることに苦しみ、亡き母との思い出に魂の安らぎを見出そうとしている。

そして中国から出稼ぎにきた名もなき娼婦は、毎日息子とスカイプをして悲しみを紛らわせていた。

 

母にまつわる悲喜こもごものエピソードが交差し、やがてそれぞれが迎える母の日をパリの情景に乗せてフレンチポップに彩ったマザーズ群像劇。

監督は『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』(16年)を手掛けたマリー=カスティーユ・マンシオン=シャール。私が発表する「悪いとは思うけど名前を覚える気になれない監督名ランキング」においては堂々の3位に輝いたことでお馴染みの女性監督である。

先ほども紹介したが、主要キャストには『最強のふたり』(11年)のオドレイ・フルーロ、『エディット・ピアフ ~愛の讃歌~』(07年)のクロチルド・クロなど。

ちなみにクロチルド・クロはこの私にDVDをジャケ借りさせるほどの美貌を持っており、2003年にイタリアの王族と結婚したことでヴェネツィア=ピエモンテ公妃の称号をゲットしたなんかすげえ身分の高い女優である。グレース・ケリーかよ。

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赤毛がいかすオドレイ・フルーロ(左)、身分の高いクロチルド・クロ(右)。

 

◆霧 が 深 い◆

よき母になろうとする女性、母であることをやめたい女性、母になるかどうかで悩む女性など、「母親」という存在を多角的に捉えた女性讃歌である。

母親視点から描いただけでなく、「子どもから見た母親」や「社会から見た母親」など、さまざまな視点から文化人類学的に母親というものを見つめる作りになっていて、テーマとしては明確かつ深遠。役割としての「母親」にアイデンティファイすることの葛藤、「女」との相克、あるいは母になったことで訪れる劇的な生活変化、およびそれに適応できないもどかしさ!

女性讃歌に付き物の湿ったフェミニズムや自己憐憫もなく、母親は偉くも強くもないということが前提化されたクールな世界が広がっております。

最低な母との確執に悩む三姉妹がストーリーの主軸を担うが、最終的に和解するようなメロドラマは描かれず、なんと三姉妹がレストランに母を置き去りにしたところで映画は終わってしまう。後味わっるー。これぞフランス式姥捨山。

戦後の日本映画やイタリア映画で描き尽くされたはずの「母」というシンプルなテーマをここまで豊かに敷衍させたマリー…、あ何だっけ、マリー=カスティーユ・マンシオン=シャールの手腕は買える。そして名前が覚えにくい。

人物やパリの表情もよく、張りのある映画だと思いました。

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はい、こっから反撃タイムね。

わたくしは群像劇を貶すときに「アルトマン観て勉強しろ」という決まり文句をよく垂れるが、またしてもこの悲しい文句を垂れねばなりません。

この映画、とにかく個々のショット、キャラクター、エピソードに意味や繋がりがないので、厳密には群像劇というより限りなく群像劇に似た何かである。

ここで描かれているのは女たちの「境遇」であって「心境」ではない。母親と確執のある三姉妹は過去に何があってどんな心の傷を負ったから母を憎んでいるのか? 公務と母親業の両立に苦しむオドレイは「自信がない」と繰り返すが、なぜ自信を持てないのか、何に悩んでいるのか? 舞台女優のニコールは「かつて輝いていた頃の自分を取り戻したい」などとゼロ年代J-POPのごとき漠然としたワードを口にするが、過去に何があったのか? なぜ輝きが失われたのか?

一個も分かんね。

カメラはただキャスト陣の辛気臭い顔を捉えて「悩んでる風の映像」をスクリーンに塗りたくることで詩情とか文芸感をしきりにアピールするが、何について悩んでいるのかという事については曖昧模糊のもこみち。しかも最後まで悩みが解決しない(ズコーッ)。

つまりこういうことだ。

詳しい事はまったくわからんが何らかの事情を抱えた女たちが何らかの件について最初から最後まで悩み続ける映画。

 

霧が深いなぁ…。なーんにも見えねえや!

 

また、基本的にはいろんな女優の悩んでる顔をただ撮ってるだけなのでエピソードらしきエピソードもない。

思春期の娘から牙を向けられていたクロチルドは、子供たちと一緒に水溜まりで遊んだだけで仲直りしてのける。中国人娼婦に至ってはマジで何のエピソードもなく、鬱々たる表情で街角に突っ立ち、息子とスカイプで通話して泣く。おわり。

あと登場人物がやたらめったら出てくるうえに相関図も複雑なのでキャラクターの識別は早々に諦めるべし。もっとも「なぜか悩み続けている」という点だけは全てのキャラクターに共通しているので識別する必要もないのだが。

それぞれが母の日を迎えるラストシーンでは、絶賛お悩み中の女たちが物憂い表情をしながら窓辺に佇んだり空を見上げたり…といった完全に雰囲気だけのシーンが約15分お楽しみ頂ける。

なっっっっがい。

その間、画も話もまったく動かない。ただ女たちのしょぼくれた顔が次から次へと映されていくだけ。15分も。リアルタイムで悩むなよ。こんなもん、ただの「フィルムの遅延行為」だからね。

 

事程左様に、何かを描いてるようで何も描いてない見かけ倒しのムード映画でありました。

マリー=なんとか・マンシオン=なんとかは勘だけで映画を撮っていて、まるで中学生が書いたわけのわからないポエムみたいに空洞化した群像劇がタラタラ描かれてるだけ。

群像劇を撮るうえで一番大事な編集感覚=“繋げる”という感覚を持たないヤツの撮った群像劇は往々にしてムードに傾斜する。それくらい「群像劇は繋げないもの」と勘違いしている三流監督が多いのだ。たぶんマッチカットの概念とか無いんだろうな。

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三姉妹。

 

言 葉 に で き な い

本作と同じ瑕疵を持った群像劇は実に多い。だもんで、わたくし「群像劇なんて誰でも撮れる」という群像ナメが業界サイドにあるのでは…と勘繰っております。

失敬、ちょっとキレますね。ゴホンっ。

さてはテメェらぁぁ(業界人のこと)

さまざまなキャラクターが別々の場所でそれぞれの物語を紡ぐのが群像劇だという先入観から「個々のエピソードに直接的な関連性がないので、映像的または脚本的な辻褄を合わせる必要もなく、各エピソードをただオムニバス的に寄せ集めれば何となく群像劇っぽいルックに仕上がる」と思っているなぁぁぁぁぁぁぁぁ!?

群像劇ナメとったらシバいたんぞ!

一見して無関係な者同士のエピソードの集合体だからこそマッチカットやクロスカッティングといった編集技法で個々のエピソードに「意味」や「繋がり」を持たせていくのが群像劇なんだよ。 この低血圧のバカどもがぁ。

 

翻って本作の場合、「他人同士である2人の女を道で偶然すれ違わせる」という演出とも呼べないような演出を連発して個々のキャラクターに関係性を持たせているが…だからそういう事じゃないんだってば。

クライマックスに至っては、思春期の娘に牙を向けられていたジャーナリストのクロチルドが公職・育児に悩む女性大統領オドレイに生放送の番組でインタビューするシーンがある。おそらくバカな観客は「ああ、クロチルドとオドレイがここで繋がるんだ!」とパズルのピースが合わさったようなキモちE感覚になるのだろうが…

だッ・かッらッ!

群像劇の繋がりってそういう事じゃねえって何度言えばわかるんじゃお前はホントいっぺんタライで頭どついたらな分からんのかバカこのdvgぶbfぶvvbぶッ、ぶば――――っ!

ぶばああああああああっ!!!

 

誰のせいでもない

自分がちいさすぎるから

それが悔しくて 言葉にできない

LaLaLa... LaLaLa....

「言葉にできない」オフコース

 

怒ってるかって? オフコース!

たとえばね、オドレイが街の支持者から「大統領なのに子育てもしなきゃいけないなんて大変ね。がんばって!」と励まされて思わず涙ぐむシーンと、クロチルドが子供たちのシッターから「長女ちゃんはあなたに構ってほしいだけなのよ。きっと仲直りできるわ。がんばって!」と励まされるシーンを「繋げる」こと。これが群像劇なんだよ。

そういう編集をすれば、立場も職種も境遇も異なる二人のキャラクターの間に「悩みながらも前に進もうとする母親」というステキな共通項が生まれるでしょ。この共通項(もしくは対比)をさり気ない素振りで堆く積み重ねて一見なんの関係もない他人同士を見えない輪で結んでいくのが群像劇だっつってんの。さっきから。

道ですれ違っただけじゃ群像劇にはなんねぇんだよ!

シバくぞ、どりゃあああああああああああああああああああああああああ

そういう意味では(映画としての出来はさておき)ポール・ハギスの『クラッシュ』(04年)なんかは教科書的な群像劇だと思うだな?

あるいは、ハナから繋げる気がないなら『パルプ・フィクション』(94年)『ハッカビーズ』(04年)ぐらい有無を言わさない魅力がなければドッチラケなんじゃああああああああないの? だな?

ぶち切れすぎてせっかく覚え始めた監督名をまた忘れてしまった。えーと、なんだっけ。マリー=なんとか・なんとか=なんとか?

 

~まとめ~

・アルトマン観て勉強しろ。シバくぞ。

・繋げる気がないなら群像劇なんて撮るな。シバくぞ。

・雰囲気だけで群像劇を撮るやつは全員シバく。

・二度とオレに「ぶばああああ」と言わせるな。しばく。

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