ファッキングエネルギーで世界を照らせ!
1975年。パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ監督。ジジ・プロイエッティ、クリスチャン・デ・シーカ、アゴスティーナ・ベッリ。
時は近未来。1980年代に地球上の全エネルギーを使い果たした人類は、中世時代のような生活を営んでいた。そんな中、科学者たちが女性のエクスタシーを電気に変える方法を発明し…。 (Amazonより)
おはようポーニン!
久しぶりに倉木麻衣が聴きたいなと思いながらもパソコンのCDドライブがぶち壊れてるためにCD入れても読み込まないので仕方なく脳内再生している私が「Feel fine!」を脳の中で口ずさんでいます。
「Feel fine!」といえば、当時小学生だった私は歌詞を信じきるようなイノセント・ボーイだったので、「え! 麻衣ちゃんってサーファーと付き合ってるの?」とひどくショックを受け、食事も喉を通らなかった時期がありました。
ていうか直れよCDドライブ。以前から緩やかに故障し始めてて、CD1枚を取り込むのに30分ぐらい出したり入れたりしていたのだけど、ついにウンともスンとも言わなくなった。こんな事になるならもっと早くに倉木麻衣を取り込んでおくんだった(2010年の9th『FUTURE KISS』まで持ってます。おまえに貸してやってもいい!)。
それはそうと、つい先月、Amazonプライムビデオに「シネフィルWOWOWプラス」というチャンネルが追加され、普段あまりお目にかかれないレア映画がエントリされていたので早速利用。最近Amazonがんばっとんな。
そんな「シネフィルWOWOWプラス」で鑑賞したのが本日取り上げる『SEX発電』です。
SEX発電…
私が発表する「ずっと観たかった映画ランキング」で第177位の作品だったので、まあ、ぼちぼち嬉しいです。
◆ファッキングエネルギー◆
皆さんの直感は正しい。ゴミ映画です。
エネルギー資源が枯渇したことで電気・ガス・ガソリンで動く機械が無用の長物と化した近未来でジジ・プロイエッティ演じる教授は天才的なアイデアを思いつく。
「セックスによるエクスタシーを電気エネルギーに変換すればいいんだ!」
あー…。
パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレというヤケに陽気な名前を持つ大馬鹿野郎が撮ったこの映画は、1950年代末のイタリアで流行った「イタリア式コメディ」の残滓、要するにゴミである。
イタリア映画史のエポックといえば全世界に影響を与えたネオレアリズモ(40年代、ファシズムへの抵抗から巻き起こった一連の映画運動)だが、それが終焉を迎えたあと、真面目な映画もいいけどやっぱりエロだよね(エロこそが僕たちの原動力だよね)ということで桃色ネオレアリズモなる愚にもつかない官能映画が台頭。それがより洗練され…つまり愚の骨頂を極めたのが「イタリア式コメディ」なのだ。
要するに一度は映画芸術の世界基準となったイタリア映画だがド低俗な艶笑譚によって瞬く間に堕落したのである。なんたる痴態。
しっかぁぁぁぁし!
わたくしはイタリア式コメディを本気で擁護するラストマンを自称しており、当ブログでもカンパニーレの『女性上位時代』(68年)とサルヴァトーレ・サンペリの『青い体験』(73年)のような産業廃棄物を擁護しております。ゴミで結構、低俗上等。それにカンパニーレのゴミ映画はあんまり舐めていると思いもよらぬところで不意打ちされるんだよ!
SEX発電の実験中に急性インポを訴える研究員。
この映画のおもしろさは一切の機械が使えないという世界観だ。
オープニングでは自動車の代わりに馬車が高速道路をカポカポ走る光景がなんとも奇妙だが、たったこれだけでディストピアを表現した気になってる作り手たちの志の低さに笑う。
さて、病院に務めるジジ教授は助手を使ってSEX発電に成功したが、これを実用化するには電気エネルギーを無限に生み出すことのできる絶倫男と色情女を見つけなければならぬということで、ジジ教授率いる研究チームはローマで一番の性豪クリスチャン・デ・シーカと底なしの性欲をもつ子沢山の主婦アゴスティーナ・ベッリの拉致を計画する。拉致るのかよ。
ちなみに拉致の方法はいちど馬車で轢いて気絶させるというもの。単なるバイオレンス沙汰。クロロホルムを嗅がせるとかズタ袋を頭に被せるといったまどろっこしい事はせず、思いっきり馬車をぶつけて対象を破壊するのだ。
↓ 画像右側がクリスチャンで、左側がアゴスティーナです。
性豪クリスチャンと淫魔アゴスティーナを破壊。
やってること『ベン・ハー』やんけ。
コロッセオで落馬した剣闘士にトドメ刺すときのやつや。
しかし二人に怪我を負わせたのも計算の内。ジジ教授は二人を同じ病室に入院させることでセックスしやすい環境を整えたのである!
かくして、アッという間に結ばれたクリスチャンとアゴスティーナは休みなくスーパーセックスを続け、それによって得たファッキングエネルギーを電力に換えたジジ教授は街から消えて久しい街灯をピカピカと点灯させることに成功。感極まった研究チームは「苦労が報われた」と言ってむせび泣きます。
苦労もなにも馬車で人轢いてるんだけどな。
ファッキングエネルギーの蓄積装置を開発して喜ぶ一同。
◆愛のファシズム◆
映画中盤ではすっかり恋仲になった二人だが、アゴスティーナに退院の日が訪れた。これではセックス永久機関が止まってしまうと焦ったジジ教授は、助手のむっちりムチ子(仮名)をクリスチャンにあてがうことで騙し騙しSEX発電を続けていたが、そうこうする内にクリスチャンの方もベンハー攻撃の傷を完治させて退院。
すると、彼への想いを断ち切れないアゴスティーナがわざと自分の足を粉砕してまたぞろ担ぎ込まれてきた。クリスチャンの方もレンガで自分の手を粉砕して再入院。再び同じ病室に運ばれた二人は昼夜を問わずSEX発電を再開させたのだった。
ジジ教授「そう来なくっちゃ!」
うるさ。
このあたりから薄々気づき始めたのだが…多分これネタ切れ起こしとるな。
「SEX発電」というアイデアだけ搭載して見切り発車したかのごとく、その後の展開性が弱すぎるのだ。だって入院→セックス→退院という流れを申し訳程度に形を変えて繰り返してるだけだからね。
というわけでこの中盤部は眠ってる犬のように退屈です。幸いヌードシーンには事欠かないのでボーっとしながらおっぱいでも眺めてやり過ごすほかはあるまい。
性豪クリスチャンと淫魔アゴスティーナ。
ところが俄然おもしろくなるのが後半部。
ジジ教授はイタリア政府にSEX発電の実用化を訴え、クリスチャンとアゴスティーナのスーパーセックスを首相や法王にまざまざと見せつけその有用性を証明する。
ジジ「これでイタリアはエネルギー大国ですぞ!」
首相「シビれるじゃん」
法王「爆アドじゃん」
政府はもとより、ついにバチカンさえバカチンと化したのである。
さっそく政府と結託したジジ教授は高級ホテルをSEX発電所に改装、全国民にセックスを義務付けた。発電所の各部屋には監視カメラが設置され、SEX監視員が「68番、もっとゆっくり腰を動かせ!」と指示を出す。セックスが労働と化しちまいました。
ジジ教授の野望は更にエスカレートする。より莫大な電力を生産するために姦通、不倫、強姦が奨励され、処女性の禁止や童貞税の徴収がおこなわれた。誰でも自家発電できる家庭用SEXマシーンが普及し、テレビでは全裸の女が性欲キットを紹介する。まさに破廉恥大国イタリア。こりゃどうしようもねえな。
日常化するセックス(義務化もする)。
さて、そろそろこのあたりで不意打ちの準備を始めたカンパニーレは破廉恥が行き着いた果てを描き始めます。
セックスを義務化したことでプラトニック・ラブに走る若者が現れたのだ。これを危惧したジジ教授は「情緒がセックスの妨げになる!」と喝破。愛を排斥し、処罰の対象とした。恋愛罪である。ロマンチックな書物は焼却、恋愛映画はことごとく廃棄、チョコレートや花を贈る風習の違法化。キスは罰金。ダンスは禁止。手紙は検閲。果ては愛という言葉の抹殺。違反者は投獄だー!
その結果、クリスチャンと逢引きしているところを夫に見つかったアゴスティーナは慌てて服を脱いでセックスしているように見せかける。
愛が違法化されセックスが義務化されているので、これを見た夫は「なんだ発電してるだけか」と思い、なんなら「励めよ!」とさえ言った。感情なきセックスは勤労とみなされるのだ。
行きすぎた国民総発電が功を奏して家電製品も交通機関も軍事機器もすべて復活し、イタリアは唯一にして最大のエネルギー大国となる。ついにノーベル賞をゲットしたジジ教授は研究チームに「おめれとー!」と祝福されて喜んだが、その反面とてつもない不安感に駆られていた。
セックスが不道徳とされていたときは誰もが夢中でやっていたが、それが義務化・奨励されたことで人々がセックスに興味を失い始めているのではないか…と。成功と同時に破滅へのカウントダウンが始まっていたのだ…。
機械的なセックスを演じるクリスチャン(下)とアゴスティーナ(上)。
◆ただのゴミ映画に非ず◆
映画中盤の弛緩ぶりはすごいが、終盤にかけてはカンパニーレのブラックジョークがビリリと効いたディストピアSFであった。
『華氏451』(66年)的な管理社会の問題点を突きながらも、やってることは『徳川セックス禁止令 色情大名』(72年)を裏返したような艶笑モノ…というあたりが愛嬌だが、やはり本来的には恐ろしい映画だと思う。
拉致・監視に始まり、思想・言論の弾圧、カトリックへの反逆、ベンハー攻撃。
また、ジジ教授はクリスチャンとアゴスティーナの入院中にそれぞれの配偶者を「見舞いに来られたら困る」というチンケな理由でベンハー攻撃の餌食にもしている(馬車の殲滅力がすごい)。
ジジ・プロイエッティが演じた、発明のためなら殺人も厭わないマッドサイエンティストぶりもさることながら、そうまでして実用化したSEX発電が自由への希望どころか絶望の引き金にしかならなかったという強烈な皮肉が見事である。
私はカンパニーレのこういうところが好きだ。イタリア式コメディなどゴミに過ぎないと自認し、ことさら馬鹿馬鹿しい話を紡ぎながらも「ただのゴミではないですよ」とばかりに毒を注入する逆襲の手つき!
もともとカンパニーレはルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(60年)や『山猫』(63年)の脚本を手掛けた人物なのでシナリオライティングの地肩は相当なものなのだろう(まあ中盤はグズグズに弛緩するんだけど)。
映像面にはまったく魅力がないし、編集なんて正視に堪えないほどヒドく、演出に至ってはそもそも無いというシロモノだが、ジジ教授の助手を務めたエレオノーラ・ジョルジとモニカ・ストレベルの程よい添花感がよく、二人とも可愛かったので、またしても私はこの大馬鹿野郎を許すことになる。
私はモニカ推し(右)。