シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

行くな千代子、そこ地雷埋まっとんねや!

1月1日は嫌いだ。

例年、1月1日を周期に、身体的異常が発生するという奇跡の呪いにかかっているからだ。「元旦の呪い」である。

たとえば去年は、0時をまわって1月1日になった途端に歯が激烈に痛みだし、ニューイヤーどころではなかった。明けましてニューペインである。しかも歯医者が3日まで休診なので地獄の三が日を送るはめになった。

さらに一昨年の1月1日は、持病のパニック障害が起きて泡吹きながら卒倒、ニューイヤーどころではなかった。 明けましてもうイヤーである。

 

毎年こんな調子なので、今年も絶対に何かあるだろうと、半ば諦念に満ちた表情を湛え、謎の緊張感を帯びながら迎えた新年。

しかし1月1日の正午をすぎても何ら異常は確認されない。おかしい。これまでのアレは単なる偶然に過ぎなかったのか。私は単なる迷信家だったのか。 私はすっかり油断した。炬燵を出てビールを取りにいこうと思った。 刹那、足の指に鋭い痛みを感じて、あえなく床にダウンした私は「今年はこれかぁ~」と得心した。

足の親指の付け根に棘が刺さったような電気的な痺れを感じたが、見てみると何も刺さっていない。まぁ、神経痛だろうね。 というわけで、今年の1月1日は末端神経痛で半日歩けなかった。

だが例年の罰ゲームみたいな地獄に比べれば、はるかに軽い呪いだった。なんとなれば、1月1日なんてべつに歩く予定もなければ、誰かにキックで仕返しする予定もなく、ただ介護老人のように、座ってるのか寝転んでるのか曖昧な姿勢で、ただ漫然と一日を過ごすだけだからである。

無論、初詣にも行かない。過去の随筆でも息巻いて熱弁したが、私は初詣における「神頼み」という曲がった根性が好きではない。小銭一枚で願いが叶うかっ。それに原理主義的無神論者でもあるので「願う」ことも「祈る」こともしない。今年一年が良い年になるかどうかなんて自分次第なのだ。神に託すな!

 

とはいっても、さすがにこう毎年毎年「元旦の呪い」にかかって苦しみ抜くのも馬鹿臭いので、ここはひとつフレキシブルに対応して、いちど神様に頼ってみるのもひとつの手かもしれない。

しかし「元旦の呪いを回避できますように」と初詣で神に願っても、それを願う前に呪いが発動してしまっては意味がない。

ならばその前日、すなわち大晦日に初詣に行って「明日一日を健康体で過ごせるようにしてください」と神頼みするしかないのだが、年が明ける前に初詣に行ったところで、果たしてそれは初詣といえるのだろうか。願いってフライングゲットできるのだろうか。神はフラゲを許すのだろうか。 まぁ、許すだろう。ゲームでもCDでも、今はフラゲが当たり前の時代だし。神といえど、さすがにそれくらいの融通は利かせてくれるに違いない。

 

1月3日の夜に、友人らと酒を飲んだ。

誰ひとりとして「明けましておめでとう」と挨拶する者はいなかった。まるで「厳密には新年など存在しない。地球の公転周期をわかりよくするために人間が便宜的に拵えた概念に過ぎないからだ。そんなものに振り回されるほど俺たちは落ちぶれちゃあいない」とでも云うかのように。

新年の挨拶ナシなんて、すばらしい関係だなと思った。

ゆえにこの日も、決して新年会にかこつけて会ったわけではない。ただ会った。それだけだ。たまたま会ったのか三が日だったというだけのことなのだ。

そも、人と人が会うことにわざとらしい名目など必要だろうか。 婚活パーティという名目にかじりつかなくとも、駅構内とか道端で「私とマリアージュしてみなーい?」と怒鳴り続けていれば、その努力はいずれ実を結び、よほど頭のおかしい相手と結婚できるに違いないのだ。Can you celebrateしたらいいじゃん。ていうかCan you celebrateってどういう意味なんだよ。

 

1月3日の京都駅は、人で溢れていた。殺意がわいた。 そしてどの店に行っても満員で、従業員から「帰ってください」と言われ追い出されてしまった。

あまりの人の多さに辟易した友人Aは、「三が日は家にいろ、この民め!」と毒づいたが、その言葉はそっくりそのまま我々にも跳ね返ってくるというパラドックスには未だ気づかない様子。

せんど歩き回った果てに、ようやく閑散とした個室居酒屋を見つけてイエイと思ったけど、いかんせん閑散としていたので従業員は弛緩していた。 どれくらい弛緩していたかというと、運んできた料理を友人Aの取り皿の上に置いちゃうほど弛緩していた。

 

改めて自己省察するにつけ、自分はこうしてご飯を食べにくるとサラダか刺身しか頼まないというパータンを発見した。

以前から「わし、なんか冷たいもんばっか食うとるなぁ」という違和感は覚えていたのだが、よく考えてみたらサラダと刺身ばっかり頼んでいたのである。だから末端冷え性なのか。だから末端神経痛になるのか。だから社会の末端にいるのか!

これからは熱いものも頼んでいきたい。焼きおにぎりとかね。焼きおにぎりは最高だ。焼きおにぎりは普通のおにぎりに対して圧倒的なアドバンテージがある。 なぜなら焼かれているからだ。

「焼かれているモノ」は「焼かれていないモノ」よりも遥かに優位である。たとえば日焼けね。色白のボクサーよりも日焼けしてるボクサーの方が精神的優位に立ってるし、観客としても「日焼けしてる奴の方が勝ちそうだな」ってなんとなーく思っちゃうでしょう。それでいえば松崎しげるなんてアドバンテージの塊である。だから、これからはサラダと刺身と松崎しげるを頼んでいこうと誓ったんです。

 

以上、三が日で起きた事柄のうち、とりわけ他人様に聞かせる値打ちすらないエピソードTOP3を精選して皆様に報告いたしました(3つもあったかな)。

今年一年が皆様にとってダダイスムとかキュビスムみたいな年になればおもしろいのに、なんてことを雑考しております。

 

~今日の一枚~

本の表紙を考えました。

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