ブルジョワ達にかけられた自己幽閉の呪い。
1962年。ルイス・ブニュエル監督。シルビア・ピナル、エンリケ・ランバル、ジャクリーヌ・アンデーレ。
オペラ観劇後に晩餐会に招かれ、ノビレ夫妻の邸宅を訪れた20人のブルジョワたち。晩餐を終えた彼らは客間にすっかり腰を落ち着かせ、夜が明けても全員が帰る方法を忘れたかのように客間を出ることができなくなってしまう。そのまま数日が過ぎ、水や食料も底を突いて命を落とす者まで出現。ブルジョワたちの道徳や倫理が崩壊していく中、事態は異様な展開へ転がりはじめる。(映画.comより)
おはようございます。最近はゼロ年代の日本映画を多く観ることにしているんですヨ。『空中庭園』(05年)とか『眉山』(07年)などですね、なんとなく「観たいなー」と思いつつも見逃している作品が多いので、そういうものを拾っていくといった作業に没頭しておるンです。
それはそうと、私みたいに映画は観るけどTVドラマはノータッチといった人間にとっては米倉涼子って依然謎の存在なんすよね。なんなんすか、あの人。基本的にドラマしか出ない。映画に親でも殺されたのかってぐらい、ぜんぜん銀幕に現れないじゃないですか。
あと、皆さんはあまりご存じないかもしれないけど、嵐というアイドルグループの大野智さんもドラマに軸足を置いた人ですよね。ほかには仲間由紀恵とか、SMAP解散前のキムタクとか。
一度『ドラマ一辺倒俳優』という特集を組んでみるのも面白いなって思うんですけど、問題はドラマ一辺倒俳優を語る能力が私にないということです。映画一辺倒野郎ですからね。企画立案から企画倒れまで、およそ8秒。
んなこって本日は『皆殺しの天使』をお送りする手筈を整えました。たぶん退屈するでしょう。
◆自己幽閉の呪い◆
皆さんはシュールなものがお好きだろうか。
シュールな画家、ダリやエルンスト。
シュールな文学、ギ・ド・ モーパッサンや阿部公房。
私は10代からシュルレアリスムに傾倒していて多大な影響を受けた犠牲者である。だから当然ブニュエルとダリの共同監督作『アンダルシアの犬』(28年)は無視しがたい作品として私の血肉と化している。
絵画、文学、写真、マンガ。思春期の頃にさまざまな「シュール」を摂取した私は、最終的に映画に行き着くことになる。そこに待ち構えていたのがルイス・ブニュエルだった。
『アンダルシアの犬』は美大の講義でしつこく見せられたし、ビデオ屋に行けば『昼顔』(67年)や『欲望のあいまいな対象』(77年)といった後期の作品がズラッと並んでいた。ブニュエルと何の関係もない日本映画『ピース オブ ケイク』(15年)を観ればビデオ屋で働いている多部未華子がDVDを棚に戻しながら「ブニュエル、ブニュエル…」と言っている。
シュールが俺を囲い込んでやがる。やめろ。俺を囲い込むのはやめろ。
だが『皆殺しの天使』を含む中期の作品だけが入手困難で、日本ではブニュエルの中期作品がなかなか観れないという馬鹿げた状況が何十年も続いている。
そんなわけで本作は「ずっと観たかった映画TOP50」の第2位に輝いていた幻の作品なのだが、ついに観ることができました。
ウォォー。ウォォー。
シュルレアリスムの傑作と名高い『アンダルシアの犬』(下)は画家のダリと新鋭監督ブニュエルが共同監督したもの。ピカソ、マグリット、マン・レイらが「おもろい、おもろい」と言って喜んだ21分の短編映画。パブリックドメインのためYouTubeでも鑑賞可能となっております。
『皆殺しの天使』の筋は単純明快である。
晩餐会に招かれたブルジョワたちがなぜか客間から出られなくなる…というだけの話。
屋敷での宴が終わったあとにコートを着て帰ろうとする20人のブルジョワたちだが、「私はべつに急いでないから」とか「リビングに忘れ物をした」と言ってその場に留まり続けてしまうのだ。結句、その日の晩は全員屋敷に泊まることになるが、翌日になってもなぜか帰ろうとしない。そうこうして数日が経つうちに屋敷の食料が尽きてしまい飢餓状態に陥るブルジョワたち…。
物理的に囚われているわけではないので帰ろうと思えばいつでも帰れる状態にも関わらず、まるで自己暗示に縛られているように20人全員が「帰りたいよぉ…」とか「もうウンザリだ、ワシは帰る!」と言いながらも屋敷に留まってしまうのだ。
便宜上、これを「自己幽閉の呪い」と呼ぶことにする。
ほとんどの人が誤解しているが、シュルレアリスムというのは非現実のことではなく超現実という意味だ。
「ありえないこと」ではなく、逆に「ありえすぎること」をシュールと言う。
ちょうどわれわれが睡眠時に見る夢に近いのかな。
夢の中では自分が空を飛んだり有名人と会ったり…といったあり得ないことが次々と巻き起こるが、夢を見ている睡眠時のわれわれは、それが「非現実的だ。絶対にあり得ない」とは思わないのである。なぜなら夢には現実感があるからだ。夢を見ているあいだはその夢が現実だと錯覚している。その感覚こそが超現実=シュールである。
歩きたくても思うように足が動かない夢とか、高所から落ちて死にそうになる夢を見る人って多いでしょう? 睡眠中のわれわれはその夢が現実だと信じているからこそ焦燥や恐怖に打ち震えるわけだ。
本作のブルジョワたちも睡眠時のわれわれ同様、帰りたいと思いながらもなぜか足が出口に向かわないというシュールな悪夢に苛まれる。これぞブニュエル全盛期の作品。
非常にブニュっておられる。
◆金縛りとしてのブニュエル作品◆
「自己幽閉の呪い」については半世紀に渡って世界中の評論家にさんざん論じられてきたが、「ブニュエルはシュルレアリストである」という既成事実そのものが回答たり得ている。さきほど夢になぞらえたシュールの命題を丸ごと映画にはめ込んだものが『皆殺しの天使』であり、極論「なぜ屋敷から出られないのか?」と問われれば「それがシュルレアリスムだから」というシンプルこの上ないトートロジーに行き着いてしまうし、それ以上の意味はない。表現から意味論が剥離したものこそがシュルレアリスムだからだ。
屋敷に迷い込んだ羊、一人でに動く切断された手、自己幽閉の呪いが教会に舞台を移すラストシーンなど、難解かつ意味深なシーンがこの映画の細部を彩っていて、こうした「シュールの断片」にさまざまな評論家がさまざまな論理と戯れては何らかの意味を読み込んで「こういうことじゃね!?」と誇らしげに叫んでいるが、私に言わせれば夢診断や星占いを信じるバカと同じ。絵解きをしていけば全貌が明らかになるといった埒外な期待でブニュエルを考察したところでどこにも辿り着けやしない。
ブニュエルの初期作『昇天峠』(51年)は、主人公が峠を越すバスに乗ったものの次から次へと取ってつけたような邪魔が入ってなかなか峠を越すことができないという映画だし、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(72年)もまた腹を空かせたブルジョワたちが一向に食事にありつけないさまを描いたシュールな作品だ。そして屋敷から出ようにもなぜか出られない本作。
物事が思い通りにいかないというもどかしさはブニュエル作品の大きな主題である。まるで金縛りのように自由が利かず、なぜかごく簡単な目的すら達成できない。まるでどれだけ歩いても前に進めない夢の中の自分のように。
それはそうと、私がブニュエルに惹かれるのは日常生活の端々に彼の映画のワンシーンを見るからだ。
身支度を整えて外に出掛けようにも、玄関で靴をはきながら「あ、鍵を忘れた」とか「給湯器は消したかしら?」などと言っては部屋に戻り、一向に家から出られないのだ。まんまこの映画。
ブニュってる!
また、ブニュエルは自身の映画でブルジョワ階級とキリスト教を繰り返し揶揄しているように、本作でも生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに見栄やプライドに拘泥してブルジョワ然と振舞う男女の滑稽さが描かれている。
そしてようやく「自己幽閉の呪い」から解放されたかと思うと、今度は教会に舞台が移り、祈りを済ませた人々が外に出られなくなるというブラックな結末が…。
ブニュってますねぇ。
『昇天峠』、『昼顔』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。
◆ブニュエルは繰り返す◆
『皆殺しの天使』は反復の映画である。
屋敷に閉じ込められた20人は広間と音楽室を行ったり来たりするが、どちらの部屋も内装が似ているので区別がつかない。
またブルジョワたちの会話も不自然で、同じ人物が同じ相手に同じ人を3度も紹介したり、ボケ老人のごとく同じセリフを繰り返したりする。切断された手が真夜中に動き出したり、脱出するために何をすべきかを全員で議論する様子も幾度となく繰り返される。
挙げ句、ショットの構図も似たり寄ったりなので、やがて観る者は同じシーンをぐるぐる繰り返しているような錯覚に陥り、無時間化/無空間化された画面の囚人となる。
「自己幽閉の呪い」はついにブルジョワ達だけでなく観客にもかけられてしまう。
息苦しくてたまらんが、ホッと一息つけるのは外部のシーンである。
屋敷のまわりには行方不明の報せを受けた警察がいて20人を救い出そうとするのだが、なんと外部にも呪いが及んでいるのである。
警部「彼らを助けねばならないが…どうも助ける気にならん」
救助拒否の呪い。これぞシュールの極致。というか もはやコント。
なぜか助ける気が起きない警察は、朝から晩まで屋敷のまわりに突っ立って中の様子を窺っているだけ。
このあとにワルキューレという渾名がつけられた女があることに気づいて自己幽閉の呪いを突破することでめでたく屋敷から出られるのだが、その解決方法というのがきわめてシュルレアリスム的なので、ぜひご自身の目で確かめて一考して頂きたいと思います。
ブニュエルは本作のあと『小間使の日記』(64年)や『昼顔』といった特別シュールでもない女性映画を撮り始め、同一人物の役をシーンによって二人の違う女優が演じる…というこの上なくややこしい『欲望のあいまいな対象』で最後の嫌がらせをして1983年におっ死んだ。
最後まで観る者を挑発し続けたよくわからない監督だったが、だからこそ未だに語り継がれ、多くの映画作家の魂に息づいている。