年配マダムばかり狙ったオバキラーと万年ヒラ刑事がヘロヘロの追跡劇を繰り広げる! ゆるむ緊張の糸、ほどける低次元トリック。極めつけはどちらもマザコン。手に汗握らないこと請け合いの手のひら乾燥型マザコンサスペンスが復刻シネマライブラリーから堂々の再誕!
1968年。ジャック・スマイト監督。ロッド・スタイガー、ジョージ・シーガル、リー・レミック。
ニューヨークで中年女性が次々と殺される事件が起こった。被害者はいずれも額にキスの跡がついていた。捜査員はこれを変質者の仕業と見て罠を仕掛けるが…。(Yahoo!映画より)
ヘイ市民。
長きにわたる歯科通院がようやく終焉を迎えた。毎回「こんな時期にすみません…」と詫びを入れ、面目次第も無いといった面持ちでスリッパを履き倒してきたのだが、お医者先生は「かめへん、かめへん」と優しさを開陳。歯科助手の方も、私の治療が終わるや否や鬼の勢いでチェアを消毒するなど、その気高い徹底精神で院内の衛生維持に努めておられ、その命懸けの仕事ぶりに心底敬服した次第である。
と同時に「そういえば歯科用チェアの頭を乗せる部分って元々あんまりフィット感がないから正解の位置がわからない」と通院のたびに思っていたことを素直に告白しておく。
歯科用チェアだけでなく美容院のシャンプーチェアも然りだが、我が頭部が然るべきポジションにあんじょう乗っかっているかが甚だ分からなく、いつもフワッと不安なのである。かと言って「これ、頭ちゃんと乗ってます?」と訊ねて「むちゃむちゃズレてます」と言われては赤っ恥だし。
大体の場合、そうしたチェアは頭部を支える部位が背もたれと別箇になっていることが多く、また形状も小さく、やや丸味を帯びていることから、ことによると「頭を乗せる」というよりは「首を支える」役割を主としてるのかもしらん。
この件については「特殊チェアにおける頭部の乗せポジ ~然るべき頭蓋の帰る場所~」と題して今後の研究課題とすべく、日々考察とフィールドワークを重ねていきたいと考えている。
それはそうと、近ごろレビューストックが枯渇傾向にあるので、シネトゥ読者におかれては一回一回を大切に読まねばなりませんよ。
あと「シネ刀」のことを「シネトゥ」と呼んで憚らない女として当ブログのコメント欄にて圧政を敷いておられるやなぎや女史ですが、この度、やなぎやさんが執拗連呼する「シネトゥ」が当ブログ運営者・ふかづめの許可のもと略式表記として公式認定されたことをご報告させて頂きます。
おめでとうございました。その功績を讃え、やなぎやさんには「素性不明のアカの他人が最寄りの交番に提出した何らかの紛失届1枚」が贈られます。
ていうか「シネ刀」自体がもともと略式表記なのに、それをさらに略していこうとする野心はどこから来るの。
とはいえ「シネトゥ」はアイデアの光る逸品といえる。というのも、「シネ刀」って略語のようで実はタイピングが少々煩わしく、「シネ」と打ったあとに「かたな」と打って変換しないと「死ね等」になったりして妙に物騒なのよね。翻って「シネトゥ」ならそのような手間がいらず、スッと表記することが可能ちゅうわけだ。
そんなわけで本日は『殺しの接吻』です!
前置きでぺちゃぺちゃと長口上を垂れたのは評の内容があまりに薄いためである。
◆ジャンクの山に突っ込めよ◆
1960年代後期から70年代にかけてアメリカで量産された中規模バジェットの通俗映画が好き、って話を今からするわ。
当くそブログで扱ったモノの中では『ブラック・エース』(71年)、『マッドボンバー』(72年)、『ドーベルマン・ギャング』(73年)などがそれに当たる。この当時はニューシネマの陰で作られた箸にも棒にもかからない秘境的珍作のオンパレードで、今となっては“名作映画では飽き足らないジャンクマニアたちの爛れた心をくすぐる腐ったアイテム”として再評価されています。
だいだいなぁ! 映画なんちゅうもんは格調高い作品だけが後世に語り継がれていくので、当時の映画シーンを知らない現代人は『ゴッドファーザー』(72年)や『カッコーの巣の上で』(75年)のイメージだけで古きよきアメリカ映画を美化、讃美、礼讃しては魂のメモリアルコレクションに追加、時おりそれを眺めながら「あの頃の映画はよかったなぁ。目を閉じれば鮮やかに甦る、私だけのスウィート・メモリー。アア」なんてフザけたことぶつぶつ呟きながら遠き日に思いを馳せてちょっぴり泣く、みたいなハッピネス・ノスタルジー・タイムを大切にしているけれども、正味の話、おまえをハッピネスやノスタルジーへと導く“思い出の名画”なんてもんは映画シーン全体から見れば氷山の一角で、その大部分は連綿たる映画史のなかで自然淘汰されたジャンクムービーにほかならんのだ。
つまり「あの頃の映画はよかった」は幻想。
蜃気楼。
歴史という名の濾過装置によって一部の傑作映画が現代に受け継がれてるだけの事であって、今も昔も作られたダメ映画の比率や総数なんてモンはさほど変わらない。あと「不朽の名作」と言われてる割には内容が伴わない隠れダメもかなり多いし。そも「傑作」とは優れた作品のことを指すが、「名作」は出来不出来に関わらず人気のある作品という意味である。名作の「名」は「名高い」の「名」であるからして、必ずしも質を保証するものではない。
そのことが分かったら、とっととノスタルジアと訣別してジャンクの山に突っ込め!
鉄クズの中を掻き分けて、おまえだけの輝けるゴミを見つけ出せよ!!
…どういう意味だろう?
そんなわけで本日取り上げる作品は『殺しの接吻』という何ひとつ面白くないジャンクムービーだ。
面白くない映画、大好き!
年配マダムばかり狙ったオバキラーと万年ヒラ刑事がヘロヘロの追跡劇を繰り広げる! ゆるむ緊張の糸、ほどける低次元トリック。極めつけはどちらもマザコン。手に汗握らないこと請け合いの手のひら乾燥型マザコンサスペンスが復刻シネマライブラリーから堂々の再誕!
監督は『動く標的』(66年)や『エアポート'75』(74年)を手掛け、「ジャンクムービーはオレに任せろ」を口癖にしていたかもしれないジャック・スマイト。
殺害した熟女の額にキスマークを残すマザコン・オバキラーを演じたのはロッド・スタイガーだ。R・スタイガーといえば『波止場』(54年)や『質屋』(64年)といったクラシック名画から『夜の大捜査線』(67年)、『夕陽のギャングたち』(71年)など幅広い作品で活躍した超実力派。しかし本作のようなジャンクムービーもお手の物。
それを追うマザコン刑事が『電子頭脳人間』(74年)や『料理長殿、ご用心』(78年)のジョージ・シーガル。ジャンクムービーに出ることを誰よりも好む奴だった!
そんなジョージと恋に落ちる役がリー・レミック。もとはエリア・カザンやオットー・プレミンジャーの作品に起用されるような“キチンとした女優”だったが、中年期に『オーメン』(76年)で母ちゃんを演じたことでジャンク女優に開眼。晩年は『テレフォン』(77年)や『恐怖の魔力/メドゥーサ・タッチ』(78年)といった観て2日で忘れるようなジャンクムービーに心魂を傾けた。
左からロッド・スタイガー、ジョージ・シーガル、リー・レミック。
◆精神だけを見つめていけよ◆
オバキラーのスタイガーは、神父、水道工、ウィッグ職人などに扮してオバ宅を訪ね、「水道管の点検です」だの「ウィッグプレゼント企画に当選されました」だのと甘言を弄して家の中に入りオバを絞殺する。さらには自ら警察に電話して犯行手口を明かすのだが、そこでたまたま電話を受けたヒラ刑事のジョージを気に入って駆け引きの相手に任命する…というのが大筋だ。
ジョージとスタイガーにはマザコンという共通点がある。
ジョージはママンに依存している実家暮らしの真性ガチ童貞34歳で、毎朝ママンの作ってくれた朝食にケチをつけながらもボサボサの寝癖&ブリーフ一丁でそれを食べて出勤するなど色々と終わってる奴。
一方、スタイガーは著名な舞台女優だった亡きママンの影響から芝居や女装を得意とするサイコパスで、ママンを思いながら殺害したオバの額にキスマークを描き残す…という儀式を大事にしている真性ガチ変態。
まさに童貞マザコンVS変態マザコンというどうしようもない図式が出来上がるわけだが、先にも申し上げたように本作は何ひとつとして面白くない。「つまらない」のではなく「面白くない」のだ。つまり何かしら欠点があるわけではなく美点がないのである。
はっきり言ってこの映画を観るぐらいなら散歩がてらにセミでも獲りにいった方がこの時期はマシ。
なぜなら本作を観て得られるものは無に等しいが、セミを獲りにいけばセミが手に入るからである。運がよければ犬を散歩させてる別嬪や二枚目と挨拶ができるかもしれない。
夏のセミ獲りに負ける『殺しの接吻』。
弛緩ショットと脱力ストーリーが観る者の心を無に帰していくだけの108分が無反省に垂れ流され、その映画空間の底に沈んだ澱が腐臭を放ちながら我々のスウィート・メモリーを錆び付かせていくのだ。
たぶんセミにこの映画見せると死にます。
何といってもオバ殺しがヤケにあっさりしていて、恐怖も緊張もない絞殺シーンが事務的に繰り返されるだけなのよね。単調もいいとこだ。もはや後半に至っては殺害描写そのものが省略されており、すでに事切れて額にラクガキされたオバが「ま、こういうことよ」とばかりに自らの死を観客に突き付けるスタイルに変わっていく。
また、オバ群が揃いも揃って醜女ばかりなので画的に汚いという客観的事実を受け入れる必要もある。
額にラクガキを受けるオバ。
それと並走して描かれるのは、刑事ジョージと1人目のオバ殺しの証人・レミちゃんが繰り広げる恋のすったもんだ。
レミちゃんはナチュラル・ボーン・セクスィゆえに恋愛経験こそ豊富だが、男たちは皆レミちゃんの体目当てに言い寄ってくるばかりで彼女の精神を見ようとしない。そんな折、はじめて精神だけを見つめてくるジョージと知り合ったことで少しずつ彼に惹かれていくのであった。
「あなたが好きなのは私の身体? それとも精神?」
「精神」
晴れて結ばれた2人は、公園を歩いたり中華をうまうま貪るなどして清純異性交遊を満喫した。ジョージが警察用船舶を無断で使用して水上デートを楽しむことすらした。
「教えてジョージ。私の魅力は?」
「精神」
いま結びついた二人の精神が互いに慈しみ合い、交歓する、珠玉のマインド・ラブストーリー!!
これオレなに見せられてるん。
びっくりするくらい面白くないぞ。
まったく溶け合わないロマンスとサスペンスが仮面夫婦のように不仲のルームシェアを続ける『殺しの接吻』。一体どこへ向かってしまうん?
精神だけを見つめていく刑事ジョージ、精神だけを見つめられて満足をするレミちゃん。
◆下手な役者に合わせろよ◆
デートばかりするもんだから一向にスタイガーの尻尾を掴まえられないジョージは一計を案じて新聞社と手を組み、犯人逮捕を発表。その人物像を小柄で黒髪の30代男性と新聞に報じさせた。これを知ったスタイガーはシリアルキラーとしてのプライドが傷つけられ、ジョージに電話をして「私は長身で金髪の50代男性だ! ……アッ!!」と語るに落ちてしまう。あほか?
なんともマヌケな駆け引きだったが、それだけにスタイガーの受けた屈辱は計り知れない。逆襲に打って出た彼は、出前のおやじに扮してレミちゃん宅を訪問し「ジョージさんから素敵なご馳走のお届けです」と得意の甘言を弄して家に上がり込んだ。そこにジョージが駆けつけて間一髪でレミちゃんを救出するが、スタイガーは「おっほ」と笑って夜の街をランニングで逃走。根城である劇場にスタイガーを追い詰めたジョージがめったやたらに銃を乱射して致命傷を負わせたところ、どうにか余喘を保ったスタイガーは劇場のステージの上で大袈裟にのたうち回り「ママン! ママン!」と自らの最期を演劇化して散った! 完。
なんかいまいち頭に入ってこないクライマックスであった。
全体的によくわからないし、特別グッとくるモノもなかった。これぞジャンク。
スタイガーの根城は かつて彼のママンが喝采を浴びた演劇小屋だった。
結局のところ本作のセールスポイントは背中がザッカーと開いたレミちゃんのセクスィ・ファッションに尽きてしまうのではなかろうか…と思っちゃうほど中身自体にいまいち魅力のない手のひら乾燥型マザコンサスペンスだったわ。
ロッド・スタイガーは素晴らしい怪演だったが、共演のジョージ、レミちゃん、ほかオバ群がせつないほどの凡演なので完全相殺されていた。私は口を酸っぱくして説いてきたよね。ヘタな役者ばっかりの現場にうまい役者が1人いるとヘタが基準化されるので却ってうまい役者がヘタに見える、と!
芝居の出来不出来なんて相対評価で決まる…と説いてきたよね!
私が口を酸っぱくして説いてきたのに、なんでロッド・スタイガーは怪演をするんですか。あなたの怪演に耐えうるほど他の共演者はうまくないんです。もう少し周囲のレベルを考えて。擦り合わせこそが大事なのだから。
まあ、セミ獲り推奨映画ブロガーの私がこんなことを言っても何の説得力もないけどさ。ミーン眠眠。
~今日のまなび~
・芝居がうまいのも困りもの。
・外見より精神を見つめよう。
・ジャンクムービーなんて観なくていい。
レミちゃん(背中ザッカーバーグ)。