シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ガルヴェストン

ヘヴィーロラニスト必見の暗視スコープ必携映画。

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2018年。メラニー・ロラン監督。エル・ファニング、ベン・フォスター。

 

裏社会で生きてきたロイはある日、末期ガンと診断され、余命宣告を受ける。その夜、いつものようにボスに命じられて向かった仕事先で何者かの襲撃を受け、自分が組織から切り捨てられたことを悟ったロイは、とっさに相手を撃ち殺し、その場に捕らわれていた少女を連れて逃亡する。少女はロッキーと名乗り、行く当てもなく身体を売って生活していたという。ともに深い傷を抱えた2人は、果てしない逃避行に出るが…。(Yahoo!映画より)

 

 おいよーん、前世が藻のみんな。

近ごろ寒くなってきたためか、マスクを付けて漫ろ歩けば、たちどころに眼鏡が曇る。眼鏡が曇ると何も見えぬので渋々と眼鏡を外して歩行するのだが、余の視力は0.03なので眼鏡を外すと何も見えない。おやおや。付けても見えない、外しても見えないとは、なんと因果な我が渡世。かといってマスクを外すわけにもいかぬので、こうなったら最後の手段つって、息を止め止め、ありく。これぞ捨て身の歩行法、ノンブレス・ウォーク。

呼気を漏らさなければ眼鏡が曇ることもなく、眼鏡が曇らなければ視界はハッピーなので、なるべく息を止めてペタペタと、ありく。息が限界になると、眼鏡をサッと外して「あ゛あ゛~~っ!」と情けない声を出しながら息を吸う。

こんなことを続けているから、目的地のドラッグストアに到着する頃には頭ふらふら、白目まるだしで店先でぶっ倒れてビートルズの「Help!」をぼそぼそ唱える即身仏と化す、みたいなことになるちゅうわけだ。だれか、眼鏡とマスクの折り合いのつけ方を余に教えてほしい。

そんなわけで本日は『ガルヴェストン』をお送りしたる。

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◆かつて俺はヘヴィーロラニストだった…◆

ここ20年間、成功を手にした映画スターが次のステージに進むべく自らメガホンを執るケースが多数報告されているが、果たしてその“ステージ”とは何であろうか。自己実現といえば聞こえはいいが、まあ大方は「わて監督もやってまんにゃわ」みたいな箔を自らにつけるための名誉欲か、しからずんば興味本位なのだろう。断っておくがこれは偏見である。

現に“俳優の撮った映画”は九分九厘だめ。役者というのは“見られるプロ”であって、間違ってもレンズ越しに組織されゆく被写体群の是非をそのつど決定する“見るプロ”でもなければ、一瞬ごとに命を繰り返すフィルムたちの生と死に立ち会う“見極めるプロ”でもない。いわんや技師たちを統制する“見渡すプロ”でもないのだから、俳優がメガホンを執る行為はほとんど盲のまま撮影しているに等しいと言えたりする。つまりマヌケってことだ。

長年のキャリアで培った知恵。磨き抜かれた技術。ギザギザの発想力。引き締まった映画理論。プロダクション!

そんな専門性を著しく欠いた俳優監督作品…通称アクターズ・エゴ…略称アゴを観ることに私は苦痛を覚えたりする。そんなものはしょせん“見てくれだけ映画らしく整えたプラスティックな映画ごっこ”だからである。顎関節症になりそうだし、俺は不愉快だ。

しかし、中にはまともな映画を撮る俳優がいることも私は忘れていない。理論派のジョディ・フォスターやベン・アフレックは丁寧すぎるほど丁寧な仕事をするし、サラ・ポーリーもいい感覚を持ってると思う。ロン・ハワードは最近ボケてきたが30年前はそこそこやった。グレタ・ガーウィグとグザヴィエ・ドランの才能に至っては貴重とさえ言える。彼らの作品にはアクターズ・ポリシー…略称アポがあるので、アゴにはならないわけだ。言ってること分かるだろ? もし分かったら俺に教えてくれ。

 

そして本作『ガルヴェストン』

監督は『イングロリアス・バスターズ』(09年)で一躍有名になったメラニー・ロラン

いやーん、好きな女優だわぁ~。20歳のころのカトリーヌ・ドヌーヴを少し今風にしたようなスタンダードのパリジェンヌね。

『イングロ』以降は『オーケストラ! 』(09年)『グランド・イリュージョン』(13年)などでフランス⇔アメリカを行き来しながら様々な映画に出演しているが、どうも人気が跳ねきらず、現在は低空飛行を続けている。

私は『マイ・ファミリー 遠い絆』(06年)からのファンで、出演作リストの大半を占めるフランス製のいかがわしい低予算映画を苦痛に耐えながら観るようなヘヴィーロラニストだったが、残念なことにロラン出演作には引くほど退屈な作品が多く、ついに『ミモザの島に消えた母』(15年)を最後にロラニストの異名を返上した。

それでも私はメラニー・ロランが好きだし、きっとこの思いは来年も変わらないだろう。再来年? 再来年のことはわからない。俺は預言者ではない。

ちなみにこれは豆知識だが、変なブロガーのやなぎやさんもメラニー・ロランが好きなんだとさ。

2人中2人がメラニー・ロラン好きということは地球上の全人類がメラニー・ロラン好きであることを意味する。

なのに人気が跳ねきらない。なんだ、この混沌世界は?

f:id:hukadume7272:20201102024533j:plain『マイ・ファミリー 遠い絆』のメラニー・ロラン。

 

そんな混沌ロランが手掛けた『ガルヴェストン』は、裏社会に利用された債鬼と娼婦の逃避行を描いたクライム・ロードムービーだ。

キャストは今を時めくエル・ファニングと、時めきとはもっぱら無縁のベン・フォスターが務めている。

遊園地で母親とはぐれた男の子のような迷子顔がトレードマークのベン・フォスターは長らく脇役俳優の代名詞的存在だったが、主演作『疑惑のチャンピオン』(15年)では端役のチャンピオンの異名を返上することに成功した。

一方、ついに娼婦役をオファーされるまでに成長したエルたんは今年22歳。『アイ・アム・サム』(01年)のころは2歳だったエルたんがもう22歳…。この20年の間に何があったんだ。

f:id:hukadume7272:20201102022600j:plainエル・ファニングとベン・フォスター。

 

◆明日なき男女のリリカル逃避行◆

物語はドのつくほどシンプル。犯罪組織に裏切られた借金取りのベンが刺客を返り討ちにして軟禁されていたエルたんを連れ逃亡する。おしまい。

これまで45万回ぐらい繰り返されてきたドシンプルな逃走劇の鋳型にはめ込むことでストーリーテリングの負担を減らしたロランの賢明は、なにもチャップリンの『冒険』(1917年)やバスター・キートンの『警官騒動』(1922年)にまで遡らずともメガホンを持った俳優は“逃げる映画”を撮るという先例によって既に讃えられている。

およそ物語類型において“逃げる”という行為は最もシンプルなドラマツルギーだからだ。

追う側には“追うに足る理由”がいるが、逃げる側に理由はいらない。誰かが追っかけてくるから逃げる。ただそれだけなのだ。わかるだろう? 野ウサギだってそうするし、俺だってそうする。

したがって逃走劇というのはとかく単純化しがちな物語類型だが、その相対として映画演出がむき出しになる物語類型でもある。大して物語自体が存在しないので、観客の目は自ずとスクリーンそのものへと注がれることになるからだ。それに、物語ることにいっさい興味がないからこそ、ロン・ハワードは『バニシングIN TURBO』(77年)で、クリント・イーストウッドは『パーフェクト・ワールド』(98年)で、そしてベン・アフレックは『ザ・タウン』10年)で逃走劇を扱ったのではないか(もっとも、その後のロン・ハワードは物語の下僕と化したが)

f:id:hukadume7272:20201102023942j:plain男と女は逃げ続ける。

 

そんなわけで『ガルヴェストン』では逃走劇はいっさい描かれない。

逃走劇を通して二人の微妙な関係性をリリカルな映像感覚に乗せていくことをこそロランは良しとしたのだ!

ベンは映画冒頭で余命宣告を受けており、残り僅かな命をエルたんの未来のために捧げることを決意する。一方のエルたんはベンのことを父親のように慕いはじめ、道中に立ち寄った実家で小児性愛パパンを射殺して幼い妹を保護。妹の未来のためにすべてを捧げることを決意しちゃうんである。クライム・ロードムービーと聞いて人が想像するような物々しさとは無縁の、明日なき男女のリリカル逃避行…。

まあ、パッとしない映画だが、わりと丁寧に描かれていたので見応えはあった。ステディカムの揺れやジャンプカットの距離がフランス映画の呼吸に基づいているので、アメリカ映画でありながらどことなく異国情緒が漂うショットの肌理。そうした部分も含めて“大人向けの映画”と称するのが最もわかりやすいと思うわ。

もう言いたいことを言ってしまうが、とかくリリカルに傾斜するあまり「映像詩」などというスノッブな幻想と戯れる俗物監督…たとえばハーモニー・コリンやソフィア・コッポラのようなハナタレどもと比定して、メラニー・ロランはより誠実に映画制度と向き合っており、たとえばカメラの使い方ひとつ取ってみてもアシンメトリーの構図を使って意味もなく奇を衒ってみたり、あられもないピンボケで自慰に耽る某ニコラス・ウィンディング・レフンや某テレンス・マリックのような地獄の業火に焼かれて然るべき作家勢のそれよりも遥かに品があって慎ましい。

また、ベンの余命宣告が誤☆診だったことが明かされたり、エルたんの妹として旅メンに加わった少女が実は〇〇だったり…など脚本のツイストもそれなりに利いているので、一概に物語を切り捨てているとも言えない、不思議な魅力が湧く作品である。

f:id:hukadume7272:20201102022703j:plain娼婦を熱演するエル・ファニング。

 

道中、ベンとエルたんは逃避行の行き先をガルヴェストンに定めた。どうやらその地には思い出があるというのだ。

テキサス州の南東部に位置するガルヴェストン郡は、ここ30年間で二度もハリケーンに見舞われて市街が壊滅した貧困地域である。そして本作の時代設定はハリケーン・アイクがガルヴェストンに直撃した2008年。そこから、巨大台風に備える年老いたベンのもとにある女性が現れたことでエルたんとの20年前の逃避行の顛末が紐解かれる…という回想形式で1988年の本編パートが始まるわけだ。

この映画でやたら象徴化されている「ハリケーン」は人の身に降りかかる災いとしてベンたちの運命を狂わせていく。と同時に、逃避行の先に辿り着いたガルヴェストンは台風の目(束の間の安全地帯)でもあって、その辺のメタファーも劇中で巧みに描かれております。

物語自体は単細胞なプロットだが、時間軸のスケール、秀逸なメタファー、結構びっくりの結末など、意外と丹精込めて作られた、サービス精神旺盛の、それでいてクールな商業映画に仕上がっていたよ。よう考えられたあるわ。

組織のアジトから脱出したベンが盗んだ車で走り出すまでのロングテイクも終始高い緊張感を保っていた。いい長回しだ。

f:id:hukadume7272:20201102022841j:plain無骨なロンリーガイを好演したベン・フォスター。『X-MEN: ファイナル ディシジョン』(06年)のエンジェル役だったのねえ。

 

といって、しかし褒めすぎるのもよくない。

組織に裏切られたベンがエルたんを救出する冒頭の銃撃シーンは相当まずく、アクションもフレーミングもまるっきり意味不明でマイケル・ベイ現象の二の舞、三の舞いと化していた。しかも夜間の死闘なので部屋の中は真っ暗。アクションシーンが撮れない監督ほど薄暗い場所で戦わせがちだが、そこへきてアクションなんて撮ったことも演ったこともないメラニー・ロランが選んだ薄暗レベル…それは漆黒だった。

もうほんと真っ暗。タモリのサングラスぐらい漆黒なので、何が起きてるのかさっぱり分からなかったわ。そう! アクションシーンを撮ることを何より苦手とするロランは「いっそのこと見せない」というコペルニクス的転回で画面を漆黒に塗りつぶす。

ゆえに人は『ガルヴェストン』という映画を観た気でいるが、厳密には冒頭の銃撃シーンは観ていないのである。真に『ガルヴェストン』を観たと豪語できるのは赤外線暗視スコープを使ってこのシーンを観た者だけなのだ!

もっとも、暗視スコープが役に立つかどうかは甚だ疑問だが。

 

そんなわけで、私は『ガルヴェストン』を快く評価するものである。ベン・フォスターの迷子ヅラもよかったし。

ロラニストのキミも、そうじゃないキミも、ぜひ『ガルヴェストン』を観よう。暗視スコープをご用意のうえ楽しまれたい。

f:id:hukadume7272:20201102023708j:plain暗視スコープ必携映画としての『ガルヴェストン』

 

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