いつものベン公といつものサミュエルがモメる話。
2002年。ロジャー・ミッシェル監督。ベン・アフレック、サミュエル・L・ジャクソン。
ニューヨーク・マンハッタン。渋滞するハイウェイの中、若手敏腕弁護士のギャビン・パネックは重大な案件のため、裁判所へ急いでいた。一方、隣の車線を走るドイル・ギプソンは、アルコール依存症で妻子と別居中。カウンセリングによって依存症から立ち直り、彼もまた親権をめぐる裁判出廷のために裁判所へ向かっていた。そんな時、先を急いでいたギャビンが突然車線変更したため、隣のドイルの車と軽い接触事故を起こしてしまう。慌てていたギャビンは、非を認めつつもギブソンの示談の申し出を無視して白紙の小切手を一方的に渡してその場を去ってしまうのだが…。(映画.comより)
おはようございます。
過日、Amazonを利用しようと思った私は日時指定して商品を注文したところ、悪名高いADPという配送業者に当たってしまった。
噂通りだった。
配達予定日を過ぎても商品が届かない。何の連絡もない。電話も繋がらない。「やっとんな、これ…」と思った。そのうえ、Amazonを開いて配送状況を確認したら「お届けしました!」と見え透いたウソをつかれた。
結局、配達予定日から10日も遅れて商品が届いた。さすがADP。日時指定を反故にする大胆なスタイル。しかも配達のお兄さんは一言も謝らない。大したものだ。詫びず、媚びず、下手に出ない…という孤高の配送精神の発露である。
私は受領書にサインをしながら「配達、ご苦労さまです!」、「お兄さん、お名前は?」、「どこの業者?」、「なんで10日も遅れたの?」、「未着なのに『お届けしました』ってどういうこと?」、「次やったらひねり潰しますよ」と言って大いにねぎらった。
というわけで本日は『チェンジング・レーン』。
べろべろに酩酊してヴァン・ヘイレンを聴きながら(なんなら軽くダンスもしながら)書いた文章なので、ちょいちょい評と関係ないことを書いてます。まぁ、いつもの事か。
◆車線変更で狂った運命の歯車◆
軽い接触事故がもとで人生が狂っていく二人の男を描いた人生教訓映画である。なるほど、わけがわからない。
ベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンというどう考えても薄っぺらい二人のW主演作で、監督は『ノッティングヒルの恋人』(99年)以外パッとしないロジャー・ミッシェル。ガバガバの布陣だが…大丈夫かこれ? 不安要素が服着て歩いているような3人だぞ。
まぁ、製作がスコット・ルーディンなのでどうにかなるだろう。この男はデヴィッド・フィンチャーやウェス・アンダーソンの作品ほか、『アダムス・ファミリー』(91年)、『トゥルーマン・ショー』(98年)、『ノーカントリー』(07年)などを世に送った男。比較的まともな神経をしたプロデューサーである(米プロデューサーには神経回路のイカれた奴が多い)。
映画はハイウェイのシーンに始まる。若手弁護士のベン公が裁判に出廷するためにハイウェイで無理な車線変更をしてしまい、同じく二人の子供の親権をめぐる裁判に遅れまいと車を走らせるサミュエルと接触事故を起こしてしまうのだ。ベン公は急ぐあまり小切手だけ渡してその場を去ってしまったが、そのときに落とした権利委託書の入ったファイルをサミュエルが拾う。これが事の発端だ。
この事故により二人は裁判所に遅刻。ファイルを紛失したベン公は今日中にファイルを見つけて提出しないと逮捕されるというメチャクチャな状況に陥り、一方のサミュエルも妻に親権をごっそりイかれて絶望の淵に立たされた。あの事故さえなければベン公は滞りなく裁判が始められたし、サミュエルも妻とよく話し合えたのだ。
そしてファイルをめぐる熾烈な争いが勃発。ベン公はファイルを取り返すために法を犯してまでサミュエルを追い詰め、人生を失ったサミュエルはベン公への復讐に出る。
ふーん! なかなか面白そうじゃないの。
憎み合う二人。
◆サスペンスというよりトラブル◆
軽い接触事故が原因でバチバチに対立する二人の奇妙な運命を描いた『チェンジング・レーン(車線変更)』。いわゆるサスペンスサスペンスした映画ではなく、「憎しみ」についての人間論的な作品だった。
怒りと恨みを抱えた二人が激しい憎悪をぶつけ合うことでハナシが雪だるま式にこじれていく。俗にいうトラブルってやつだな。ビデオ屋に行けばサスペンスの棚に置いてる映画だが、これはサスペンスじゃなくてトラブルだ。トラブルの棚に置け。
いや、そもそもジャンル別に棚分けなんかしなくていい。そういうことをするからロクでもない偏食家が増えるのだ。「映画好き。雑食。ジャンル問わずなんでも見ます^^ 相互フォロー100%!」とか言ってるわりにはモンド映画もポルノ映画もジャッロ映画も記録映画もフレンチノワールもブラックスプロイテーションも見たことがなく、なんなら定義すら理解しておらず、あまつさえ自分が生まれる前の映画すらほとんど見てないような奴らのことだ。
いいか、ノリだけで「なんでも見ます^^」と言えるほど映画は狭くないからな!
ちなみに私はロックンロールが好きだが「音楽好き」ではない。音楽好きを自称するには私の趣味はあまりにも偏っているからだ。そんな私が「音楽好き。雑食。なんでも聴きます^^ 相互フォロー100%☆」なんて大口を叩いたとしよう。キミはどう思うね?
「うそつけバカ」
この6文字が頭をきっとよぎるね!?
そういうことだぜベイビー。すまなかったな、ビデオ屋のジャンル分類制度を批判するつもりが不特定多数の人民を傷つけちまった。
口直しに、ひとついい話をしよう。
オレの知人に「恋愛映画は見ない」と豪語する男がいた。ある日、オレはそいつを騙してこう言ってやったんだ。
「よお。『世界一キライなあなたに』(16年)はオススメだぜ。おっと待った。そりゃあパッケージだけ見ると恋愛映画に思えるだろうが、中身はぜんぜん違うんだぜ。見るといいよ」ってね。
するとどうだ? 後日そいつは「涙が止まらなかった。ビバ恋愛」と言って、その日を境に恋愛映画への偏見は(目を見開いて肩をすくめる)すっかり無くなっちまったというわけさ。わかるだろ? ジャンルに囚われるなんて馬鹿げた話なんだぜ。
まぁ、今のは作り話なんだがよ。でも楽しんだろ?
『世界一キライなあなたに』は本当に好きですよ。イギリス映画の気品がよく出てた。
話を戻そう。…そもそも何の話だった? トークの車線変更をしすぎて自分が今どこを走ってるかわからない。
そう、トラブル。トラブルなんだぜ。
そもそもの元凶は無理に車線変更したベン公だ。始めこそサミュエルに謝罪してファイルを返してもらおうとしていたが、怒り心頭のサミュエルはなかなか返そうとせず、ならばとハッカーを雇ってサミュエルの口座を凍結した。
この映画、とにかくベン公のクソ野郎ぶりがすごい。
この男は法律事務所を共同経営する義父シドニー・ポラックと組み、亡き友人の財団を乗っ取ろうとしている。だがステレオタイプの悪党というわけではない。義父に頭が上がらないことから渋々悪事に加担しているという、ある意味では悪党よりも最低な奴なのだ。おまけに不倫関係にある同僚トニ・コレットをファイル奪還作戦に協力させ、気が咎めた彼女に「僕は悪くない。僕がやろうとしていることは正義だ。だから協力してくれ」と自己正当化する始末。
ベン・アフレックはこういう役をさせたら天下一品だよな。保身のために小さな嘘をついたり心にもない謝罪をしたり…。いつも上辺だけ取り繕ってボ~~ッと生きてる空虚な人間というか。『ゴーン・ガール』(14年)でも妻のサインに気付かない鈍感な夫を演じていたね。
対するサミュエル。一見すると不憫な奴に思えるが、妻が逃げたのはキレやすい性格とアルコール依存症ゆえ。もう一度家族とやり直すために家を買い、自助グループに入って真人間になろうと努力していたが…今回の一件で完全にブチギレ。次第に狂暴化し、「なんで凍結されてんだ!」と怒鳴って銀行のパソコンを投げたり、バーで人種差別トークをする客をど突き回してしまう。
結局いつものマザーファッカー野郎でした。
この映画を観ていて思い出したのは『眼には眼を』(57年)というフランス映画。ある医師が診療を断ったために妻を失った男に付け回される…という因果応報ムービーである。
しかし『チェンジング・レーン』の独創性は、自分たちの過ちに気付いた二人が互いに歩み寄って事態の平和的解決を目指す…という方向に話が振れていくあたりだな。画一的な安牌ばかり狙うゼロ年代ハリウッドからはなかなか出てこないタイプの作品だと思ったよ。それゆえに地味な内容なのだが。
不倫関係のベン公とトニコレ。
◆いま何時かわからない映画◆
ありそうでなかったハリウッド映画…といったところである。
なんと言っても発想が大胆だ。ハリウッドメジャーでベン公とサミュエルまで使って「大胆なことをしない」という逆転の発想が逆の逆に大胆だ。コペルニクスが何回回転してるんだ。着眼点サイコー。どんどん地味な方に転がっていくプロットもユニーク。98分飽きなかったね。「へえ!」という感じで鑑賞できたな。
それにシドニー・ポラックとトニ・コレットのほかにもウィリアム・ハートやアマンダ・ピートが配されているあたりもいい。
シドニー・ポラックは『トッツィー』(82年)や『愛と哀しみの果て』(85年)で知られる映画監督です(俳優業にも精を出した)。監督としては下の中だったが、本作に出演した3年後に撮った遺作『ザ・インタープリター』(05年)がなかなかよかった。ニコたんのベストヘアースタイル映画に挙げられるべき作品だと思った。ニコたんというのはニコール・キッドマンのことです。
『ザ・インタープリター』のニコたん。
でもなー!
やはり映画として弱すぎる。いま評を書いているのはこの映画を観た3日後の深夜(ベロベロに酩酊)だが、覚えているのは大まかなストーリーの流れだけで、画のイメージがほとんど想起できない。各シーンは思い出せるが各ショットが思い出せないのだ。
これは私の記憶力が悪いわけではなく、いわんや酒のせいでもなく、私の記憶に焼きつけうるようなショットが存在しなかったということ。
仮に私の記憶力に原因があったとしても、そんなカスみたいな記憶力しか持たない私でも別の映画のすばらしいショットは模写できるぐらい正確に覚えているぞ。幾つもな。この説明をどう付けるか! どんなに記憶力の悪い人間でも鮮烈なショットは忘れないものだ。『リメンバー・ミー』(17年)のババアのようにな。それが「ショットの強度」ってやつだろう?
つまりこの映画は「語る」ことに夢中になりすぎて「撮る」ことを忘れている。何も撮れていない。たしかにストーリーはおもしろい。だがストーリーがおもしろいだけなら別に映画でなくともいい。マンガでもドラマでも小説でもアニメでも演劇でも落語でも何だっていいのだ。
『チェンジング・レーン』は「映画」というレーンから「説話」のレーンへ車線変更してしまった。
これが本当のトラブルだ。キマっただろ?
本作はベン公がファイルを紛失してから取り戻すまでの約12時間の出来事が描かれている。
だが時間処理がまったく上手くない。
第一に、映画序盤では早朝、中盤では昼間、佳境に入ったシーンは夕方、終盤は夜…というふうに時刻と風景が比例していないのだ。しかも晴れたり曇ったり雨が降ったりするので同日の出来事とは思えない。
したがって「今日中に権利委託書を提出しないと逮捕される」というベン公の置かれたタイムリミット・サスペンスも破綻してるわけ。「早くファイルを取り返さないと日が暮れる!」という切迫感がないのよね。ラストシーンになって急に日が暮れたりするから。「あ、もう夜? ついさっきまで明るかったよね?」みたいな。
そういうときは今が何時なのかを観客に示す時計のインサート・ショット、もしくは「19時42分…」みたいなキャプションを小まめに挿入すべきなのに、してくれないよねー。
だからいま何時かわからない。
「いま何時!?」と訊ねても「そうね大体ねー」とか「ちょっと待っててオー」みたいな曖昧な答えしか返ってこないのだ。
胸騒ぎの腰つき!
胸騒ぎの腰つき!
胸騒ぎの腰つき!
ラーラーラー ラララ ラーラーラー♪
ラーラーラー ラララ ラーラーラー♪
ラーラーラー ラララ ラーラーラー♪
ララララッ! ララララッ!
サミュエル・L・ジャクソンとベン・アフレック。