シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

バクラウ 地図から消された村

カルト集落の土着文化を通じて描かれる反植民地主義の可視化的パワームービー ~生首ドラゴンボールを揃えもする~

2019年。クレベール・メンドンサ・フィリオ、ジュリアーノ・ドルネレス監督。バルバラ・コーレン、ソニア・ブラガ、ウド・キア。

バクラウ、いう村でようわからん事がどちゃくそ起きる。


うぃっすっす。やろか。
ここ10年、“頂く勢”が急増したよね。何を言うにも「~させて頂きました」とか。隙あらば頂く頂くと…謙譲山脈の頂に立とうとばかりしてっ!
こないだテレビを見てたときも、憧れの大物歌手と初対面したタレントが「昔からずっと見させて頂いてたので…」とか言ってたわ。
誰に?
誰に見させてもらってたの?
謙譲語として使う「頂く」は相手の許可を得て初めて頂けるのに!?って。
そこへさして厄介なのが、“頂く勢”の多くが“さ入れ勢”を掛け持ちしている、という点である。
謙譲山脈の頂に立とうとばかりするのは甘んじて看過しよう。だがそこに意味のない「さ」を入れるな。
「やらさせて頂きました!」
「やらせて頂きました」やカス。
「さ」まで謙譲山脈に登ろうとすな。


特に最近、私がモヤモヤしてるのが声優さんたちの言葉遣いである。舞台挨拶や各種メディアなどで若い声優たちが口を揃えて言うのが…
「〇〇という役を演じさせて頂きました」
んんんんんん誰に?
…と思うのだが、まあ、プロデューサーや監督とかだろうね。つまり日本語としては間違っちゃないのだが、俺は思うわけサ。
声優が役を演じることは「頂か」なあかんのか? ってね。
そこまで謙虚になる必要ある?
声優なんだから、堂々たる矜持もってゴー。「演じました!」と言い切ってくれ。実際、ベテラン声優たちは「演じました」って言うことが割合多いのよ。あるいは、謙虚になるにしても「演じさせてもらいました」とかね。
まあ、声優業界は上下関係が厳しいと聞くから、若手は若手なりに遠慮して「僕なんてぽっと出のザコ声優キムチチャーハンなのに、先輩を差しおいて〇〇なんて大役を演じさせて頂いて恐縮至極の限りです」という意味合いで「演じさせて頂きました」という言葉を使っているのかもわからんが、この場合の「頂きました」は言葉本来の意味…すなわち「許可を得た感じ」がしとどに出るからヤなのよねぇ。
早い話が「監督なりプロデューサーなりに抜擢されたから引き受けました」という風に取れちゃう。わかる? アチュチュ…アティチュードが“受け身“なのよ。受動態なのよ。
それに比してベテラン声優の「演じました!」を見なよ。積極的でしょ。アチュアチュアチュチュ…だァッ言われへん! アティチュードが能動的なわけ!
てなこって、「〇〇という役を演じさせて頂きました」と言った若手声優に対しては「ああ、上から『やれ』って言われたからやってるだけで、所詮その程度の野心も意欲もない、ただ来た仕事をこなすだけのマシンボーイorベルトコンベアガールなのね。おっけおっけ」と思ってしまうし、片や「〇〇という役を演じました」と言ってのけた声優に対しては「一点の謙遜も恥じらいもない、その断言たるや潔し! それでこそ声優。風に吹かれたセル画に向かって敬礼」と思う俺が、ここにいるわな?

そんなわけで本日は『バクラウ 地図から消された村』です。
未見の読者にはなるべく予備知識なしで観てもらいたいので語りたくても語れない部分が多く、非常にもどかしい作品ですが、なんやかんやでぜんぶ語った。



◆パワーキャラ、パワーシーン、パワー掲示板に前後不覚◆

 マッチョな映画であった。
先の読めないデクパーシュと不意打ちのような演出/音楽に新感覚の到来を見た、なんて言うのはいささか過言だが、ここ5年の“それなり”にすら及ばない映画群の痴態を思えばこれくらい褒めちぎっておかないとこちらの身がもたない。
『バクラウ』はブラジル・フランス合作のSFマカロニ農村モンドホラー(カポエラあり)である。
何言ってるか分からんか?
オレも分かってねえから安心しな!

筋なんか語ってもしょうがねえが、一応紹介しよう。
村の長老が死に、孫娘のバルバラ・コーレンが故郷の村バクラウに戻ってくる。バクラウというのは架空の地名だが、物語の舞台はブラジル北東部のペルナンブーコだ。
長老の弔いパーティーでは村民たちが「007のテーマ」みたいな歌を合唱しながら棺を運び、マイクを持ったDJが人生のコツを説いていた。また、村医者の老婆は激怒しながら誰かを罵り続けている。
わけがわからん。
なぜか遺影が電光掲示板だし。


弔いパーティー。

後日、市長がバクラウを訪れ、再選のために村民を懐柔しようとしたが、村のみんなは敵意剥き出しでこれを追い払った。
「水を独占すな」
「ダムを開けろ、クズ野郎」
どうやら水権利を巡って争っているようだ。
そして同日夕刻、三輪バイクで優雅に山を下っていたおっさんがUFOに尾行される。
ゆーふぉう。
気配を感じて振り返ったおっさんは思わず二度見したし、あんなに優雅だった三輪バイクの運転も精彩を欠いた。
UFOはむいんむいん言わしながらおっさんを追跡した。
こっ…わっけのわからん…。
市長と村民が争ってるとこまでは理解できたのに、三輪オヤジがUFOに尾行され出してから一気に何もかも見失った…!

おっさん「ワケわからんもん飛んでる!」

その夜、村民たちが寝ていると表でパカパカという喧しい音がした。
起きた村民が外を見に行くと大量の馬がめちゃくちゃ走ってた。なにこれ天皇賞?
もしかして俺、ツイン・ピークスの新シーズン見てるか?
さらに翌朝、村の給水車が誰かに銃撃されて水がむちゃむちゃ漏れるという事件が発生。
どうでもよ~。
それに関してはどうでもよ。弔いパーティーと馬とUFOに比べたらインパクトな~。よきに計らえ~。
だがその日を境に、村の異変はピークに達する。まずインターネットの地図上から村の存在が急に消され、次に農家の親子の惨殺死体が見つかった。
えっえっえっ。
そんな折、ツーリング中の男女のバイカーが村を訪れる。酒場で喉の渇きを潤したバイカーに「この村の歴史博物館を見ていけば」と勧めたバルバラだったが、二人は体よくこれを断った。村の若頭を務めるトーマス・アキーノは怪訝そうに二人を見送る。

ここまでが前半50分。
小骨が喉に刺さるような違和感、なぞ感、これなに感が観る者の生理をハケでくすぐる、充実のプレリュード。
人生のコツ説きDJ、遺影が電光掲示板、三輪オヤジ追跡UFO、深夜の天皇杯…。
まさにパワーキャラパワーシーンパワー掲示板のつるべ打ち。何がどうなってルンダリンダ。点ばかり撒き散らかして線にしないテリング。ツイン・ピークス感。
だが! このあと物語は突如現れたウド・キア先生によって俄に線となる。

アンディ・ウォーホルやラース・フォン・トリアーの常連俳優。

◆生首ドラゴンボール(7つ揃えるといいことある)◆

 とりあえず知らん土地にきたら歴史博物館には寄っとけ、ということがよく分かる映画である。知らず知らずのうちに踏んでいた土の下には、よそ者が知りえぬ血塗られた歴史が眠っているのだ。その地雷を踏んだ者たちの“洗礼”が描かれる、凄惨にして凄絶な歓迎会。

農家の親子を殺したのは2人組のバイカーで、彼らが向かったアジトにはウド・キア率いる秘密の武装集団がバクラウ掃討戦の会議を開いていた。
「早く奴らを狩りたいぜ」
「ふーっ! 興奮してくらぁ」
「私のマシンガンがうずいてる」
そんなことを口々に言い合っていた。
どこが会議なんだと。
すでに村は電波妨害装置により外部との連絡が絶たれ、上空を偵察する円盤型ドローンがギラリ、目を光らせている(あのUFOはドローンだった)。
彼らが何のために村民を襲おうとしてるのかは分からんが、緩やかに、だが確実にバクラウに魔の手が忍び寄っていた。さらに村民5人が殺されたし。
観る者はここでようやく「あ、そういう話」と理解する。さんざシュールな場面ばかり見せられてきたが、なんのこっちゃない、まっすぐバイオレンスだった。

対バクラウ超会議。

 ここから物語は俄然おもしろくなる。今まで“狩られる側”だったバクラウ民が戦闘本能を発揮するのだ。
まずトーマスは同胞の蛮族シウヴェロ・ペレイラの一味に加勢を求め、次に村の通りに秘密の穴を掘った。そして村民全員が秘密の丸薬を飲んだ。曰く、それを飲めば強くなれると言うが、一体どんな薬なのか…。
そして襲撃決行の日。不気味なほど人気がない村に足を踏み入れた武装集団は一人またひとりと村民たちの不意打ちを受け、訳もわからぬままに死んでいった。村の広場には切断された彼らの生首がドラゴンボールみたいに揃っていく。
おっかなびっくりで歴史博物館に踏み込んだ武装グループのひとりは、そこでバクラウの血塗られた歴史を知り、自分達がとんでもない相手に喧嘩を売ってしまったのだと激しく後悔したが覆水盆に返らず。鬼神シウヴェロはマチェーテで頭蓋骨が粉末コーラみたいになるまで念入りに砕いた。とんだ歓迎会だ。


ドラゴンボール揃えのシウヴェロ(つよい)。

他方、敵軍リーダーのウド・キアは村を一望できるパワースポットから狙撃銃を構えていたが、一向に村民が姿を見せないものだから退屈感を覚え、次々に仲間を撃っていった。しかも「おいボス、今こっち撃ったか!?」と無線で訊かれた際に「撃ってない」と嘘すらついた。
なんでそんな事すん。
我がで自軍の戦力削っとる。アホなんか…。
罪なき村民を狩っていた側が“獲物”に回る、過剰防衛コンテンツの足軽的作品。果たして殺し合いの行方とは?
人体損壊描写満載でお送りする、秘密のソンミンSHOW!

暇潰しに仲間を撃ちまくるウドキア先生。

◆“オレが観なくてもいい映画”として勝手に進行し、勝手に自律してたぁあああ◆

 このカルト集落の土着文化を通じて描かれる反植民地主義の可視化的パワームービーを『ゲット・アウト』(17年) 『ミッドサマー』(19年) に紐づけて論じるバカ者が後を絶たないが、より少なくバカな者は『荒野の七人』(60年) 『アントニオ・ダス・モルテス』(69年) の名を挙げ、よりバカな者はタランティーノの相貌を連想するように、これは映画マニア特有のむりくり何かと結びつけたがる病気にほかならない。己の乏しい知識の中で他作品を拡大解釈して強引に関連性を見出すことで理解した気になり、いたずらに映画を矮小化するという自尊心ムーブだ。
たしかに本作はさまざまな作品に影響を受けてるが、そのどれもが表層的な“まねっこ”であって、そんなものをいちいち拾ったところで単なる間違い探し。間違い探しならサイゼリヤでどうぞ。
撮影や演出、フィルムの肌理や呼吸には今までにありそうでなかった新感覚の映像文法が息づいてまーす!

とりわけズームとトラックアップ。今の時代にこれを堂々とやれる映画はひとまず褒めていいし、よく見ると2つのショットを合成して繋いだような不思議な画作りも散見されるが、それらは既存の映画理論にほんの少し手を加えた、マジックリアリズムのごとき延長的方法論である(斬新には映るがそれ自体が斬新な手法ではない)。
そうしたスノッブ好みの撮影技法は、しかしその奇異性が芽を出すまえに“さらに奇異な物語や世界観”に溶け込み、かえって透徹した輝きを反射する。ここに本作の新味がある。
“誰もやらなかったこと”を探すのではなく“皆やってきたこと”から辿って消去法的に残ったチップを全部頂く…という謎の会計士みたいな身振り!

恐るるに値する村民たち。

ちょっと自分語りに入るな。
自惚れた発言なのは重々承知だが、ここ1~2年、映画鑑賞眼が飽和している気がして、そのためにブログも滞りがちだ。
オレが観れる映画はだいたい観たし、オレが批評しうる映画の限界点もすでに悟ってる。
映画批評を始めた15年前はすべてが新鮮だった。理解や感性のアウトゾーンから訳のわからん映画がびゅんびゅん飛んできて、それを受けたり打ち返したりする快楽に酔い痴れたものやで。
だが今や精神ロートル。文体は関西ローカル。世間が面食らったり面白がったりする映画を観ても「おっけおっけ、このタイプね。過去に6回観た」などとヤケに達観してしまい、無意識裡に作り手の意図の奥の奥まで読んでしまう癖がついた。
たまにコメント欄やSNSで「映画の見方がおもしろいです」と褒めてくれる人もいるが、これは私が映画に成熟したからではなく、むしろ映画に対する諦念の賜物… いや、“映画への断念”がそうした見方へと私を誘ってるのかもしれんな。
イキった言い回しなので普段は言わないようにしてるが、私は幸福な観客ではない。たまたま映画が“観れる”から観ているだけだ。わかるだろうか。ただ素直に映画を見て「楽しい」と思える人間ではないし、べつに好きで映画を見続けてるわけでもない。趣味を聞かれたら「映画鑑賞」と答えるが、厳密には違う。観なければならないから観ているだけだ。ポップコーンなど食えるはずもない。
そんな私が久しぶりに“自分の眼”を捨ててスクリーンに身を預けたのが『バクラウ』だったわ。
『バクラウ』は“オレが観なくてもいい映画”として勝手に進行し、勝手に自律してた。そういうとき、私はこう思う。
「やっとこさ、ここに映画があるぅー」
そういうことよ。
ありがとありがと。

一つひとつのショットに見栄や傲りがない。
ここには撮られるにしたがって強度を増す役者の四肢や相貌と、きわめて知的に操作された被写体の運動が静かにスクリーンの熱を高めている。
なんて映画体験を俺はしたん!
花を愛する全裸の老夫婦がすさまじい反射神経で武装集団の頭を吹き飛ばすシーンなんてジョン・ウェインとリッキー・ネルソンの連携を思わせるし、その後、あらかじめ敵によって家に放たれた火を、あわてて尻をぷりぷり揺曳させながら謎の棍棒を振って消火しようと試みるショットの愛嬌はなんだ。滑稽で力づよい!
そして…わけわからんっ。
わけがわからんから二度と観ないが、おそらく向こう20年は忘れない映画として私の脳裏に焼きついた。
以上、『バクラウ』でした~。

花を愛する全裸夫婦(大砲銃で武装集団を2タテ)。

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