シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ムーンフォール

是が非でも地球には壊れて頂く。地球破壊ニキことローランド・エメリッヒが編み出した絶対地球破壊計画。「あっ、月を落とせばいいンじゃん!」 ~月を落とせばいいンじゃん!じゃねえよ~

2022年。ローランド・エメリッヒ監督。ハル・ベリー、パトリック・ウィルソン、ジョン・ブラッドリー。

月が落ちてくる中身。


あじゃじゃtyす。やろか。
 今年、生活環境が一変したことで、今までほぼ一切見てこなかった昼のワイドショーを見る機会が増えた。30分以上ワイドショーを見たのは人生初だ。昼食を食べもってワイドショーを見ていた私。おもった。
「ずっと天気の話してるぅ~」
今まで知らなかったけど、え、ワイドショーってこんなにしつこく天気の話ばっかりする番組やったん。
まっ茶っちゃのスーツ着た気象予報士めいた男が「今週末はグッと冷え込みますよ!」と言うと、コメンテーター達が「かなんわー」ゆうて。
なんですのん、これ。
「でも来週からは晴れちゃうかも!」と言うと「よろしいな~」ゆうて。
こ…っ、なん…
なんですのん、これえー。
みんな何してはりますのん。なんていう大会ですのーん?

そもそも私は天気というモノにからきし興味がない。なぜなら一過性の自然現象に過ぎないからだ。もちろん災害級のニュースには目を向けるが、ちょっとした大雨だの台風だの…そんなものは一過性。
目ぇつむっとったら終わる。
暑いだの寒いだの…ちょっとは辛抱せえ。ヒヨコみたいに騒ぐな。
したがって天気予報なんて見ないし、「今日めちゃ寒いよなぁ。薄着きてきてもうてミスったわ~」みたいな世間話をされても「まぁでも、その1回のミスで風邪ひくわけでもないんだし。どうでもよくない…?」と思ってしまう。
なんというか、暑いからなに? 寒いからなに? 雨降ってるからなに? としか思わないんだよね。暑さや寒さを防ぐための情報を得るために30分も40分も使ってワイドショーを見たり、毎日のように天気予報アプリを確認しては「今日の最高気温は〇度。じゃあこの服でいいか。いや、でもなぁ~…」なんてことを逡巡したりする、ご大層にして大袈裟な時間の使い方…NANI? と思ってしまうわけ。
どうせ今日の気候なんて明日には変わってしまうのに、一日一日…その日の気温に合わせて動く人生を死ぬまでそなたは送るつもりなの?って。たかが一過性の自然現象ごときに右往左往とそなたはしてっ!みたいなさぁ。
そなたはどなた!? なども思ったり。
そういう意味では、天気に興味がないというより、気候情報に左右されるライフスタイルにむかついてるだけなのかも。俺は。
どうでもいいんじゃないかなぁ。そんなに大事かなぁ。天気とか、私の日常生活における優先順位の中で最下位だけどな~。風がどっちからどっちに吹いてるとか、マリオゴルフでしか気にならん、みたいな情報をどうもありがとうって思いながらワイドショー見てるよ。
あと、降水確率50%とか見ると「何か言ってるようで何も言ってない情報垂れ流してるぅー」って思う。意味ねえよ。毎日そうだろ。「降るかもしれないし、降らないかもしれない」って。村上春樹の一節かよ。降るかもしれないし降らないかもしれないのは毎日そうだよ。嘘でもいいから51:49みたいに、どっちかに寄せてくれんと。「50%です!」言われても。そうなっちゃうと、毎日そうだろ。それを言い出すと毎日そうだよ…。


…なんてことを、30分以上にも渡って天気の話ばっかりぐだぐだ続けるワイドショーを見ながら感じた私なのでありました。
なんだったら「梅田駅と中継が繋がってます。めちゃ降ってますね~」とか言ってたのが、30分以上もスタジオでお天気トークしてる間に晴れてたりするからね。
「降ってんねー」ゆうてる間に、やんでますやん。喋りすぎて。
なんですのんこれ。やむほど喋ってる…。
ええ大人がスタジオ集まって気象予報士の言葉に一喜一憂して。「かなんなー」ゆうたり「よろしな~」ゆうてみたり。ほんで喋ってるあいだに雨やんで。お外、ポカポカなって。「やみましたね~」ゆうて。「でも油断は禁物です。午後からまた降るかもよ」ゆうて。やかましいわ。黙れトリックスター。人心を翻弄すな。まっ茶っちゃのスーツ着て。どこで売ってんねん。

そんなわけで本日は『ムーンフォール』です。降るのは雨じゃなくて月!
今回は映画批評ではなく私の映画哲学…というか映画説法をまくし立てるだけの回です。面倒臭いです。



地球滅亡師エメリッヒ

 ローランド・エメリッヒといえば、盟友マイケル・ベイと知能の低さを競い合うハリウッドきっての大馬鹿者として90年代以降の「ハリウッド超大作」という語の響きに失笑の感をもたらした功労者として知られている。
人が「ハリウッド超大作」と聞いてなんとなくバカっぽいイメージを持ってしまうのはこいつらの為である。
マイケル・ベイは火薬を使って自動車や建物をぶっ壊そうとするが、エメリッヒは最新のVFXを駆使して地球そのものをぶっ壊そうとする。
何かにつけてすぐ地球を壊そうとする。
なんて志の高い人間だというんだ。
地震、竜巻、雹、津波、噴火、地割れ…。思いつく限りの災害をぜんぶ起こしてでも地球滅亡を期する“アンチ地球監督”としてその名を轟かせたエメリッヒ。
突如現れた宇宙人が地球に攻撃を仕掛ける『インデペンデンス・デイ』(96年) 、突如現れたゴジラがNYを皮切りに地球に攻撃を仕掛ける『GODZILLA』(98年) 、突如迎えた地球温暖化によって地球が氷河期を迎える『デイ・アフター・トゥモロー』(04年) 、突如発生した災害によって地球が破滅の危機を迎える『2012』(09年)…。

など。

マイケル・ベイが地球をぶっ壊そうとしたのは『アルマゲドン』(98年) ぐらいではないかしら。その点、地球ぶっ壊し歴ではエメリッヒの方が上。地球破壊に関しては一日の長があることから、エメリッヒはディザスタームービーのアニキなのである。
地球破壊ニキともいえる。
エメリッヒに24時間テレビを見せたら、きっとこう言うだろう。
「愛が地球を救うのに24時間? 間に合わんな。俺なら2時間で壊せる」
映画表現を思案するでもなく、撮影演出の腕を磨くでもなく、ただ「どうすれば地球を壊せるか」だけを考え続けた26年。「ヒットしろ」ではなく「賞とれろ」でもなく「地球滅びろと願い続けた四半世紀…。
そんな破壊ニキが原点回帰とも呼べる作品をつくりました。
「もう一度、地球を壊したい」
そこには建前も謙譲もなかった。
真っ向勝負で地球を壊す。
とはいえ、客を喜ばすために地球滅亡を回避しうる展開は必要だが、そうなったら無理攻めを通してでも滅亡不可避要素をつけ足す。今度という今度は地球には壊れて頂く。
そこで破壊ニキは閃いた。

「あっ、月を落とせばいいンじゃん!」

うるせえよ。
月を落とせばいいンじゃん、やあるか。
そんなわけで本作!
お月さまが落ちてきて地球ぺちゃんこの危機! 迎え撃つはNASA長官代理のハル・ベリー姉貴&宇宙飛行士パトリック・ウィルソン兄貴!
いま始まる! すぐ地球を破壊したがる男VS地球を守ろうとするNASA勢!
勝つのは破壊ニキか、ベリーネキ&パトリニキか? バカ映画の重力負荷にあなたはどこまで耐えられる!
『ムーンフォール』!!!



◆人類は未だ映画理解の入り口にも立ててない◆

 ローランド・エメリッヒはまったく進歩しない男である。およそ進歩や学習という概念をお母さんのお腹の中に置き忘れてきた子。映像大学の卒業制作として発表した『スペースノア』(83年) から今日に至るまで、エメリッヒは常に“ダメリッヒ”だった。

ただ、一点だけ擁護したいのは、とかくこの手の映画に対して科学的根拠を求めるポップコーン勢が日夜さまざまな町には生息しており、奴らは劇中のありえない現象や展開にいちいち突っ込んではスクリーンに向かってポップコーンを投げつけることで一段上から物を言った気になってはいるのだが、根本的に“映画の話”は一切できない人種なので、いきおいプロットの非現実性を論って「やったった」みたいな顔をしてはいるものの、そもそも劇映画なんて大なり小なり非現実性がなければ成立しえない“夢物語”なのであって、そんな夢物語に対して「これは夢だ!」という指摘が“批判”なのだとすれば、なるほど脳みそ湯豆腐野郎1人前680円といわざるをえないわけで、ダメリッヒよりもダメを晒すがごとき痴態の極み、ご当人のあらゆる“批判”は書かれた端から「私はバカ映画を見てもこんなバカな感想しか出てきません」と変換さるるのであるる。
畢竟、かしこぶって「科学的にありえない」などと言う人あらば「映画は科学じゃないからねえ」と言って差し上げましょう。

早い話が、映画を見るうえで科学的知見だったり物語的観点に立脚している頓珍漢な人が多すぎるのだよ。
見るのではなく“観”ろ。
“観る”というのは貪欲なまでにスクリーンただそれだけに目を向けることだ。
簡単な話だが、これが伝わらん。他はどうでもいい。スクリーンだけは、最低限、見ろ。「うっせえわ、いつも見てるよ」ってか?
Adoか、おまえは?
おまえこそうっせえわ。見てねえからこんなブログなんか読みに来てるんだろうが。
おお? するか?
喧嘩するか!?
まあ落ち着けって。喧嘩になったら勝てないから俺。こう見えて、言い合いっこ弱いし。
…カントリーマアム食べる?

そうだなぁ。そう…。
試しに、あらゆるツッコミを封じたうえで『ムーンフォール』を見てみよっか!?
企画だと思え。よっぽど素頓狂な映画だが、絶対に突っ込まないこと。
このルールを己に課したうえで、なるべくスクリーンだけを見るんだ。スクリーンの水面に浮かぶ「バカ」は掬うな。ただスクリーンを見ろ。つまり画面、映像…まあ構図でも色彩でも何でもいいが、とりあえず目だけを使え。ただ画面を見ろ。セリフや物語など気にせんでよろしい。そんなもんは後からでも理解できるし辻褄だって合わせられる。でも画面は…特にショットはそのとき見逃したらおしまいだ。
俺はいま相当ムチャな話をしてるが、こうでもしないと「スクリーンを見る」ことの端緒を開けんだろ?
オイ、今度はなによ。
「でもね、ふかづめさん? 僕はアマプラで見てるから見逃しても巻き戻せるよ!」だと?
ハナシ聞いてなかったのか?
死ぬか?
オマエが見返してるのは“映像”だ。10秒戻しで見返したショットは“映画”から“単なる映像”になるんだよ。何のためにフィルムがぐるぐる巻きになってるんだ? おまえをロープでぐるぐる巻きにして東京湾に放り込もうか? 返せよ、カントリーマアム。

オーライ、話を戻そう。ツッコミを封じたうえで『ムーンフォール』を見ると…どうか!?
つまらんのだよ、これが。
祝祭的なまでにつまらない。だから人はスクリーンなど見ず「科学的にありえない」とか言って茶々を入れるのか。合点。そっちの方が楽しいもんな。つまらん時間を楽しく過ごす術。現代人だね。
だが、つまらん映画をただつまらんものとして観続ける営為こそが「映画を観る」ということだ。なめんなよ。
ゆえに映画鑑賞とは本質的に趣味や娯楽たりえない。
たりえるはずがないだろう。言葉は悪いが、世の中の映画の99%はゴミだ。まともな映画なんて100本に1本あればいい方だし、傑作ともなれば1000本に1本。先月あなたが映画館で感動した作品だってたぶんゴミだろう。それでなくとも準ゴミだ。気を悪くしたらごめんな。でも俺もそうだから。だって「99%はゴミ」と割り切れるほど我々の鑑賞意欲は高くないし、寿命だって短い。すぐ死んじゃう。だから便宜上“1ランク上”としてみなすんだよ。超駄作を駄作とみなし、駄作を凡作と評し、凡作に佳作のゲタを履かせ、佳作を傑作と称し、傑作を神映画と呼ぶ…。

そうでもしないとやってられないほど、人類は未だ映画理解の入り口にも立ててないんだ。

「なにを大袈裟な」とか「小難しく考えすぎ」と思う人あらば、ぜひ映画の意味を問いたいね。「映画」という言葉の意味を教えてくれよ。なあ。過不足なくすっきりクリアになるまで説明できるか? 俺はできん。たぶん誰もできない。
映画なんて知らねえんだよ。
地球上の誰一人として言葉の意味すら理解できないまま映画を撮ったり見たりしてるんだ。
まったく。わけのわからん!



◆バカが追いつかん◆

 すまん、また話が逸れた。
とにかく『ムーンフォール』は心が明るくなるほどに祝祭的ゴミでした。
面倒臭いから筋については触れないが、宇宙組と地球組のカットバックがきわめて事務的かつ粗雑すぎて眩暈すら覚えてしまう私であった。
まず、ベリーネキやパトリニキらがつぶつぶのAIクリーチャーと宇宙空間でドッグファイト(この時点で大分おかしいのだが)を演じている一方、地獄絵図と化した地球では親族の避難ロードムービーが繰り広げられるが、彼らの避難を妨げるのが3人組のチンピラ。いちど強奪した車を取り返されたことで逆上したチンピラーズは執拗に彼らの命を狙うが、それが何のサスペンスにもテリングにも寄与しないばかりか映画全体を弛緩させる“死に時間”を生成。そもそも津波と地割れと火の玉で人類絶滅の危機だというのに、この期に及んで車の強奪とか仕返しなどというキングオブ些事に拘泥する作劇の稚拙さには「小学生からコツコツやりなおせ」と呟かずにおれまい。
宇宙組が“つぶつぶでAIのクリーチャー”などという馬鹿みたいな設定の敵と対峙しているころ、地球では“チンピラ”という文字通りの馬鹿を相手にする、手汗も乾くカットバック。鬼のようにどうでもいい微温的展開のつるべ打ちは湯冷め必至だぜ!
大体、つぶつぶでAIのクリーチャーてなんやねん。



で、また宇宙組のシーケンスがおもしろいじゃないですか。
じつは月の中身は空洞で? ベリーネキとパトリニキが宇宙船大破覚悟で月の内部に突っ込むとそこには高度文明をもつ善良なAIがいて? そのAIが悠長に5分も使って「人類史」の講義をしてくれた上に全壊したはずの宇宙船を新品同様に修理、なんならパワーアップすらしてあげるというの。
待て待て待て…バカが追いつかん。
特に宇宙船修理のシーンが最高で。本作は1億5000万ドルかけた超大作なので、凝ったCGとか使っていかにも近未来的な映像表現で修理されるのかと思いきや、なんとクルーたちが宇宙船を不時着させた場所に戻ってきたら既に修理済みだったのである。
事後。
1円もかけずに宇宙船修理しとる。およそ“描写”という概念をドン無視した革新的技法にあぜん。「寝て起きたら全部解決してた」っていうのと同じ次元のことしてるゥ~。


つぶつぶでAIのクリーチャー。要はタコ。

面倒臭いことは描かない。なのにどうでもいいことは描き込む。これがダメリッヒ流。
『オブリビオン』(13年)『インターステラー』(14年) で流行った白基調SFの映像設計は大失敗(もっとビビッドに白に振り切らないと)。
VFXやCGもうまく馴染まず、先の色彩処理の失敗もあってか、ただただ見づらい映像に拍車をかける形に。実は見てほしくなくてわざと見づらい映像にしてますか級に見づらい。
撮影面の瑕疵に関しては何をか言わんや。今さら“エメリッヒのダメリッヒ”の解説など必要ないでしょう。
唯一とも呼べる美点はハル・ベリーとパトリック・ウィルソンの存在感に尽きる。完全に役者得の作品でした。全盛期を過ぎ、なお善戦してはいるもののジワジワと筋力が衰えつつある二人が月さながらのフィルム的引力を取り戻した、すばらしい貌と芝居と存在感だった。地球帰還後のラストシーンに至っては、ヘタな背景合成など必要ないほど芝居それのみで成立しうる満点のツーショット!


そんなわけで本作。久々のエメリッヒ節は、相変わらずの不勉強さと相変わらずの勘の悪さに「相変わらず退屈だなー」と『インデペンデンス・デイ』あたりの時代を懐かしみながら晩酌するには持ってこいの底抜けバケツ映画と言えすぎる。
だが、エメリッヒがこんな映画を撮れば撮るほど、われわれの地球への慈愛精神は向上するだろう。実は「地球を大事にしよう」という美化意識ブーストとしての役割は計り知れないのかもしれない。

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