シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

TAR/ター

いま紐解かん! 50手先のショット。~きみはもう見ター?~


2022年。トッド・フィールド監督。ケイト・ブランシェット、ニーナ・ホス、ノエミ・メルラン。

天才指揮者の顔が引き攣っていく。


おはすおはおはす。
線を見つけるのは至極困難である。
最近のおれときたら、映画鑑賞や執筆活動をほっぽって漫画ばかり描いている。と言っても無地のルーズリーフに趣味で描いてるだけの“自己満画”なんだが、これが存外愉しい。漫画なんて描いたのは何千年ぶりであろうか。思い出してみよう。11年ぶりだ。
かつてはいろんな画材を持っていたが、デッサン人形も、雲型定規も、今はない。
てなこって、近場の東急ハンズで画材を揃えるところから始まったわけよ~、おれの自己満画道は。
まず、B5の無地のルーズリーフ100枚入り。B5がいちばん描きやすい。そして描きあげた紙をファイリングするバインダー。ぱちんと留められる。お次は4Bのシャープペン替芯と鉛筆(HB、2B、4B)。おれが描いてるのはペン入れなどをする本格的な漫画ではないから、基本は鉛筆だけで線を取っていく。文句あるならたたく。HBはアタリをつける用、2Bは背景や集中線を描くため、そして4Bで基本線を描いていく。鉛筆削りも買った。小型のぐりぐりするやつだ。なんと細さの調節機能(5段階)つき! 定規と消しゴムも買い替えた。
しあげは下敷きだ。正しくはプラ板。おれの部屋の机は、長年の酷使によって表面がデコボコになっている(鍋敷きを使わず鍋料理をじかに置いて食す、煙草の火種をミスって落とす、ゲームで負けていらついてパンチするなど、原因はさまざま)。だから表面がクレーターじみている。だから平面性を保つための下敷きが必要なわけだ。だからプラ板を買った。
これで準備はバッチグー。


漫画を描いた。
おれはストーリーや設定を考えるのが苦手だ。熱心に漫画を描いていた小学生の頃からそうだ。キャラクターだけ考えて見切り発車する。だからいつも途中で行き詰って、未完に終わる。だが、それでいいとも思ってる。たとえ行き詰っても、行き詰まるのが漫画ぢゃないか。実際、投げっ放しで終わった有名漫画なんてゴマンとあるだろ。ならば、おれはゴマンイチ(50001)になる。運がよければ最後まで描き切れるかもしれない。どうなるかは誰にもわからない。無責任だろ? 漫画なんてのは、もとより責任など負わなくてよい表現媒体なのだ。紙芝居にも劣る。
主人公は女だ。
おれが最も苦手とする絵のモチーフ。女。それをあえて主人公にした。
男に比べて、女は描きにくい。女の人体は複雑だからだ。目にハイライトを入れなきゃいけない(入れなきゃ男っぽく見える)。睫毛を描かねばならない(描かねば男っぽく見える)。胸、腰、尻、手などに丸みを加えねばならない(加えねば男っぽく見える)。
じつに不思議な生き物だ。
じつに不思議な生き物だ!!!
ゆえに神秘的な生き物だとおれに言うのか!
男の造形に“何かを加えないと”女にはならない。なんて上位の存在。
話は変わるが、作家の川上未映子が嫌いだ。歌手だったころは好きだった。FMラジオも聞いていた。でも作家になって『わたくし率 イン 歯ー、または世界』とか『乳と卵』で文壇を賑やかしてからは嫌いだ。彼女がどこかで言っていた。「男にはペニスが“ある”が、女性にはペニスが“ない”」みたいなことを。男は“持っている”存在で、女は“持ってない”存在だと。いやいや、ヴァギナに置き換えたら結果は逆転するでしょ、とも思うのだが、言わんとすることは、まあ理解る(「理解る」と書いて「ワカる」と読ます漫画的な当て字を使ってみたけど、やっぱダルいよねえ~)。
けれども、女性が描けないおれに言わせれば、女こそが“持って”いて、男は初期アバターなんだよな。少なくとも絵画や映画といった芸術方面では。男のデッサンはより単純で、女はより複雑だ。要素が多い。
そう考えるのは、おれが男だからか? 果たしてどうだろうか~。たとえば、雑に10秒で人間を描いてごらん。ほんで、表に出て「この絵、男に見えますか、女に見えますか?」って街頭インタビューしてごらんよ。たぶん人は「一か八かで男!」って答えるんじゃない?
それがすべてじゃん!!

…みたいなことを考えながら描き続ける漫画。苦痛だ。でも「楽しい」の反語でもある。
現在38頁。けっこう描き進めたけど、未だ題名は決まってない。
漫画の話は、またします。

そんなわけで本日は『TAR/ター』。
読んでくれたら、ありがTAR/ター~~。



◆それが『TAR/ター』◆

 キャンセルカルチャーによって地位を追われた才人でいえば、本作でケイト・ブランシェットが演じた架空の天才指揮者リディア・ターよりも、実在する幼女愛好家ウディ・アレンが思い出されて仕方ねえわ。
うーん、この話しますか。
ハーヴェイ・ワインスタイン事件に端を発したMeToo運動やアカデミー賞の政治化、あるいはその数年前から顕在化しつつあったポリコレや多様性ブームからは距離を置き、ただ機械のように映画の良し悪しだけを判ずるために『シネマ一刀両断』を開設した。特にブログ開設1年目の2018年は、過剰なまでにわかりやすく、そして過剰なまでにユーモアを交えた“バズる映画記事”を狙った。そして、そんな記事のなかで「ショットを観ろ」と言い続けてきた。
というのも当時、プロアマ問わず映画に関するブログやSNS―というより日本の映画批評界全体がワインスタイン事件の余波を受け、どいつもこいつも映画の話をしているようで政治の話しかしていない…といった体たらく。今だってそうだ。誰もスクリーンなど見ちゃいない。「何が描かれたか?」をめぐる意味論や解釈論と戯れ、作品の良し悪しを判じている。
さあ、毒で以て毒でも制すか、ってんで、おれが誓った獣の掟。『シネマ一刀両断』では政治の話はしません。人種問題にも男女差別にも触れません。事実は綴れど“おれの意見”は排してる。なぜなら“映画批評の領分”ではないから。ここは映画を批評するブログ。映画と関係ないおれの感想文なんてLINEにでも綴って友達に送ればいい。それに、前書きにも顕著だろ? 2020年以降、コロナの話題にもほとんど触れなかった。タイムリーな話題も極力扱わないようにしてる(祇園祭への愚痴は毎年吐くが)。
こっちもこっちで、“時を止める”のに必死なのよ。
社会の情勢やら時代の趨勢から切り離された純粋な表層批評空間を作るために、たとえワインスタインが関わった映画を扱った回でも、氏に対する百の罵詈雑言を呑んで“作品の良し悪し”だけを論じてきたつもりだし、当時多かった「ウディ・アレンや園子温の作品は二度と見ません」と宣言している映画好きに対しては「羨ましいな」と思う反面「青いな」とも思っていて(そう言ってる奴のフェイバリット・ムービーが『戦場のピアニスト』だったことに大笑いした記憶がある)。

この話のポイントって、たぶん“表現の本質に近づく為にはどこまで人間性を捨てられるか”ってことだと思うのよ。
自我や感情や主観や倫理。
たとえばエアロスミスのメンバーは、食っちゃいけないと知りながらも麻薬をたらふく食ったことで『ドロー・ザ・ライン』(77年) を完成させた。ビートルズの『リボルバー』(66年) もそうだ。
…ピンとこないか? 例えを変えよう。おまえが美術館で「最愛の人」と題された立体造形に心を奪われたとする。色鮮やかな女性のオブジェよ。だが後日、おまえはニュースでそのオブジェの作者が逮捕されたと知る。その作者は恋人を殺害して、遺体を分解し、髪や皮膚や爪を貼りつけて「最愛の人」を完成させたと知るのだ。さあ、作品に対するおまえの気持ちは変わりますか?
それを「そんなのヤ~!」と取る奴もいれば「それでも良イ~!」と取る奴もいるだろう。中には「ヤ~」と思いながらも「良イ~」と思うような中立的な感情を持つ奴だっているだろうさ。

それが『TAR/ター』。

「ヤ~」でも「イ~」でもない感情。
それがタ~~~~!!!



◆天才の敵は常識人◆

 なんなのかね。「見たけどよく分からなかった」という感想が多いよね。あるいは、分かったフリしてるけど明らかに分かってへんやろ、ってレビューを書いてる人がすごく多い。
難しい言葉を使って「キャンセルカルチャーの餌食になった天才指揮者の傲慢」だとか「SNSによってパワハラが糾弾され権力を失った天才指揮者の流転劇」だとか、皆そっちの方向で解釈しちゃうのな。
ただ“天才”を描いただけのシンプルな骨子だと思うんだけどな。
でも、そっか。いまって100年前や50年前に比べると天才にとっては生きづらい世の中になってるよな。難儀なこっちゃ。その最新バージョンを描いたのが本作。現代に生きる天才にとって2020年代はかくも厳しいんだぞ、ってことを描いた作品よ。
現代にあって、もう“天才”は通じない。
いかな大天才も、凡人が指でポチポチやってるスマホにかかれば、かくも速やかに圧殺され、抹殺される時代だよって。

…あ、筋を説明してなかった。
ケイト・ブランシェット演じる女性指揮者の大家リディア・ターは、公私問わず非常に厳しい天才音楽家だが、ときに権力を振りかざしてお気に入りの若い女性音楽家を私情丸出しで優遇したり(ターはレズビアン)、大勢が見ている場での音楽論で教え子を論破した挙句に個人攻撃とも取れる発言、果てはターが指導した若手指揮者のクリスタが彼女を告発した遺書を残して自殺してしまったことで、これまでの“やりすぎター伝説”がメディアやSNS上で表面化。大炎上したターは「参っター」と頭を抱えター。
…といった中身なんだわ。わかっター?



たぶんおれの見方は、世間とは逆ね。
「時代がターを殺した話」じゃなくて「ターが時代を殺せなかった話」として終始見たわけよ~~。
もうね、ターが不憫で不憫で…。
なるべく丁寧に喋ってみる。
まず、天才というのは絶対的な存在なのよ。絶対的な思想と言語と感性を持ってる人のことを天才と呼ぶ。ステージの上や学生の前で音楽論を交わすファーストシーンに顕著だ。膨大な知識と経験に裏打ちされた、ただただ相手を気圧する超持論をまくし立てる印象的なロングテイクでの長広舌。誰もなにも言い返せない。言ってることが正しいからではない。言葉に意思があり、その意思の連なりが哲学たりえてるからだ。天才とは絶対的な存在。
…てことは、裏を返せば相対的には極めて弱い存在でもあるわけ。それを相対化させるのが“時代の流れ”。
私情を含んだ楽団の新編成もパワハラと言われてしまえばパワハラになってしまうし、恋人であるニーナ・ホスの養女をしばいた同級生の子に「次しばいたら私があなたをしばく」と釘を刺したのだって脅しと言われてしまえば脅しになってしまう。
これをやられると途端に天才は弱くなる。
だって天才なんて“極論と暴論”で生きてるからな。むしろ「極論だけど(極論ゆえに)刺さった!」とか「暴論だけど一理ある。言い得て妙」みたいな、誰も気づかなかった“世の中の隙間”をさまざまな表現活動を通して埋めていく人たちなんだから。
ゆえに、一般常識とか社会通念に基づいて「いや違います! あなた間違ってます!」って真っすぐ正論で否定されてしまうと「わかっとるわ。その上であえて暴論言っとんねん」としか返しようがないので、まあ…一般ルールで議論すると負けるよね。
だから天才の敵は常識人。
つまり世の中の大多数の普通の人々こそ敵。



まあね、確かにターはさまざまなハラスメントをやってきた人間ではあるけれど、それはそれとして…「昨今、物は言いようすぎない?」 という違和感は覚えてますよ。
「やられた側がハラスメントと感じたら、それはハラスメント」みたいな言説をよく聞くけど…むちゃくちゃ過ぎるやろ。それがアリなら嫌いな相手をいくらでも陥れられるやんけ。
だって「髪切った?」とか「恋人と仲よくやってる?」と言っただけでハラスメントになるんでしょ? だったら、そうなることを危惧した相手があえて何も言ってこなかった場合、それはそれで「無視された」というハラスメントが成立するわけよね。受け手の“感じ方”と“物の言いよう”次第で。
裏技過ぎるて。
笑ろてまうわ。
人種差別に反対するためにアジア系やアフリカ系の役者を起用しまくることが巡り巡って白人差別になってる現代アメリカ映画みたいやね。もうグリングリンになって…。ウロボロス構造かよ。
おれな、昔からレディファーストを意識してんねん。といっても女性を尊ぶとかの文脈ではなくて、幼い頃から「女の子には優しくしたりや」みたいな教育を受けてきたから、その名残り…というか条件反射が染みついてるだけなんだけど。
ほんでな、こないだエレベーターで一緒になったばばあを先に出そうと思って「どうぞ」って先に行かせたら、横にいた知人の女が「おっお~ん。すてきな身振りだけど、気をつけなきゃね。昨今のジェンダーレスの理念に基づけばレディファーストも女性差別よ?」とか言ってきよんのよ。
うるせえよ、ボケナス。
たかが順番を譲っただけで性差別になるって、世の中狂いまくっとんか?
だったらええわい。おれは女性差別をしてでもばばあに先にエレベーターを降りてもらう。これが女性差別ね? おっけおっけ。ほな、これからもドンドン差別していくわな。ありがとう。
ほんで、知人の女。少なくともおまえに対してはレディラストじゃ。一番最後に降りろ。一番最後に降りたせいで扉にガーン!挟まってバイ~ンってなれ。
ガン!バイ~ンってなれ。

話は逸れたが、そんな“普通の人々”に真綿で首を絞められ、表現の場を追われる“天才の苦境”をじっくりと描き込んだ158分がひたひたとあなたの背後に迫るぞ!
長い映画だけど、たとえば『アマデウス』(84年) とか、あんな感じでつるっと見れるわ。天才音楽家の“宮殿”が崩れる話だからな。裏庭が攻め込まれた。きゃあ大変。正門が制圧された。ああマジかよ。あっちもボロボロ、こちらからもボロが出る。それを追ってりゃ158分などまたターくまーである。
『MAR/マー』なのよ。
『TAR/ター』であり『MAR/マー』なのよ。

『東ベルリンから来た女』(12年) のニーナ・ホス。

◆50手先のショット◆

 映画の話、全然してなかったな。
16年ぶりとなるトッド・フィールドの最新作だからよほど気合いの入った作品なのだろうとは思っていたし、正直、観る前から「どうせ傑作だろ」なんて映画ブロガーとしてあるまじき予断に酔ってもいたのだけど、そう思わせるほど『リトル・チルドレン』(06年) は素晴らしい作品だった。
トッド・フィールドの才能は、まだ何も起きてないショットをあたかも“近い将来に何かが継起するショット”であるかのように撮ってしまう、その思わせぶりな手つきに集約される。どこへ向かうともしれない漠然とした物語にも関わらず、このショットが“次のショット”ではなく“50先のショット”に繋がるかもしれないから見逃さずにおきたい、と思わせるのだ。
トッド・フィールドのショットは、じつに渇いた抒情。そして意地悪でもある。みごとに可視化された意思や感性―つまり抒情の狂奔を助けたのは、当然『リトル・チルドレン』でのケイト・ウィンスレットや、本作でのケイト・ブランシェットが見せた肉厚で生臭い芝居だが、他方、よほどのことでもないかぎりは相手のパーソナルスペースに踏み込むまいとする“人物間のスリリングな距離感”もお楽しみ頂きたいわけであります。

ターが恋人(ニーナ・ホス)の待つ家に帰ったきた夜、カメラは画面奥に佇んだまま語らう二人をロングショットで見つめたあと、ターが突然の動悸で苦しみながらも「薬を切らしてるの…」と言った恋人を見るや否やサッと廊下を抜け、画面手前の洗面所で自分のバッグから同じ薬を取りだし「あったわよ。床に落ちてた」と嘘をついて手渡すロングテイクでは、もっぱらスプリット・スクリーンのように左右に分割された構図の美しさに酔い痴れてみたり、あるいは恐らく心臓神経症の薬であろうそれをターは頻繁に恋人の家から盗んでいた…という解釈に達しては深く溜息をつくのがせいぜいだろ? と言わんばかりに、たとえばターが恋人をないがしろにして、自身が抜擢(というか一目惚れ)した新人チェロリストのオルガ(ゾフィー・カウアー)に熱を上げるシーケンスでは、ターのアパートに誘われたオルガが「これ弾いていい?」と鍵盤を爪弾きながら、まるで独り言のように目下ターが難航しているレコーディングへのアイデアを無邪気に提案すると、キッチンで紅茶を淹れていたターがその独創的な発想に「彼女こそ私のミューズだ」と確信し、紅茶を淹れる手も止めてオルガの座るピアノの前に歩み寄るロングテイクでは、画面奥にターを、そして手前にオルガを配している。
奥行きの構図をふんだんに活用した“愛と嘘”の対比
奥から手前に移動するターと被写体との距離がどうなってるか?を考えると分かりやすいと思う。洗面所での“薬の嘘”のシーンではターが恋人から離れたのに対して、同じ条件でもピアノを弾くオルガに対しては近づいている
奥から手前へ…という構図自体は同じでも、“親愛と離反”という抒情によって対比が成立するわけやね。
これが50手先のショットの真骨頂。


画面手前がオルガ。

こうした作家性は、NYインディペンデント派の大家ジョン・カサヴェテスの影響が大きく、とりわけ『TAR/ター』を観ていて何度も彷彿する『フェイシズ』(68年) 『こわれゆく女』(74年) におけるジーナ・ローランズが神経症で徐々におかしくなり夫との家庭を崩壊させてゆくイメージは、ターを演じたケイト・ブランシェットの演技プランの支柱を担ったものと確信する。
あ。あとロマン・ポランスキーの『反撥』(65年) や、ダーレン・アロノフスキーの『レクイエム・フォー・ドリーム』(00年) 『ブラック・スワン』(10年) あたりとの表層的な親和性も演技/演出ともに見て取れるけど、カサヴェテスに関しては偶然では済まないでしょう。


その他、本作にはさまざまなギミックが仕掛けられている。ランニング中に聴こえた断末魔は何だったのか?とか、ターが夜中に飛び起きたショットに一瞬妙なものが映ったけどクリスタ(自殺した教え子)の幽霊?とか。
まあ、今さらオレがそのへんの絵解きを試みたところで後追い感は否めないから触れずにおくな。
ただ一点、フィリピンのホテル野郎に勧められるままマッサージ店に足を運んだターが「好きな娘を指名してください」と言われ、店内に整然と並んだ女性たちを目の当たりにした途端に嘔吐するシーンを「あそこ、よくわからなかった…」と言ってしょんぼりしてる人が周囲の知人にもネット上にもチラホラいたけど、あれは割とそのまんまっていうか、権威失墜したあとのターの目には店内に並んだ風俗嬢たちとオーケストラの楽器配置が重なって見えてしまい、これまでの自分がいかに楽団員を搾取してきたか…ってことをまざまざと見せつけられたようで堪らずゲェ吐いてん☆ ってことでしょ。それ以外なくね。
まあ、この絵解きも大勢のブロガーが既に指摘してる“後追い”なのかもしらんが。

そんなわけで本作は、“ひとりの天才を描いた天才論についての映画”として、めいめい思いを馳せて頂きたい至高の一品でございます。
また、トッド・フィールドが寡作の大家となった記念碑的作品でもあらぁね。結局のところ、天才を描くには“天才を描く才能”が必要だから。
天才を描けるのって才人だけなのよ。
凡人の頭では天才の思考や生態はわからない。想像の及ぶ余地もない。だから世に溢れる“天才を扱った作品”を参照してはステレオタイプとしての天才像を引用する。だが才人の場合は、天才を“像”ではなく“人”として描破できる。天才の思考や生態を、理解こそできないが想像できるだけの余地を持ってるからだ。
なお、言うまでもなく天才自身は“天才を扱った作品”など作らない。天才を扱うことが天才への嫉妬と憧憬にほかならないからである。


オルガを溺愛するター。

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