シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ベネデッタ

ポール・バーホーベン最新作『どっこい修道女』!~バーホーベンを見ーテーヘン奴らにこそ捧げる駄弁、熱弁、バーホー弁~


2021年。ポール・バーホーベン監督。ヴィルジニー・エフィラ、ダフネ・パタキア、シャーロット・ランプリング。

17世紀、ペシアの町。聖母マリアと対話し奇蹟を起こすとされる少女ベネデッタは、6歳で出家してテアティノ修道院に入る。純粋無垢なまま成人した彼女は、修道院に逃げ込んできた若い女性バルトロメアを助け、秘密の関係を深めていく。そんな中、ベネデッタは聖痕を受けてイエスの花嫁になったとみなされ、新たな修道院長に就任。民衆から聖女と崇められ強大な権力を手にするが…。(映画.comより)


 やろ~~。集まりぃ~~~~。
普段使ってないスーパーマーケットで買い物をする時さぁ、レジで「袋くーださい!」と言うと「大と小がありますが」って言われるんやけど、スーパーのポリ袋って店によってサイズがまちまちで、小のわりに大みたいな顔してたり、大のくせに中みたいな顔をしてたりするため、通い慣れてない場合、そもそも標準サイズを知らねーのよ。
だから「大と小がありますが」とか言われても「知らな~」としか思わないアイドンノウ沙汰が巻き起こるわけ。そもそも袋のサイズ知らな~。サイズ知らないものを選択するこわみ~。
なんでポリ袋の岐路におれを立たすん。
そんなとき、おれはこう言います。
「入る方でお願いします」
そう言うと、すてきな店員さんだと「たぶん小でいけますよ。もし入らなかったら、また言ってください」と感じのいい対応をしてくれるのだけど、すてきじゃない店員さんだと「知らねーよ。サイズぐらい自分で決めろ。なんでぼくにチョイス権が回ってくるのよ。もし小を選んで入らなかった場合、その責任をおっ被るのはぼくでしょ! なんで責任が生じるかもしれない岐路にぼくを立たすん」みたいな顔をされてしまう。
このばかぁ!
そんなことでいいのかぁ! 曲がりなりにもスーパーマーケットの心臓部を司るレジ業務という名のぬくもりのエデン! おれたち客は今夜のごはんを買いに来てるんじゃない。お金と引き換えにぬくもりに触れようとスーパーを利用してるんだ! おまえもレジマスターなら、買い物カゴの中身から「これは大やな。小やとバッツバツなってパックの刻みねぎ落っこってまうわ」みたいに大小の判断ぐらいつくだろ。レジマスターの矜持はどこにいっちまったんや。サイズぐらい見繕え。庶民の生活を支えてるのは政治家じゃない。
おまえ!!!

何が言いたいかというと、おれはスーパーマーケットが大好きなのよ。それゆえに腹立つことも多いって話を今してるわけ。一生懸命に。
ポイントカードについても一家言あるね。
買い物カゴの商品をピッピしながら「ポイント使いますか?」と言ってくる店員さんよぉ。
「ポイント使いますか」はピッピ終了後に聞いてくれ。
スーパーで溜めたポイントなんて端数を値引くためだけの存在なんだから、合計金額も出てないうちに「ポイント使います? 何円値引きます?」なんてピッピしながら聞かれても…知らな~~~~。
合計金額次第やろ、そんなもん。
もし2039円だったら39円だけ値引くし、3116円だったら116円だけ値引くんだよ!!!
先ピッピ終わらせえ。
すぐれた店員さんの場合、ピッピ終了後に「端数の39円分だけ使われますか?」って提案してくれるのよね。質問ではなく提案。会話のラリーを減らせるという意味でもスマートだ。普段おれが行ってるスーパーでは「今月失効ポイントが40円分あるので引いときましょうか?」とも言ってくれる。さらなる上級接客術だ。
客が損しない方を提示してくれるっていうか、たとえるなら「損」と「得」の岐路に立たされてポケ~ッとしてるおれを導くかのように、「得」の方の街灯をパッと照らしてくれるのよ。その灯りを見たおれは「やったー!」ゆうて得ロードの方へと駆け出すわけ。ぶぅわ~走って。「ありがとー」ゆうて。

いろいろ文句を言っちゃったけど、スーパーの店員さんは、おれの「尊敬する人ランキング」で11年連続3位に輝いています。どうもおめでとうございました。
ちなみに2位は歯医者さん(何度も救ってもらいました。永久歯を逆から言うと救世主になるからね。ならんか。なってもええやろ)。そして栄えある1位は使役犬(牧羊犬や警察犬など、愚かな人間のために無償で働く動物各位のいじらしさが決め手となった)。

そんなわけで本日は…ポポゥ、ポウポウッ!ポール・バーホーベン! 『ベネデッタ』



◆猛毒のピックで“時代”を弾け◆

 自分の寿命を10年譲ってあげたいと思う映画作家が2人いる。ひとりはクリント・イーストウッド。もうひとりがポール・バーホーベンだ。
これでおれの寿命は−20年。大病を患ったりマッスルカーに轢かれたりしなければあと20~30年は生きられるだろう。その間に、おれが分けた寿命を使ってイーストウッドは6~8本の新作を撮るだろうし、バーホーベンも2~3本ぐらいは撮ってくれるはずだ。
それが観たい。
本当はデヴィッド・リンチにこそ寿命を譲りたいが、あいつは10年譲っても1本も撮らない可能性があるからな。自宅から天気予報を配信したりトランペットの練習で忙しいのだ。
おれが早死にする分には全然かまわないから、そのかわり1本でも多く遺作を遅らせたいと思えるのは(存命中の映画作家の中では)イーストウッドとバーホーベンだけ。

そんなポール・バーホーベンの最新作は、やれIMAXカメラだ、35ミリだ、ポリコレだ、フェミニズムだと、お行儀よく当世ナイズされた現代映画の彼岸を臨む此方で“何ひとつアップデートされない旧価値の暴力”を用いて映画を素っ裸にした野生の一撃である。
まるでラウド、ミクスチャー、オルタナティヴ系ロックの音圧戦争を横目に、無加工でプリミティブなギターサウンドを鳴らし続けるハードロックバンドのようぢゃあないか!
あ、言うの忘れてたわ。
今回は狂愛狂奔で“バーホー弁”を論じ続けるだけの回である。
ここで「なに言ってるか分かんない」ってなったらこの先はもっと分かんないだろうから、そっと画面を閉じてくれ。

誰もが知る『ロボコップ』(87年) 『トータル・リコール』(90年) 『氷の微笑』(92年) 『スターシップ・トゥルーパーズ』(97年) …。
劇薬映画ばかり手掛ける映画界きってのアウトサイダー。ゆえに好みが分かれるので、映画好きの中にも意外とバーホーベン映画を見ーテーヘンという連中はぽちぽち居るのかもしれない。
ポール・バーホーベンはオランダが生んだキング・オブ・ブラックユーモアである。
70~80年代にかけて祖国オランダで6本の映画を撮ったあと、渡米したバーホーベンは一躍ハリウッドの超ヒットメーカーとなるが、度を越した性描写・暴力表現・政治風刺・業界批判…と、あまりに過激な内容が物議を醸し、遂にはハリウッドから追放された異端児である。
まじ、物凄(ものすご)なのよ。
『ロボコップ』ではレーガン大統領のスター・ウォーズ計画や「これからソ連を核攻撃する」という冗談をパロディにしたり、劇中に出てくる巨大コングロマリット企業の会議の様子をユニヴァーサルの重役会議に重ねて“高級スーツを着たクソ野郎ども”と皮肉ってみたり、ナイトクラブ版の大奥を描いた『ショーガール』(95年) はゴールデンラズベリー賞(最低映画賞)で10部門ノミネートされ大ブーイングを受けながらも同賞史上初めて監督自らが笑顔でトロフィーを受け取り、ナチのプロパガンダ映画『意志の勝利』(34年) の軍国主義をおちょくった『スターシップ・トゥルーパーズ』は真珠湾攻撃を思わせる昆虫軍との全面戦争でレイティングを無視した人体欠損描写の大虐殺祭り。莫大な予算を使った『インビジブル』(00年) では透明人間になったケヴィン・ベーコンが意中の女性にさんざスケベした挙句ベーコンのウインナーが露出するなど、潤沢な資金を使って嫌がらせのような悪趣味映画を撮るという問題児ぶりを発揮。

ハリウッドをコケにすること。

これがバーホーベンのスーローガンだ。
そんなわけで、穏当にハリウッドから干されても「ザマァ味噌漬けっ。やってやったぜ!」と中指立てて爆笑しながら祖国オランダに帰るという無反省ぶり(もう海賊やん)で、6年後のオランダ凱旋作(もとい出戻り作)の『ブラックブック』(06年) が高評価されるもハリウッドには戻らず、さらに6年後の『ポール・ヴァーホーヴェン/トリック』(12年) ではプロのシナリオライターに最初の4ページだけ脚本を書いてもらい、その続きは一般公募した素人の脚本を混成一体化してバーホーベンがリライトするという前代未聞の制作体制が採られた。
余談。『トリック』はわずか52分(そのうち半分は監督インタビューに割かれてるので本編自体は30分弱)の作品だが、ファンにとっては相当おもしろい作品なので是非ご覧あそばされたい。始めこそインタビュアーに向かって「応募してくれたすべての脚本からいい部分だけを抜き取るよ。なるべく色んなアイデアを取り入れたいと思ってるからね。未来の脚本家に乾杯!」と鷹揚な態度で発言していたバーホーベンだったが、日夜膨大な量の脚本をチェック/リライトしてる内にムカムカしてきたのか、次第に応募者の脚本に対して「荒唐無稽で理不尽極まりない。なんの脈絡もなく暗殺者を登場させたり、家を吹き飛ばしたり…。こいつらバカか?」とか言い始めるの。
キレてるやん。 
そして仏 白 独合作の 『エル ELLE』(16年)
現代フランス映画の“影”を司る大女優イザベル・ユペールを主演に迎えた『エル ELLE』は、当ブログでも気合いたっぷりに扱った衝撃のレイプ映画。公開後『エル ELLE』フォロワーのB級映画が巷で濫造されるほどにはバーホーベンの完全復活を裏づけた記念碑的傑作である。

そんな『エル ELLE』から5年…。
満を持して放たれた『ベネデッタ』でも、83歳のバーホーベンは若く、鋭く、刺々しかった。重鎮ならではの深い音色などつゆ知らぬバーホーベンは、猛毒を塗りつけたピックで“時代”を弾きまくるかのように、甘い映画に飼い慣らされたわれわれと己自身の映画を厳しく撃つ。
ロックンロールの開幕だ!



◆「でけたっ!」やあらへんがな◆

 17世紀初頭のイタリア・ペーシャに実在した修道女の裁判記録を映画化した本作は、修道院に入った無垢なベネデッタ・カルリーニが院内で同性愛の味を知り、やがて持ち前の機知と人心掌握術で修道院長の座を簒奪し、果てはその影響力を危険視してベネデッタの火刑を命じた教皇大使を当時流行していたペスト禍を利用して逆火刑に処すまでのスーパー下剋上物語である。
そうね、演歌にするなら「どっこい修道女」とでも題したいところだな。まるで骨太マフィア映画のように、組織内で着々と力をつけ、あざとく立ち回り、仲間を出し抜き、トップにのし上がるまでの一代記。それでいてベネデッタを取り巻く修道院長や教皇大使らも腹に一物抱えた利己的な人物でピカレスクロマンとしての体裁も保っている。

死ぬほどおもしろいに決まってんじゃんかいさ~~~~。

見様によっちゃあ、これはゴールデンラズベリー賞で吊し上げられたナイトクラブ版大奥ともいえる『ショーガール』の四半世紀越しの逆襲。
なぜ『ショーガール』があれほど酷評されたのか、未だにおれは理解できない。別段すぐれた映画ではなかったが“特別おもしろい映画”ではあっただろうが!!
そんな、乳を振り回して下品に踊りまくる『ショーガール』の舞台を“厳格な修道院”に置き換えたのが本作なので、その劇薬ぶりに鑑賞前から心躍らせると同時に不安さえ感じた『ベネデッタ』

「全タブーに抵触してるんだろうなぁ」
「セックスシーン、すごいだろうなぁ」
「四肢もバラバラになるんだろうなぁ」
「ヘンテコな演出もあるんだろうなぁ」

安心されたい。これら“映画史上最も簡単な予想”はすべてその通りになる。

主演ヴィルジニー・エフィラ(左)と助演ダフネ・パタキア(右)に挟まれて破顔一笑のバーホーベン先生(一番かわいい)。

 修道院を舞台にした映画といえば、当ブログではコテンパンに酷評したデボラ・カー主演の 『黒水仙』(47年) とオードリー・ヘップバーンの『尼僧物語』(59年) が二大巨頭だろうか。まあ、広く一般に通じるのは『天使にラブ・ソングを…』(92年) だろうけど、それは違うのよ。ここで言ってる修道院モノはそういうこっちゃない。
ドロッドロの女道ね。
女であることを利用し、女であるがゆえに利用され…って話。もう藤圭子の世界ですよ。そういう狭義の“女の映画”。すべての道は『イヴの総て』(50年) に通ず。日本でいえば溝口健二の『西鶴一代女』(52年) かね。
その系譜の最新作が『ベネデッタ』です。

 主演のベネデッタ役はヴィルジニー・エフィラ
『エル ELLE』にも端役で出演した、ほぼ無名の女優だ。
バーホーベンって顔選びに長けた作家で、とりわけ弱い顔(=売れなさそうな顔)にあえて主役を与えるタイプだけど、本作のヴィルジニー・エフィラは過去作の中でもダントツで弱い。鑑賞した4日後には「どんな顔やったっけ…」ってなるほど弱い。
そんな彼女を、なぜ主演に選んだか?
身体よね。
バーホーベン映画で主演を張るということは取りも直さずヌードも濡れ場も辞さぬ、ということ。その点、ヴィルジニー・エフィラは素晴らしかった。
彼女が演じたベネデッタは、“聖母マリアと対話しうる奇跡の女”という設定であり、自らが庇護し、のちに肉体関係を持つようになる家出少女のバルトロメア(演:ダフネ・パタキア)にとっての女神であることから、聖母マリアを崇拝していたベネデッタが、のちにバルトロメアにとってのマリア(聖母)になるというシナリオ上の動線が敷かれているため、そのベネデッタの主演には“絵画や彫刻でお馴染みの(ルネサンス期に描かれた)聖母マリア像のふくよかな四肢”を持つ女優しか務まらないわけである。
そこへさしてヴィルジニー・エフィラのなんと説得的な肉体。祝福さるべき説得ボディ! この無名女優をベネデッタ役に抜擢したバーホーベンの感性をこそ祝福したい気分ョ。
ちなみにバーホーベン映画にとっての肉体とは、快楽に喜び、切り刻まれ、焼かれ、切断され、蘇生するものである。
ぜんぶ詰まってたわ。

イエス・キリストが受難で付いた聖痕を追体験する描写が繰り返されるたび、おれは「考えてみりゃ、バーホーベンと聖書の親和性ってこんなによかったんだな」と目から鱗だった。
だってさ、ある日突然、謎の被ダメで手足の甲にボッコォ~風穴あいて出血すんねんで? バーホーベンにしてみれば因果律をすっ飛ばして暴力表現ができるステキな題材にほかならねーのよ。ノーモーションで「ぎゃああああ!」が出来るんだから。
あと“夢”も有効ね。
本作でも“ベネデッタがうなされる悪夢”を免罪符に、無因果律のエログロをやって一人で楽しんでたしな、バーホー爺さん。ファーストシーンに出てきた傭兵が斬首された挙句、ベネデッタが服を剥かれて乳ブリ~ンなって…。
“そこに至るまでの経緯”をぜんぶすっ飛ばせるのが夢と聖書。


惹かれ合うベネデッタ(右)とバルトロメア(左)。

132分、最初から最後まで不断におもしろい映画だが、おれのお気に入りはディルド制作荊冠ミステリになってくるわな~~~~。
若くて美しいバルトロメアと、肉欲に溺れゆくベネデッタの性愛描写はカトリック団体の逆鱗に触れ、アメリカでは抗議デモがおこなわれ、ロシアやシンガポールでは上映禁止措置がとられたほど。
バルトロメアは“指が奥まで届かない”せいでベネデッタを満足させられないことに悩んだ挙句、木製のマリア像をナイフで削ってディルドに大変身させてしまう。しかも、そのマリア像はベネデッタが修道院に入るときに持ち込んだ思い出の品であり、心の拠り所。
それを勝手に削ってディルド作った。
そらカトリック団体も怒らはるわ。
すこし可笑しかったのは、ディルドを渡されたベネデッタ。怒るどころか「おー。ええ出来やん。綺麗~に削られたある」つってまっすぐ感心してんの。でも、そのあとベネデッタが「あっ。バルちゃん、ここ見てみ? よう見たらここ、一本だけ細かい棘あるやん。あっぶー。いま気付いてよかった」と指摘すると、ディルド職人バルトロメア、「うわ、ホンマやなぁ。堪忍堪忍。すぐ微調整するから待っとき」ゆうて、しゅっ、しゅっ。再びナイフを入れて棘を排除。今度という今度こそディルドをつるつるにした。

「でけたっ!」

「でけたっ!」やあらへん。

「でけたっ!」やあらへんがな。バルちゃん。
むしろ出来たらあかんのよ、こんなもん。
微調整すな。
“元マリア像=現ディルドのエッチな木の棒”作って「ふぅ…。ええ仕事した」みたいな顔すな。
そんなバルトロメア特製ディルドを使って心ゆくまでセックスする二人…。
だが、のちにこのディルドが二人の運命を変える鍵(ていうか棒?)になるとはマリア像でも想像しなかっただろう(マリア像がディルドにされて、今度はそのディルドが物語の鍵になるっていうね)。
※ちなみに本作のクライマックスは、原作のノンフィクション小説に反して“ベネデッタが火刑に処される”という展開に翻案されているが、時代考証によれば「同性愛による死刑は『器具』を使用して性行為をおこなった場合」という基準があったために、あえてディルドを登場させたらしい(つまりただのエロ描写の為の道具ではない)。

以上が“ディルド制作”のおもしろみ。
次は“荊冠ミステリ”ね。
ある日、急に聖痕が表れたことで神の子と目されたベネデッタは瞬く間にフェリシタ修道院長(演:シャーロット・ランプリング)から院長の座を奪うが、シスター界隈には「ホンマなんかなぁ?」と訝る者もおり、「ベネデッタはガチ」という擁護派と「インチキでしょ、あんな女」というアンチ勢のフィフティー・フィフティー。
そんな折、第二の聖痕が表れた。キリストの荊冠だ。ベネデッタの額は血まみれになり、擁護派は鼻高々。「インチキでしょ」と唾棄していたアンチ勢が掌返しで「ごめんや~ん」と意見を変えたことで、擁護派は大量の新規ファンを獲得し、形勢有利。
ところが、聖痕事件PartⅡの際、ベネデッタの傍らに陶器の欠片が落ちていたのを見つけたフェリシタの娘クリスティナ(演:ルイーズ・シュヴィヨット)だけが、母から修道院長の座を奪ったベネデッタを糾弾する。

聖痕なんて茶番!

単なる自傷行為!
自演自作!
マッチポンプ!
ベネデッタは嘘つき!
佐村河内は耳聞こえる!
麻原彰晃は空飛べへん!

そう。ベネデッタに聖痕が表れたのはいつも第三者のいない状況下であった。つまり所詮は自己申告。カメラも聖痕が表れる直接的瞬間は捉えていない。
反面、嘘をついてるにしては不自然な言動も散見されるので、ふと気づいた頃にゃあ観る者は「どっち?」の二股道に立たされるわけよ。
果たしてベネデッタの身に起きたことは奇跡か、狂言か?

火刑に処されるベネデッタ。

◆バーホーベンは優しい作家◆

 『エル ELLE』同様にさまざまな角度から楽しめる、ふくよかな物語造形を持った本作。
言外のテクストも満載で、盗賊でさえ民から巻き上げなかった金をフェリシタ修道院長は「ウチに入りたきゃ持参金100オキュだわよ」と要求したり、ランベール・ウィルソン演じる教皇大使の傍に立つ召使が思いっきり妊娠していたりと「…ってことは?」のシニカルがそこかしこで暗示されている。
そういった小技を通して、男権社会やカトリック教会をさらりと風刺するバーホーベンの“人の刺し方”には過去最高級のキレがあった。
おれさぁ、風刺とか批判とか皮肉が込められた映画が大好物なんだけど、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』(78年) みたいに「物質文明の象徴たるショッピングモールに籠城して店内の商品を際限なく消費しながら防衛線を張る主人公たちこそ欲望のままにモールに集うゾンビ(=現代人)そのものだ!」って口角泡を飛ばしながら力強く描いた演説型よりも、もう少しさりげない…、アイロニカルに人を刺すスタイルをこそ好むのね(『ゾンビ』も好きだけど)
バーホーベンって後者なのよ。
塔の上に立って「みんな、目を覚ませ! 何もかも欺瞞だ~!」って旗振りもってガンガン警鐘を鳴らすタイプではなく、例えばそうね…、散歩中にたまたま自分の動線上にいた目障りな奴を「はい邪魔、邪魔。おまえも邪魔」つって婆さんも子供も関係なくタコ焼きピックでぶすぶす刺して回る感じね。
大義名分もなく、ただ“気に入らないから”ってだけで刺して回る…だから通り魔ですよ、やってること。
その体質が最もよく表れたのが本作。つまりピカレスクロマン(全員カス)。大筋とは関係ないところで「こいつ腐せるな」と思ったキャラクターを悪しざまに描いて…。
“ついで刺し”がすごいのよ。
だから本作のキャラクターって、たぶん一人残らずとばっちり受けてるんじゃないかな。バルトロメアが処罰される場面は見てられなかったけどね。ドン引きされるから詳しくは書かないけど、「苦悩の梨」っていう拷問危惧でね…。
思い出したくもない映画のシーンがまたひとつ増えました。
バーホーベン、会ったらしばく。
絶対しばこ。

ダフネ・パタキア演じるバルトロメア。

映画の話はあまり出来ないな。
特定のシーンやショットで使われた映画術を具体的に解説してもいいんだけど、“それが評論として機能しない映画”というのも多く存在するし、ことにバーホーベンなんてその筆頭。
この男の映画術は紐解けば紐解くほど矮小化され、その批評言語は口にした端から陳腐な響きとして伝わってしまう。
“ショットを撮らない”のよ。
バーホーベンって。
いや、本当は撮ってんねんで? 本当は撮ってるんだけど「撮ってないよ。ていうかショットってなに?」ってトボけ続けるんだよなぁ、あの爺さん。下品なメタルバンドが決してコードの秘密を明かさないように、なんか“低俗映画で業界を挑発するアウトサイダー”を演じてるのよ。
だからバーホーベン映画って、豚骨ラーメンの味がするのに後味さっぱりなんである。つるっと見れちゃうんである。言い方は悪いがテレビドラマみたいにするする見れちゃうんである(だからこそ“観れない”んだけどね)

たとえば本作でも充実した視線劇。
周囲から疑いの目を向けられるなか、ベネデッタとバルトロメアは赤外線センサーを搔い潜るような紙一重の目配せで口裏を合わせたり、逆にフェリシタの眼の意図を読み損なったために娘クリスティナが告発の席で墓穴を掘ったりと、非常にスリリングな演出の一助になっているのだけど、こうした視線劇を組織するショットの主役は…じつは目じゃなくて表情。
バーホーベンは目より表情を撮ってる。
前院長のフェリシタは「あかんで、クリスティナ!」って目をしてるんだけど、それ以上に「あかんで、クリスティナ!」って表情をしてんのよ。
つまり二重説明。
たとえ視線劇を見落としたとしても、なんの問題もなく“視線劇で伝えようとしたこと”が観客に伝わるのよ。
バーホーベンは“観る者”ではなく“観客”に向かって物語を伝える、実に心やさしい作家である。
だいたい「視線劇」なんて、映画を観ない一般層には聞き馴染みさえない概念だし、おそらく被写体の視線を追うことが極上のサスペンスであることだって知らねーよ。だからその受け皿としての“表情”で裾野を広げる。裾野を広げたからこそ、一時期はハリウッドのヒットメーカーたりえた。
かといって一般層に阿っているわけでは断じてない。単にラフなんだろうね。ポール・バーホーベンはラフな作家。いわば、部屋着みたいな恰好でぶらっと散歩する作家よ。
ほんで散歩中に目障りなヤツがいたらコ焼きピックでぶすぶす刺す作家。

そろそろ評を終えるけど、悔しいなぁ、言い残したことも沢山あるなぁ…。
夜空の彗星で修道院前の広場が真っ赤に染まるシーンなんか50年代ハリウッドの歴史スペクタクルに出てくる書割りみたいにわざとらしくて、その“ドラマチックだけど作り物めいてる感じ”がこの物語の虚偽性っていうか「しょせん映画だよ、こんなの。いちいち真に受けんな」と言ってるようで、改めて本作のリアリティラインがファジーに濁されてることを再認識させる“メタ演劇”としてめっぽう楽しい舞台装置たりえていた、とか。

彗星で真っ赤。

あとフェリシタ修道院長を演じたシャーロット・ランプリングに関しては、そろそろここらで言及しておかねばバチが当たるでしょう。
もう…筆舌に尽くしがたい助演ぶり。
修道院長の地位を追われ、娘クリスティナが目の前で〇〇した上、ペストに罹患した挙句、死なばもろともの精神で迎えたラストシーンの凄絶さ…。
スクリーンに映っていたのは“修道女としてのフェリシタ”ではなく、“母としてのフェリシタ”でもなく、いわんや“女としてのフェリシタ”でもなく…シャーロット・ランプリングでした。
最初期の代表作『地獄に堕ちた勇者ども』(69年) からの女優人生50年を込めた、超特大の“かめはめ波”よ。
もう締めに入る時間なので詳しくは別の機会に譲るけど、あまりの凄まじさに血の気が引いた。なんかもう…呪物人形みたいな顔してたし。

そんなこって『ベネデッタ』
ええ、傑作です。
※映画としての傑作性というよりは「ガッハッハ。こりゃ傑作だ!」の傑作性におけるニュアンスとしての「傑作」として捉えて丁髷プリン。

シャーロット・ランプリング(四捨五入したら、もう呪物人形)。

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