シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

愛にイナズマ

松岡茉優というイナズマに打たれる。


2023年。石井裕也監督。松岡茉優、窪田正孝、佐藤浩市、池松壮亮。

松岡茉優が映画撮る。


 年始早々、知人と音楽の話をしてるとき、キリンの一番搾りをしこたま飲んだ私は不覚にも楽しくなってしまい、得意な対義語を使って、おもんないギャグをいっぱい言ってしまったのです。
知人も知人で、逐一反応してくれるもんだから、輪をかけて楽しくなった私、おもんない対義語ギャグをもっといっぱい言いました。楽しかったです。
そんなわけで本日の前置きを思いつかない私は、その時にいっぱい言った対義語ギャグを思い出せるかぎり思い出して、書けるかぎり書いて、これをもって私から皆さんへのお年玉としたいわけであります。2024年を飾るにふさわしい、わたくしの名ジョークです。自分としてはくだらなさが逆におもしろいんだけど、知人いわく全くもってくだらないらしいです。さびし~。
対義語を言ってる方が私で、対義語を正してる方が知人です。名前を表記したり色分けなどで「ああ、こっちがふかちゃんで、こっちが知人さんかぁ」って分かってもらいやすくする工夫はしません。面倒臭いです。

「90年代って実に名曲が多かったよなぁー」
「たしかに。今でも第一線で活躍してる人が多いよね。福山雅治とか」
「ああ、『孤独になろうよ』の?」
「逆や。吹石一恵と家族になることで孤独を回避した人や」
「そのあと『裸族になろうよ』ゆうて」
「まあ、案外裸族かもしれんな」
「あと、結婚式ソングで有名な、ほら…2人組の。メートルルとかさ」
「結婚式ソングで有名なメートルル?」
ミリリかな? メートルルじゃなかった?」
「単位間違うとる。キロロや」
「キロロか~。『短い距離』を代表曲にもつ女性2人組ね」
『長い間』や」
「あ、『長い間』か。5キロロの渋滞ってこと?」
「キロロってkmのことじゃないのよ」
「渋滞は?」
「渋滞もしない。むしろすいてるやろ、バージンロードは」
「バージンロードって?」
「なんでわからへんねん」
「あとアイドルも流行ったよなぁ~。ミッドナイト小僧とか」
モーニング娘のこと?」
『労働ストライキ24時』だっけ」
「プロレタリアすごぉ。『恋愛レボリューション21』ね」
「あと、女性ソロシンガーでいえば岸崎はしり! 文字通り、ギャル文化の走りでもあったよねぇ」
「それ浜崎あゆみやろ。あゆんでる女を走らすな」
「めっちゃ売れたよな。『W』とか」
『M』や。いよいよ意味だけにとどまらず文字まで逆さにするの?」
「ああ、あれMか。ワリオのWじゃないの」
「マリアのMでしょ」
「これが本当の『Wの悲劇』やな。毒師丸せま子の」
薬師丸ひろ子ね。薬師丸の体積を狭くすな。あと毒の達人みたいにすな」
「体積って?」
「なんでわからへんねん」
「でもおれは浜崎あゆみより相川七瀬みたいなロック色の濃い方が好みだな~。未だに聴くからね。『現実と折り合いをつける少年でいられる』とか」
『夢見る少女じゃいられない』の逆って『現実と折り合いをつける少年でいられる』なん?」
「あと、実力派でいえば『吸い込むように…』シーシャやな」
「包み込んだれや。MISIA『つつみ込むように...』やろ」
「じゃあMISIAがシーシャを吸い込んだ場合の曲名は?」
「MISIAがシーシャを吸い込んだ場合の曲なんてMISIAは書かへんねん」
「どういうこと」
「なんでわからへんねん」
「それにつけてもさぁ? 2000年代になると男性デュオが台頭してきたよね。デコポンとか」
「デコポン…?」
「デコポンの『おっすトラック』やったかいな」
ゆず『サヨナラバス』やろ」
「あと『この日』とか」
『いつか』や。日程決めないよ? あの曲」
「男性デュオでいえばワンパックも人気やったよな。近年スキャンダルでだめになったけど」
「ワンパック…? 誰やろ」
「なんで知らんねん。ヒット曲の多いワンパックやん。『どこにでも生え散らかす草』とか」
「それってコブクロ『ここにしか咲かない花』~! コブクロの対義語がワンパックはムズすぎるて」
「だって、小袋としてのコブクロ…」
「小袋としてのコブクロじゃなくて、小渕と黒田でコブクロなのよ」
「……え?」
「なんでわからへんねん」
「あと『何も起きない』とか」
「何も起きない?」
「これはさすがにわからんか。ケミストリーやん」
「わかるかあ。ケミストリーの逆を『何も起きない』とすなよ」
「あとさ~、おれらが中学のとき『青いベンチ』って流行ったよなぁ? 2人組の、ほら…ナルトやっけ?」
「惜しい。サスケな」
「ナルトの『青いサスケ』?」
「ナル…、サスケの『青いベンチ』や」
「じゃあナルトは?」
「ナルトは入ってへん」
「ナルトが入ってない『青いラーメン』ってこと?」
「もうそれでええよ」
「ナルトが入ってない『青いラーメン』をベンチで食べるサスケってことか~」
「もうそれでええよ」
「それにしても昨年はミュージシャンの訃報が多かったな。『KANは勝つ』で有名なとか」
「互い違いなっとる。KAN『愛は勝つ』や。アイ(AI)は別におる。『君が笑えば この世界中に もっともっと 幸せが広がる~』ゆうて説いとるよ」
「ああ、あの曲がアイなん!? 今まで『エーアイ』って読んでたわ」
「AIのこと人工知能と思ってたん?」
「AIのこと人工知能と思ってた…」
「どんなStoryやねん」
「あとね、あとね。おれも聴いてたミッシェル・ガン・エレファントのサイタマ ユウスケも去年亡くならはったな」
「惜しい、隣の県。チバ ユウスケね」
「おれは見てなかったけど、こないだの紅白で10キロロがチバさん追悼の絶叫をしたんやってな」
「だから単位が違う。10-FEETやろ」
「あと、訃報とは関係ないけど、思春期にいちばんお世話になったのはエロ動画やね」
「語弊ありすぎるぞ、その発言」
「名曲『蛾』ね。当時は3人組やったけど、エロ動画『蛾』
「これはひどい。ポルノグラフィティ『アゲハ蝶』やろ。雑すぎるて。飽きたんか?」
「岩手…あ間違えた。あきた(秋田)」


はい、ありがとう♡
前から思ってたけど、面白ささえかなぐり捨てれば会話形式の前置きってむちゃむちゃ書きやすいな。サーッと書けたわ。話したことを書き起こせばいいだけやからな。
でも、このタイミングで、八代亜紀ちゃん…(この前置きは1月1日に書いたものです)
そんなわけで本日は『愛にイナズマ』。後半ぐちゃぐちゃです。


◆イナズマ3発 ~手足ビリリの巻~◆

石井裕也は『舟を編む』(13年) で各賞を席巻してからメジャー路線に乗るまでの初期~中期は好きだった。
どうしようもないダメ人間が泥にまみれてもがく裸形性の輝きと、そこから発せられる土臭いセリフの妙な切れ味。たとえば、そろそろ他の近年の作品に代表作が取って代わられそうな『川の底からこんにちは』(09年) で満島ひかりが風呂あがりにビールを飲みながら父親に向かって言った「どうせ私なんて大した人間じゃないからさ。だから頑張るよっ」。あるいは『あぜ道のダンディ』(11年) の光石研がゲームセンターでエンコー女に説教をかましたあと、締めに「ドーンと大志を抱いて…飛べ! メス豚!! 飛べ!!!」と絶叫した愛のエール。
超低予算の初期作『ガール・スパークス』(07年) 『君と歩こう』(09年) も生硬ながら激情ほとばしる好調作だったが、妊婦の仲里依紗が下町で繰り広げるオフビート人情劇『ハラがコレなんで』(11年) が最後の“石井節”となってしまい、以降は豪華キャストでおぼろげなホームドラマを描いた『ぼくたちの家族』(14年) 、詩集を映像化した雰囲気全振り単館系『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(17年) 、少女漫画を実写化した外部発注まるだし案件『町田くんの世界』(19年) などを手掛ける“職業監督”となり、あの飛びぬけて個性的だった石井節は鳴りを潜めた。
その後も4本の映画を撮っているが、おれの中では『ぼくたちの家族』、『夜空はいつでも~』、『町田くんの世界』でスリーアウトなので以降の作品は追ってない。

そんな裏切りのおれが本作を観た理由は、やたら沢山ある。
一にタイトル。『愛にイナズマ』の格好よさ。この言語感覚。「愛とイナズマ」ではなく「愛にイナズマ」。この「に」の感覚ね。これだけで石井節が帰ってきたとわかる。おれの脳天にイナズマ一発。
二に主演が松岡茉優であること。『蜜蜂と遠雷』(19年) 以来4年ぶりとなる主演作だ。この4年の間にわけのわからない若手女優(という名のなんの個性も才能も持たないベルトコンベアで粗製乱造されたような新人タレント)がぽこぽこ湧いたが、それらを一太刀で薙ぎ払ってくれると予め約束されたような“王手”のキャスティングに二発目のイナズマが落ちた。
三に主題歌がエレファントカシマシの「ココロのままに」であること。1998年の18thシングル「夢のかけら」に収録されたカップリング曲である。「夢のかけら」自体が、かの有名な「今宵の月のように」と「風に吹かれて」で売れ切ったあとにリリースされたこともあってか、もうひとつパッとしないシングルだったが、そのカップリング曲たる「ココロのままに」を主題歌にするという、この二重苦。勇気の選曲ね。
三発もイナズマが落ちて、おれの手足は、いま動かん。

自分の家族をモチーフにした作品で長編映画デビューを狙っていた映像クリエイターの松岡茉優は、権威主義のプロデューサー(MEGUMI)と伝統主義の助監督(三浦貴大)に楯突き、長年の夢だった初監督のチャンスを奪われてしまう。
バーで出会った不思議な恋人・窪田正孝は、茉優の顔を覗き込みながら「夢を諦めるんですか?」と問うた。
「舐められたままで終われるか!
負けませんよ、私は」
カメラと正孝を携えて故郷に帰った彼女は、十年も音信不通だった父・佐藤浩市と、長男の池松壮亮、次男の若葉竜也を招集し、幼少期に失踪した母の真相をめぐるドキュメンタリーを撮らんとカメラを回した。
いま始まる! 映画撮影娘の逆襲! 夢を奪われ、金も尽きた女が辿り着いたは余命幾ばくもない父の実家。ぶっ壊れたカメラでぶっ壊れた家族を撮って、ぶっ壊れた人生を立て直す!
父よ! ふたりの兄よ、そこに直れ!
喋れ! 母は今どこで何をしているのか!
佐藤浩市よ!
なぜそんなにも毛量が多いのか!
母の真相をめぐる家族会議は罵倒と怒号で堂々めぐり!

ま、そんな映画です。

 

◆いとしのレイラやん◆

 インディーズ感あふれる『愛にイナズマ』は、140分の中にあれこれ詰め込まれていた複合的大作であった。
映画前半では、東京の真ん中でデビュー作の構想を練る松岡茉優が助監督との衝突や窪田正孝との出会いを通して夢に邁進する姿が描かれたかと思えば、驚くべきあっけなさで夢を潰された映画後半では父の住む田舎にふたりの兄を集めて自主制作のドキュメンタリー映画を撮ろうとするのだが、次第に物語は“映画の制作”から“家族の再生”にフォーカスしていく…。
結局、この主人公は商業映画が撮りたいのか自主映画が撮りたいのか。第一どういう映画観を持ってるのかさえ見えてこない。そして本作自体がホームドラマを描きながらラブストーリーも描くことのシナリオ的な収まりの悪さ。
あまつさえ物語の舞台はコロナ禍の現代日本。窪田正孝はアベノマスクの愛用者であり、バーのマスターは給付金でシャンデリアを買う。

なんとも多面的というか、悪くいえば散漫で不格好な映画ではある。
恋人(窪田正孝)の存在と東京で夢破れる前半部は丸ごといらない気もするが、ここにこそ石井節が担保されてるので、この2つがないとほぼ『ぼくたちの家族』になってしまう…という妙なもどかしさを、おれはどうしよう?
まるで歪んだジェンガだ。
すべてのブロックが全体のバランスを支えてるから、どこを抜いても倒壊しかねない。されど“それはそれとしての美学”もあるのよねぇ。

「いとしのレイラ」やん。

デレク・アンド・ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」のオリジナルバージョンやんけ、こんなもん。エリック・クラプトンのリフとシャウト格好いい、でお馴染みのロックの殿堂ナンバーやん。
誰もが知ってるシングル版は2分43秒にまとまってるけど、実はアルバム版では曲が終わったあともピアノコーダが続いて7分を超えるのよ。ピアノコーダだけで4分以上あるわけ。どえらい事しとる。本編よりエンドロールの方が長い映画みたいでしょ?
まさに「いとしのレイラ」「つづきのピアノ」。別々の曲を1曲のなかで無理やり合体させたような変態構成なのよ。だから歌謡文化に根差した日本人はシングル版を好む。「ピアノコーダいらん。辛抱たまらん!」ゆうて。
でも「いとしのレイラ」をレイラたらしめてるのは「つづきのピアノ」あってこそなのだ。
それと同じことが『愛にイナズマ』にも言えるわけ。恋人と出会い、東京で夢破れる“動的な前半”が「いとしのレイラ」だとすれば、帰省先で壊れた家族の絆を修復する“静的な後半”は「つづきのピアノ」。


「いとしのレイラ」

 ただ、個人的には“贅沢Wテーマ両方やっちゃう”とか“前後編で分断される大極図シナリオ”みたいなハーフ&ハーフ仕様の映画って好みじゃなくて。『ザリガニの鳴くところ』(22年) 『ローズの秘密の頁』(18年) 評でも言ってますけど。
「いとしのレイラ」のオリジナルバージョンも嫌いですよ、だから。
松岡茉優の力を以ってしてもこの主人公の魅力は最後までわからなかったし、映画が“家族の再生”にフォーカスするにしたがって物語的牽引力を失った窪田正孝が「俺いらんやん…」って、どんどん寄る辺ない顔つきになっていくさまが居た堪れなかった。
まあ、消えた母の真相を追うドキュメンタリーとは名ばかりの罵詈雑言の家族会議が開かれる後半部は『台風家族』(19年) が派手に失敗したシットコムをうまくやっていたけども。ロマン・ポランスキーの『おとなのけんか』(11年) 風というかね。



以下、雑感。
映画館のどでかスクリーンで観る現代日本映画ってやっぱりキツいものがあって、ロケ力の弱さが如実に露呈するよね。
ギブアップ寸前のテトリスみたいにガチャガチャした汚ったねえ街並みと、水彩画にした場合あの温厚な柴崎春通でさえ怒り出しそうな大マヌケな自然。
げんなりする。
まあ、石井裕也に風景に対する美的感覚など求めるべくもないのだけど、それにしても現代日本映画はひどいですよ。山下敦弘も原田眞人も度し難い。黒沢清なんかは“東京のブスさ”にちゃんと危機感を覚えてて、あえてそこがどこでもない場所かのように無国籍的なフレーバーで“映画の地理”を被覆しているが。

あと今作は中途半端な出来でもありました。
初期の石井作品がロックンロールだった所以は言語的饒舌と映画的沈黙
僕はカメラより言葉で伝える方が得意です、とばかりに映像言語で伝えねばならないことを逐一セリフにしてしまうのだが、その語彙や言い回しがあまりに珠玉すぎるために言葉が映画を置き去りにするというか…、二次表現が一次表現を食い殺す現象が起きてて。こりゃあ歌詞やパフォーマンスがしばしば演奏を超えるロックンロールだなと。スーパー大好きだった。
これが“言語的沈黙と映画的饒舌”に逆転したのは『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』以降だろうか。括弧付きで言うところの「映像詩」をこじらせた季節。おれが石井作品に見切りをつけた頃だ。
『愛にイナズマ』はその中庸。
これまで言語と映画は100:0で配分されていたのに、本作は言語50:映画50と、ほどよく自身のイズムを出しながらも興行面/批評面での成功も狙いにいった印象を受けたのだけど、おれが好むのはすさまじいホームランかどエラい三振であって、「おーおー」ってなる普通のヒットは別にいらん。

たとえば
企画会議の席で松岡茉優は言う。赤いものが好きなんです。昔から赤が好きなんです。だから映画の中にも赤を入れたくて。
実際、本作には赤いモチーフが頻出する。小道具、衣装、照明、自転車。果ては血。
ほとんどすべてのショットのどこかには赤が紛れ込んでいて「映画してるなー」と思うのだけど、同時に「石井自身も『映画してるなー』と思いながら撮ってんだろうなー」とも思ってしまって。
言い方は悪いけど“映画ごっこ”っていうか…、ああ、言い方悪いな。ごめんウソウソ。なんというかファッションにおける差し色に見えてしまったの。映画においちゃあ、色は“差すもの”ではなく“入れるもの”。後期小津とゴダールがわかりよい。

 

◆俺ドリーズーム◆

 前章ではずいぶん手厳しい書き方をしたが、だからといって人が『愛にイナズマ』を見なくともよい理由にはなりませんよ。
なんといっても、真っ赤な照明のバーで窪田と見つめ合う松岡のアップショットが値打ちもの。
これは“初めて観た”ね。
不肖ふかづめ。曲がりなりにも映画史130年の歴史を独学研鑚し、その軌跡の上に煌めくエポックメーキング的作品も一通り観てきたから、今さら本気で感動したり度肝を抜かれる映画体験など滅多に訪れない達観モードに入って久しいが、それゆえのプラセボ効果か、このアップショットのすごさには眩暈を禁じえなかった。あと少しで失神していたかもしれない。
わかりやすく「眩暈」なんて言い方をしてみたが、正確にはもっとサイケデリックな酩酊感覚というか…。若者がサメに食われた瞬間をビーチから目撃したときの『ジョーズ』(75年) のロイ・シャイダーみたいにギュ~~ンってドリーズームが掛かったような錯覚をおぼえたのよ。俺にね? 俺にドリーズームが掛かったみたいな。文字通り前後不覚。俺ドリーズームよ。本当に思ったからね。「おれ今なんか『ジョーズ』でビーチでドリーズームのロイ・シャイダーみたーい」って。

申し訳ないが、原理も理由もわからんから“何がどうすごいか”という話はできそうもない。だからごめんな。
でも“映画に頭ぶっ叩かれた直後”なんてこんなもんだろ?
「これなにー?」ゆうてフラフラしてんねんから。アホやから。『2001年宇宙の旅』(68年) に感動した奴らは“何がすごくてどう感動したか?”の言葉なんて持ってねえよ。かろうじて言葉が出てきたとて「これなにー?」なのよ。この一社提供なのよ。
それで言うなら、おれの一社提供ワードは「松岡茉優しゅごい~」になるかもわからないね。おれ、映画館の座席でロイ・シャイダーになりながら「松岡茉優しゅごい~」って呪詛のごとく呟いてたわ。
※この場合「松岡」は「まちゅおか」と発音されたい。
もうね、わけのわからない顔をしていたよね、彼女。その面力(つらりょく)に圧倒されるあまり、彼女の顔がスクリーンから浮かび上がったような錯覚さえ抱いて、酩酊感覚に拍車が掛かったのよ。もう天然3Dっていうか…、本来2Dなんだけどこっちの気の持ちようで映像が浮かび上がってくる自力3D映画みたいな。

自分でも何を言ってるかなんてとっくに分からんよ。なんせ久方ぶりの“初めての映画体験”が鮮烈すぎて。なんならあのアップショットのあと気持ち悪くなったもん。まるで数ヶ月ぶりに大酒飲んだような。
松岡茉優は阿修羅のごとき女優である。
同時にこうも考えるんだけど、松岡茉優の修羅性って“観ぬ者”にとっては「いい女優だよねー」ぐらいにしか感じないんだろうなって。一定のすごさを越えた表現者って、もう「すごい」とさえ思ってもらえなくなるからね。
テレビ番組とかに出てる松岡茉優はまったく好きじゃないけど、こと銀幕においては「天才」でも「名女優」でもなくて、もう危険分子ですよ、ただの。
無言のアップに堪えるどころか、そのアップを1秒重ねるごとに、原節子。はいダメー! 田中絹代。はいダメ~! 京マチ子。はいダメェェ!って、遥けき追憶の日本映画史すら消し去りそうな鬼気迫る貌でスクリーンを覆い尽くしていた彼女のアップに、密かにおれは“その危険性”に身震いしながら、松岡茉優というイナズマに打たれたのでありました。
結局のところ『俺にイナズマ』だったわけね。おっけおっけ。


(C)2023「愛にイナズマ」製作委員会