シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

愛情萬歳

いま台北の夜に解き放つ! 孤独な男女三人のニアミス群像スイカぶっ壊し映画! ~笑いどころ多々あり。台湾にミンリャンあり~


1994年。ツァイ・ミンリャン監督。リー・カンション、チェン・チャオロン、ヤン・クイメイ。

不思議の3人が孤独の都会で出会い、すれ違い、鉢合わせする中身。


やるで~、集まり~。
おれがよく行くコンビニエンスにはトゥンくんという、おそらく留学生であろう外国人の男の子が働いている。
トゥンくん。なんて素敵な名前なんだろ。
おれはトゥンのことが基本的には好きだ。だってトゥンくんって、すぐおれのことに気づいて「どうぞー」って言ってくれるし、弁当とか見て、すぐ「温めますか?」って言ってくれるし。そしたら、おれは「あっためて~」と言うのです。仕事の合間だから。休憩中だから。すぐ食べるから。
そしたら、トゥンくん、すぐ「お箸要りますか?」って聞いてくれます。

要るやろ。
たいがい要るやろ。
客が弁当の温めを要求したってことは、このあとすぐ食うことの傍証ですやん。つまり出先で食うことの証左ですやん。そしたら箸は要るやろ。高確率で。
まあ、コンビニから徒歩数分圏内に住んでる奴とかなら、コンビニで弁当を温めてもらって家で食うかもしれないし、その場合においては「箸はいりません」と答える可能性も十分考えられるが、そのコンビニエンスは京都最大の商店街の中にある。四条のド真ん中や。徒歩数分圏内に住んでる可能性の方が低いやろ。おれが。普通に考えて。
したがって、店員サイドからすれば「この客、温めを要求してきたってことは、このあとその辺でサッと食うつもりなんやろな。てことは割箸は必須、必携、必需。どれ、一膳つけといたろかいな」と推し量るのが自然な思考回路だと思うのよねぇ。
けれどもトゥンくん!
毎回「温めますか?」に対して「あっためて~」と答えたおれに「お箸要りますか?」と訊いてくる。

要るやろ。
こっ…簡単な方程式!
ぜんぶイコールで直結してるやんけ。弁当を温めたい客=すぐ食べたい客=箸を求むる客ってことがなんでわからへんのおおおおおおおおおおおお!!!
もしかして、トゥンくんって、できうる限り客に割箸を渡すまいとするエコの戦士なのかなあ? ウォーリアーだった? それなら納得するけどね。辻くんと褄ちゃんが駅で合流するけどね。「おまたせ、辻くん~」、「待ってたよ、褄ちゃーん」ゆうて。辻褄が合うけどやな。
でも絶対、エコの戦士じゃないものな~。
だって「お箸要りますか?」のあとに訊いてくる「袋要りますか?」に対して「入れて~」と頼むと「喜んでー!」みたいな顔してすぐ入れてくれるもん。喜んでレジ袋に商品詰め込む奴がエコの戦士なわけねえだろ。辻くんと褄ちゃんが駅ですれ違っとる。箸は渋々つけるけど袋には喜んで入れる奴…。辻褄合わねーよ。
でも誤解しないでね。おれはトゥンくんが気に入っている。毎回毎回、明らかに要るのに「お箸要りますか?」と訊いてくる点を除けば、トゥンくんはパーフェクト・コンビニエンサーだ。

ほいで先週。
同コンビニエンスで、おれは「あさりと帆立のクラムチャウダースープパスタ」をレジに持っていきました。だって美味しそうだったもん。
目の前にはトゥンくん。おれはいろいろ訊かれる前に、先手必勝で全部リクエストしました。
「温めとレジ袋をお願いします。スプーンつけてください」
「スプゥーン!」とトゥンくん。
なんやこいつ。
レンジでチンチンに熱された「あさりと帆立のクラムチャウダースープパスタ」とスプーンのみならず、おしぼりまで袋に入れてくれたトゥンくんに「ありがトゥーン!」ゆうてコンビニエンスを後にしたおれ。さてさて「あさりと帆立のクラムチャウダースープパスタ」を食べようとしてアッと気づいた。
これスプーンじゃ食べられへんやつやんけ。
くっそおおおおおおおおおおおおおおおお。
パスタ掴めへん。
箸かフオクじゃないと、ろくにパスタを掴めない。スプーンでパスタを持ち上げようとしてもチュルっと滑って落ちてまう。しかもプラッチック。チュル度高ぇ~。ヘタこいたぁぁ。スープパスタの「スープ」ばかりに引っ張られてスプーンをリクエストしてしまったが、とはいえスープパスタって結局「パスタ」だから箸かフオクじゃないと掴みようがないって寸法かああああ。
一本取られたあ!
セブン&アイ・ホールディングスに騙されたああああああ!!!
くっそぉおおおお…。食べられねえよ~~。
掴もうとしても掴めないって…夢か?
AKBでセンター狙ってる娘のきもちが幾ばくか分かった気がしたああああ。
はぅあうあ!!!
てことは、あのときトゥンくんが言った「スプゥーン!」という感嘆詞は、「おまえ、スープパスタをスプーンだけで行くつもり? まじかこいつ。たぶん無理ちゃう?」と訳しうるわけか!
トゥ~~~~~~ン!!!
結句、容器を斜めに傾けて味噌汁を飲むようにパスタをすすって無事にこれを完食したおれ。犬みたいに。あのときトゥンくんが「お箸要りますか?」と訊いてくれていたらこんな惨めな思いをせずに済んだのになあ!!!と、鼻水垂らして、思惟ッ。

そんなわけで本日は『愛情萬歳』です。
ニン!ニン!



台湾ニューシネマ見てる?◆

 映画好きのおまえ達にそれとなく耳打ちしておこう。ツァイ・ミンリャンの初期作がU-NEXTに転がってるぞ。
ただし有料。199円。
もぉおおおおおおおお!!!
30年近く前の映画なんだからタダでいいだろぉ~タダで見してよぉ~~。
こういう映画こそ見放題にしないと裾野が広がらないだろうが~、ド畜生がよぉ~~~。
つくづく思うわ。ほとほと呆れるわ。
観るべき映画ほど容易に見る術がない一方で、どうでもいい映画にアクセスするルートばかりが舗装されてるからこそ、我が国における現代映画文化―ならびに現代人の映画見力(みりょく)って糞ほど低いのかなァ!って。
ただでさえ糞レベルなのに、この先どんどん低下しますよ。だって、劇場かサブスクしかない状況で、タルコフスキーやルイ・マルやロッセリーニをどうやって見るんですか? おーん? ブレッソンは? ロージーは? アルドリッチは?
そんなわけで、おれたちは実に世知辛い浮世で、息継ぎするように映画を見てるわけだよ。よろしく、無情。映画監督以上に“アップアップ”言ってるわけよ。
だから199円払ってでも、ツァイ・ミンリャンを見ろ。知らなくても興味なくても、関係ねえよぶっ殺す。いつか「あのとき見ててよかった」と思う日がくるから、まあ、見れるうちに見とけ。映画鑑賞と親孝行はできる内にしとけ。「一応見たけど、あまりよくわからなかった…」とおまえはブー垂れるかもしれない。うなだれるかもしれない。アホだから。
でも、それでいい。

否、それ“が”いい。
映画体験が活きてくるのは勝負の終盤だ。
「映画史上の傑作といわれてるから一応見たけど全然ピンとこなかった」は、持ち駒の金将と等価である。
十手先(10年先?)で、その金が勝負を決めるんだよ。まあ、この場合における“勝負”が何を意味するのかはしらんが。

※嬉しいお知らせ!
2024年2月現在、見放題になってました。
金返せコラ。


 さて、気分を台湾に変えて走吧!
おれにとって台湾ニューシネマは、唯一ちゃんと“お勉強”しなかった映画運動なのだが、そのことに関して特に引け目は感じてないんだよね。なんなら体系的に勉強しなかったからこそ自分の感性で受け止め、自分の感性に落とし込めた“映画勉強期”の総決算―いわば卒業論文みたいな位置づけで、勝手に自由に楽しんでる。
王童(ワン・トン)、楊徳昌(エドワード・ヤン)、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、李安(アン・リー)、陳玉勲(チェン・ユーシュン)…。
特に衝撃を受けたのはエドワード・ヤンの『恐怖分子』(86年) だ。昨今のアート気取りのヨーロッパ映画が(意識的であれ無意識下であれ)こぞって真似してる、アジアでも稀有な「天才」という語に名折れしない作家である。『牯嶺街少年殺人事件(4Kデジタルリマスター版)』(91年) もすさまじい作品だったが、殺人ショットのつるべ打ちを耐えしのぶには236分(約4時間)は長丁場すぎた。
畢竟、個人的には台湾ニューシネマといえばエドワード・ヤン一択なのだが、その次に挙げたいのが蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)。とりわけ本作『愛情萬歳』はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞、金馬奨では最優秀作品賞をかすめ取った代表作なので、まあ、最も見やすい作品というか、“最も見ておかねばならない作品”ではあるよな。


エドワード・ヤンの『恐怖分子』(86年)

 空き家になった台北の高級マンションの一室に童貞が忍び込んだ。童貞を演じるのはリー・カンション。ロッカー式納骨棚のセールスをする青年だったが、このたび遂に自殺を決意。ジャグジー風呂で身体を清め、水を飲んでパンツ一丁でベッドに座り、手首にナイフを向けた。
某ショッピングモールのフードコートでは、露天商のチェン・チャオロンが手持無沙汰に煙草を吸っていると、斜め前の席に孤独の女ヤン・クイメイが腰を下ろし、チェンを脇目に煙草を吸う。そのあと軽く口をつけただけのメロンソーダをそのままにトイレに立ち、そこで口紅を引き直して夜の街へ出る。
なんとなく後を追うチェン。なんとなく後を追わせるヤン…。これが実に滑稽だ。ウィンドウショッピングしてるフリをしてチェンをいざなうヤンの誘惑と、公衆電話で誰かと話してるフリをしてヤンを焦らせるチェンのナンパ術。アカの他人たる男女が、精一杯に手練手管を弄した「コ・ン・ヤ・ド・ウ?」のサイン。DREAMS COME TRUE。
互いの性欲は見事結実し、向かいたるは高級マンション。ロッカー式納骨棚のセールスマンとして知られる童貞式のスーサイドマンたるリーが、まさにナイフで手首を掻っ捌かんとしていた部屋であった。
無事に手首を切り、意識が遠のきつつあったリーは、居間から聴こえる激しい喘ぎ声で現世に復帰。左手首の血を右手で押さえながらセックスの現場を窃視したことで「もう少し生きてみよう」と心に誓い、秘密のマンションを後にするのであった―。

 …というのが本作のあらすじである。
ひょんなことから鍵を盗んだことで高級マンションの一室に自由に出入りできるようになった自殺志願者のリーと、その部屋を売ろうとする不動産エージェントのヤン、そんなヤンと性的関係を持ったチェンの3人が、それぞれに孤独を埋めようと部屋を訪れては出ていく…。
だが三者は決して交わらない。
ニアミスに次ぐニアミス。そんな人間模様を丁寧に描きあげ、台北の夜に解き放った詩情豊かな118分を、おれは駆け抜けた。



◆あ~あ~果ってっし~ない~どころじゃない大都会沙汰◆

 本作は『愛情萬歳』などというタイトルとは裏腹に、都会の孤独をよく描いた“冷たい映画”である。
まずメインキャラクターの3人には表情がなく、うれしい!たのしい!大好き!などの感情も表さない。DREAMSしないCOME TRUEなのだ。極めつけはセリフの少なさ。ジャック・タチの映画ぐらい喋らない。
そんなわけで、3人のパーソナリティは終始被覆されたままだし、リーが自殺しようとした動機も当然語られず、それらを観る者の想像に委ねることさえしない。キャラクター性などハナからないのだ。この3人は何者でもなく、ただ“都会人”なのである。ただ孤独な都会人。
その無記名性がよく出ているのが、出会いからセックスに至るまでを無言のうちに完遂させたチェンとヤンの渇いた関係性である。誰でもいいから寝たいチェンと、手軽に寂しさを埋めてくれる相手を探していたヤンは、あくまで即物的な行動原理に基づいて一夜を共にする。世間話もせず、名前を訊くことさえせず、まるで右から左へと事務的な手続きをこなしていく市役所職員のような淡泊さで互いの肉体を貪り合うのだ。「愛のないセックス」などという陳腐な言葉では語りきれない、もっとおぞましい何か。そう、“共食い”だ。まるで餓えた吸血鬼同士が互いの血を吸い合っているような、そんな肉体関係がおれの背筋を凍らせた。



ふたりが寝るのは、決まってリーが自殺未遂を起こした高級マンションのベッドルーム。
チェンにとってはタダで使い放題のラブホテルとして大変具合がよく、ヤンにとっても“自分が売らなければならない物件”を自らの体液で汚すことは、この退屈な現状に対する復讐というか、自らの人生を切り売りする自己処罰の身振りであり、いわばこのベッドルームは自分で自分を導いた処刑場なのである。
そして部屋の鍵を盗んだリーにとっては、まさに宮殿。
おもしろい場面がある。ふたりのセックスを覗き見たリーは、翌夜、商店で買ってきたスイカの皮をナイフでくり抜き、目と口を作って擬人化。そのスイカにキスの嵐をお見舞いしたあと、ブリーフ一丁で廊下に出てボーリング大会をおこなう。目と口に指をつっこんでスイカを思いきり投げると、ゴロゴロ転がったスイカは壁に衝突して木っ端微塵に弾けた。そのあと、ぐちゃぐちゃになったスイカを貪ってみたり、顔に果肉を塗りたくるなどの行為に勤しむリー。
なにしとんねん。
一見するとわけのわからんシーンだが、ここでのスイカは性的対象の比喩。チャンとヤンの情事に触発されたリーは、スイカを生身の人間に見立て、それを自らの手で犯し、殺し、食べて、破壊し、塗りたくることで一体化を望んだ。
なんとも猟奇的な身振りだが、安心されたい。リーは至って常識人だ。常識人だからこそ「こんなことをしてみたい」という異常行動を夢想するのだ。本当の異常野郎はわざわざスイカを使ってオママゴトなどしない。



その後、部屋のなかでリーとチェンがばったり出くわしたことから、ふたりの間に奇妙な連帯感が芽生える。といっても友情の類ではなく、いわば住居侵入罪という互いの秘密を決して明かしてはならぬという黙契の効力を持続させるための最低限のコミュニケーションである。
わかるか。チェンはリーに煙草を1本譲る。リーはチェンのポルノ雑誌を自分の鞄に入れて保管してやる。そうしたコミュニケーションが続くうちは、少なくともおれはお前を裏切らない…というわけだ。
なんと渇いた人間関係であろう。もうノワールやん。やってること。ハードボイルドやん。
事程左様に、変化に乏しいキラーショットと、極めて読みづらい説話演出で淡々と映画は進行する。
ようやく物語に動きが出始めたのは中盤以降、リーが女装癖に開眼するあたりだろう。チェンが売り残した露店のドレスを身に纏ったリーは鏡の前でひとしきりポーズを取ったあと、急に腕立て伏せを始めたり、時にはそのままベッドに横臥して自慰行為に耽る。
なにしてんねん。
気弱そうな相貌とは裏腹に筋骨隆々のリー。ドレスがぴちぴちで今にも破れそう…否、ドレスが破れたがっている。
注意深く観ていると、ちょうどその時期、リーが鍋料理を作ってチェンの食べ残しを片づけたり、チェンと自分の服を浴槽に放り込んで洗濯するシーンに微かな意味が感じとれるはずだ。
リーの行動が妻っぽいというか…、まるで彼女みたいにまめまめしくチェンの世話をしているんだよね。極めつけに女装でしょう。



ある夜、いつものようにリーが部屋で自慰行為に耽っていると、チェンがヤンを連れて帰ってきた。大慌てのリーは咄嗟にベッドの下に隠れたが、そのベッドの上ではチェンとヤンがチェンチェンヤンヤンし始めるわけ。
チェンのチェンチェンでヤンがヤンヤン言ってる真下では、リーが悔しそうに「リ~~!」ゆうて。
なんやねんこれ。



リーの自慰行為中にチェンが帰ってきてヤンとヤンヤンし始めたことで、はち切れそうなリーの欲望は“構わずベッドの下で自慰を続行する”という形で消化された。叶わぬ恋と知りながら、その想いを右手に託し、自らを慰めるリーはとても切なそうな顔をしていた。おれの目には「ラブストーリーの『リー』って僕のことかな?」という顔もしていたように映ったが、まあ、何も知らないチェンとヤンにとってはホラーだろうな。
明け方。服を着たヤンは、ベッドで熟睡するチェンに一瞥もくれず部屋を出ていった。そのあとベッドの下からにゅるっと現れたリーは、これまでに培ったメタルギアソリッドみたいなステルス能力を総動員して、すうすう眠り続けるチェンにキスをする。



◆水と横臥とTomorrow never knows◆

 おしゃれに全振りしたウォン・カーウァイの『恋する惑星』(94年) に足りなかった“映画的緊張”がすさまじい密度で凝縮されたような作品だった。
キタノブルーならぬ“ミンリャンブルー”に包まれたツァイ・ミンリャンの青白い画面は、都会の冷たさ、無機的な人間模様、なにより死そのものの表象として、むなしく彷徨する3人のどこにも辿り着かない日々と、知識集約型産業による都会人の精神性惰弱化といった台湾社会の暗部をべっとりと覆う。
とかくこの手のプラスチックな作品って“生”のモチーフになり得ることから食事の場面を意図的に省略するんだけど、ミンリャンは3人にいろいろ食わせてたねぇ。いろいろ食わせたうえで、なおプラスチックっ、なお無機的っ、と感じさせる手腕が一流。
たとえばヤンが取った食事に注目してみよう。物語序盤では携帯電話で商談しながら屋台の麺線をすすり、中盤ではマンションのリビングで仕事のことを思案しつつ立ったまま弁当を掻きこむ。そのさまは“生命維持手段としてだけの食事”であり“餓死しないための手続き”に過ぎず、物語終盤でも夜の町でチェンを見とめた彼女はわざとチェンの近くの屋台の前で碳烤(台湾の焼き鳥)を選ぶフリをしながら、チェンに気付かれて声をかけられるのを待っている。
あるいは水。
食事だけでなく水を飲む描写も多く、物語冒頭のリーは今から自殺しようというのに1.5ℓのペットボトルの水をごくごく飲むし、ヤンも就寝前に水を飲んだ。チェンは缶に入った不思議なアルコールをこよなく愛したが、水は飲んでいない。
かように飲食のモチーフとは映画的文脈において“生”や“活力”の表象たりうるが、ミンリャンはこのモチーフを“死”の表象として活用した。
まるで渇きを満たすかのように水を飲むんだよね。孤独に渇いた心を保つための急場凌ぎとして水を飲む。だが飲んだ水は必ず排泄され、再び心は渇きはじめる。だから無論オシッコシーンも用意されている。



見落とさずにおきたいのは“納骨棚”のモチーフだ(上記画像)
リーの仕事はロッカー式納骨棚のセールスマン。もうそのまんまの比喩である。今にして思えばロッカー式納骨棚というもの自体がこの作品の本質をそのまんま穿ってて…比喩というほどの比喩でもないっていうか。ねえ。
だってロッカー式納骨棚なんて“遺骨のマンション”みたいなもんでしょ。
おれの住んでる京都四条もマンションだらけだけど、都市部のマンションなんて孤独な魂の寄せ集めでしょ! フィギュア用の多段式ケースと同じ。上下左右の部屋にいろんな人が住んでるけど、共用部ですれ違っても挨拶はおろか会釈もしねえのよ、あいつら。集合住宅だけど“心はバラバラ住宅”ってか。
だからロッカー式納骨棚って、どことなく悲しいですよ。たとえば一人暮らしの老人がマンションで孤独死して、その遺族が「安いからロッカーでええか」ゆうて、死してなお狭くて息苦しいロッカー式納骨堂にほり込まれるとかさ。
そんな納骨棚が、メタファーとして至るところに散りばめられている。
一番わかりよいのはベッドだな。本作はベッドに横臥するイメージが豊かで、ことにベッドの真下で息を殺すショットに至っては墓そのもののイメージにも合致するし。
次に着眼すべきは浴槽。
浴槽もベッド(=棺)と同じく“人が横臥する長方形の家財”であり、現にチェンは潜るようにジャグジーバスに浸かり、ヤンもまた45℃くらいありそうな熱湯風呂に横臥して茹でダコみたいになる。まるで生きながらにして死ぬかのように。



おや。よく考えたらチェンだけが水を飲んでなかったですね!?
そうなのよ、そうなのよ~。
実はチェンだけが渇いてなかったのよ~~。
別段こいつは都会の孤独など感じちゃいない。むしろ孤独を“自由の翼”ぐらいに思うとるんちゃうか。
だから、いかにも事ありげなふたりと接点をもつ唯一の人物でありながら、どちらの孤独にも気付いてやれない、いわば本作のキーマンになり損ねた男なのである。フィルムの全域にただよう寂寞たる停滞感と、遅々として進まない物語の原因はこいつでした。

そしてラストシーン。
チェンの眠る部屋を去ったヤンが早朝の台北をぺたぺた歩く“朝帰り”をドリーショットが憐れみをこめて冷視するロングテイクのあと、そのへんのベンチに座ったきり放心状態に陥ったヤンがにわかに顔を歪めて号泣するアップショットの超長回し。
正確に5分50秒
長すぎへん?
「Tomorrow never knows」より長いやん。
「果てしない闇の向こうに~、おっお~。手を伸ばそう~♪」ゆうたあとに映画見たらまだ泣いてるやん。
ほんでヤンもヤンで、よう5分50秒もぼろぼろ泣けるなぁ。
涙腺、草津温泉やん。源泉掛け流しやん。
実際、技巧を凝らした長回しではなく、いわば“どうして彼女が泣いてるのか考えようの時間”として、観る者はこのピースだけばら撒かれた示唆も目配せもない映画の輪郭を掴もうと、彼女のヤン泣きなど一瞥もせず思案に暮れるのだ。
いわばシンキングタイムとしてのヤン泣き。「Tomorrow never knows」としての源泉掛け流し。ある意味手心。おれはあまり好きじゃないけどね。ここまで撮れるミンリャンなのだから観客など置き去りにしてほしかったんだけど、ほんの少しだけブレーキかけてるのよね。このラストシーン。

そんなわけで『愛情萬歳』。
どこが愛情萬歳やねん。
被写体ともども観る者を突き放した物言わぬカメラの冷たい眼差しを通して90年代台北をスケッチした都会の群像。意外と笑いどころも多々あり。台湾にミンリャンあり。別の作品を観る手もあり。