エイリアンというより営利やん。でもエライやん。
2024年。フェデ・アルバレス監督。ケイリー・スピーニー、デヴィッド・ジョンソン。
エイリアンに全員むちゃくちゃされる。
あいすー。
先日知人とお喋りしてーん。
「ふかづめさんの言葉って縦横無尽すぎて、たまについて行けなくなるんですが、一体どういうことですか」
「一体どういうこととは、どういうこと?」
「たとえば、ほら先日、ふかづめさんが『あ、それファミチキ? 一口頂戴よ』と言ってきたとき、僕が『あげません』と言ったら、突然『ジャンケンぴょんのジャンケンぴょん!』つったじゃないですか」
「つったね」
「そのあと、意味がわからず困惑する僕に『おいしい牛乳のむのだぴょん』とも言ったじゃないですか」
「言った」
「そのあと黙って立ち去ったふかづめさんに今こそ僕は問いたい。あれは一体なんだったんですか」
「一体なにって、あれはミニモニ。の『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』だよ」
「ミニモニ。ジャンケンぴょん」
「キミが『あげません』とか言うから、咄嗟にこの曲が思い浮かんで『ジャンケンぴょんのジャンケンぴょん!』って言っただけじゃん。あんのよ、そういう歌詞が。白上げて~、あげません~、ジャンケンぴょんのジャンケンぴょん!ゆうて。えらい楽しい曲」
(ミニモニ。の『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』。YouTubeからパクった)
「ミニモニ。好きなんですか」
「いや、べつに」
「でも僕、世代じゃないんで、そもそも知らないんですよ。ミニモニ。を」
「では教えてやらないでもない。ミニモニ。は身長150cm以下のアイドルだけで結成されたハロプロユニットよ。矢口真里、辻希美、加護亜依、それとあと一人…星条旗のバンダナ巻いた娘なんだけど誰やっけ?」
「より知りませんよ。ていうか、世代じゃない僕に『ジャンケンぴょんのジャンケンぴょん!』とか急に言って、なんで伝わると思ったんですか」
「ああ。それで言うとべつに伝わるとは思ってないし、期待もしてないよ。単にパッと思いついて、そのとき俺が言いたかったから言っただけ。だから別に伝わっても伝わらなくてもいいというか、そっちが困ろうが笑おうがどうでもいいし、好きに処理してくれたらいい。ただ俺の中で言葉が思い浮かんだからアウトプットしたかっただけ」
「純粋悪やん」
「ほんと!? 照れちゃう」
「褒めてない。ふかづめさんってそういうとこありますよね。他者を顧みない無責任な発言というか、高田純次みたいに思いつきをバンバン言っちゃうみたいな」
「さもありなん。そもそも人に興味がないから『こう言ったら相手はこう思うんじゃないか?』みたいなことはあまり考えないかもね。人の気持ちがわかりません」
「普通は考えるんですよ。ミニモニ。を知らないであろう世代の人に『ジャンケンぴょん』とか言っても伝わらない可能性が高いから言うのはよそう、みたいな」
「つまりアレだよ。おれは北風を感じながら南風のことを考えるわけよ。西と東を警戒しながらね」
「なにをいってるかぜんぜんわからない」
「ぱっぱっぱっぱ! 踊ろう! 騒ごう!」
「それも『ジャンケンぴょん』ですか」
「うん、『ジャンケンぴょん』」
「聴きたくなってきましたよ、その曲」
「YouTubeひらいたらすぐ出てくるで」
「あ、これすか?」
「見してみ。ああ、これこれ」
「へえ。キャッチーでいいじゃないですか」
「ほら、ここ、ここ。おいしい牛乳のむのだぴょ~ん、ゆうて」
「本当だ。言うてますね。可愛らしい。『自分を信じてゆくのだぴょ~ん』とも言うてるじゃないですか」
「な。楽しいやろ?」
「案外楽しいですね」
「2000年代初頭、わけわからんやろ?」
「2000年代初頭、わけわからんすね」
「立て続けに『ミニモニ。テレフォン!リンリンリン』も見たら?」
「『ミニモニ。テレフォン!リンリンリン』!!!」
そんなわけで本日は『エイリアン:ロムルス』です。意味のあることも、ないことも色々言うてます。
◆みなエイリアンの子◆
エイリアンもチェストバスターも男性器みたいだしフェイスハガーもエッグチェンバーも女性器みたいだよね。
その通りなんだよね。
エッグチェンバーという卵から誕生したバリキモ生物ことフェイスハガーが襲った人間を“宿”にして、その宿主の口に管のような器官を挿入してエイリアンの幼体を流し込み、その幼体がチェストバスターとして宿主の体内で成長、「ぼちぼち行こか」というタイミングで宿主の腹を食い破ってハロー世界、何度か脱皮を繰り返して成体、すなわちゼノモーフ、世間でいうところのエイリアンとなるわけで、こんなものは“強姦”および“その後の望まぬ妊娠”に対する恐怖の表象でしかないわけです。ひいてはウーマン・リブによる女性解放運動を再解釈したっつーか、“未知の何かに犯される恐怖”という感覚を初めてスクリーンに焼きつけた文化人類学的作品が『エイリアン』シリーズなのだよね。
現にエイリアンの世界観を造形したH・R・ギーガーというおじさんは「バイオメカノイド」といって生体と機械を化合した唯一無二のインダストリアルデザインを確立したイラストレーターで、スチームパンクやサイバーパンクが流行っていた70~80年代に、機械化された性器、あるいは性器化された機械というモチーフで八面六臂の才を発揮。音楽好きにはプログレ四天王の一角、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの『恐怖の頭脳改革』(73年) のアルバム・ジャケットを手掛けた人、といえばわかりよいだろうか。日本のゲーマー諸兄においては『邪聖剣ネクロマンサー』(88年) のパッケージ描いた人、といえばわかりよいだろうか。
だがギーガーの功績といえば、やはり『エイリアン』。西暦2122年の物語設定だというのに、あのあまりにレトロで、あまりにデカダンスな、それでいてサビ臭くない宇宙貨物船ノストロモ号の美しいまでのムード。そしてゼノモーフの各形態。明らかにペニスとヴァギナなのに、エイリアン好きの人に「目を見張るデザインよな。明らかにペニスとヴァギナよな」と言うと「まあ! なんて卑猥なことを、この人は言うんだ!」と顔を真っ赤にしてすっ飛んでく。慣れっこだけどね。『千と千尋の神隠し』(01年) が湯女(日本古来の風俗産業)における労働賛歌を描いた作品、という物語理解さえおぼつかない自称ジブリ好きがゴロゴロしているこの国で日夜映画を語ってるんだもの。うふふ。
あと、当シリーズといえば名だたる映画作家たちの出世作っちゅーんで、エイリアン自体に興味なくとも映画が好きなら避けては通れないという、ホラーとか苦手な映画好きにとっては実に困ったちゃんなシリーズとしても有名。
シリーズ生みの親として『エイリアン』(79年) を手掛けたリドリー・スコットは『ブレードランナー』(82年) というもうひとつの歴史的作品を撮り、続編『エイリアン2』(86年) を手掛けたジェームズ・キャメロンは『ターミネーター2』(91年) や『タイタニック』(97年) の世界的ヒットでブロックバスター映画の申し子となり、当時酷評された『エイリアン3』(92年) が処女作となった不運なデヴィッド・フィンチャーも今や『セブン』(95年) や『ファイト・クラブ』(99年) で知られる名匠、『エイリアン4』(97年) の監督に抜擢されたフランス人のジャン=ピエール・ジュネの灰汁の強さはわずか4年後に『アメリ』(01年) で一大センセーションを巻き起こしました。
みなエイリアンの子。
エイリアンが撒いた種が80年代以降の映画史を支えていると言っても過言じゃねーわけ。
…と、いうようなことを15年ぐらい前の熱血映画小僧だったおれは口角泡を飛ばしながら熱弁していたが、今やすっかり牙を失い、象牙を買い取り、丸くなり、三角を嫌い出し、ハングリーが冷め、ベーカリーで熱いパンを食べちゃうような人間になり果ててしまったがゆえ『プロメテウス』(12年) も『エイリアン: コヴェナント』(17年) も「あーはいはい」でほぼ済ませた。
本当、すごいと思うのよね。中年になった現在でも映画キッズだったころの精神そのままに、目を輝かせて「エイリアンの続編きたー」と好奇心たぷたぷで映画館の売店すっ飛んでってパンフレットとか買ってるおじ様、おば様ら、古参兵のスタミナというのが。
おれもそういう映画好きになりたいと願うものだよ。今のおれは映画「好き」ですらないからサ。ちぇっ(手を後ろに組んで空き缶蹴る)。
H・R・ギーガーの作品。
辛気臭い話はよそう。
今作『エイリアン:ロムルス』の物語の時系列は1作目と2作目の間。
1作目で想像を絶する恐怖から生き延びたシガニー・ウィーバーが、2作目で57年ものコールドスリープから目覚め、植民地海兵隊と結託してエイリアンなどシガニー(歯牙に)もかけないほど逞しくなってゆくまでの時間軸のエアポケットの狭間に起きた出来事を描く。
物語は単純明快。
環境劣悪を極めるコロニー、マイケルジャクソン星で坑夫をやっている少女ケイリー・スピーニーと、彼女の守護を第一指令にプログラムされた旧式アンドロイドのデヴィッド・ジョンソンが「こんなコロニー、バッドだよね」、「ビリー・ジーンでもあるよね」などと不平不満をブー垂れていた折、スピーニーの元恋人のM.J.という男がスリラーを踊りながら近寄ってきて「こんな肥溜めから脱出して資源豊かな新世界に行くって計画あんにゃけど、一緒に行く?」と提案してきた。スピーニーは一も二もなく「ポー」と言った。ジョンソンも「ポー」と言ったが、元ネタがわからなかった。
M.J.「題してネバーランド計画」
M.J.はうるさかった。
計画の参加者は、スリラー踊りのM.J.を筆頭に、妊娠中のM.J.の妹ジャネット、M.J.の従弟ランディ、そんなランディの恋人ハニー。そこにスピーニーとジョンソンが加わった計6名。誰かが小声で「ほぼジャクソン5やないか」と言った。
コロニーから脱出した6人は、宇宙珍道の果てに「レムス」と「バブルス」の2区画で構成される宇宙船に辿り着き「これ使こたらえんちゃうけ」という話になったのだが、そこには大量のフェイスハガーが休眠状態から目覚めようとしていて…。
あとはお察し。
「だるいわー。ここ通んの?」
「やば。蟹みたいなん、ちょこちょこしてる。ちょもえって。こっちくんなこっちくんな」
「ちょやばいやばい。ハニーがどえらい目ぇ遭うとる」
「ど突け、ど突け」
「これむりやん数多すぎるってええええ」
「ハガー(歯が)立たねえ」
阿鼻叫喚のスリラー沙汰である。
ケイリー・スピーニーとデヴィッド・ジョンソン。
◆今こそ作り直すべきは『エイリアンVSプレデター』◆
「こういうのでいいんだよ、こういうので」という言い回しが流行っているのだろうか。最近よく耳にするよね。
こと映画界隈においては、ついこないだの『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』(23年) や『ツイスターズ』(24年) 、もうちょい前でいえば『バトルシップ』(12年) みたいな作品に対する賛辞として使われており、意味合いとしては「変にトレンドを意識しない、昔、金ローで見ていたような適度にバカバカしくて素直に楽しめる直球娯楽大作」みたいな感じなのかな。
ポイントは「変にトレンドを意識しない」というところで、凝った映像表現やわけのわからない最新テクノロジー、それにポリコレやフェミニズムのような政治的配慮に疲れきった現代人ほど、無邪気に映画を楽しんでいたあの頃を懐かんで「こういうのでいいんだよ」と言えるような映画を求めてるのかもしんないナ。
例に漏れず『エイリアン:バブルス』も“こういうのでいいんだよ系”である。ああ、ロムルスか。つるっと観れるB級ホラーを意識した、即効性の高いジャンクムービーであります。
で、どうだったかっちゅーと、第一幕が異様にモタついており、それでいておもしろくない。
でもつまらなくはない。
とりあえずバーッと6人全員出して、キャラクターの目的や関係性、物語の世界観に各種設定等の説明に充てる、いわゆる「セットアップ」と呼ばれる工程なんだけどね、メインキャラクターであるスピーニーとジョンソン以外の4人は誰が誰やら区別つかんし、性格もわからなければ顔の識別もできない有り様で、脱出先の惑星がどういう惑星で、なぜそこに行きたいのか、行けばどうなるのか、そこへ行くための具体的な手段も計画も碌に説明されないまま「もうええやん。その辺は。とりあえず行こ。はよ行こ」というノリでサーッと流されてしまう。
でもこれ、故意にそうしてるんだろうなって。
監督のフェデ・アルバレスはバカではない男ですから、今からおれが勝手に想像して意訳した“アルバレスのきもち”は多少オーバーに書いたものとして理解して頂きたいのだが、おおよそこんな感じだったのではないでしょうか。
「だーかーらー、映画の快楽原則は情報じゃなくて視覚ですよ。メイン以外の4人を深掘りしたところで、どうせ20分後には1人ずつ死んでいくんだから。むだ。個々のバックボーンとか、描く意味なくね。それに暗い宇宙船が舞台で、カットも早いから、誰が誰だかなんて元よりわかんねーよ、どうせ。撮ってるこっちもわかんねーよ、なんなら。だから相関関係とかやっても意味なくないですか。誰と誰が恋人で…とかどーでもよくね~~。どうせすぐ死ぬんだから。ファイナルガール(主人公)以外全員死ぬんだから。主役はエイリアンなんだから。もちろんエイリアンはちゃんと描くよ。でも人間サイドは、もうよくね。死ぬもん、だって」
これを雑というなら雑かもしらんが、と同時に“計算された雑な振舞い”といえばそうとも取れる。
少なくともシリーズ正史の原点である『エイリアン』の“スピンオフ作品”としては、人によっちゃあ不満もあろうが「じゃあどうすればもっとマシになったか?」と問われても誰も答えられまい。
『エイリアン:バブルス』は正解ではない。
だが妥当解ではある。
あ、ロムルスか。
いかなスピンオフとはいえ時系列の上では1作目の続き。原点にして頂点たるリドスコ版の1作目を意識しないわけにはいかんし、独自路線で得手勝手もできない。かといって1作目をなぞったところで批判必至の下位互換、作る意味さえない。ならばリドスコ自身が手掛けたシリーズ正史前日譚にして意味不明超大作『プロメテウス』へのカウンターとしての存在意義を唯一の寄す処として、いっそエイリアンで“動物パニック映画”をやるっきゃねえ、つって出来あがったのが、たぶん本作。
現に、ストーリーテリングはほぼなし。つーかストーリー自体がほぼなし。物語設定の深掘りとか、新事実の発覚とか、次作に繋げうるバトン要素もほぼ無し。退嬰化の極み。
ただ我武者羅に119分、ノンストップでアクシデントが継起、ノンリニアでパニックが惹起。息つく暇なく逃げまくり、戦いまくり、殺されまくりの、エンタメ極振りオリエンテッドな、消費されてなんぼの、「エイリアン」というより「営利やん」と言いたい営利目的、興収第一、商業路線全開のジェットコースタームービーなんであるうううううう。
命のかがやき。
どうしようもない作品といえばどうしようもない作品だけど、どうしようもない中で「どうしよう、どうしよう」と周章狼狽するのでなく、どうしようもない中でも、やるべきことはやる、できることをやる、を貫徹しただけ偉い作品でもあるのですね。「エイリアン」というより「エライやん」と言えてゆくのですね。
全編に横溢するギーガーの意匠の継承はもとより、ノストロモ号の残骸、リプリーが放った銛、なんちゃってイアン・ホルムなど、思わず旧シリーズのファンが「おっほ」と喜ぶ目配せの数々。VFXやCGも極力使ってないらしいよ。
個人的おっほポインツは、まあベタだけど『エイリアン3』の医務室でドッグエイリアンに追い詰められたリプリーをオマージュしたショットだね。あそこは、海鮮丼屋で懐メロが流れてきたとき、ぐらいにはテンションが高揚した。
『エイリアン』シリーズを象徴するあまりに有名なショット(画像上)と、そのオマージュ(下)。
あとさ、おれが割と信を置いてる某レビューサイトを閲するに、本作を『13日の金曜日』だと謗る人が多いが、いやいや、まさにそうよ。今そなたが言った通りじゃん。だから13金をやってるわけよ。むしろその話をしてる。
『13日の金曜日』みたいなベタで雑なスラッシャー映画をやったのが『エイリアン:ロムルス』だっつってんのに、それに対して「これじゃ13金じゃん」、「エイリアンも地に堕ちたな。いよいよジェイソン化してるやん」って。
や、だからそうなのよ。
それをやってんのよ。
その話をずっとしてる。
「今度のエイリアン、もうシリーズ最新作としては二進も三進もいかんので、いっそ振り切ってジェイソン(スラッシャー映画)にしちゃいましょう。そして、やると決めた以上は『こういうのでいいんだよ、こういうので』って言われるぐらい徹底的に突き詰めましょう。死ぬ気でやりましょう。ぜひ皆さんの力を貸してください。よろしくお願いします。乾杯!」っていう決起集会in魚民の光景がありありと思い浮かぶわー。想像に柔らかいわー。
正味の話、ちょっとした出来心で悪さをしたヒロインたちが、恐っとろしい目に遭ってオーバーお仕置きされちゃうけど、もとをただせば自業自得だよねって話、これってアルバレスの出世作にして代表作の『ドント・ブリーズ』(16年) そのまんまよね。もちろん、その源流はジェイソンやレザーフェイスだろうけどさ。知らなかったとはいえ行かなきゃいいものを、むざむざ殺人鬼のいる所に行ってしまった若者たちが順当に殺されていくっていう物語類型。
その鋳型に、過去イチわかりやすい形で『エイリアン』シリーズを嵌め込んだのが本作。ある意味では、ようやく『プレデター』(87年) シリーズと同じ土俵に立ったともいえるのかも。
今こそ作り直すべきは『エイリアンVSプレデター』(04年) だよな、こうなってくると。
プレデターともう一度戦いたい。
◆映画監督になるか、映画作家になるか◆
前章でも述べた「やるべきことはやる、できることをやる」というスローガンに、少しばかり心を惹かれてしまうのよな~。
ここは勘だけで喋りますよ。『ドント・ブリーズ』の製作中、たぶん監督のアルバレスには2つの選択肢があったんだと思う。映画人としての大きな岐路。
映画監督になるか、映画作家になるか。
結果的にその決断を留保したまま完成させた『ドント・ブリーズ』は、留保したからこそ圧倒的な商業性と素通りしがたい独自性の両輪でホラー映画界に、大小こそ知らんが何らかのサイズの風穴をあけた。
そのあとの活動は、すまん、知らん。アテクシ未見の『蜘蛛の巣を払う女』(18年) はどちゃくそにコケたらしいね。『ドラゴン・タトゥーの女』(09年版? 11年版? 小説版?) を愛してやまないGさんとやなぎやさんが「決して許すことができね~~」とかいって烈火のごとく激昂していたのを覚えてるから、ファンからしたら本当に酷かったんだと思う。
ほいで今回、久しぶりにアルバレス監督作を観たアテクシは「ああ、監督の道を選んだんだ」と、スクリーンを見て初めて知りました。
も、完全に映画監督の仕事だよね。
欲を抑え、個を無にし、自我を殺し、「わが」を「まま」に返納する身振り。奴が撮ったは“繋げたいショット”ではなく“繋がるショット”、奴が割ったは“おれが気持ちいいカット”ではなく“人が気持ちいいカット”。プロットは本流から逸れず、本流を邪魔せず、キャラ、美術、セットといった造形全般はギーガー風、音楽もゴールドスミス調と、よくもまぁこれだけ我を殺したもんだ。
いうなれば、何か言ってるようで何も言ってない歌詞を連ねてはいるし歌唱力も大したことないけど楽曲としてのクオリティ自体はまあまあ高い90年代J-POPみたいな。音数少ないのにリフ印象的やん、みたいな。よう作られたあるやんか、みたいな。
「Hello, Again 〜昔からある場所〜」みたいな。
ジョンソンについても一言。
主演がスピーニーで、主役がエイリアンなら、裏主人公はアンドロイドのジョンソンだ。
アンドロイドの行動規律を司るのはプラグラム。元々は「スピーニーを庇護する」というプラグラムが書かれたモジュールが差し込まれていたのでスピーニーの身辺警護を第一義に置くし、またエイリアンの脅威から他4名のクルーを守ればスピーニーの安全性がより高まるという思考からクル―たちも守る、さながら『ターミネーター2』におけるT-800状態の聖ジョンソンだったが、しょせんは命令が書き込まれたモジュールを入れ替えることで態度を一変させるアンドロイド。「企業の利益を最優先する」と書かれたモジュールを差し込むや否や、一転してふてこい態度で仲間は見捨てる、人の親切に「ありがとう」も言わなければ、夕飯にお呼ばれして「ごちそうさん」も言わない傲岸不遜な闇ジョンソンと化す。
そしてこの設定が多重人格サスペンスに帰依して、然るべき効果をあげているあたり。具体的には「ロックを解除してよおおおお」、「早よドア開けたりーなああああ!」のあたり。非常によいですね。
ちなみに何のモジュールも装着してないおれでもあの局面でロックは解除しないけどね。
あと翻訳泣かせの親父ギャグも、スピーニーにこそ受けなかったものの、おれはぜんぶ笑ったよ、ジョンソン。
ジョンソン&ジョンソン。
そうだ、忘れちゃいけねえや。迫りくるエイリアンたちをパルス銃で一掃したいけど、エイリアンの血は酸性体液だから撃つと船体に穴があいて我が身もろとも無茶苦茶になって死ぬるので撃つに撃てないというジレンマの打開策も楽しかったよね。
あのシーンは気持ちいいほど科学考証を無視し、無視してなお「なるほどねぇ」と思わしむる、納得の恐喝。パワー溜飲下げさせ。 勢いで観客を丸め込みましたな。ビジュアル優位の理屈無視。『アルマゲドン』(98年) かよ。
“無理を通す力”って、嫌いじゃないよ。
ただ一点。クライマックスにボスキャラとして現れる、エイリアンと人間のハイブリッドこと“オフスプリング”の造形には腰砕け。
昔から思ってたけど、欧米人ってロボットとか怪獣とか幽霊とか宇宙人とか“この世に存在しないモノ”の造形にはてんで弱いよね。
0から1を創造するのが苦手よね。からっきしダメよね。日本人の想像力が高すぎるのかな。
オフスプリング氏。
大体よ~、なんなんだよオフスプリングって。むかつくわー。なんやねん、その怪物界の初期アバターみたいなデザイン。
モバゲーかおまえ。
「✨無料会員登録✨」やあらへんで。
なめてんじゃねーよ。早くいなくなってしまえよ。せっかくのエイリアン最新作に水を差すな。水辺に帰れ。盛り下げてんじゃねえ。嫌いだわぁ、これをデザインした奴。だってこんな映画、作る前から世界中のエイリアンファン及びファンじゃない奴ら数千万人が見ること確定してんのに、なんでこんなデザイン通しちゃったんだろ。イカレポンチのフルーツポンチのエイリアンポンチなんだろか。
ほんで「オフスプリング」て。
腹立つわぁ。同名ポップパンクバンドやんけ。おれはパンクが嫌いなんだよ。許せね~。特にポップなパンクがね。大ヒット曲「Pretty Fly」かおまえ。デフ・レパードの「Rock of Ages」の冒頭の掛け声をパクりやがって。
断じて許すことができね~~。
それと同じ名前しやがって、この全身ぽきぽき野郎!
すまん。興奮しちまったが言いたいことはひとつだけオフスプリングはゴミひいては一生オフっとけご静聴あざrsあらした。
ふぅ、くたびれたよ。そろそろ総括に入るとしようか。『エイリアン:バブルス』。
なかなかおもろかったで。
ロムルスか。
おりゃあ、一定まで満足した!
もう、「ポー」って感じ。
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