良くもマッチョ、悪くもマッチョ ~デヴィッド・リーチがビンゴする日を夢見て~
2024年。デヴィッド・リーチ監督。ライアン・ゴズリング、エミリー・ブラント、アーロン・テイラー=ジョンソン。
スタントマンが愛のために頑張って映画撮る。
おえおえーす、やろか。
コンビニエンスなどで無愛想な接客をされた際、あなたは何を感じるだろうか。おそらく多くの人民は口を尖らせ「チェ。なにさ」と不満を感じたり、時にムッとして「なんやこいつ」と怒りを感じるだろうが、俺の場合は、逆に、商品や釣銭を受け取ったあとに「ありがとー」なんついつつ、やさしく微笑んで店を出るのですよ。CMの永作博美みたいに爽やかに。
この行動には2つの意味がある。
1つは、まあ簡単にいえば皮肉。ふてこい態度の店員に対して丁寧に礼を言うことによって店員であるきみよりも客である俺の方が礼儀正しかったね、ということを反語的に伝えているわけ。よくアメリカ映画とかにもあるじゃない。人から親切にしてもらったのに礼も言わずにその場を立ち去る人間に、親切した側が肩をすくめながら「どういたしまして」って言うやつ。俺、あれ好きなのよ。つまりこの場合における「どういたしまして」は「こういう時は『ありがとう』って言うんだよ」の意。
むしろ、無愛想な接客をされたからといって「なんやこいつ」などと業腹してこちらも無愛想にするのは、なんだか同じ土俵に立つようで、とっても悔しいの。無愛想のナイフで俺の品格を傷つけようとしても無駄だ。どんな無愛想にもエンジェルスマイルで「ありがとー」と言ってあげる。そして愛でおまえを包みこむよ。
行動の意味の2つめ。
教育である。
よく行くコンビニエンスなどで無愛想な接客をしてくる店員さんにエンジェルスマイルで「ありがとー」と返し続けているうち、次第に店員さんの魂が浄化されて、やがては人が変わったように気持ちのいい接客をしてくれるようになります。
と、俺がこんなことを言うとすぐリアリズムを大事にする奴とかが「そんなわけあるかえ。こっちがにっこり笑ろて『ありがとー』言うだけで店員の態度が変わるわけあれへんやろ。夢見んのも大概にせえ。現実、見据えていこうや」などと歯向かってくるが、さにあらず。実際問題、このやり方で俺は馴染みのコンビニエンスの店員さん、約3名ほどの接客態度を変えてきた実績を持つ。3名って十分すごいでしょ? 100倍したら300名ですよ。1万倍したっていいんです。ほいだら3万名ですよ。どっひゃあー。もう軍隊やん。にっこり爽やかな、接客アーミーですやんか。
では、なぜ無愛想な店員さんに愛想を振りまくことで店員さんの愛想までよくなるのか。
返報性の原理ってやつだろうな。
無愛想な態度に対してこちらが愛想を返すことで、店員さんは俺の愛想のよさ越しに自らの愛想のなさを自覚、いわば俺によって店員さん自身が自らを相対化し、己が無愛想を反省するというカラクリ。2つめの要因は、いつも俺が元気よく「ありがとー」なんつうもんだから店員さんの方も次第に同じようなテンションで対応するようになっていく、みたいな条件反射もあるかもしれない。あと、3つめの要因は自分で言うのもなんだが、いつも愛想よく「ありがとー」と言う俺のことを好きになってくれたの・か・も♡
まあいずれにせよ、イラチな俺でも昔に比べて店員さんの接客にイライラすることは随分少なくなりました。イェイ。
というより、そんなことでいちいちイライラしてらんない、というのもあるかもしらんが。そんなことよりもっとイライラせなあかんことがこの世にはあるのだ。
規定の秒数見な消されへんネットの広告とか。
なんやねん、あれ。
「10秒後に報酬を獲得できます」つってカスみたいな広告見せられて。アホらしくて「勝手にやっとけ」なんつって他のタブ開いてそっち見ながら「そろそろ10秒経ったかな?」つって広告のタブに戻ってきたら全然カウントダウンしてなくて9秒で止まってやんの。
他のタブ開いてるあいだは時間止まんのかい。
よう考えられたあるで!
ズルさせへん仕組みを開発して!!
よう作られたある。
そういうとき、俺は悔しいからエブリリトルシングの「出逢った頃のように」を歌って10秒やり過ごしますね。ムカムカしながら「マイラービズフォーエヴァー、あなーたとー、出会った頃のよーおにー、季ー節が変わあってもーきっとー色褪せなーいーはーずだーよー」ゆうて。
歌い終わるころには10秒経って報酬を獲得できてる♪
なにが報酬やねん。
これが一番ムカつくねん。「10秒後に報酬を獲得できます」の「報酬」。
広告表示を取り下げることが俺たちに対する報酬なんか?
「報」も「酬」も「むくいる」って意味の漢字やぞ。
ほな苦労やん。広告を見ることって。やはり。
広告出してる側、俺たちに苦労させるつもりで広告出してるやん。苦労って思ってるやん。自覚あるやん。「我ながら嫌がらせみたいなことしてるな~」って思いながら嫌がらせしてるやん。せやないと「報酬」なんて言い方せんやん。嫌がらせやん。ピンポンダッシュやん。上履きに画鋲やん。黒板消し落としやん。「最初はグー、じゃんけんポイ!っと出すアホがいるー」やん。友達の肩トントンからの人差し指プニュッやん。口論の際の「そんなん言うてへんし。俺がいつ言うたん。何時何分何秒? 地球が何回まわった日?」やん。
小学校やん。
小学校の原風景やん。
たぶん昭和後期から平成にかけての小学校の原風景やん。ノスタルジーやん。今思うとすべてが懐かしいーってなるやつやん。レトロフィーチャーやん。
それと同じことをネット広告はしてるやん。エンジェルスマイルで「ありがとー」と言ってあげる。そして愛でおまえを包みこむよ(でも切り裂くこともする)。
そんなわけで本日は『フォールガイ』やん。一歩間違えたらムール貝やん。それでなくとも放る貝やん。いずれにせよ何らかの貝やん。
◆カメアシちゃんの為にスタントくん頑張る◆
昨年の大晦日。特に観るモノもないので、これを観た。世の中には観たいと思って観る映画だけではなく「観るモノないな」というときにこそ観るべき映画というのがある。
『フォールガイ』。
まずタイトルがややこしいから今すぐ変更されたい。『フォールガイズ』と勘違いしてしまうじゃないか。色とりどりのぽってり達がゴールに向かって押し合い、へし合い、ど突き合いした挙句、障害物に弾かれて「きゃあー」言いながらステージの外に吹っ飛ばされる大人気オンラインゲームと取り違えてしまう。間違えんようにせな。『フォールガイ』ね。
で、そんな『ムール貝』、あ間違えた『フォールガイ』。監督はブラッド・ピットやジャン=クロード・ヴァン・ダムのスタントダブルを長年務めてきた分身野郎デヴィッド・リーチ。プロの元スタントマンで、現在は自身が手掛ける作品のスタントコーディネーターも兼任することから監督/製作に関わる作品はすべからくアクション映画である。
特にここ10年で激変したアクション映画界のキーマンというか、むしろこの男やマシュー・ヴォーンらによってアクション映画史って刷新されたよねって感じの重要人物である。
『ジョン・ウィック』(14年) 、『アトミック・ブロンド』(17年) 、『デッドプール2』(18年) 、『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』(19年) 、『ブレット・トレイン』(22年) など、ガン=カタやギミックを用いた洒脱で流麗なアクションシーンと、ネオン・ノワールの濡れた色彩に宿る官能性。このスタイルが映画業界を席巻して早10年。今やデヴィッド・リーチは影のスタントマンではなく光を浴びた映画作家になったし、「名前がデヴィッド・リンチと似ててややこしいから変更されたい!」などとヤジるおれみたいな人間を完全に黙らせることに成功した。
おめでとうな、リーチ。
だが、おれは甘くない。甘くないぞリーチ。
先にも述べた“スタイル”に関してはおれもいたく気に入ってるし、なんなら特許を取るべき発明だと思うし、リーチの新作は毎回それなりに楽しみにしてる。クリスマスを待つアメリカの少年トムのようにな。
しかし映画としての完成度。作家としての腕。ここがもうひとつ惜しく、基本的にはどの作品もおもしろいんだけど、なんというか、ビンゴ!とはいかないもどかしさを毎度感じているんだ。
文字通り「リーチ」なんだよな、こいつの作品って。
名が体を表しすぎだろ。「デヴィッド・リーチ」なんて。よう言うたもんやで。いつか完全無欠の映画を撮った暁にはデヴィッド・ビンゴに改名したらいいのではないだろうか。
ほんで『フォールガイ』。ところどころで「うーん…」と呻きながらも、楽しめるところは積極的に楽しんだ、そんな映画体験だった。
筋を紹介する。
女性のカメラアシスタントと恋仲秒読みまで関係を育んできたハリウッドきっての腕利きスタントマンが撮影中の事故で背骨がだめになり1年半。仕事を辞め、カメアシちゃんとも関係が途切れて腐っていた折、半ば強引に映画業界へと呼び戻されスタントをやってほしいと頼まれた。
その復帰作は、夢叶って初メガホンをとることになったカメアシちゃんのデビュー作『メタルストーム』。カメアシちゃんへの未練を断ち切れずにいた彼にとって、断る理由はどこにもなかった。
ところがどっこい。ハリウッドに戻った彼に、プロデューサーは無茶苦茶なことを言う。
「長年あなたがスタントダブルをやってくれていた『メタルストーム』の主演スターが数日前から失踪したので捜してください。絶対見つけてください。ただし撮影と同時進行でね。あくまで『メタルストーム』は完成させなきゃいけない。なお、スター捜索は監督に気づかれることなく水面下でおこなって丁髷」
「そんなモミアゲな」
早い話が、カメアシちゃんの初監督作『メタルストーム』で主演を務める映画スターが謎の失踪を遂げたというので、そのスタントダブルとして『メタルストーム』のアクションシーンをこなしながら消えた映画スターも捜さなくてはいけない。
しかもスター失踪事件をカメアシちゃんが知ってしまったり、結果的にスターを見つけられなかった場合はゲームオーバー。おそらく『メタルストーム』は撮影中止になり、そうなるとカメアシちゃんは間違いなく業界から干されてしまう。そんなことは嫌だ。愛するカメアシちゃんには是非とも『メタルストーム』を完成させてほしいし、まぁこれは下心だけれども、すべてうまくいけば一度関係が途切れてしまったカメアシちゃんとやり直せるかもしれない。
ああ、ホットなカメアシちゃん。まあ今は監督なんだけど。態度も冷たいからアイスなんだけど。ホットでアイスな監督ちゃん。だけどナイスな監督ちゃん。目的は明確だ。消えたスター見つけて、首根っこを掴んででも撮影現場に来さす。ほんで『メタルストーム』撮る。ほいだら俺と監督ちゃんが結ばれる。ハッピーエンドだ。そのために俺はがんばる。
スター見つけよ♪
やったるでなぁ~~~~!
ちゅう話ですわ。
主役のスタントマンを演じるのはライアン・ゴズリング。カメアシちゃんもとい監督ちゃん役にはエミリー・ブラント。映画スターをアーロン・テイラー=ジョンソンが好演するで。
◆『ノッティングヒルの恋人』と『プリティ・ウーマン』…区別つかん◆
マッチョが作った映画だな。
この一言がすべてだろう。前章では『ジョン・ウィック』や『ブレット・トレイン』をさして洒脱で流麗で官能的な作品群と称したが、それはスタイルの話であってエッセンスではない。デヴィッド・リーチは本来的にマッチョな作家だ。
スタイルは相変わらずおもしろい。
スター失踪事件を追うライアンがクラブでドラッグ入りのカクテルを飲まされるシーンでのSFXを駆使したサイケデリックな格闘シーンの、なんてエレクトロニカ! あまつさえ、酒を飲ませた張本人に「この幻覚はいつまで続く!?」と問い詰めると「ユニコーンが見えなくなるまで」と言うので辺りを見渡すとライアンのすぐ横にユニコーンが立っていて。
こいつはまさに大迷惑。
その後しばらくマジで画面にユニコーンが見切れて映ってんの。しかもカワイイの。画的にもシュールだし、主人公のトリップ症状を観客に共有させる装置としてのアイデアという点でもユニークだ。
目下撮影中の『メタルストーム』も、女エイリアンとスペースカウボーイのすれ違いの愛を描いたSFスペクタクル感動巨編という設定で、現在のエミリーとライアンの関係性を示唆する劇中劇、という洒落た構造になっているし、もっといえば『メタルストーム』は1983年に大コケした実在する映画である。
それでいえば本作は映画ネタにまつわる間テクスト性の嵐。台詞の中でさまざまな映画のタイトルが引用されており、中でもおれのお気に入りはライアンと共闘する親友のウィンストン・デュークが「もしこれが『逃亡者』(93年) で、おまえがハリソン・フォードなら、そろそろ敵が現れるころだな」という、自虐的なのか嗜虐的なのか少々わかりかねるハリウッド式脚本術に言及したメタ台詞。好きよ、こういうの。
あと、『メタルストーム』の結末部を決めあぐねているエミリーがライアンとの電話で『ノッティングヒルの恋人』(99年) を比喩にして脚本の結末、ひいては互いの関係性について語るも、ライアンの方は『プリティ・ウーマン』(90年) と勘違いしてエミリーの言葉を誤解してしまうシーン。
これに関しては映画好きあるある過ぎない?
そうなのよ。ややこしいのよ、この2本。どちらも90年代に作られたジュリア・ロバーツ主演の似たり寄ったりの大ヒットラブコメで。
今、わざと言った「似たり寄ったり」というのがミソで、この言葉にカチンとくるのが世の女性ファンで、だって似てるじゃんと口を尖らせてタコチューするのが世の男性側。つまり男女の差。男女で異なる感覚の差。それゆえに生じる男(ライアン)と女(エミリー)のすれ違い、というものをジュリア・ロバーツの代表作を引用したダイアローグで表現した、可笑しくもスマートな小技がきらりと光ったシーンなのであります。
『ノッティングヒルの恋人』と『プリティ・ウーマン』はややこしい。
もう少し、いいですか。
この電話のシーンは本作屈指のパワー名場面で。電話越しにジュリア・ロバーツの映画の話をしている二人を、最初は交互に映していたカメラが、エミリーの「心が離れてしまったエイリアンとスペースカウボーイを画面分割で表現してみたいの」という台詞をきっかけに、電話中のライアンとエミリーをマジで画面分割にしてしまうのだ。
映画用語では「スプリット・スクリーン」といって、ブライアン・デ・パルマやクエンティン・タランティーノなどが愛用。まあタランティーノはポーズでやってるだけですけど、デ・パルマはかなり多用しているし、その効果を存分に味わいたいのならリチャード・フライシャーの『絞殺魔』(68年) という映画をご覧なさってください。
ほかにも、ぜんぶ挙げると面倒臭ぇことこの上ないほど小ネタがいっぱい。これが『逃亡者』のようにタダの引用ならいいけど、元ネタが作劇の伏線やフックになってる場合もあるから“知らないと楽しめない間口の狭さ”は多少あるかもしれない。『マイアミ・バイス』(84~89年) の文脈とかね。
いやいや、とはいえ気軽に楽しんで頂きたい作品ではあるのですよ、とリーチが申しております。
おれが楽しんだのは物語の途中でライアンの相棒となる中型犬のドーベルマン。フランス語で指示すると相手の股間に噛みつく、頼もしい存在だ。名前は「ジャン・クロード」。
ヴァンダムやないか。
フランス語を母国語とする股割りが得意な犬好きアクションスターでお馴染みのジャン=クロード・ヴァン・ダムやないか。
在りし日の木曜洋画劇場で「う~ん、ヴァンダム」とか「これが究極のダブルゼータ・ヴァンダム!」とか「ヴァンダホー!」とか、せんどイジられてたベルギーが生んだチョコの次の代名詞やんかいさ。
ライアンに働きを認められ、バーで水をおごってもらったジャン・クロード(よかったね♪)。
あと音楽もよかったよ。キッスの「I Was Made for Lovin’ You」(カバーかな)を主軸に、AC/DCの「Thunderstruck」や、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの「I Hate Myself for Loving You」などハードロックが通底した挿入歌の数々。かと思えばフィル・コリンズからテイラー・スウィフトまで、と節操なき音の乱射に前後不覚。
KISS「I Was Made for Lovin’ You」(YouTubeからパクってきた)
◆良くもマッチョ、悪くもマッチョ◆
ただ“死に時間”も多かった。
本作の上映時間は126分だが、並の監督が撮れば110分、腕のある監督であれば100分台におさめていただろう。
とにかくアクションシーンとダイアローグが冗漫。
アクションシーンに関しては冗漫さそれ自体を自己目的化した『ジョン・ウィック』―すなわち“延々戦ってるだけの映画”を見事エンターテイメントに成立せしめた実績があるが、いかんせん本作は『アトミック・ブロンド』や『ブレット・トレイン』系列のテリングで運ぶ映画なので、アクションシーンにも“ここから先は冗長ですよ”というラインが引かれてるわけだが…すべて見誤ってたな。
なかでも酷いのは、ライアンがスターの自宅でテリーサ・パーマーの待ち伏せにあってチャンバラを演じる『キル・ビル』ごっこと、クライマックス後にエミリーに敵と間違われて一方的に襲われる場面。あまりにクドすぎるし、それでいうならエミリーに格闘技の心得があってあんなに強いことにも道理がないんよ。おそらくトム・クルーズと共演した『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(14年) でムキムキに肉体改造してアクション映画の新境地を切り開いた過去から「ほっほーん。エミリー・ブラントって動ける女優なんや。ほな、やってもらおか」程度の浅い理由からむりやりアクションの出代を作ったとしか思えねーんだよね。
ライアンをど突き回すエミリー・ブラントのご様子。
そしてアクション以上に冗漫だったのがダイアローグ。
はっきり言って苦痛でした。ブラストビートで貧乏ゆすりしてたもん。
特にライアンとエミリー。二人が話し始めるともうアウト。二人の間にラブっぽい雰囲気が漂ってもアウト。両者の関係性を深く描くには言葉を重ねればいいのだ、とする脳筋監督にありがちな物量作戦=口数。
まるで何もわかってねえようだ。
いちばん大事なのは二人の関係性をイッパツで“直感”させる演出の知性でありッ!
次に直感を“確信”へと変える芝居!
言葉は“それでも伝わらないモノの受け皿”としてそっと添えるだけだああああああああ!!!
悠長な台詞が多すぎる。大して意味もないつまらん話をぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。あんなド三流以下の台本を覚えたのかと思うと頭が下がる。ライアン・ゴズリングとエミリー・ブラントこそ真のプロですよ。
ここまで酷いと、先述した「もしこれが『逃亡者』なら~」とか「それは『プリティ・ウーマン』よ」とかがスクリプトドクターの仕事なのではとさえ邪推したくもならァさ。
まあ、良くもマッチョ、悪くもマッチョ。
元スタントマンだったリーチが、影の立役者であるスタントマンを“主人公”に映画製作の裏側を光で照らしたスタッフ讃歌を高らかに描きあげ、まあ本人らは万感の思いで涙ぐんだりもしたのだろうが、少なくとも完成した本作からは映画愛! とかスタント愛! みたいな大袈裟なものは感じ取れなかったし、だからこその良くもマッチョ、悪くもマッチョ。
個人的には好感が持てるけどね、そっちの方が。おれは『M-1グランプリ』で「人生懸けて云々」系の連呼とか、優勝者がさめざめ泣くとか、“芸人の格好よさ”とやらをフィーチャーする煽りVTRとかに冷めてる側の人間なので、多少の愛おしさを感じながらも救いがたく愚かな『フォールガイ』には、トータルして「楽しそうで何よりだ」と感想する。
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