むすめ・いないと・締まらん。~うちの娘かわいいやろに付き合わされる親バカ映画~

2024年。M・ナイト・シャマラン監督。ジョシュ・ハートネット、アリエル・ドナヒュー、サレカ・ナイト・シャマラン、アリソン・ピル。
物々しく厳重に警備されたライブ会場で物々しいことが起こる。なぜなら会場の中に物々しい奴がいたからである!
おえおえおえおえあえあえあえ~~~~す。
新年からうるせえ話をするし、新年から俺はうるせえ話でおまえたちを苦しめていく所存なんだよねええええ。それが信念。「新年あけましておめでとうございます」ならぬ信念つらぬいてはじけそうでございます。
ありがとうございます。
なんて言うとりますけども、ようやっとこさ『ジョジョの奇妙な冒険 第6部 ストーンオーシャン』を見よと思い立ち、全38話、わりに短かったから2日で見ましたよ。あい。ファイルーズあい。
フー・ファイターズ(通称FF)というキャラクターがとても愛らしく描けていましたね。ええアニメーション作品やったわ。ええもん見さしてもろた。
ちゅうのも、昔読んだ原作マンガが百々目鬼倒すほどおもしろくなかったし、絵も話もゴッタゴタのバッタバタで、スタンドバトルも複雑すぎて意味不明だったんだけど、アニメで見たらすっかり氷解、さっぱり爽快。やっぱり色と動態はアニメの優位性だなと思ってパッタリ。原作の6部は頭で読まなきゃいけなさ過ぎた、はっきり申しまして“ジョジョ表現が動脈硬化を起こした迷作”だと思うんだけど、アニメだと色と動きがつくことで、そのへんが感覚的にスッと入ってきて「あーね」って、なーる。
ほーど。
なモード。
歴代OPの中でもダントツで好い。
そんなことより、どんなことより、おれはFFのことが忘れられないんだよ。
もはや髪型とも呼び難い、卵の殻以外の何物でもないつるりとした丸い頭と、まあ元が人間ではなく、エートロという女囚の死体を依代にした“プランクトンの集合体”なので、人間の生活/生態/社会に興味津々というあたりが可愛いところ。
FFかわいい。
OP曲で一瞬だけ映る「頑張っちゃお!」みたいなポーズがすンげえ好きなのよ。
画像左がFF。
これは単行本4巻の表紙をベースにしたスリーショットなんだけど、それよりもアニメ版のOPの「頑張っちゃお!」が超かわいいのよ~。
「頑張っちゃうしかないじゃんね!!?」みたいな。
画像左が頑張っちゃうしかないじゃんねポーズ。右はそれを参照したであろう単行本4巻の表紙。
仲間のアナスイとは馬が合わない、という設定もまたいいんだよ。
6部の主人公は空条徐倫(ジョリーン)。初めこそ敵として立ちはだかったフー・ファイターズだが、徐倫に命を救われたことで“彼女を守る”という騎士のごとき使命に燃えており、片やアナスイは徐倫に惚れた王子様。ちゅこって、あたかも「徐倫を守るのはアタシ!」「俺だ!」と言わんばかりに姫を取り合う騎士と王子の恋の鞘当てが演じられるのだ。
ジョジョといえば音楽ネタ。
音楽ネタを挟むなら、FFの元ネタはまんま「フー・ファイターズ」。ニルヴァーナの元ドラマーであるデイヴ・グロールが立ち上げたバンド、および1995年の同名アルバムである。そしてアナスイのスタンド名は「ダイバー・ダウン」。これはヴァン・ヘイレンが1982年に発表した同名アルバム『Diver Down』から。誰しも一度は耳にしたことがあろうロイ・オービソンのカバー曲「(Oh) Pretty Woman」が収録されたアルバムね。
ここからは半分穿ち論考、半分こじつけの試論だが、これらの音楽ネタがすでにFFとアナスイの確執を裏づけていた、というのがふかづめ流超理論。
というのも、ヴァン・ヘイレンは70年代末から80年代にかけて活躍した煌びやかな「ハードロック」バンドであり、対してフー・ファイターズはハードロック亡きあとの90年代に台頭した「グランジ」や「オルタナティヴ・ロック」というジャンルなのね。そしてハードロックを完全に殺して風化させた、なんていうと言い方は悪いけど、引導を渡したのがニルヴァーナ(フー・ファイターズを立ち上げたデイヴ・グロールが在籍していた伝説的バンド)。
つまりFFとアナスイが犬猿の仲…というのは、両者の音楽ネタさえ知っていれば「そらせやろ」なんである。
ここでおもしろいのが徐倫の存在。彼女のスタンド名である「ストーン・フリー」とはザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの曲名。刑務所に囚われて自由を渇望する徐倫の心情ともマッチする反抗的な歌詞よ。そしてジミ・ヘンドリックスの音楽は煌びやかなハードロックでもなければ、ましてやオルタナなど存在する遥か昔の古典的なロック(ブルースとサイケの要素が強い)。
畢竟、ロック(徐倫)→ハードロック(アナスイ)→オルタナティヴ・ロック(FF)と、音楽史的に見てもほぼ10年単位で変遷しており、三者は決して交わることはない。実際、作中でも徐倫とアナスイとFFは…おっと、語らぬが吉でしょう。
いがみ合うFF(左)とアナスイ(右)。
なんてどうでもいいんだよォーッ!!!
なんで俺は新年一発目の記事でジョジョを語っているんだ~~~~!
それは『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』が予想に反して素敵なアニメーション作品だったからで・す・よ♡
あ、そうなの?
そりゃそうじゃん。
あ、もしかして俺いま自我分裂してる?
フツーにしてるよ、分裂。
ああ、やっぱり? 俺の中に「もう一人の俺」をこさえて、その俺と対話してる感じになってるよね?
なってるも何も、その「もう一人の俺」も含めて俺自身じゃん。
うーん…、ワケわかんねーけど、ここで「ワケわかんねえ!」とかなんとか言って癇癪起こしたらハナシが余計に長引きそうだから無理くり納得しようかな。
納得しよ♪
はい。というわけで本日は『トラップ』です。二重人格ではないけれども、人間のペルソナの闇を描いたサイコパシーでスリリンな作品でありますよ~。

◆ジョシュ・ハートネット、久々に見たわ◆
M・ナイト・シャマランの最新作『トラップ』観ましたー。
劇場に辿り着きしおれ、「楽しみやなぁ」とか「どんな映画なんやろ」とか独り言しながら黙ることなく、予備知識・ナイト・ダマラン状態で入場。
2時間後―。シアターから出てきたおれ。
「ふー。すっきりしたぜ」
顔をぴかぴかにさせての退場。つるつるにさせての帰宅。
ええもん観さしてもろた。満足した!
では感想を結論しますよ?
えも言われぬ、絶品のつまらなさ。
ほどよくスリリンで、大変心地よい退屈さ。
やあ、シャマラン映画は肩が凝らんねぇ。
赤く染まった男の顔のアップに『TRAP』の白抜きが映える、簡素にして鮮烈なポスタービジュアル。
男の貌は不鮮明で無記名的だ。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(14年) や『ジュラシック・ワールド』(15年) のクリス・プラットにも見えるが、正解はジョシュ・ハートネット。
ようよう見たらポスターのいっちゃん上に「JOSH HARTNETT」ゆうて書いたあるわ。
ここで掴まれた。おれのハートネットを鷲掴まれた。なんちゅう懐かしい字の連なりだとジョシュは言うんだ。
というのも、ジョシュ・ハートネットといえば90年代末から00年代前半に渡って異常なほどブレークしたハリウッドバビロンの使い捨てイケメン俳優。個人的に思い出深い『パラサイト』(98年) を皮切りに、『パール・ハーバー』(01年) 、『ブラックホーク・ダウン』(01年) 、『シャンプー台のむこうに』(01年) 、『ハリウッド的殺人事件』(03年) 、『シン・シティ』(05年) 、『ブラック・ダリア』(06年) 、『ラッキーナンバー7』(06年)など数々の超大作、名監督の話題作などに引っ張りダコ、からの押し込みイカ。バットマンやスーパーマン役を打診されていたほか、ヴェネツィア映画祭、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞を席巻したアン・リーの『ブロークバック・マウンテン』(05年) も、当初はジョシュ・ハートネットとホアキン・フェニックスが起用されるはずだったが、ジョシュはミネソタ州の心優しき坊やとして生まれたので、嘘と欺瞞と多忙をきわめるハリウッドには馴染めず、選りどり見どりのビッグオファーを蹴って故郷に戻り、ミネソタを拠点に細々と俳優活動をしている“世捨て人”。
そんなジョシュが返り咲いたはシャマラン新作。えらく楽しそうに演じてました。
ジョシュ世代の筆者としては終始多幸感溢るるフィルム体験、及びこの“貌”を選んだシャマランはやはり慧眼の士。それこそクリス・プラットやチャニング・テイタムにも通じるが、ジョシュ・ハートネットの“ハンサムだけど味のしないヌタッとした何者でもない顔”を、うまく、うま~く活用した映画術には脱帽だったわさ。

元売れっ子のジョシュ・ハートネット。
未だ指名手配中のブッチャー(切り裂き魔)が世間を騒がせているフィラデルフィア。
ジョシュが演じた役は、年頃の愛娘アリエル・ドナヒューがいま最も夢中になっている世界的歌手レディ・レイブンのアリーナライブのチケットをゲットした父親だ。
「娘よ、今日は大いに楽しんじゃおうね」
「ありがと愛してる、パパーッ!」
映画はアリーナに到着した親子がウキルンワクテカで開演を待つシーンに始まる。
ウキルンワクテカ…ウキウキルンルンワクワクテカテカの意。
席を確認し、会場物販を巡り、同年代のレイブンファンと交流するアリエルと、そんな幸せ絶頂の娘を目を細くして見守るジョシュのすてきな親子関係を活写した、最高の第1幕だ。
アリエル「本物のレイブンを間近で見れるなんて! まじアリエナーイ!!」
アリエルなんて名前しといて「アリエナイ」とか言うな。ややこしいな。
ちなみに本作のベストシーケンスは早くもここ。見てるこちらまでニッコリしてしまうほど、この親子、幸せそうすぎる。開幕10分。まだ事故も事件も起きてないが既におれはこんなにも楽しんでるんだからいっそ何も起きなくてよろしい、むしろ何も起きんな、と思えてしまうほどに1幕の見せ方が異様にうまい(今にして思えばそんな“親子への愛着”を逆手に取った作劇が唸ってたんだろうなぁ)。
次第、娘を連れてライブ会場を散策するジョシュが妙な違和感に囚われ始める。
やけに警察が多い。そこら中に監視カメラ。
何かあったのかと会場物販のシャツ売りに訊ねると、口の軽いシャツ売りは、この会場に今日ブッチャーが来るらしい、このコンサート自体が奴を捕まえるための大掛かりな罠なんだ、と言った。
驚いたジョシュ。始まったライブ。生でレディ・レイブンを見て大興奮してる娘をよそに、ジョシュは会場の至る所で目を光らせている警察隊が気になって楽しめない。
なんとなれば、ジョシュこそがブッチャー、その人だったからである―…。

◆デウス・エクス・シャマラン◆
袋小路に迷い込んだ殺人鬼、ジョシュ。
そんなわけで2幕以降は、数百人の警察の目を欺きながら、なおかつコンサートを楽しむ娘にも挙動を怪しまれないよう細心の注意を払いながら逃走経路を確保するジョシュのステルスゲームが始まる。
でもこれが徹頭徹尾ご都合主義なのよ。
ライブ会場の構内図を一瞬で理解したり、いざという時は肉弾戦でピンチを切り抜けても御都合主義にならないよう、わざわざジョシュに本当はシリアルキラーだけど表の顔は消防士という設定を誂えてるんだけど、ここに“御都合主義を回避するための都合のいい設定(つまり御都合主義)”という味わい深さがあるんだよなあー。
なまじ消防士という設定が付与されたことで、なおのこと御都合主義が浮き彫りになるという…、火に油というかマッチポンプというか。消防士だけに。
シャマランしてるなー。
また、口の軽いシャツ売りと懇意になれたのも、その男から関係者しか知らない合言葉を聞きだせたのも、わざと騒ぎを起こしてその隙にスタッフの身分証をゲットできたのも、バックステージへと通じる客席通路のせり上がりの階段を見つけられたのも、アリエルがジョシュともどもステージに上げてもらえてレディ・レイブンと接点を持てたのも、すべてはジョシュにとって都合のいい方へと物語的力学が働いた偶然という名の必然、すなわち御都合主義の賜物。
ジョシュが自らの機知と発想で急場を凌ぐのではなく、スタッフオンリーと書かれた部屋に入りたいから身分証が欲しいな~と思ってたら偶然近くに身分証があったり、バックステージから逃げられないかな~と思ってたら偶然近くにバックステージに通じる階段があったり…など、もうデウス・エクス・シャマランなのよ。
デウス・エクス・マキナ…「機械仕掛けの神」の意。古代ギリシャの演劇において、筋が複雑化して収拾がつかなくなった際に、どこからともなく絶対的な力を持つ存在が現れ、混乱した状況を一発で解決するという無責任な作劇法。たとえば夢オチとかね。作劇論における禁忌のひとつ。
ただ、ここが一番大事ポインツなんだけど、そんな御都合主義もまるっと含めて「んなアホな」と笑って楽しむのが本作の、というかシャマラン映画のパッケージ。
一見さんの目にはツッコミどころ満載のドロ駄作に映りもする氏の映画も、シャマランワクチン…通称シャマチンを接種してムキムキに馴致されたシャマラニストにとっては「ま~たやってら」てなもんで、ばふばふ笑える愉悦の種なんですョ。
たとえば、世界的なカリスマ歌手レディ・レイブンを演じたのがシャマランの実娘サレカ・ナイト・シャマランとかね。

親バカすぎやろ。
しかも本当にライブしたんだってよ。劇中で披露された楽曲は、本業歌手のサレカ自身が作曲して歌っているというし、ステージセットやライブ演出も撮影用にそれっぽく見
せかけたものではなく本場音楽業界のガチのそれ。
親バカすぎやろ。
わしの映画で娘売り出すで~が過ぎるやろ。
しかも毎度恒例、シャマラン本人も端役で出演してるのだが、その役というのがステージ上でレディ・レイブンと共演できるファンを選定する会場スタッフ。
親バカすぎやろ。
「よし、そこの君。ステージに上がっていい。特別におれの娘と歌う権利をさずける!」やあらへんのよ。
ほんでレディ・レイブン役のサレカ嬢。基本的にはジョシュが誘い込まれたコンサート会場でクネクネ踊って歌ってるだけの歌手(いわば囮)だったのが、後半では打って変わって主役の座に躍り出ます。がんがんセリフも言うし、普通に芝居もする。
親バカすぎやろ。
パワープッシュすごいな。七光らせ過ぎやろ。アルティメット子煩悩やん。
…ムムッ!?
M・ナイト・シャマランの「M」って「むすめ」のMだってのか!!!
シャマ公「むすめ・いないと・締まらん」
黙れよ。
黙って高音の油の中を素潜りしてくれ頼む。
そして揚がれよ。カリッと揚がれ。頼む。
サレカ・ナイト・シャマラン。
とは言えですねぇ、まじめな話、シャマランは現代アメリカ映画界において相当に知的な男であるのですよ。
第一に、現状認識に長けている。シャマランは、世界中に抱えるファンからシャマラン映画がどう思われてるかを知っている。ファンが『トラップ』という映画をどう楽しむのか、どう楽しみたいのかを熟知している。このサービス精神はヒッチコックだ。『定本 映画術』を隅々まで読み込んだ者特有の顔つきだってしているし。
わざと素人でも推理できる展開を用意して「読めた!」なんて観客の優越心を適度に満たし、その上で予想だにしないクライマックスへと舵を切る。これまではそんな中庸なバランス感覚でやってきたが、本作はよりピーキーというか、陰影のコントラストが強く、見る者のリテラシーに依ったところが大きい。
その意味ではシャマラニスト向けの一本なのかもわからない。
◆がんばれジョシュ。くじけるなジョシュ◆
前章の続きです。
シャマランが現代アメリカ映画界において相当に知的な男である理由、第二。
やはり巧い。
ドリー多めの滑らかなショットと、それを繋ぐ天衣無縫の編集捌きを楽しむだけでも十分に堪能できる本作。
“撮って繋ぐ”という、およそ映画作家にとってはごく初歩的な営為がこの上なくリッチなんだよね(この初歩すらできてない監督がゴマンといるのに)。
格式高い。
シャマランの少し先輩に『アメリカン・ビューティー』(00年) のサム・メンデスや『リトル・チルドレン』(06年) のトッド・フィールドがいるが、この2人にも似たものを感じるんだけど、ただサム・メンデスの方はややブランド志向で、トッド・フィールドは頭を使いすぎている。
要するに、2人ともタキシードでめかし込んで『GQ』の表紙みたいに粋なポーズを取ってるのに、シャマランただひとりがアホの子みたいな顔して初期アバターみたいな鈍臭い身なりでフリー素材の佇まいみたいにボサッと突っ立っている。
だが、この中で誰がいちばん巧いかと問われれば、おれは迷わずシャマランに票を投じるものよ。
でもまあ優勝は逃すだろうね、このM-1グランプリでは。映画好きほど盲ですから、たぶんサム・メンデスが優勝するのとちがいますか。メンデスもすばらしい作家だけど。
あ、いいこと思いついたわ。シャマランが大会実行委員長になって『M-1シャマンプリ』つってサスペンス/スリラー映画の頂点を決める大会をやったらいいのとちがうかな。アメリカ映画を活性化させるためにも。
ほんでサム・メンデスは『ヒルメンデス』という生活情報番組をやったらいいと思った。“主婦の味方”を番組コンセプトに、家庭内の問題や便利グッズなどを紹介するのがいいと思う。番組最後に「燃え尽きるまで~」ゆうて。
ごめんなさいね。話がとっ散らかっちった。
『トラップ』に仕掛けられたシャマラン流サスペンス術の楽しみ方を少しだけご紹介するね。
“アオリ構図”を楽しんだらええ。
アオリ構図を楽しんだらええんや、こんなもんは。
本作にはアオリ構図が頻出する。アリーナの客席から階上の警察官や会場の監視カメラを見上げながら脱出方法を探るジョシュ…という図が不断に物語的緊張を約束するほか、この構図が意味するところの“誰かに一方的に見下ろされている”というシリアルキラーにとっては非常に都合の悪い心理的負荷が、多幸感溢れる冒頭の親子愛を見せられた観客の応援材料たりうるのよ。
がんばれジョシュ、と。
くじけるなジョシュ、と。
これまで一度も捕まることなく大勢の人間を殺してきたんだから、今度だってきっとイケるよ。こんなピンチ、さらりと躱してアリエル喜ばせたりーな、と。
つまり、この親子に肩入れすればするほどサスペンス効果が高まるというからくりで、その加速装置が観客一人ひとりの近接性バイアス(思い出補正)の中にあるというトラップ。そしてこのトラップを駆動しているのがジョシュ・ハートネットという配役。
ここで話は最初に繋がる。まんまとこの父親に肩入れしてしまったジョシュ世代のおれ、並びにおれより上の世代にとっても“懐かしい俳優”であることには違いないことから、いわば歓待さるべきシリアルキラーとしての庇護に浴しているのである。
さらに巧いのは、アオリを用いた“見下ろされる構図”により次第にジョシュが追い詰められる中盤よりも遥か手前、そう、ファーストシーンからこの演出は周到に準備されていた。
アリーナに到着した親子が人だかりを掻き分けていくと、レディ・レイブンが乗っているであろうツアーバスを見下ろせるスポットに。バスから降りて黄色い歓声を浴びるレイブンを、このときジョシュは笑顔で見下ろしていた。かくして、はじめは見下ろす側だったジョシュが、このあと完全包囲されたアリーナの中では見下ろされる側へと回るのである。
そしてコンサートが始まってしばらく経つと、娘に断りを入れて席を離れたジョシュはトイレの個室で携帯電話を確認する。監禁中(殺害予定)の男をモニタリングするためだ。ここで初めてブッチャーの正体がジョシュだったと明かされるわけだが、ここでもジョシュは携帯電話を見下ろしている。だが構図は“携帯を見下ろすジョシュのアオリ”。どういうことかな? 考えてみようぜ!
紙幅が尽きてきた。
もう多くは語らんが、劇中、やたらと“会場を練り歩くジョシュのアップショット”が頻出する。その顔がどう見ても『サイコ』(60年) のアンソニー・パーキンスなのね。このアナロジーを体現できるのはジョシュ・ハートネットだけ。それを思いつくのはシャマランだけ。
また、謎めくババアを幻視するシーンは『レベッカ』(40年) のようでもあるしね。
そんなわけで、裏も表もシャマランな作品!
ラスト20分は鬼ごっつい退屈でした。
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