シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ノック 終末の訪問者

「誰にすーん?」に満ち満ちた生贄チョイス映画 ~私の後ろで見ていた高校生カップルに捧ぐ~


2023年。M・ナイト・シャマラン監督。デイヴ・バウティスタ、ベン・オルドリッジ、ジョナサン・グロフ。

ゲイのカップルであるエリックとアンドリュー、そして養女のウェンの家族が山小屋でバカンスを過ごしていると、ドンドンドンドンドンドンドン。4人組の男女混成ユニットが扉をノックす。あっ怖い! なになに~? ドンドンドンドンドンドンドン。あコワッ。どちらさま~? ドンドンドンドンドンドンドン。きゃあなに! こあ~~~~。


 御天道さん、ご苦労さん。
猫は好きだけど、猫を人間より上位の存在として様付けしたりするような頭のおかしい猫好きは嫌い。ふかづめです。犬好きにも言えることやけどな。犬は好きだけど、犬に人間が食うようなモノを普段からばくばく食わせる犬好きは嫌い。
小金持ちの飼い主がペット甘やかして「ウチのワンちゃんが可愛すぎて、つい甘やかしちゃう。キュンです♡」とか言ってるYouTube動画を見るたびに、オレはこう思ってしまう。
ギャンです。



対戦するけ?
おまえの「キュンです♡」を、オレの「ギャンです」で打ち消してやらあ。こいよ。対戦しようぜ。「キュンです♡」を掻き消す対抗呪文としての「ギャンです」を、オレは脊髄反射で唱えることのできる肉体に、とうとうなりました。
大体なぁ、おまえが愛してるのはペットじゃなくて、そのペットの“可愛さ”だろ? “可愛さ”という属性であり、付加価値だろ?
ペットという言い方に対してさえ「ペットと呼ばないで。“家族”です!」なんてことをぬかすバカペッターって、たとえば自分の飼ってる可愛い可愛いワンちゃんなり可愛い可愛いネコちゃんなりが、たとえばの話だけどね、謎の病気で毛がぜんぶ抜けて、五体不満足とかになって、デヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』(77年) に出てくる何か、みたいな容姿になったとして、それでも変わらず愛せるのかな? って、いつも不思議に思うんだよな。
まあ、ここで「愛せるよ。当たり前でしょ」とか真っすぐな瞳で言いきられてしまうと、もう何も言えないっていうか、“そうじゃないこと”を証明する術がないので、逆に称賛っていうか「なるほど。少なくとも、そう言いきるほどには愛してるのね。“今は”ね」って、捨て台詞ならぬ捨て皮肉を飛ばすことしかできないオレなんだけれども、一瞬でも「あ…うっ?」って言い淀んだら、オレは間髪入れず、このようにしてオマエの急所を突く所存よ。
「ギャンです!」

ていうか「キュンです」の対義語って「ギャンです」で合ってんのかな。わからへん。たぶん間違うてるやろ。でもええんや。
オレは対義語を考えるのが好きだ。対義語ってサイコ~。目にした文言や、耳にした言葉すべての対義語を考えながら生きているといっても過言ではない人生をオレは送っているのかもわからない!!!
たとえば、なんだろ。キャッチーなところで言うと「スパイファミリー」の対義語は「独身テロリスト」だし、「僕のヒーローアカデミア」の対義語は「おまえのヒャッハー空間」になってくると、オレは結論づけてる。「君たちはどう生きるか」の対義語は「俺ならこうやって死ぬ」
わかるね?
「アレクサ」の対義語は「コレイイニオイ」
ここまでが初級コースです。中級に進む?
進むね?
では中級コースですよ。まず「ドラゴン怒りの鉄拳」の対義語は「カメムシ悲しみのしっぺ」になってくるわけよ。
なんでドラゴンの対義語がカメムシなんだ、とケチをつけられても「月とスッポン」よりマシだろ、としか言いようがないです、それは。ごめん。ちなみに「死亡遊戯」の対義語は「誕生業務」
以上を踏まえてクイズコーナー!
「燃えよドラゴン」の対義語はなんでしょうか!?
チクタク チクタク…
キムタク キムタク…
はい。正解は「凍れ遺伝子」です。
なんでやのぉおおおおおさっきはドラゴンの対義語がカメムシだったのになんで「燃えよドラゴン」の時だけ遺伝子になんのおおおおおお!とヒス起こしてる人民も多いかもわからない。まあ、普通に考えれば「凍れカメムシ」や「冷めろカメムシ」に辿り着くのが普通っていうか、論理的に着地しうる思考なんだけど…、論理じゃないのよ対義語は。
ちなみに「論理じゃないのよ対義語は」の対義語は「飾りじゃないのよ涙は」になってくるからね。飾りじゃないのよ涙はハッハーゆうて。ほんで「ハッハー」の対義語は「パッパー」やからね。
つまり論理を突き詰めた先にあるロンリー。
ドラゴンという「最強の生物」を極限まで対義化すると、もう遺伝子という「最小の情報」にしかならないわけ。生物の対義語は情報。ちょっと深いでしょ? 深くねえよ。

いや、深いんだよ。
夏目漱石は「I LOVE YOU」を「月が綺麗ですね」と訳したが、少なくともオレに言わせれば「月が綺麗ですね」の対義語こそが「I LOVE YOU」なんだよな。
オレは夏目漱石が好きだし、本もほとんど読んでるが、この「I LOVE YOU=月が綺麗発言」に対してだけは「黙れよ漱石」と思ってしまう。
朝っぱらから「I LOVE YOU」を言う人の身にもなってみい。朝目覚めて、恋人の耳元で「I LOVE YOU」と言ったとして、漱石の和訳では「月が綺麗ですね」になるわけだろ? 恋人、わけわからんよ。「朝なのに!?」って。むしろ、それで目ぇ覚めるわ。「月、もう無ぇのに?」って。「月どころか太陽燦々、38℃を記録してるのに!?」って。
まあ、漱石の意図もわかるけど、ちょっと文学表現という名の婉曲表現で衒いすぎた感は否めんわな。もう文壇の犬だよ。あえて直截的な表現は使わずにおこ~~っていう文壇へのおもねりっ。おまえは犬かよ。
ちなみに「おまえは犬かよ」の対義語は「吾輩は猫である」である。

そんなわけで本日は『ノック 終末の訪問者』です。まあ、読んだってったりーな。



◆さみしさは依然さみしさのまま◆

 M・ナイト・シャマランの最新作『ノック 終末の訪問者』は、なんと3ヶ月ものあいだオレに批評を書かせなかった。
といって、べつに書く気が起きないほどつまらなかったわけでは断じてダダンじて断じてダダダンじてナイのだが、なんだろうな、ここ数年の、正確には『ヴィジット』(15年) 以降のシャマランは非常に手堅く、小気味よく、極めてうまく、そしてなんとなく丸くなったためか、かつてのバカみたいな映画ばかり撮ってた頃の「なんだこいつw」感は薄れ、むしろ蔑む意味での「w」が純粋な驚きとしての「…!」となりて、ただただ爛熟期を迎えた映画作家への称賛として「なんだこいつ…!」なる語を言わしめたのであるのであるよなぁ~。
だからこそ『ヴィレッジ』(04年)『レディ・イン・ザ・ウォーター』(06年) をさんざ冷やかし、「シャマラン」という絶対すべらないワードを映画談義の話のタネとして長年重宝させてもらい、また「w」のニュアンスも含めて氏のポンコツ映画を呆れながらも愛してきたオレのような謎の好事家にとっては、現在のシャマランが“ただ上手い作家”になってしまったようで、なんだかちょっぴり寂しくてえ!!

今後二度とシャマランで失笑できないのだろうか…。

いろんな映画からアイデアをパクったうえ、興行不振も相俟って映画会社の重役からファミレスで叱られてスンスン泣いた、みたいな伝説のエピソードも生まれないのか!

おれ、シャマラン映画ですげー笑っちゃうんだけど。ほんとツボなのよ。
『サイン』(02年) での、宇宙人から思考を読まれないようにするためにアルミホイルで作った情けないトンガリ帽だとか、父親役のメル・ギブソンが最後の晩餐で「泣くな! 楽しめ! 食え!」と子供たちに怒鳴りながら食ってるのが照り焼きチキンだとか。最後の晩餐で照り焼きて。しかもぶち切れて。なっさけない…。
近年では『ヴィジット』(15年) で淡々とインタビューを受けてるババアの後ろで、やおら暖炉の薪が「バチッ!」と爆ぜる瞬間が無性におかしくて。緊張と緩和ってやつか?
これがシャマランの愛嬌なんだよな。
これがあるからぜんぶ許せたし、むしろそれを求めてた。


宇宙人から思考を読まれないようにするためにアルミホイルで作った情けないトンガリ帽(『サイン』)。


 で、最新作の『ノック 終末の訪問者』
シャマランにしか発想しえぬ奇天烈なシナリオと、まさにシャマラムービーにうってつけの“シャマラン顔”で揃えたシャマラキャスト、緊張感のあるロジカルな無理問答がつづくダイアローグ、なによりレジャーシートぐらい目いっぱい広げた大風呂敷をその場に捨てて帰る“どんでん返しの不法投棄”をオレは確実に楽しんだわけだが、や~~~~っぱり真面目だったですよ。
目を見開き、真摯に映画を求道し、コツコツ撮ってたわ。
見応えはあったが、さみしさは依然さみしさのまま!!!



◆終末阻止の生贄を選べと訪問者は言う! 誰にすーん◆

 ベン・オルドリッジジョナサン・グロフ演じるゲイのカップルと、その養女クリステン・ツイが休暇を楽しんでいた山小屋に謎の武装集団が現れ、「君たち3人のうち誰かが犠牲にならないと世界が終末を迎えちゃう」と告げる。

謎の4人組ユニット。

ベン 「は?」
ジョナサン「は?」
ぽかんとする家族をよそに、武装集団のリーダーと思しきデイヴ・バウティスタは話を続けた。
君たちのうちの誰かが犠牲になることで世界は救われる。われわれにそれを決める権限はないから、よくよく3人で話し合うといい。なお犠牲者を選ばなかった場合、世界は滅ぶ。ほんまに滅ぶ。苦しい決断だとは思うが、終末を回避する術はほかにない。だから頼む。
ベン 「は?」
ジョナサン「は」
ぽかんとする家族をよそに、武装集団のリーダーなのかな? デイヴ・バウティスタは話を続けた。
信じられない気持ちはわかる。突然家に押し入ってこんなことを言うなんて、とても正気とは思えないだろう。だが信じてほしい。われわれは君たちに危害を加えるつもりはない。君たちの決断の手伝いをしたいだけなんだ。ありがとう。
ベン 「なに言ってんだこいつ」
ジョナサン「頭おかしいのと違うか」
あぜんとする家族をよそに、これだけ一人で喋ってんだから武装集団のリーダーなんだろうね、デイヴ・バウティスタは話を続けた。
私を含め、ここにいる4人はそれぞれにヴィジョンを見た。世界が終わりを迎えるヴィジョンだ。まず街が水に沈み、次に疫病が蔓延し、空が落ちてきて、神の指が大地を焼き払い、永遠の闇がすべてを覆う。4人全員が同じヴィジョンを見たんだ。こんな偶然ってある?
ベン 「知らんがな」
ジョナサン「宗教なん?」
いらっとする家族をよそに、武装集団のリーダーにしてはすごく穏やかなデイヴ・バウティスタは話を続けた。
あまり時間がない。とにかく犠牲者を決めてもらわねば困る。それは誰が? 世界中の皆が。われわれも心苦しいが、君たちの中の誰か1人が犠牲になることで世界中が救われるんだ。どうか頼む。言うてる間に終末が訪れる。早め早めで頼む。
ベン 「ええ加減にせえて!」
ジョナサン「わけのわからん話をくちゃくちゃくちゃくちゃああああああ」
ついに腹を立てた二人は武装集団を家から追い出そうとしたが、しこたまシバかれてコロッと敗北。幼いツイは無事だったが、二人は椅子に縛りつけられ、デイヴから深い謝罪を受けた。
シバいたりしてすまない。君たちが暴れるから、こうするしかなかったんだ。ところで、誰が犠牲になるか、早く決めてもらえると嬉しいのだが。もうじき世界が終わってしまう。
ベン 「完全に狂ってる…」
ジョナサン「くったりしちゃう」
くったりした家族をよそに、やおら武器を構えたデイヴは脂汗を滲ませながら話を続けた。
くっそぉ~。これだけ言っても決断してもらえないのなら、今から横にいる私の仲間を1人ずつ処刑してみます。そうすれば多少は信じてもらえるかもしれないし、この者たちが死ねば終末を遅らせることもできる。見てて。これがわれわれの覚悟だ。ちゃんと見て?
そう呟くと、おもむろに『ハリー・ポッター』のロン・ウィーズリー役でおなじみの武装集団の一人、ルパート・グリントが一歩前に出て、自ら頭陀袋をかぶり跪いた。
「死にたくない。死にたくない。おまえらがさっさと決断しないから…。くっそおおおおおお!!」
刹那、残りの3人が銛のような鋼鉄器具でロンの頭を貫き、これを殺害した。
ベン 「あうあうあうあうあうあう」
ジョナサン「あばばばばばばばばばばば」
びびり散らす家族をよそに、返り血を拭きながらデイヴは話を続けた。
「決まったか?」

デイヴは問う。「誰にすん」。

興に乗って長くなっちまったが、これがあらすじだ。
ある日突然、休暇中の山小屋に押し入った4人組の武装集団から「終末を回避するためには、君たちのうちの誰かが犠牲者になるしかない~」と迫られた罪なき家族が不条理へと叩き落とされるシチュエーション・スリラー。
普通に考えた場合、この4人組は気の触れたカルト集団。だが、どうやらそうでもないことがなんとなく傍証されていく。たとえば、犠牲者の選出が“強要”ではなくお願いベースだったり、実際、デイヴたちの予言通りに津波が大都市を襲ったという緊急速報が入るなど…。それでもベンは「オレたちを信じ込ませるために予め用意したフェイクニュースだ!」と、あくまで終末論を否定するのだが、ジョナサンの方は次第に混乱、「もしかして最初から彼らは本当のことを言ってるのかも…」と考えを改めた。
果たしてデイヴたちの言う終末論は本当なのか、はたまた、ただのリアルクレイジーなのか?
このへんが見所になってるのね。「虚実入り混じってるけど…やっぱり虚? いや、じつは実!?」みたいな。少しくセカイ系のようでもあるし。
かくして、武装集団と家族の無理問答が延々続く。

まあ、聖書をモチーフにした“全編メタファー映画”って腐るほどあるから、そういうのを見慣れた、あるいは見飽きた人にとっては、武装集団の服の色とか、終末の段階的内訳とか、彼らが山小屋をノックした回数とかで「あ、もしかしてヨハネの黙示録みたいなノリ?」と勘づくだろうし、実際、劇中でも「四騎士」というワードをはっきり出しちゃってるので、まあ“そういうコト”なんだけど。
ゆえに本作は絵解きに向かっておらず、むしろ「有名な新約聖書のエピソードをソリッド・シチュエーション・スリラーのフォーマットに落とし込んでヒッチコックでやってみるから見ててええええ!」なのである。
うっせ。
だから、シャマランが干されてた時期に原案・製作だけ務めた『デビル』(10年) って映画があったじゃない。あれのリベンジよね。いわば。
まあ、新約聖書もヒッチコックもシャマランもあまり知らないよ、って人が見た場合「え~なにこれ」で終わっちまうだろうな。終わっちまうだろうよ。
実際、私の後ろで見ていた高校生カップルなんて、上映前は「楽しみやね!」、「うち怖いのアカ~ン」ゆうて、あんな楽しそうにお喋りしてたのに、上映後にはお焼香の番回ってきたみたいな足取りでゆらゆらしながら出口に向かっとったからな。
かわいそうに…。せっかくのデートでシャマラン選んで。わけもわからんまま「四騎士ぃ~?」ゆうて。「なにぃ~?」ゆうて。

私の後ろで見ていた高校生カップルのようす。

彼氏「あぜんっ」
彼女「ぽかんっ」
ほんでゆらゆらしながら出口向かって。せっかく買うたポップコーン、大残しして…。「これなに~?」ゆうて。「ふぉ~?」ゆうて。

ありがとうな。

こんな映画見に来てくれて。オレが作ったわけじゃないけど。高校生なのに、シャマランに付き合ってくれてありがとう。



◆モット・コウダッタラナ◆

 先の高校生カップルのゆらゆらを無駄にしないためにも、この章ではいっちょ気合い入れて批評せねばなるまいが、悲しいかな! ああ、悔しいかな!

あんま覚えてねえ。

3ヶ月も放ったらかしたせいで、その間に細けぇことを忘れちまったようだ。あかんではないか。言い訳するわけじゃないけど、ソリッド・シチュエーションだからなぁ。あんま変わり映えしないのよ。画が。
とはいえ、ただただ穏当にうまい。小屋の前でバッタとりを楽しむツイと突如現れたデイヴの凶兆にじみまくりの会話劇を追う接写やダッチアングル。その後は、椅子に縛りつけられたゲイカップルとその前に屹立する4人の武装集団という、ともすればシアトリカルに滑り落ちそうな状況設定を裏から表から縫い上げるショットの奔放。
そして唯一、身体を拘束されてない娘ツイをどう動かすのが映画的か?という主題が通奏低音として一貫された被写体操作がサスペンスの片肺を担う。
ただし、1990年代の旧式レンズと35mmフィルムを使った映像は、まぁ別に…って感じ。結局スコープサイズでやっちゃってるわけだし。どうせやるなら『死霊のはらわた』(81年) ぐらいのタッチを出してくれんと。



 ヒッチコックに関しては、イギリス時代の『下宿人』(27年) あたりを連想したけども、シャワーカーテンの場面なんかは鬱陶しいぐらい『サイコ』(60年) で、良くも悪くもシャマランの稚気を見た。また見た。前作の『オールド』(21年)でも意味不明なぐらい露骨に『裏窓』(54年) をやってたでしょう。
なんなんだろな、あいつ。マジで。
普通やらないんだけどなぁ。あっこまで露骨には。オマージュだか何だか知らねぇけどよ。
ことによるとシャマランは「ヒッチコックになりたいヤツ」ではなく「自分をヒッチコックと思い込んでるヤツ」なんじゃないかしら…と結構本気で心配するような、そんな『オールド』からの『ノック』でした。
ま、そこが好きなんだけど。


ただ一点…、いや三点、…いや紙幅もねえし一点でいいか。
一点だけ「モット・コウダッタラナ」を挙げるとすれば、物語の主舞台となる山小屋。
この山小屋が二階建てだったらよかったのになって。
防衛、侵入、監禁、脱出といったシチュエーション・スリラーをそつなく描ける辣腕がありながらの“割とベタッとだだっ広い山小屋(平屋建て)”は…
もったいないて~~~~。
だってあれだよ? もし二階建てだったら『断崖』(41年) におけるミルク運びだって出来るんだよ!!?

※ミルク運びだって出来るんだよ
…ヒッチコックの『断崖』にて、二階で寝込んでいる資産家の娘ジョーン・フォンテインの部屋に、夫のケーリー・グラントが階段をのぼりながらミルクを運ぶ名シーン。無気味なまでに影で塗りつぶされたC・グラントと、意味深なほど白く光るミルクのコントラストが「財産目当てで妻を毒殺しようとしてるのではないか」という疑念と緊張を煽る。このショットを印象づけるために、ヒッチコックがミルクの中に豆電球を入れてピカピカ光らせたという話はあまりに有名。


『断崖』のミルク運び。

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