シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン

吸血一族に生まれながらもドラキュラできない吸血ガールと人生ヤんなった自殺願ボーイがレコード聴きながらゆらゆらしよる。


2023年。アリアーヌ・ルイ=セーズ監督。サシャサラ・モンプチ、フェリックス・アントワーヌ・ベナール、ノエミ・オファレル。

人を殺せない吸血ガールと自殺願ボーイが出会い、レコードを聴きながらゆらゆらするなどする。くつろぐこともするけれど、ときおり物騒なこともする。

 

おっけおっけ。どーもみんなこんにちは。
今からかばんの悪口を言うから、かばん愛好家にしてみればいい気はしないだろうが、それはごめん。

おれは街を歩くとき、かばんの類は持たず、いわゆるところの、手ぶら、で歩く。
手ぶらで十分だ。くだらねえ。
持ち物といえば財布、煙草、文庫本。携帯電話に関してはケースバイケースで、おれは携帯電話が嫌いなので、完全フリーの休日であれば家に置いておくし、そうでない日は携帯電話を持つかわりに文庫本を家に置いておく。
となれば、持ち物はすべて衣服のポケットに入るわけよ。煙草はシャツの胸ポッケに入れ、財布はずぼんの尻ポッケ、文庫本または携帯電話も同ずぼんの尻ポッケ。いずれにせよ、ポッケが3~4つあれば外出に必要な道具はすべて入るとビリーブしてる。
にも関わらず浮世の人民は、休日だというのに何かしらの形状をした何かしらのかばんを持って街をぷらぷら歩いていますよね。しょうもない顔して。絶対たいした物なんか入ってないのに。にィィィィも関わらず! いかにも「この中には大事なものが入ってるんです!」みたいな顔、しからずんば「今は何も入ってなくても、この先で大事な買い物をして、この中に入れる予定なんだよね」みたいな顔をして、後生大事にかばんを抱えて歩いているよね。
くくく。寒々しいわ。
もう言ってしまいましょう。畢竟、かばんとは自分は無目的に街を漫ろ歩いてるわけではなく、大なり小なり用があって往来で活動している社会的存在だということを他にアピールするためのステータスとしての道具なんですわ。
そう思ってもらうための“しるし”に過ぎんのです。
いわんや、かばんを持たずに街を歩くと、意味もなくその辺をぷらぷらしている風来坊と認識され、暇児、無職、フーテン、不安分子という烙印を押されてしまう。だから皆、たいした物なんてなにも入ってないかばんを持つことで必死に自分を飾っているのである。
「私は暇人じゃないです」の“しるし”。
その“しるし”としてだけの、かばん。
まったく虚しいな。ほれ。そのデカいかばんに虚しさを詰め込めよ。
そして、こちらから問いたい。
大事な物をあれこれとかばんに詰め込まないと満足に外出もできない現代人って、なに!
退化してない? 昔の人に比べて。
アウストラロピテクスとかに比べて。
エレファントカシマシの宮本くんは、いつも手ぶらなのが格好いいと思います。両手をポッケに突っ込んで、身ひとつで電車に乗って武蔵野に行ったり茶器のお店に行くなどして、ひらひらとありく。あれぞ生き様の本当だ。
人生に必要なものなんて、きっと両のポッケに収まるだろ。
だのに、あれも入れたい、これも持ってった方がいいかもって、おまえはドラえもんか。四次元ポケットという名の欲望という名の電車かおまえ。ヴィヴィアン・リーかおまえ。それかマーロン・ブランドか。エリア・カザンか。
「なにを言っているのか」だって?
知るかあ!!
小銭と、チューインガムと、カミソリ、昨日作ったイカリング、そしてあの日おまえと行ったコンサートの半券…。それだけをポッケに入れたら十分だろおおおおおおおお!


そんなことを思惟しながら、手ぶらで四条を散歩したる俺、ウルフルズの「あそぼう」でも歌おかなぁ思て、「よく笑い、よく泣き、よく怒り、よく考え、よく見て、よく聞く♪ そんですべては結果オーライ、一発勝負ヨッシャ来い!」つって、機嫌よう歌いながら歩いてたら本屋が見えたので、ふらっと立ち寄って文庫本を2冊買い、その本を右手に持ち、さっき楽しかったから、もっかい「あそぼう」を歌お思て「よく転び、よく起き、よく滑り、よく働き、よく食べ、よく寝る♪ いっちょここらでやったろーかい、一回きりの人生だい!」つって、歩き続けたら映画館、せやせや、映画見よ映画見よ、思て、ふらっと立ち寄ってチケット買うてシアター行ったら入場者特典のポスターもろて、そこへさして初めて俺、「かばん欲しいな…」と強烈に願望した。
あそぼう。

そんなわけで本日は『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』です。



◆天誅。チューする。ちゅうちゅう吸う◆

 笛こそ吹いていないものの虚無僧みたいにU-NEXTを徘徊していると、ちょっと気になるじゃん、『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』
ちゅこって、ポイント使って『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』を観始めたが、開幕10分で「あ、これキツいかも」と鑑賞を断念。断念した理由は後述するが、とはいえこのまま『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』の鑑賞を放棄するとポイントが勿体ないし、なにより“一度タッチした映画は最後まで見る”を金科玉条としてきたおれ、途中で観るのをやめることをやめて『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』を最後まで見るの。


 夜のとばりが下りたとき、奴らはこそこそ動きだす。人間社会に溶けこむ吸血一族。
その長女は、しかし豊かな感受性とやさしみに満ちた性格ゆえに、人を殺してうまうまドラキュラすることが出来ずにいる。ピアノ音楽を愛する吸血ガールは、今宵も夜の路傍で切なげにキーボードを奏でる。
♪Get wild and tough
♪この街で やさしさに甘えていたくはない



そんな吸血ガールが甘き闇夜に出逢ったは自殺願望をもった青年。
「僕の血を吸っていいよ」
「どうして」
「死にたいんだ」
「めずらしい」
吸血ガールはこの青年を殺してドラキュラしようと思った。だってそうでしょ。遅かれ早かれ人間を殺してその血を吸わねば一人前の吸血鬼になれない。その通過儀礼としてのこいつ。こいつを殺して私はステップアップする。
とはいえタダでお命頂戴、血液頂戴するのは何だか悪い、寝覚めが悪い、ってんで、死ぬ前に望みがあるなら一緒に叶えてあげるけど? と吸血ガール。さんざ逡巡したのち、自殺願ボーイ。
「ぼくを虐めた奴らに天誅したい」
「いいわ。天誅しに行こ」
「でも、どやって天誅するん」
「それはおいおい考えよ」
いま始まる、殺し殺されの契約を結びしガールミーツボーイ。出会いこそ人生の宝探しだね。
吸いつ吸われつの鮮血沙汰と、くるくる廻る渋きレコード。あなたと過ごした日は20世紀で最高のできごと!



◆ぜんぶ計算じゃあないかあ◆

 カナダ発の『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』は、ここ15年ほどで飽和化した“角度をつけた吸血鬼映画”の新たなる挑戦者である。
クロエ・グレース・モレッツ主演で『モールス』(10年) としてアメリカ版も製作されたスウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』(08年) 、韓国からはパク・チャヌクの『渇き』(09年) 、ジム・ジャームッシュ御大の『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(13年) 、アイデア勝負で大いにウケた『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』(14年) …。
個人的には『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』(14年) がこの手の映画の頂点なのだけど、いずれも角度をつけすぎず、飾りすぎない、衒わないという品のよさがあった(『シェアハウス~』を除く)。ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897年) という最古典への敬意がそうさせたのだろう(『シェアハウス~』を除く)。

『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』。


他方、『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』。ええかっこして、わざと長ったらしく『Humanist Vampire Seeking Consenting Suicidal Person(原題)』などと題していることからも分かるように、ぎゅんぎゅんに角度をつけ、でらでらに飾り立て、ぶりぶりに衒った、単館系好きサブカル層にクリティカルヒットするよう周到に計算された“おしゃれ映画”だよ。
さらぬだに、主演の吸血ガールことサシャサラ・モンプチ嬢を見よ。黒髪ストレートのぱっつんオン眉(太)。
ぜんぶ計算じゃあないかぁ~~。
じゃあ映画自体もおしゃれなのかと言うと、これが至って凡庸なのである。特に吸血ガールの幼少期を描いた冒頭10分。こんなの凡庸よ。凡庸よん。ボヨヨン。きわめて凡庸でボヨヨンなショット運びと、「この主人公は吸血族だけど人も殺せない優しい子なの」てことを順序立てて説明するためだけの必要性薄く、やや悠長ですらあるテリングがボヨヨンだった。かつみ♥さゆりのさゆり並にボヨヨンだった。
あと顔選び。吸血ガールの両親や親戚役の顔が、ちょっとあまりにあまりでノットフォーミー。
だのに『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』なんつって、黒髪ストレートのぱっつんオン眉なんつって、夜の路傍でキーボードなんつって澄ましてるあたり!


然り而して、開幕10分で「あ、これキツいかも」となり、U-NEXTひらいたパソコンの画面のペケ押してこれを閉じ、すこしビデオゲームを嗜んだあとポトゥフを作るなどして休日の午後を満喫。夜10時、お絵かきでもして寝るかと思った矢先、いや違うだろう、おれ。『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』をやっつけるのが先だろう、となぜか心が燃ゆる燃ゆる。
吸い尽くしてやるぜ。逆に、こっちが。何かを。この映画から。と倒置法で思い、本来なら一から見直すのが筋だが、申し訳ない、11分から続きをファ~ッと見た。だから「観た」ではなく「見た」と表記する。
ほいだら、まあまあおもろかったわ。
すまんすまん。鑑賞途中で映画を投げだす愚かみを思い出させてくれましたよ『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』は。
最後まで見るとほどよく皮肉の利いた知的な作品だとわかるし、いわゆる“おしゃれ映画”にありがちな何かをはぐらかした痕跡としてのモヤみたいな詭弁めいた目くらましの論陣も見当たらず、むしろ潔いほどストレートにして、清いほどオーガニックな、ごめんなさい、おれが間違ってました、新時代の吸血鬼映画の急先鋒としてその資格を十分に持った挑戦者なのかもしれませんよ!

また、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』や『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』のようなサバービア(郊外風)なインディーズ感を湛えながらも、決してそのエピゴーネンにはなるまいとするあまり衒いの身振りを意識的に封じた“逆張りストレート”が綺麗に入った稀有な作品だと思う。
欲をいえば“レコードの円回転”や“ベッドに横臥するイメージ”などをマッチ・カットや反復で効率よく活用できればそれがフィルムの呼吸にもなるし、より締まりのいい映画になったと思います。
そんなわけで『ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン』。奇天烈にして長大なタイトルのインパクトが妙な先入観を助長させもするが、意外や意外、吸血鬼映画への一途な愛によって貫かれたナチュラル・ボーン・センスボーン(作られたセンスではなく生まれつきのそれ)の無媒介的な“青さ”に口元を微笑ませながらの祝福。

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