レッツらON AIR 退屈な夜だしオカルト番組見よ♪ ~ネオ100点が火をふく~
2024年。コリン・ケアンズ、キャメロン・ケアンズ監督。デヴィッド・ダストマルチャン、ローラ・ゴードン、イングリット・トレリ。
テレビの司会者がオカルト番組の収録をするが次第にわやくそになって「あー」とか「きゃー」とか言うなどする。
ドゥクドゥク パパラ ドゥクドゥク
星も~なひィ~暗闇で~
さまよう~二人~が~うたう歌~あ~
波よ~もしー聞ーこーえるーなら~
少しィ~いま~声をひそめ~てぇー
ドゥクドゥク パパラ ドゥクドゥク
なんじゃおら! せっかく人が気持ちよぉ元ちとせの「ワダツミの木」歌とてたのに急に始まりやがってこのブログ、おらあ!
まあ、怒りを鎮めて冷静を取り戻すことができる俺だからそうするんだけどさ、ちょっと聞いてよ。聞いたったりーな。聞いたってったりーよ。
昨冬にね、首回り暖ったかしよ♪ 思て、アマズン、ゆう通販サイトでカシミヤのストールと、ウールのマフラー買うたの。ストールの品質はすごく良くて、ひと巻きするや否や首回りがごっつぬくい。熱々の出し巻き卵を首に巻いてるような感覚、ちゅんかな。よう作られたあるわ。
よう考えられたある。
でも問題はマフラーの方で、妙に薄い。
思った厚さの6分の1ぐらいしかない。ペラッペラのマフラーを宙に振って「思ったより薄っすいなー」ゆうて。マフラーゆうか布やん、もう。ちょっと長いハンカチやん。
なんですのん、これ。
しかも聞いたことないメーカー。
なんせ薄い。ニトリとかに置いたあるベッドカバーの生地サンプルやんけこんなもん、思いながら「でも、ぬくかったらええわ」ゆうて首に巻いて町へ出たところ「寒っび!!」。
ちゃんと寒いやんけ。
意味あらへんがな、こんなもん。保温性皆無にして耐風性も絶無。スッカスカやで。まったく風を遮断しない。全貫通。むしろ巻く前よりも風を感じる。
しかも素材がフワッとしておらず、むしろデロッとしてるので、一番簡単なワンループ巻きをするとバカな貴族のよだれ掛けみたいな様相を呈してしまうんだよね。
ほんで聞いたことないメーカー。
どこのなにやねん、これ。
でも、こんなマフラーでもアマズンレビューではなぜか高評価を博しており、皆、よおけ喜んで「ありがと~!」みたいなコメントしてんにゃけど、それ見てたら余計腹立ってくんねん。
「首の周りがホカホカする」
するかあ!!
なにが「首の周りがホカホカする」やねん。綾波レイかおまえ。
「肌触り最高! 兄が大喜び!」
ほな、おまえ誰やねん。
「兄が大喜び!」ってことは、おまえは弟か妹ってこと?
わけのわからん…。
アニキ、大事にしたれや。
「中学生の孫にマフラーをプレゼントしました。とても気に入って使っていてくれるようです。大きさも手頃だとか」
孫が優しいだけや。
お爺かお婆か知らんけど。それは孫なりの気遣いや。ようでけた孫やで。
お孫さん、中学生なんやろ? この次はわけのわからんマフラーやなしに『スーパー マリオパーティ ジャンボリー』買うたれや。「ありがと~お爺かお婆~」ゆうて、歯茎むきだして喜ぶぞ。
「Sorry wrong review, for give me」
なんやこいつ。
しょうもないこと言うてんと歯ぁ磨いてはよ寝え。
あったかせえよ。ええ夢見ィ。
「予想以上のものでした!本当に好きです。とても柔らかくて、いい感じでした。体の温度を守ってくれると思う。誕生日のプレゼントとして友達にあげたいです。自分も持ちたいです!」
「自分も持ちたいです!」って…。
おまえは持ってへんのかい。
ほな誰の感想やねん。
誰が買うてん。
叙述トリックすな。
ペテンすな。
作家かおまえ。
ミステリすな。
まあ、たぶんサクラのコメントだとは思うんだけどね。それにしてもいい加減なレビューコメントでした。はらわた煮えくりだわぁ。変なマフラー掴まされて。首に巻きつけられて。
そんなわけで本日は『悪魔と夜ふかし』です。楽しく書きました。まる。
◆おれは誰と夜ふかししたらいいというんだ◆
誰かと夜ふかししたいな、と思うことが皆さんだって月に一度はあるかと思うが、そんな夜にうってつけなのが『悪魔と夜ふかし』だ。
あるいは、YouTubeやテレビやアニメなら気安く見れるけど、映画となると居住まいを正してグッと集中せねばならんしなぁ、なんて思う夜の暇にうってつけなのも『悪魔と夜ふかし』だ。
なんとなればこの映画。映画であるにも関わらず“ある一夜に収録したトークバラエティ番組”という体で進行するモキュメンタリー形式の作品だからよ。ゆえに「さあ映画を観るぞ」と構えずとも、バラエティ番組を見るような弛緩マインドで鑑賞できるというか、むしろなるべく気安く鑑賞した方がよい作品とさえ言える。
というのも、構造的には『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99年) 以降、ホラー界隈で一時期ブームとなった“ファウンド・フッテージ”ものなんである。
ファウンド・フッテージとは、直訳すると“発見された映像”。撮影者が死亡したあと警察によって回収されたビデオだとか、政府から焼却を命じられた禁断の撮影フィルムが世に流出したとか、いかにもそれっぽくて禍々しい“設定”によってノンフィクションっぽく演出されたフィクション作品のこと。一言でいえばフェイク・ドキュメンタリーです。
翻って、本作の“設定”は生放送のトークバラエティ番組。
時は1977年、10月31日。ベトナム戦争やウォーターゲート事件をはじめ、カルト、暴動、ドラッグなどに揺れていたアメリカ国内の数少ない清涼剤として人気を博していた深夜のトークバラエティ番組「ナイト・オウルズ」の司会者デヴィッド・ダストマルチャンは、近ごろ最愛の妻を病気で亡くしたうえ、弱り目に祟り目、他局の人気司会者にその座を奪われる寸前。起死回生を図ったデヴィッドは、視聴率調査週間のハロウィン当日、とっておきのオカルト特集を組んで生放送に臨んだ。
今夜の「ナイト・オウルズ」は必見!
スピリチュアル界隈でいま一番アツい霊能者と、霊なんかおらんやろ界隈で最も著名な超常現象懐疑論者をゲストに迎えた豪華ハロウィンSPにスタジオの観覧客も大盛り上がり!
だが3人目のゲストとして現れた心理学者のローラ・ゴードン博士が、自らが保護した悪魔憑きの少女イングリット・トレリを連れてきたことで事態は急転。懐疑論者は悪魔の存在を嗤い、番組プロデューサーは「証明すれば数字が伸びる!」と煽り、番組存亡が懸ったコリンは生放送の番組内で“悪魔との対話”をローラ博士に指示する…。
映画冒頭にはナレーター役のマイケル・アイアンサイドの声で「ナイト・オウルズ」の番組の歴史が仔細に紐解かれ、観客をして「もしかして実話なのかな?」と思わしめたところで10月31日放送回の封印されしマスターテープが発見されたから特別に見せてあげる、と告げられ本編スタート。
万全のお膳立てだ。
本作は上映開始と同時に番組が放送し、上映終了と同時に番組も幕を閉じるので、実時間と映画内時間が同期してリアルタイムで進行する。
だから本当にテレビ感覚というか、生放送のトークバラエティを見ているような皮膚感覚なんだよね。
しかも時代設定が1977年ということで、粒子のざらついた当時の映像、スクリーンのアスペクト比もスタンダードサイズ(当時のテレビと同じ4:3)、演者の髪型やファッション、スタジオセットの造形、CM明けやコーナーごとに賑やかす生バンドなど、徹底して作り込まれたレトロスペクティブな意匠の数々は、微に入り細を穿って穿って穿って穿つ。
また、映画後半にゃあとんでもない超常現象が巻き起こるのだが、そのシーンも昔懐かしのSFX(特撮)による映像表現が用いられているため、たとえばZ世代とかの現代っ子からすれば真っすぐチープなB級映画として冷視されもするぐらいには「あえて古臭い感じでやってるんですョ」っていう懐古趣味のリテラシーが求められるので、そのへんは夜露死苦。
おれ個人としては“1970年代アメリカ”に対して並々ならぬ憧憬を抱いているので、70'sならではの妖しい時代の空気感を余すことなく真空パックした本作はたいへんに心地よかったです。なんて落ち着く映像領域だと『悪魔と夜ふかし』はおれに言うんだ!
おれは誰と夜ふかししたらいいというんだ!
このザラついた映像。
◆「本当?」と「嘘かも!」のシーソーゲーム◆
本作に関しては「物語のプロット」と言うよりも「番組構成」という言葉の方が適当だし、雰囲気も出るかしら。
なにしろ番組構成に興味をそそられる。
司会者デヴィッドの軽快なトークに幕を開けた今宵の「ナイト・オウルズ」はオカルト特集。まず1人目のゲストは霊聴者のフェイザル・バジ。死んだ人間の声を聴き、その言葉を遺族とかに代弁して金を巻き上げるスピリチュアリストだ。
スタジオに招かれた彼は「あー聴こえる。メチャ聴こえる。もういきなり聴こえるんですけど」とかなんとか言って観覧客に絡みだし、「この中にひどく落ち込んでる人がいます。そこの男性。いや、その横の婦人か。あなた最近、最愛の人を失いましたか? ああ、事故で。そう。事故で亡くしましたよね。旦那さんですか? うんうん。そうですよね、息子さんだよね。その息子さんが『ありがとう』言うてますよ、あなたに」とスピリチュアルすると、観覧席の婦人は大泣きしながら「当たってるすごいいいいいい」と感銘受けた。
感動に包まれるスタジオ。観覧客はもらい泣きしながらフェイザルに喝采。泣きながら「ありがとー」と叫ぶ者や、中には場をわきまえず「ええいああ、君からもらい泣き」などとふざけたことを言う者もいた。
フェイザルはマジシャンみたいなキザなお辞儀をしながら「これぞ我が特技、スピリチュアル言い当てです」と言った。これには司会のデヴィッドもにっこり。プロデューサーもにっこり。「ええやんか」ゆうて。
…スピリチュアル言い当て?
スピリチュアル言い当てのフェイザル。
2人目のゲストは超常現象懐疑論者のイアン・ブリス。
いかにも厳かな、口髭たくわえの堅物オヤジ。彼は先ほどフェイザルが披露したスピリチュアル言い当てを陳腐なトリックと唾棄し、舌鋒鋭くそのカラクリを暴かんとした。
「ええかっこすなよ! フェイザルかフェイタスか知らんけど、湿布みたいな名前しやがって。しょうもないねん、おまえ、最前から。いちびっとったらいてまうど。知らんど! なにがスピリチュアル言い当てや。あんなもん、ペテン師の常套手段やないか。まず最初に『この中にひどく落ち込んでる人がいます』ゆうて広い話をしたあと、それっぽい観覧客に目星つけて、相手の反応を窺いもって『最愛の人を失いましたか?』とか『それは旦那さん? ああ、息子さんだよね。そうそう、息子さんね。大変だったよね』なんつって徐々に狭く絞っていってるだけで、こんなもんスピリチュアルでも言い当てでもあらへん。ただの身の上話聞き上手やん。トレンディドラマでいうところのヒロイン優子の親友マリやないけ。オープンテラスで茶ぁシバきながら『優子の思いはきっと彼にも伝わってると思う!』やあれへんがな。バカタレがあ」
フェイザルを「身の上話聞き上手」と糾弾するイアン。
ここへきてフェイザルにペテン疑惑が。
したところ、フェイザル…
「アッ。変な声が聴こえる! 私の頭の中で悪魔みたいな…声が…。
わあ! ぎゅうううう!!!」
うるさいなぁ。騒ぐな。
急に大汗かいて、のたうち回って苦しみだした。口からは黒いのんもダラダラ流している。
「和牛?」とデヴィッドは思った。
慌ててプロデューサーのもとへ走ってった番組スタッフ、よく見たらすきっ歯だったので以下スタッパと呼ぶが、そのスタッパが「えらいこっちゃで、P。フェイザルさんがぎゅうーってなったはるから、いったんCM挟みますぅ?」と言ったらば、冷血漢のP、「なにアホぬかしてんねん。フェイザルがぎゅうーってなればなるほど視聴率もギュ~~ゆうて鰻上りやろがい。関係あらへん、撮れ撮れ撮れ。回せ回せ」と言うので、スタッパ、「でも口から黒いのん、バ~ッ出てますやんか。これ、苦情くるんちゃいますのん」と食い下がるも、P、「なんやねん黒いのんて。何が出てんねん。知ったこっちゃあるかあ。黒いのん、逆にええやん。これが赤いのんやったら『赤いの出てるなー。血かな? 苦情いれよっ』て思う視聴者もいるかもしらんが、黒いのんやったら『黒いからええか』ってなるやん。『昼に変なん食うたんかな?』みたいな」と言い、「なるとく」とスタッパ、なぜか言いくるめられてカメラを回し続け、その間も苦しそうにぎゅううううってなってたフェイザル、ついに黒いのんの塊を口から吐き、それが懐疑論者イアンの一張羅にベチャッと付着、これにはたまらず「イヤン!」と啼いたイアン、自慢の背広が汚れたのがよほどショックだったのか「いやよーいやよー」と騒ぎながらスタジオの外に逃げてった。ちょっと泣きながら。
一方、ラスト黒いのんの塊を吐き終えたフェイザルは「もうむり」と言い気絶。担架で運ばれ救急車の人となったが、その道中、最期に「きゅっ」と啼いてマジで死んだ。
「えらこちゃ、えらこちゃ。P、どえらいこっちゃで。フェイザルが死んでまいよった!」
「マジですか」
「マジです」
フェイザルの死を伝えられたPは「なに死んでんねん!」と怒鳴った。デヴィッドは「もうワヤクソやないの」と思って項垂れた。スタッパは「歯ぁ治そかな」と、ちょっぴりだけ思った。
そしてこのあと最後のゲスト、ローラ博士と悪魔憑きの少女イングリットが登場するわけである…。
この番組構成、なにがおもしろいって、最初に登場したフェイザルがスピリチュアル言い当てで「本当」を証明したあと、懐疑論者イアンの理知的な反論によって「嘘」が暴かれながらも、そのあと(悪魔の声を聴いたことで)フェイザルがぎゅうーとなって黒いのんをいっぱい撒き散らして頓死したのは「本当」だから、最後は悪魔憑きのイングリットと唯一彼女を制御できるローラ博士をスタジオに招いて因果関係を証明しましょうという顛末を、お茶の間の視聴者(=スクリーン前の観客)とともに見守る…という、きわめてテレビ的といえるエクストリームな話題性のつるべ打ちだけで最後まで駆け抜けるのよ。
通俗的だな~。
90年代までは多かった、眉唾なオカルト番組や心霊番組の「本当?」と「嘘かも!」がコロコロ変わりながらもテレビに釘付けになっていた頃を思い出すし、そう考えると結局のところ本作のおもしろさって“スタンス”だと思うわ。
われわれ観客に「悪魔は存在する!」と思わせたいのか、はたまた「そう思わせようとしていたヤラセ番組って昔は多かったよね」と思わせたいのか、どっちの視座で楽しんでもらおうとしているスタンスなのかが判然としないあたり。
判然としないなら、あとは見る人次第です。本作をオカルト番組の映画としてまっすぐ楽しんでもいいし、オカルト番組をパロディにした映画として斜に構えて楽しんでもいい。
で、こういう二面的な楽しみ方が用意されていること、それ自体がオカルト番組の魅力、ひいてはモキュメンタリーの魅力なんだよね。
このフィルムに記録された映像は本当です事実です! の一辺倒だったモキュメンタリー映画の歴史において、その胡散臭さにフォーカスすることで“嘘かもしれない余地”で観客を楽しませる多義的解釈を提供したという意味では、実は100点を叩き出したかもしれない本作。
従来のモキュメンタリー映画とは構造的にもうひとつ深いところに釣瓶を落とした点で、従来のモキュメンタリーとは並列に評価することはできないかもしれません。
だとしたらネオ100点だね。
従来の「100点」とは意味も文脈も異なる、新たな100点がここに採点されました。どうもおめでとうございましたね。
◆古典とは有用化しうる教養であり、無効化しうる制限である◆
激ウザ映画ロートルを自認するおれから見ても、非常に好感が持てる一品だ。
たとえば本作が影響を受けた作品はとても分かりやすく、ウィリアム・フリードキン、ブライアン・デ・パルマ、デヴィッド・クローネンバーグ、ジョン・カーペンターら名だたる大家、わけてもフリードキンの『エクソシスト』(73年) とクローネンバーグの『スキャナーズ』(81年) はもうまんまって域で、その他、テレビ業界周りの着想に関してはシドニー・ルメットの『ネットワーク』(76年) やマーティン・スコセッシの『キング・オブ・コメディ』(82年) を借景する姿のなんと素直なこと。
ナレーター役にマイケル・アイアンサイドを選んだのも、彼が頭部ぶりーん映画の『スキャナーズ』に出ていたからでしょ(本作も映画終盤では某キャラクターの頭部がぶりーんとなる)。
これら原典のラインナップの“可愛らしさ”のみならず、それをインタビューで公言するあたりが監督コリン&キャメロン・ケアンズ兄弟の愛嬌。これほどの大家たちの名を並べて「あの人も、この人も大好きです。あ、その人にも影響受けました!」と正直に言える映画人は“強い”ですよ、はっきり言って(往々にして2人目までは正直に名前を出しても、3人目以降から影響を受けた人物に関してはシラを切り「あ、それに関しては俺のオリジナルっす。ルッス、ルッス」とか言い出すしらこい糞若手が多い)。
あまつさえ、当然おれは見逃しゃあしません、ホラー/サスペンスの畑じゃないからあえてその名を挙げなかったのだろうが、あえて『市民ケーン』(41年) や『2001年宇宙の旅』(68年) の残り香も漂わせつつ、決してスピルバーグは好みじゃない、という強いこだわりを感じさせるシネフィル感? フィルムメーカーとしての意思を感じるわ。
おれは作品1本観るだけでその監督の趣味嗜好が透けて見えるような映画が好きだ。
隠そうと思えば隠せるだろう原典や引用元を隠すどころか晒していくスタイルが好きだ。Open My Heart。
普通、いかな小物の監督といえど一丁前にプライドはあるので、ある程度までは“影響を受けた映画”は公言すれど、ある程度からは隠そうとするものだが、コリン&キャメロン兄弟のようにこれを隠さず公表する身振りは、取りも直さず「古典を喰らえ」の後輩精神。
フリードキン先輩やクローネンバーグ先輩らが築いてきたシルクロードを助走しての俺らの現代パンチだ、ってなもんで、とかくそういう連中は映画史に対して素直である。映画史に対して素直であることは強さの傍証。2010年代以降、一体どれだけの「映画史がなんじゃい。映像理論がなんじゃい。俺は俺のやり方で自由に映画やるんじゃい~」というカス監督が蔓延っただろう。そしてそれらが淘汰されてきたことだろう。
古典とは有用化しうる教養であり、無効化しうる制限である。
押さえた人間が勝つ。四隅を取ったら一気に有利になるオセロのようにな。
そんなわけで『悪魔と夜ふかし』はきわめてチョベリグな作品だ。みんなも見てみたらいいのとちがうかな。
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