シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

スーパーマン

ガンは早い  ~ワンなどは速い~


2025年。ジェームズ・ガン監督。デヴィッド・コレンスウェット、レイチェル・ブロズナハン、ニコラス・ホルト。

スーパーマンが戦うなどする。


シワッス~、おまえら。12月やね。
12月の挨拶はみんな「シワッス~」にすればいいのに。

おりの知人に、周囲の男を惑乱させて憚らない小悪魔女がいて、そいつを恐れている仲のいい女性が、ある日、おりに相談してきたわけよ。
「あの娘、とびっきりに笑顔が可愛くて、天使みたいに笑うんですけど、でも肚裡は計り知れなくて…、悪魔みたいな笑顔に見えるんです」
それを訊いて、おり、「ジッポでーす」と、少し大きめに叫んだところ、女性はキョトンとした顔で「ジッポ」と繰り返した。
おりはその場から逃げ出した。
たぶん、このシチュエーションが100回あったらとして、きっとおりは、100回とも「ジッポでーす」と叫んでいると思う。
「火ィ点けるもん間違うてる。マッチや」
そう返してくれる人を、おりは探し求めているのかもしれません。
でも難しいよね。かなり高度だと思うし、おりが逆の立場で、急に「ジッポでーす」って言われても「なんじゃこいつ」と反射するのが関の山だと思う。
おりが高望みしている「マッチや」という返答ができる人間は、まず近藤真彦を知っている必要があり、氏の愛称がマッチであることも知っている必要があり、そんなマッチの曲に「ミッドナイト・シャッフル」という曲があって、そのサビの歌詞が「天使のような悪魔の笑顔」であることを心得ているのが前提であり、あまつさえ、おりが対義語や類義語を用いて故意に言葉を誤用して人を困らせることに諧謔味を見出すワードサイコパスであることを踏まえたうえで、わざと「マッチ」を「ジッポ」に置き換えたという意図を看破せねばならない。
そして、そんなことを看破してまで「マッチや」と正確に突っ込む必要も、道理もない。

事程左様に、言葉遊びとは孤独の遊戯。禁じられた遊び、なのかもしれません。
マッチでもうひとつ。3ヶ月前、いつもはライターを用いて煙草を喫んでいた知人が、「マッチで喫むとやたらに美味い」とかいってマッチで煙草に火を点けていた。燐の風味がするからね~。
で、おり、知人のマッチを手に取って「これなに?」と、わざと訊ねて「なにって、マッチです」という言葉を引き出したあとに「愚か者か、おまえ」と言ったら、まっすぐ怒られた。
「スニーカーぶる〜す」でも「ギンギラギンにさりげなく」でもなく「愚か者」を選ぶあたりを評価してほしかったのだけど。
ミスマッチだった。
近藤真彦は、もうダメなのかもしれない。

そんなわけで本日は『スーパーマン』です。



◆まだやっとんのか、悩めるヒーロー路線◆

 スーパーマンの映画はリブートしすぎて、おれの頭がまるでパー。
古くでいえばリー・ショレムという男が撮った『スーパーマンと地底人間』(51年) を皮切りに、最も有名なリチャード・ドナー版『スーパーマン』(78年) 4部作が打ち立てられ、その約30年後にブライアン・シンガーが『スーパーマン リターンズ』(06年) を作れば、その2年後にマーベルのクロスオーバー商法(MCU)が台頭して空前のアメコミ映画ブームが到来するなりザック・スナイダーという生餓鬼が舌なめずりをしながら『マン・オブ・スティール』(13年)なんつう映画をお撮りあそばした。
そして今回、MCU作品『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガンが、よりにもよって78年ドナー版とまったく同じ『スーパーマン』というタイトルでまたぞろリブート作品をお撮りあそばしやがり腐った。
ややこいことすな。
よってこれからの人類は、映画トークの中で『スーパーマン』と口にするたびに「それってドナー版のこと? それともガン版のこと言うとんけ?」って都度ゝゞ確認せんならん、ちゅ、余計な一手が掛かるわけです、会話のラリーとして。未来永劫。
惑わすな、人類を。


 まあ、許しましょう。おれはジェームズ・ガンの『スーパー!』(10年) という映画が好きだから、特別にガンを許しますよ。
そんな本作『スーパーマン』
アメコミ映画の嗜好でいえば、おりゃあマーベルより断然DC派なんだけど、DCはDCでもスーパーマンよりバットマンの方が好きなんだよね。陽性のスーパーマンに対して陰性のバットマン。さながら太陽と月。この双翼によってDCは飛翔してきました。ありがとう。
だから、まあ、スーパーマンに対しては正味まったく興味がなく、今回の作品も感覚的に見た(“観た”ではなく“見た”)程度なので、その感想を書きますね。


だからさあ。
『マン・オブ・スティール』の時とほとんど同じじゃねえかよ。
「よりにもよってスーパーマンを昨今流行りの“悩めるヒーロー”として換骨奪胎する試みは、そもそも企画として相当無理があったのではないかと思う」って、12年前にも言うたやないか。言うたんですわ。
mixiレビューで。
今回のスーパーマン=クラーク・ケントも、偏向報道で世間から叩かれたり、恋人ロイスと政治観の相違で大喧嘩したりと高市早苗みたいなことになり、挙句開幕から宿敵レックス・ルーサーが差し向けた刺客ウルトラマンからコテンパンにされるなど、精神的にも肉体的にも弱い。社会的にも弱い立場へと追い込まれてゆく。
そういう世界観って本来はバットマンの管轄であって、スーパーマンはもっとスーパーにドシッと構えて超人パワーでスカッと解決しなはれや。だってスーパーマンってそうだろう。無条件に人を助けて、楽観的な希望を人々(狭義的にはアメリカ)に与え続ける、アメコミ史上最もキャラクターを必要としないキャラクターやんか。だってアメリカのナショナリズムそのものなんだから。
…なんつうのはドナー版のイメージを引きずりすぎかしら? ロシアのウクライナ侵攻など、世界情勢を鑑みても複雑多岐をきわめる今日において、まあアメコミというのは世相の鏡たる寓話ですから、開闢以来2025年、「なに呑気こいてんすか。令和のこんにちにスーパーマンの映画を作るならそりゃこうなりますよ、ふかづめさん」と言われれば、そらそうなのだけど。



◆ガンは早い  ~ワンなどは速い~◆

 前章でも申しあげた通り、おれは「“人間としてのスーパーマン”を深みのあるキャラクターとして丁寧に描きだすよ」みたいなイズムに対してはそれはバットマンとかでやれというスタンスなので、この映画、クラーク・ケントの「ヒーローかくやあらん…」として見ると40点ぐらいの不満が残る一方で、スーパーマンの「ヒーローここにあり!」として見れば60点ぐらいの満足を得た作品で、まあアベレージ50点ぐらいのテンションですわ。


映像技術に関しては隔世の感があって、超人対決において殴られた側がドラゴンボールよろしく横一文字に吹っ飛んでいた『マン・オブ・スティール』が12年前ですから、VFXによるスペクタキュラーな活劇シーケンス、とりわけ重力表現と、重力表現を無視するケレン味の使い分けを説得的にジェームズ・ガンの世界観に落とし込む手腕。これはガン自身が、なんだかんだで“無重力空間でその力を培った重力の達人”たる映像クリエイターであることを傍証していると思う。
ガンのアメコミ映画はカットが早い。
DCEUで言えば『アクアマン』(18年) のジェームズ・ワンも、『シャザム!』(19年) のデヴィッド・F・サンドバーグもはやいが、それは「早い」ではなく「速い」
Uum…。説明が難しいな。たとえばね、「ここで割れ」という、映画の神から示唆された100点満点のタイミングがあったとして、ワンやサンドバーグはそれよりも速く割るの。カットをね。バンド演奏で言うところの「走る」というやつで、おれは映画評の中で「撮り急ぐ」なんて言い方をするけど、まあアメコミ映画だし、テンポが良い分には民草の目には楽しいから、こりゃオーケーだ。
だがジェームズ・ガンは、ワンやサンドバーグとはまったく異なる次元の“はやさ”を持っている。
先に述べた“100点満点のタイミング”の中でいかに速さを合わせるかではなく、“100点満点の「アメコミ映画」のタイミング”という、似て非なるまったく別の競技の中で早さを合わせてるわけ。
ワンなどは、順序を守って、まず“映画の撮り方”という土壌を築いて、その上に“アメコミ映画の畑”を作るが、ガンのしたことは初手から“アメコミ映画の畑”を作っちゃって、ようやくワンなどが畑を作りだした頃にはすでに種を植え終えている。
その意味での“早さ”なのだ。
つまりガンのアメコミ映画には土壌がない。だが、そのぶん収穫は早い。アメコミ映画ファンからの高い評価がその傍証、というか、それこそが収穫物なんでしょう。


したがって本作はきわめてアメコミ映画的である、というか正確にアメコミ映画そのものだろう。
『マン・オブ・スティール』は多少絵のうまい高校生のパラパラマンガだったし、『スーパーマン リターンズ』はスクリーンへの誠意を感じこそすれ惜しくも映画にはなれなかったフィルムの組織体だが、ガンの『スーパーマン』は過不足なくアメコミ映画である。
「映画」というメディアたらんとする背地性から袂を分かち、「アメコミ」というコンテンツたるべく向地性的潜行を選んだ、悪魔の契約。
本作に映画的瞬間や映画的快楽などほとんど何処にもない。映画的瞬間と呼ばれるものはもっぱら映像的な刺激に対する脊髄反射に終始し、映画的快楽と錯覚しうるものはアニメーション的な快楽原則でしかない。つまりアメコミ映画としてはほぼ満点に近い快作。
だからこそ映画を語りたいおれは、さいぜんから失語に陥っとるわけであります。



◆朱、蒼天を飛ぶ◆

 本作への感想として、「えらく楽しいアメコミ映画じゃないか。ええやん、ええやん」と思いながらも、おれは鑑賞中ずっと「とはいえ、このままだとジェームズ・ガンはアメコミ映画しか撮れない身体になるのでは。まさにアメコミ映画というガン(癌)に罹ったかのようにね」とやや不安視するほどには『スーパー!』『ムービー43』(13年) は楽しんだ身でありますから「大丈夫なんか? 還ってこれんのか?」という心配が勝った。
これがすべて。
かように『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(14年) がひとりの映画人のフィルモライフをいかに狂わせた快作であったか、という賛辞にもなりうるのだけど。
まあ、こんなエッセイじみたことばかり書いててもしょうがないし、しょうもないので、もうちょっと砕けた話でもして締めましょうかね。


スーパーマン/クラーク・ケント役のデヴィッド・コレンスウェット、およびその恋人のロイス役レイチェル・ブロズナハンは、王道しからずんば無難というのかキャスティングとしてまっすぐ過ぎて。一目見て突き刺さりこそすれど、良くも悪くも“返し”がない。あとオンレコ痴話喧嘩のシーンはめちゃくちゃ苦痛で暇だった。鼻ほじってた。
また、悪党レックス役のニコラス・ホルトに関しては淡味で面白味を欠く。歴代同役のジーン・ハックマンやケヴィン・スペイシーの暑苦しさに比して、その貫禄なき線の細さだけが目立ち、天才科学者というよりはエリートのぼんぼんといった出で立ち。小泉進次郎みたいな。とりわけラストシーンの悔し涙、あれはもう“レックスの暗涙”ではなく“ニコラス・ホルトのただの熱演”でしかなく。
でもセクシーではあった。

そんな白身魚ぐらい淡泊なメーンキャストの味を引き立てたのが出汁、薬味、ポン酢。
鍋料理に喩えてごめん野菜。湯豆腐が美味しい季節が来てうれしいナ。
で、これを担ったのがスーパーマンと共闘する「ジャスティス・ギャング」の面々。ナルシストおかっぱ肉タンクのグリーン・ランタン、これが出汁。頭脳キレキレ腕もピカイチのミスター・テリフィック、彼は薬味。コバホークこと小林鷹之も真っ青の剛腕少女ホークガール、これをポン酢として、『スーパーマン』という薄味な鍋料理をデーハーに美味しく頂く準備はととのった!

ジャスティス・ギャングの面々。
左から順に、出汁、ポ
ン酢、薬味。

おっと! 忘れちゃいけねえ、予告編にも現れたあいつ。スーパードッグのクリプトだ。
よっしゃああああ~。
クリプトはスーパーマンの良きバディにして、悪きペット。スーパーマンの言いつけは守らないがレックスの悪を聞きつけては、独断専行、英断ワンGO。イェイ。なんだかんだでスーパーマンのピンチに駆けつけ、パンチで手助け。おやつはお預け。飼い主手懐け。小型犬テリア系の、非常にわふわふした可愛い奴なんである。
あ、くっそー。本作を撮ったのがジェームズ・ガンじゃなくてジェームズ・ワンだったらなぁ。ワン(犬の鳴き声)に掛けてもう一発いけたのになぁ。

すてきなクリプト。

また、フィルムに煙草の灰こぼしたんかってぐらい全編鉛色だった『マン・オブ・スティール』に比して、本作のカラッとした雰囲気よ。
スーパーマンカラーといえば赤と青だが、この配色はすぐれてテマティックに映像化されている。やはり印象的なのは青空。晴れすぎてるぐらい晴れてる。パステルカラーでぽんぽんと染め抜くがごとき好天。なればこそジャスティス・ギャングとクリプトの天真爛漫が水際立ち、スーパーマンのブーツとマントと胸の「S」の朱色が正しく映える。だからスーパーマンというより朱ーパーマンなんだよね。
そうだ。ジェームズ・ガンはショットをポップにヒップにビジュアライズする腕にかけては当代随一のエンターテイナーなのでした。

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