もうやめませんか、ウソ回想。
1991年。アラン・ルドルフ監督。デミ・ムーア、グレン・ヘドリー、ブルース・ウィリス。
シンシアとジョイスは幼なじみの親友同士。ジョイスと暴力的な夫ジェームズの間にはいさかいが絶えなかった。ある夜、シンシアとジョイスはカーニバルに出かけるが、そこでジェームズが殺されるという事件が。一体何が起こったのか? 刑事ウッズがシンシアを事情聴取するが…。(映画.com より)
本日から『デミ映画特集』が4日間に渡って行われます。
どうしてこんなことが行われるのかと言うと、よく考えたら私はデミ・ムーアの映画を数える程度しか観ていないことに気付いてしまったからです。
それに私だけでなく、社会全体が「デミ・ムーアとは何だったのか?」という問題についてそろそろ真剣に考えてもいい時期に差し掛かっていると思うんです。
冗談半分に聞こえるでしょうが、もう半分はマジです。
鳴り物入りでメジャーデビューを果たした『セント・エルモス・ファイアー』(85年)以降、87年にブルース・ウィリスと結婚、『ゴースト/ニューヨークの幻』(90年)のメガヒットによって不動の地位を確立したデミは、ヌードをばんばん披露しながらセレブ女優の名を欲しいままにするが、出た映画は軒並み凡作~駄作。
にも関わらず、欧米はもちろん日本でも知名度抜群で、ハリウッドのトップ女優として扱われていることが昔から不思議だった。
そんなわけで、長年私を苦しめた「デミ・ムーアとは何だったのか?」という疑問に決着につけるべく、時に苦痛に耐え、時に睡魔と戦いながらデミ映画を4本観たので、4日連続で『デミ映画特集』をしてやろうと思ったのです。地獄に道連れ。
◆忘れ去られた時効的駄作◆
当時夫婦だったデミ・ムーアとブルース・ウィリスの共演作、ということ以外に取り立ててトピックがない映画といえば?
そう、『愛を殺さないで』である。
まぁ、厳密にはドンデン返し映画の名作として知られる『ユージュアル・サスペクツ』(95年)のパクり元でもあるのだが、『ユージュアル・サスペクツ』自体が映画にハマって2年目ですみたいな人しか騙せない相当どうでもいい映画なので、いずれにせよ大したトピックではない。
完全に忘れ去られた駄作である。
だって、たとえば学校や会社の昼休みに「『愛を殺さないで』って観たことあるぅ?」、「観た観た。あの頃のデミ・ムーアって超かわいかったよね~!」なんつってこの映画の話題を5分以上キープする人民が果たして現代にいるだろうか?
圧倒的にノーだよ。
もしそんな奴がいるとしたらデミ・ヒューマンだよ、そいつはもう。
せいぜい公開当時に本作を観たおっさん・おばはん世代が、何かの折りに「そういえばこんな映画もあったよね」という話をして約13秒で流すのが関の山だ。
で、これから、そんな忘れ去られた時効映画に対して今さらブチ切れていくというわけです。デス・ムーア。
私の前では時効なんて通用しません。時を超えて処刑!
◆回想シーンがメインの映画◆
先述の通り、当時夫婦だったデミ・ムーアとブルース・ウィリスの共演作だが、レビュー界隈では「あまりにシナリオが酷かったので、デミの伝手を頼ってブルースを出演させたのでは?」という説が囁かれている。
何の根拠もないが、けっこう有力な説だと思う。映画好きの勘というやつは存外当たるのである。
劇中のブルースは、デミ・ムーアではなくその親友のグレン・ヘドリーの夫を演じているが、これがまたどうしようもないヤク中の暴力亭主で、女房の親友であるデミに「おっぱい見せろよ~」と小学校中学年みたいなことを言って喜んでいる弩チンピラだ。
また、妻グレンの稼いだ金をむしり取って酒とヤクに使ったり、グレンが二人目の子供を妊娠したと知れば「中絶しろ! ガキ2人も手に負えないぜ! 始末に負えないぜ!」と怒鳴る。
始末に負えない?
どちらかと言えばおまえの方では?
事程左様にキング・オブ・クズ。
そんなブルースに堪忍袋の緒が切れたグレンは夫を殺害。親友のデミに証拠隠滅を手伝わせて夫殺しの片棒を担がせ完全犯罪を目論むが、所詮は行き当たりばったりの犯行なのでアッちゅう間に逮捕されてしまう…。
私生活では当時妻だったデミに「おっぱい見せろよ~」とナンセンスなセリフを発するブルース・ウィリス。どうせ毎晩見とるがな。
…というのが、警察署で取調べを受けるデミの主張である。
この映画は、デミが取調室で刑事のハーヴェイ・カイテルから尋問を受けるシーンに始まり、以降もずっと取調室が舞台だ。
デミは「グレンが夫を殺して、自分はその片棒を担がされた」と主張する。
したがってグレンの夫殺しにまつわる過去は「デミの回想シーン」という形でフラッシュバックされていくのだ。まぁ、完全に『ユージュアル・サスペクツ』だわな。
だが、この映画を失敗作たらしめた原因はまさにそこで、上映時間の大部分を占める「フラッシュバック」の使い方にある。
私生活ではジョン・マルコヴィッチと結婚していたグレン・ヘドリー(左)、前髪を根こそぎ持ち上げるデミ・ムーア(右)。
※ここからは結末のネタを割らないと先に進めないので、ネタバレします。
万が一「近々『愛を殺さないで』を観るよー。楽しみを殺さないで」という方がいらっしゃったら、ここから先は読まないで下さい。今すぐページを閉ジール・ウィリス。
刑事役にハーヴェイ・カイテル。「カイテル、字書いてる」というクソくだらねえギャグをいつかご本人にプレゼントしたい。
◆ウソ回想という禁じ手◆
まぁ、冒頭で『ユージュアル・サスペクツ』のパクり元と書いた時点でネタバレになっているのだが、ブルースを殺した犯人はグレンではなくデミです。
だがここでおかしな点が2つ。
1つは、グレンとデミは同じように取調べを受けているのに、どうしてデミは「グレンが実行犯で、自分は殺人幇助をしただけ」などと無理筋の嘘をついたのか。グレンが本当のことを喋ったら、そのウソ成立しないよね?
だったら、あらかじめ2人の間で「グレンが殺った」ということで口裏を合わせる…みたいなシーンを入れないと。
そして2つめ。これは物語の論理的整合性なんて遥かに上回る映画的大罪なのだが…。
嘘の回想を入れるなということである。
われわれが100分近く見せられたデミの回想シーンでは「グレンが夫を殺した」ということになっているが、ラストシーンに至ってそれが嘘だったことが明かされる。つまり回想シーンに「嘘」が含まれてるってわけ!
これは映画文法の禁じ手です。刑罰で言ったら島流しレベルの御法度。
いや、島流しした果てにその島の浜辺にバーベキューを用意して期待させるだけ期待させて肉に食らいつく瞬間に中距離弾道ミサイルで島ごと吹き飛ばしたいレベルの重罪である。
私がこんなことを言うと、以前から『シネマ一刀両断』を快く思わない回想シーン専門家が「いや、回想シーンというのはそれを回想している人物の主観的記憶に基づいてるから嘘や思い違いも有効である」と反論してくるかもしれないが、映画理論に立脚して抗弁するなら「嘘や思い違いの主張ならセリフで表せば済む話だ」となる。わざわざフラッシュバックを用いて映像化するような紛らわしい手続きは必要ない。
ウソ回想が許されるのは羅生門メソッドを採用した映像作品に限る。
黒澤明の『羅生門』(50年)は、ある殺人事件をめぐって複数の証言者が偽証するという証言食い違い系ミステリーだ。このような物語形式を羅生門メソッドと呼ぶ。そして羅生門メソッドにおいては「嘘をつくこと」が前提化されているので、事実無根の回想シーンを提示しても理屈的にはセーフとなる。
だが本作はどうか。
『羅生門』では複数の証言者が互いに矛盾する主張をまくし立てることで推理の立体感を高めていたし、それぞれの証言が矛盾していること自体が誰かの偽証を裏付けている論拠にもなっていた。要するに物語の作りとしては一応ロジカルなのだ。
しかし本作において、われわれ観客は画面に映るただ一人の証人として、デミの「嘘か本当かわからない主張」をひとまず信じるしかないという窮屈な一時的解釈へと追いやられる。
だってデミが「本当なのよ、刑事さん。信じてよ!」といって一方的に主張してるからね。こちらとしては「まぁ、嘘ついてるんだろな」とは薄々勘づきながらも、その嘘を傍証する材料を提示しない…っていうズルいことをしてるから、そうなるともうデミの主張をひとまず信じるしかないわけですよ。信じないと話が先に進まないのでね。
われわれの気持ちを代弁するように、刑事のハーヴェイ・カイテルはデミの証言に「嘘をついてるだろ!」と難詰する。
そして実際、ラストシーンで「嘘でした。テヘペロ」って…。
テヘペロで済むか!
舌引っこ抜いたろかボケ。
とどのつまり、原則として回想シーンは「真実であること」が担保されるべきなのに、それを破るばかりか、そのタブーをあたかもミスリードのように使って「騙されたでしょう?」と勝手に得意になっているのがこの映画。おまけにデミの証言が嘘かもしれないという可能性すら示唆しない。
疑う余地さえ与えない謎解きに「騙す」も何もないよ!
だってこれ、原理的には「絶対に解けない問題文」と同じですよ。
「1+1=?」という問題に対して、われわれは余裕綽々で「2」と答える。
だが間違い。ブー!って言われる。
「正解は4000でした。なぜなら『1+1=?』という問題自体が実は嘘で、本当は『8000÷2=?』という問題だからです♪」
理不尽ここに極まる。
問題自体が嘘でした…って、だったらもう何でもアリじゃん!
こういうのを何ていうか知ってますか?
後出しジャンケンって言うんだよ!
しかも悔しいことに、本作は製作費の倍以上の稼ぎを出して、関係者が誰ひとり不幸になってないんだよね。誰か一人ぐらい頭蓋割れろよ。
観た人だけが不幸になる底抜けサスペンス。観客だけが割を食うなんて、こんな不平等な世界があっていいんですか?
だが、今となってはすっかり忘れ去られており、観た人の間でも軒並み酷評されている…。
ざまァねえな!