当時の女性にはレリゴーする自由かてありゃしまへんのや!
1936年。溝口健二監督。山田五十鈴、梅村蓉子。
義理人情に厚く男に従順な芸者・梅吉の元に、かつての贔屓客・古沢が破産して転がり込んでくる。しかし、打算的で気の強い妹・おもちゃは無一文の古沢のことが気に入らず、古沢を追い出してしまう。その後も何人もの男たちを手玉に取って金を搾り取ろうとするおもちゃだったが…。(Yahoo!映画より)
読者に対する嫌がらせ企画という狙いも含んだ日本映画特集、四日目で御座います。そろそろ厭になってきた読者も多いのでは!
しかしこの特集を初めてからというもの、なぜかアクセス数がぐんぐんに伸びているのである。どないなっとんねん。想定外の出来事ばかり起きやがって。伸びてほしいときにちくとも伸びずに、こんなどうでもいい特集のときだけここぞとばかりに伸びやがって。もちろん有難いことではあるけれど。
さて、この三日間で取り上げた三作品はいずれも戦後日本映画だったが、本日取り上げる『祇園の姉妹』は1936年の作品。戦前も戦前である。よってフィルムはボロボロ、音声ガサガサ。作り手ほぼ全滅。リアルタイムで観た人もだいたい死んでる。
だけどお気に入りの作品なのでちょっと語ってみたいと思います。よろしゅう頼んます。
◆フィルム紛失を免れた貴重な一作◆
封建社会に抑圧された女性の生き様を、京都・祇園の色街を舞台に描き出した溝口健二の初期作。
一般に溝口といえばキャリア後期(50年代)の『西鶴一代女』(52年)や『雨月物語』(53年)の人気が高いが、女性映画の名手として天下にその名を知らしめた転機となったのが中期、すなわち本作が作られた頃合である。
1936年の作品なのでフィルムはボロボロ、音も悪い。おまけに溝口映画はほぼ全編ロングショットの長回しだというのに、フィルムが劣化しすぎて役者の所作や着物の柄がもうひとつ楽しめない。それでも初めてこの作品を観たときの衝撃は、いま観返してもなんら減じることがないのである。
ゴダール、トリュフォー、ベルトルッチ、パゾリーニなどヨーロッパの巨匠たちにも多大な影響を与えた溝口健二。
溝口映画のカメラマンは、30年代の作品を多く手掛けた三木稔と、50年代の傑作群を一手に引き受けた宮川一夫の2人が有名だが、その他にも大勢のカメラマンと組みながら唯一無二の映像世界を築き上げている。
おもしろいのは、これほどカメラマンを取っ替え引っ替えしながらも、あの長回し主義と極端に少ないクローズアップは強情なまでに押し通されており、どの時代の溝口映画にもある種の一貫性がみとめられる点だ(たとえば小津ならキャリア前期のカメラマン・茂原英朗と後期のカメラマン・厚田雄春とで映像文法そのものが根本から異なる)。
さて。祇園の姉妹を演じるのは山田五十鈴と梅村蓉子だ。
山田五十鈴といえば現代劇より時代劇でこそ輝く昭和の大女優。
黒澤明の『蜘蛛巣城』(57年)や『用心棒』(61年)が有名だが、60歳を越えて銀幕を去ってからはテレビドラマに活躍の場を移し、『必殺仕事人』で三味線をべんべら弾くババアなどを熱演。約70年間に渡って活躍し続けた女優である。まさに仕事人。
一方の梅村蓉子は『紙人形春の囁き』(26年)や『唐人お吉』(30年)といった溝口作品で人気を得た女優だが、戦前の作品の多くが紛失しているため、溝口・梅村の戦前作品はほとんど観ることができない。物理的な意味で。
しかも1944年、つまりあと1年で戦争が終わるというタイミングで亡くなったため(40歳没)、梅村蓉子は当時の観客の記憶のなかでのみ生き続ける、文字通り「伝説の女優」になってしまったのだ(当時の観客も今や80歳以上なのであと10年も経てば伝説となり、20年も経てば全滅するだろう)。
※これより先はスーパー京都弁モードでお送りします。
いてもうたるで!
◆花柳界の闇を描いて祇園サイドにキレられた傑作◆
ほな、やりまひょか。
『祇園の姉妹』ゆうんは、当時の日本の空気を溝口的嗅覚で切り取って花柳界の内幕に落とし込んだ映画やけど、百花繚乱の芸妓ワールドとはいきまへん。
あては京都に住んでんねんけど、先斗町なんか歩いとりますと、よう外国人観光客が「ゲイシャ! ビュリホー!」ゆうたり、修学旅行生らが「舞妓ちゃん! かいらしなぁ!」ゆうて、えろぉ騒いだはるけど、本作はそないな輩に対して「騒ぐなカス」言うてるようなシビアな作品やねん。
「芸妓の上っ面だけ見て『かいらしい』だの『憧れる』だの言うんやあらへん!」ちゅうこっとす。
封建社会と折り合いをつけて賢う生きる古風な姉・梅吉(梅村蓉子)と、黙って男の言いなりになる生き方をよしとしいひん妹・おもちゃ(山田五十鈴)の対照的な性格の違いを浮かび上がらせることで、昭和初期における女性がかくも窮屈であること、ことに花柳界にあっては一層それが顕著やゆうことを、溝口はんは酷薄ともいえるリアリズムで活写しはったんどす。
そやかて、やっぱし、したたかな処世術で男たちを出し抜くおもちゃはえろぉ魅力的なんどすえ。
金持ちの旦那や呉服屋の番頭をたぶらかして贅沢三昧の暮らしを送るおもちゃの行動原理には、なんちゅうか、小悪魔じみた打算ちゅうよりも男に対する復讐が通底しとるんどす。梅吉と祇園を漫ろ歩くときかて、まるで芸妓としての矜持をわざと冒涜するように一人だけハイカラな洋服に身を包むねん。
こういうこっちゃ!
せやけど、さんざん利用して赤っ恥をかかせた呉服屋の番頭から「このアマ!」ゆうて鉄拳制裁受けて大ケガ負うたおもちゃは、男尊女卑の不条理を涙ながらに嘆いて、芸妓ちゅう難儀な商売を腹の底から呪うんや。
要するに花柳界の華やかさやのうて残酷な現実を描いた映画なんや。
この痛ましいシーンを最後にいきなり映画が終わってまうことで、ルサンチマンの捌け口を失うた観客は「すっきりせえへーん」ゆうて文句垂れて、祇園の花柳界は「芸妓の映画っちゅうさかい撮影協力したったのに…ディスっとるやないか!」ゆうて、たいそう怒りはったらしいんどす。
せやけど、この残酷なリアリズムこそが溝口流なんや!
そこに文句言わはるのは、ちょっとかなんわぁ。堪忍したってぇなぁ。
今でこそ『アナと雪の女王』(13年)が支持と共感を集めるようなリッパな時代やけど、この当時に男はんに一矢報いる痛快女性讃歌なんて淡き夢や。嘘っぱちや。
梅吉とおもちゃにはレリゴーする自由かてありゃしまへんのや!
ありのままの姿を見せたところで「生意気や」ゆうてシバき回されるだけなんどす…。そやさかい、自由のあらへん女たちの行き詰まりを雁字搦めのままに終わらせることで女をより深う表現する…っちゅう溝口はんの薄情な美学が儚い朝露のように輝くのや!
男はんにしたたか殴られて大怪我を負ったおもちゃ。
「あてら芸者なんて、男はんに銭で買われて慰めものにされるだけなんやわ」
「おもちゃ」っちゅう自虐的な源氏名は、ともしたら自己破滅的な哀しみすら湛えたあるわ。男のおもちゃにされる自分自身をニヒルに嗤ろとんのかもしれへんなぁ…。
追記
「こないな古い映画は観いひん!」ゆう人には『舞妓はレディ』(14年)がおすすめどすえ。『おまはんの名は。』(16年)ゆうアニメ映画で声優やらはった上白石萌音だかカミキリムシ萌音だかの主演作やさかい、観たってや。えらいかいらしいで。
そらそうと、サラブレッド京都民とは思えへんぐらいハンパな京都弁になってしもて、えらいすんまへんなぁ。最後まで付き合うてくれておおきに。次回は口語文に戻るさかい堪忍しとくれやすな。
ほな、さいなら。
ひゃあ、かいらしなぁ!