これが不朽の名作とな。…冗談でしょう?
1989年。ジュゼッペ・トルナトーレ監督。フィリップ・ノワレ、レジャック・ペラン、サルバトーレ・カシオ、マルコ・レオナルディ。
映画監督として成功をおさめたサルバトーレのもとに、老いたアルフレードの死の知らせが届く。彼の脳裏に、トトと呼ばれた少年時代や多くの時間を過ごした「パラダイス座」、映写技師アルフレードとの友情が甦ってくる。シチリアの小さな村の映画館を舞台に、映画に魅せられたサルバトーレの少年から中年に至るまでの人生を3人の役者が演じる。(映画.comより)
おはようございます。
昨日は更新しようと思ってたんですけど一身上の都合でサボタージュすることになってしまいました。謝罪こそしませんが言い訳はさせて頂きますので、どうか許してください。
大体、朝7時に更新するというルーティーンを設けたこと自体が大きな間違いなんですよ。朝っていちばん忙しい時間帯ですからね。お弁当作ったり。長男を起こしたり。もっとも僕は弁当を作りもしないし長男もいないのだけど。
でも、もしも将来 男の子が生まれたら「勇気」って名付けたいな。読み方は「ゆうき」じゃなくて「ブレイブ」ね。女の子だったら「香里」と名付けます。もちろん「フレーバー」と読みます。絶対いい子に育つ名前だと思いませんか。
そんな話はどうでもいいんですよ。本日は久々のリクエスト回なんです。
今回リクエストを送ってくれたのはオレンチさんですね。はい。『映画だらけのオレンチ』という健康優良児みたいなブログを鋭意運営されている映画ブロガーからリクエストを頂きました。やったー!
◆地獄の170分 一本勝負◆
夫婦揃って『シネ刀』を読んでくださっている余程の変わり種、その名もオレンチさんからリクエストを頂きました。私が『ニュー・シネマ・パラダイス』を忌み嫌ってやまないことを知ってくれているオレンチさんが「なぜ嫌いなのか知りたい!」と知的好奇心を剥き出しにしてリクエストして来られたのです。けっこう何度もね。
「嫌いだ」と言ってる映画を何度もリクエストしてくるド厚かましさ 押しの強さ。
一見すると落ち着いた大人の男性といったオレンチさんですが、存外「言うときは言う」といったタイプなのかなぁ。たぶん会議の席で「それはどうだろう? もう一度みんなで検討してみようか」とか「お茶が切れてますね」といったことをズバッと言える人なのではないかな、と思います。違ってたら許せね。
さぁ、『ニュー・シネマ・パラダイス』のお話です。
言わずと知れた名作だけど、この映画は一般的に流通しているバージョンが2つあって、ひとつは124分の劇場公開版。もうひとつはカットシーンをすべてブチ込んだ完全版で、こちらは170分あります。
ひゃくななじゅっぷん。
発音するだに恐ろしい数字である。
さらに面倒臭いことに、劇場公開版と完全版とではまるっきり違う内容になっていて、おまけに170分の完全版はすこぶる評判が悪い(後述します)。とはいえ監督の達意を受け止めるのであれば完全版こそ理想の形だと思うんだよな。良し悪しに関わらず。
したがって今回わたくしめが観直したのは完全版の方。
地獄!!!
未見作品の170分ならいざ知らず、すでに何度も観たうえで「嫌い」と断じた170分に再び臨むのは地獄でしかねェー。春じゃなかったら絶対やらねえ、こんなこと~。
だって観る前からすでに結論出てるからね。
嫌いなんだよ!
オレンチさんを責めるつもりは毛頭ないのだけど、観る前はひどくメランコリーでした。そして観てる最中はかなりペインでした。そして観終えたあとは相当エンプティでした。まぁでも、そういうのも含めてリクエスト回の醍醐味ですからね。いかにして君たちが私を苦しめるかっていう…。
そんなわけで、人々に愛されて30年、今やすっかり不朽の名作と化した『ニュー・シネマ・パラダイス』をコテンパンに腐して参ります。
本作は、ひねもす映画館に入り浸っているトト少年が、そこで働いている映写技師のアルフレードと友情を築き、人生のアドバイスを得ながらぐんぐんに成長していく…といった一大叙事詩である。
映画はトトの少年期・青年期・中年期の3部構成になっていて、3人の役者がトトを演じている。アルフレードを演じたフィリップ・ノワレは『地下鉄のザジ』(60年)や『追想』(75年)で知られるフランスの大ベテラン。
あと、青年期のトトの恋人・エレナを演じたアニェーゼ・ナーノがめっぽう美しい。こんな娘が妻だったら人生上出来だ。生まれくる子供たちにブレイブ、フレーバーと名付けぬ手はない。
画像上がトトの少年期・青年期・中年期。 画像下がアルフレード役のフィリップ・ノワレ、エレナ役のアニェーゼ・ナーノという具合だ。わかったけ?
◆漠然とした映画愛、漠然としたノスタルジー◆
『ニュー・シネマ・パラダイス』は映画史に対するトリビュートともいえる作品だが、ここではもっぱらノスタルジーやメロドラマとの戯れが野放図に描かれているだけで、およそ映画と呼びうる瞬間はわずか一ヶ所しかない。
その一ヶ所とは、映画中盤、火事によって失明したアルフレードがトトの顔を手で確かめる切り返しショットを通してトト役のサルヴァトーレ・カシオがマルコ・レオナルディと入れ替わるカット。トトの幼少期が青年期に移行したことを告げる見事な演出だと思うし、これまでにジュゼッペ・トルナトーレのいくつかの映画を観てきて最も(というか唯一)感動した瞬間である。
ほかにも良いショットや演出はいくつかあるけど教えてあげない。なんてったって今回は嫌いな理由を述べる回だからな。褒めれば褒めるほど私のシネパラ否定論のロジックが崩れてしまうぢゃないか!
そんな意地の悪い根性で綴っていくシネパラ否定論。まだまだ続きますよ。
まずはショットの汚さについて。
これは『ライフ・イズ・ビューティフル』(97年)にも言えることだが、モロに70年代イタリア映画のガサツな画面なのである。ビデオの普及に伴い、思い出の劇場が取り壊されたトトの中年期が1980年代頃だとすれば、幼少期~青年期は50~60年代。ここらへんの時代設定と擦り合わせて意図的に70年代イタリア映画っぽい画面にしている…というのが最大限譲歩した希望的観測なのだが、それにしたって汚すぎる。
被写体をただボンヤリと照らすだけの陽光の汚さ、野外上映のさなかに振る雨の汚さ。中年期パートでは登場人物全員が頭から灰かぶったみたいな白髪ルックで画面はますます弛んでいく。
火事のシーンでは燃えさかる炎の向こう側にアルフレードの顔を据えているが、あまりに火力が強くてアルフレードの顔が全然見えない。ただただ真っ赤な画面が「赤い…」という感想を私に呟かせるのみ。
思い出の映画館が爆破解体されて煙を巻き起こすショットも同様。煙の向こう側に瓦礫を捉えているが、あまりに煙が濃すぎて瓦礫が全然見えない。ただただ真っ白な画面が「白い…」という感想を私に呟かせるのみ。
こうなるともはや綺麗も汚いもない。見えないんだから。
なんなんだ、この見えないショットは?
この映画はずるい。方言風にいうなら、ひきょい。
劇中劇として流れる古典映画の数々と、それを見て喜んでいる客席の笑顔。そして黙々とフィルムを回し続ける映写室のアルフレード。この3点セットのドカ詰めが漠然とした映画愛みたいなものを自発的に称揚していて、それを観る我々観客もまた「やっぱり映画って素晴らしいなぁ」なんつって漠然としたノスタルジーに浸るわけだが、『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画自体が称揚に値するほど映画として優れていない…というのが私が本作を嫌う最たる理由で。
『どん底』(36年)や『揺れる大地』(48年)といった数々の傑作を劇中で垂れ流すことが「映画愛」だとする短絡的な発想にも苦笑してしまう。それもいいけどまずは綺麗なショットを撮りましょうよ…っていう。話はそれからでしょ。
メロドラマに関しても全面的に否定しているが、ストーリーをイチからさらっていくのが恐ろしく面倒なので割愛する。
ただひとつだけ…エンニオ・モリコーネの音楽が10分に一回ぐらい鳴って超やかましい。
大巨匠 モリコーネによるあの有名なテーマ曲が涙の恫喝装置としてエンドレスリピートされる泣きの人海戦術。中年期のトトがなにかというと目に涙を浮かべるように「貰い泣き戦法」もちゃっかり導入していて、その意味ではきわめて21世紀の日本映画に近いと思うわけです(もともとイタリア映画って日本人ウケいいからね)。
しかし個人的には甘ったるい映画が好みではないので、それも含めて本作とは徹頭徹尾気が合わない。
そもそも「人生」と「映画趣味」が大して交じり合っていないので、トトがアルフレードの形見のフィルムを見てボロ泣きするラストシーンも よくよく見ると文脈を欠いていてドラマが生起してないんですよ。その場の雰囲気に呑まれて貰い泣きすることは出来ても、形見のフィルムを通してトトとアルフレードのかけがえのない思い出が立ち上がってくることはないので感動とは程遠いわけです。ましてや映画愛など笑止千万。
火事で失明したアルフレードと青年期のトト。
◆ボッチャの一人勝ちがエグい◆
先述したように今回は170分の完全版を観たのだが、劇場版を観ればよかったな~と若干後悔しております。
完全版で追加された50分では悲しい別れ方をしたトトとエレナが中年期パートで再会するエピソードが描かれているのだが、巷でも散々言われているように鬼のように退屈なのだ。
エレナの住所を突き止めて家の周りをぷらぷら歩いたり、向かいの店から無言電話を掛け続けるといったトトの悪辣な振舞いをフィーチャーした不毛極まりない50分。画竜点睛を欠きまくり。もはや「ニューシネマ」でもなければ「パラダイス」要素もなく、完全に本筋を見失ったトトによるストーキング活動は、ようやくエレナと邂逅したことで美談へとすり替えられる。
夜の海辺に停めた車のなかで…
トト 「あのときキミが待ち合わせをすっぽかしたせいで30年も会えなかったんだ!」
エレナ「え。少し遅れたけど私は行ったわよ?」
トト 「え、じゃあすれ違い? まじでまじでまじで」
エレナ「こわいこわいこわい」
…みたいな激烈にどうでもいいトークをして旧交を温めるシーンが地獄みたいに延々続く。狭い車内で。くそみたいな切り返しショットで。
せめて車から出れ。
ちなみに、この完全版でしか見ることのできないエレナ中年期を演じているのがブリジット・フォッセー! 言わずと知れた名作『禁じられた遊び』(52年)で禁じられた遊びに耽る少女ポーレットですね。
そんな彼女がきったねえ車の中で「こわいこわいこわい」とか言ってんの。ブリジット・フォッセーの無駄遣いがすげえ。
まだある。
トトとエレナの恋を引きちぎったのはアルフレードの「優しい嘘」だったが、結果論としてはアルフレードが二人の恋路を邪魔した形になっていて、ゆえに中年期のトトは「満たされない、満たされない…」といってエレナとの過去に執着し続ける抜け殻オヤジと化してしまう。
それによってアルフレードが青年期のトトへ向けた「故郷にこだわらずにもっと広い世界を見ろ。エレナのことも忘れろ」という謎のエール(物語終盤を貫くテーマ)がチグハグなものになっていて。
アンタのせいで満たされない現在があるんですけど?…っていう。
この「エレナを想うトトの気持ち」と「トトを想うアルフレードの気持ち」が作劇的にうまく整理できてなくて、どこか噛み合わないというか、終始ピントがボヤけたままなんだよな。
あまつさえ、そのあとにキスシーンを繋ぎ合わせたアルフレードの形見のフィルムがダーッとスクリーンに映されて観客もろともトトが爆泣きするラストシーンで「終わりよければすべて良し!」みたいな閉じ方がされるわけだが…剛腕ここに極まれりだよ。
もう、無理くりも無理くり。
このラストで感動するには「エレナを想うトトの気持ち」と「トトを想うアルフレードの気持ち」が綺麗に交通整理されてなきゃいけないんだってば!
そんなわけで終始険しい表情で画面を睨んでいたのだが、そんな私を幾分か和ませてくれたのはボッチャなる人物であった。
ボッチャはトトの幼少期の友達であり、おそるべき低学力を誇る…まあ一言でいやぁバカだ。
さんすうの授業で「5×5」の簡単なクイズを永久機関のように間違い続け、そのたびに教師から耳をつねられて黒板クラッシュを喰らい続けるボッチャ。
すでに初登場シーンから額が真っ赤に腫れていた。
黒板クラッシュを喰らって「うっぎゃー」と叫ぶボッチャ。
黒板クラッシュを受けすぎてボッチャの額はすでに真っ赤っかである。
このままだとボッチャが死んでしまうが、なお教師は「5×5は!?」と問い続ける。
見かねたトトは教科書に描かれたクリスマスツリーを指で示しながら「25だよ!」と小声で教えてあげた。なるほどね、25日はクリスマスだものな。
答えを教えてもらった途端、ボッチャの顔に笑みが広がる(神経に障る顔だ)。
ところがトトに答えを教えてもらったにも関わらず、ボッチャは屈託のない笑顔を浮かべて信じられない回答を口にした。
☆X'mas☆
5×5=クリスマス
これがボッチャが提出した伝説の回答。西洋数学史に名を残す珍回答である。
まぁ、5×5=クリスマス、というのもあながち間違いではない気もするが…。
ていうか、この子は将来 何になるのだろう?
当然、これに怒った教師は「死ねええええ」とばかりに…
黒板クラッシュ!!
うっぎゃああああああ!!
シネパラを未見の方、もしくは忘れてかけている方に残念なお知らせです。
とても皮肉なことに、このボッチャこそが未来のエレナの結婚相手なのである。
アルフレードがついた嘘のせいでトトとエレナが離れ離れになったあと、ボッチャは「今しかあらへん!」とばかりにエレナの傷心に付け込んで婚約を成立せしめたのである。結局 ボッチャの一人勝ち。本当の意味でパラダイスを手にしたのはボッチャだったというわけか…。なんちゅうボッチャ。
逆に、トトからすれば、アルフレードの嘘のせいでエレナとすれ違ってしまったばかりにこんな薄ら笑いの低学力に愛する女を盗られてしまった…という、どうにもやるせない映画が『ニュー・シネマ・パラダイス』なのである。
中年になったトトは、エレナに向かって「これまで色んな女と関係を持ったが、心底惚れ抜いたのはキミだけだ…」と告白する。
そしてやんわり断られる。
果たしてトトは真のパラダイスを見つけることができたのだろうか?