忍者になったつもりで楽しむべき団地映画の金字塔!
1962年。川島雄三監督。若尾文子、伊藤雄之助、山岡久乃。
ひと皮むけば男も女もこんなもの! 私はそこをうまく利用したまでよ! 芸能プロの会計係として働く幸枝は、男から男へ渡り歩き金を巻き上げてきた。それもすべて長年の夢である旅館の開業を実現させるためだったが…。公団住宅の一室で繰り広げられる、欲とエゴのぶつかり合いを変幻自在のカメラアングルで巧みに描き出した、川島監督作品の中でも最も評価の高い作品のひとつ。(Amazonより)
はい、おはぱっぱ。
トゥイッターでオレンチさんから「毎日ちゃんと読んどりますが、この量を毎日投稿できることが冷静にすごいと感じております笑」というコメントを頂きました。
毎日投稿はしていないのだけど、とはいえ週5ペースを超える勢いで投稿しているので、改めて自分の更新頻度の高さを顧みて…少しペースを落とそうかなと思っております。
はいはい、ブー垂れないよ? ブー垂れてはいけないよ? 苦情の受付窓口はオレンチさんになっているので、ブー垂れるならオレンチさんにブー垂れてください。彼の一言がきっかけで更新頻度を見つめ直すことになったのだからァ。
だってね、むちゃむちゃなんです、私のプライベーツは。映画観るでしょ? レビュー書くでしょ? 映画観るでしょ? レビュー書くでしょ?
この繰り返し!
これが人間の暮らしと言えるのか!
(言えないんじゃあないだろうか!)
というわけで、今後はこれまで以上にサボりが増えるかもしれない…という悲しいお知らせでした。もちろん気力と体力が続く限りは石に齧りつく思いで更新するのだがな。
そんなこって本日は『しとやかな獣』です。しとやかにいくぜ。
◆コッテリ団地映画◆
強烈にコッテリした映画を観たあとは充実感と疲労感に襲われるものだ。それが人の子というものだ。
気のせいかもしらんが、特に1962年の映画にはそういう作品が多かったように思う。『アラビアのロレンス』(62年)、『何がジェーンに起ったか?』(62年)、『史上最大の作戦』(62年)ほか多数。
ただしこれらは120分越えの力作なので、いわば必然的コッテリ、充実感と疲労感に襲われるのも当然といえば当然なのである。
川島雄三が死の前年に撮った『しとやかな獣』も、そのタップリの内容から鑑賞後にはグッタリしてしまうようなコッテリ映画なのだが、蓋を開けてみるとわずか96分のブラックコメディ。いかにもサックリ観れてしまいそうなアッサリ映画を想像するのであるが、いざ口に含んでみると物凄くコッテリしていて、気づいた頃にゃあもう遅い、川島が仕掛けしコッテリの罠に嵌ってポックリ逝くといった塩梅なのである。
本作は公団住宅に暮らすある一家を描いたホームドラマで、言うなれば団地映画である。
皆さん、団地映画は観てますか?
団地映画と聞いて真っ先に思い出すのは森田芳光の『家族ゲーム』(83年)だが、近年――とりわけ2013年は団地イヤーとも呼べる年で、『クロユリ団地』(13年)、『中学生円山』(13年)、『みなさん、さようなら』(13年)、それにアニメ作品『団地ともお』(13年—15年)など団地コンテンツが隆盛を極め、さらにその3年後、まるで団地黄金期を総括するかのように阪本順治がそのものズバリの『団地』(16年)を撮ったことで団地映画シーンを確立しました。
そして、この現代団地史の原点ともいえるのが本作『しとやかな獣』なのである。すべての団地住まいの方、および団地マニア、団地評論家、団地探検家、団地コンサルタントは観なければなりませんよ。
また、この映画の特色は最後のショットを除いてカメラが団地の敷地内から一歩も出ないこと。まるでヒッチコックの『裏窓』(54年)のようだ。いわば『裏窓』も団地映画ですからね、あんなもん。
まさに密室劇ならぬ団地劇が繰り広げられる段違いの団地映画なのである。
頭が痛くなってきた。
◆能囃子が鳴り響く異常な団地◆
夫婦の伊藤雄之助と山岡久乃がいそいそと部屋の模様替えをするファーストシーンのあと、息子の勤め先の社長が経理係の若尾文子を連れて夫婦の家に上がり込み「あんたらの息子が使い込んだ金を返せ!」と迫る。
夫婦は涙ながらに息子の潔白を訴えてどうにか社長には帰ってもらったが、じつは息子の川畑愛光は会社の金を横領し、その金の一部を父に上納していたのだ。だから夫婦は社長に怪しまれないために高級家具やテレビを隠すなどして模様替えをおこない、質素な暮らしをアピールしたのである。
それだけではない。この夫婦は有名作家の妾をやっている長女の浜田ゆう子にも金をせびらせて徴収しており、いわば子供たちを猿回しのように操って荒稼ぎしている悪徳ペアレントなのだ。
父親の伊藤雄之助が強欲魔人なのである。息子がペテンを働いても、娘が妾になっても、それを咎めるどころか逆に子供たちを金づるにして大儲けするようなゲス野郎なのだ。どうやら元海軍中佐らしく、戦後にどん底の貧乏生活を味わったトラウマから拝金主義になり下がったらしい。しかし妻や子供たちは、かかる父の独裁的集金になんら怒りも疑問も持たず、当然のように金を上納する。まるで家族全体が小さなカルト集団のようだ。
す、すべてが狂ってるゥ。
事程左様に「クレイジーが常態化した家族」を冷めた眼差しで描いた川島雄三の作風は「重喜劇」と称され、ちょうど同年に公開された『皆殺しの天使』(62年)のルイス・ブニュエルや、もう少し若い作家だとミヒャエル・ハネケにも通じるブラックコメディの作家である。
この不道徳きわまりない家族は高度経済成長が生んだ怪物。
1960年代は大量生産・大量消費が極点に達したディケードで、多くの国民が「三種の神器」をゲットして生活基盤を揺るぎないものとし、更なる物質主義へと走った。金さえあれば何でも手に入るのだ。欲望のオバケと化した人民は軽佻浮薄を謳歌する。安保闘争で人が死に、街にはフーテン族がのさばり、アングラ文化が青少年を狂わせていく。
道徳に背を向けた人民をシニカルに笑った川島雄三は、だから劇判には能囃子を使う。当時流行っていたムード歌謡でもロックンロールでもなく、能囃子。
どろどろどろ。イョ――――!
ぽんぽん!
イョ――――!
アプレでモダンな現代人の醜いホームドラマに古典芸能音楽が鳴り響く…という強烈な皮肉。
稼ぎ頭の川畑愛光と浜田ゆう子がキチガイみたいに踊り狂うシーンでは、異常なまでの夕陽が部屋を真っ赤に染め、能囃子が大音量で鳴り響く。気がおかしくなりそうだ。
地獄のような夕陽をバックに踊り狂う息子と娘。
このようなホームドラマと並行するのは「痴情のもつれ」。
一家のドラ息子は横領した金の大部分を同じ会社の経理係・若尾文子に貢いでいたが、若尾は社長や取引先の男たちと次々に関係を持っては旅館経営のための資金をかき集めていた。
社長に会社の金を横領していたことがバレた息子は、突然別れを切り出してきた若尾に「おまえも捕まるぞ!」と脅すが、若尾は「なァに、私は捕まりゃしないわよ」と言って風鈴のごとく涼しげに笑う。
そう、経理係の若尾は仕事柄ほうぼうの関係者に金の受け渡しをしていたが、その男と寝る代わりに渡した金の一部をもらう…という方法で稼いでいたので、これは違法にならない。ドラ息子のように会社の金をチョクで横領・着服したのではなく、いわば愛の対価として金をもらっただけのこと。悪い女である。いけない女である。
とはいえ若尾、悪は悪でも他人様から金を騙し取るこの一家とは似て非なる悪だ。悪人も賢くやれば悪として断罪されることはないというわけか。そんな社会ってどんな社会なんだ!
…で、このような物語がぜんぶ団地の一室でおこなわれるのである。
そもそもの元凶は横領犯の息子なので、社長も、若尾も、みな揃ってこの一家の部屋を訪れるというわけだ。
あやぽんこと若尾文子のアシンメトリーが最高。キャワオ!
◆構図の忍術◆
『しとやかな獣』は典型的な会話劇で、長回しのフィックスショットを主体に膨大な台詞がひたすら飛び交う。動くのはもっぱら口だけで、カメラも人物も静止したまま。これがコッテリの所以である。父はのべつ幕なしに喋りまくり、息子は耳をつんざくほどの怒声がデフォルト。
こうした川島の嗜虐趣味によって観る者は着実に体力を奪われていく。
また、フィルムの気温も高い。主舞台となる室内にはじりじりとした熱気が漂っており、まるで不快な圧迫感で蒸し焼きにされるよう。あまつさえ映画は蒸し暑い夏の時期という設定なので、人物がみな薄っすらと汗を滲ませている(私も梅雨の蒸し暑い夜に汗をかきながらこの映画を観ました)。
それこそブニュエルの『皆殺しの天使』や、シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』(57年)のような「おもしろいけど暑苦しい!」というタイプの作品なので好き嫌いは分かれるだろう。ただでさえ私は会話劇の否定論者なのです!
狭い部屋に閉じこもって口ばかり動かしているような戯曲の映画化に傑作はなし。
ところが、川島の本領はやはり「映画」にありました。
本作のおもしろさは台詞で語られていく薄汚い人間模様であることは確かだが、それを妙な所から見つめるカメラアングルこそ見もの。
天井、棚の上、椅子の下、ベランダの外、果ては換気扇の裏側から撮ったアングルなど、かなり思い切った構図が乱発されるのである。
この手の「珍奇ショット」はカメラが動く中でたまたま形作られることはあっても、本作のように意図的に構成されることは少ない。仮にあったとしても味付け程度に用いられるだけなのでほんの数秒しか持続しないものだが、なにをトチ狂ったか川島のそれはロングテイク。
要するにヘンなアングルのショットが1分も2分もず~~っと続くわけ。
たぶん頭イカれてますよ、この人。
狭い室内での会話シーンで、この俯瞰・アオリは明らかに異常。明らかに無意味。
さらにおもしろいことに、こうしたアングルは役者に見えない位置から撮っているので隠し撮りの趣があるわけだ。モノを隠すようにカメラを据え、気づかれないようにカメラを回し続ける盗撮魔としての川島。
で、この特異な撮影技法が我々観客にどのような効果をもたらすかと言うと…そう、まるで屋根裏に潜む忍者のように覗き見している気分を味わえるのだ。ニン! ニン!
忍者ってさぁ、よく屋根裏に潜んで皆のことをこっそり見ているでしょう?
あなたの家にも多分いますよ、忍者の一匹や二匹。
よく探してごらんなさいよ。
何を隠そう、じつは拙宅にも一匹おりまして、よくお風呂場の天井をちょっぴり開けて僕のことを見ているんですよ。たまに目が合うと「あっ」つって隠れるんですけどね。最初は怖かったけど、慣れれば存外かわいいもんです。エサ代もかからないし。
かように忍者目線で窃視を楽しめる本作。いわばこの珍妙怪奇なアングルは構図の忍術なのである!
現に「覗く」というモチーフは、さまざまな人物がドアの小窓・下窓から部屋のなかを窺う…といった窃視の身振りが証明している通り。
ドアの小窓から室内の様子を窺うあやぽん。
巧いなぁと思ったのは、通路とベランダに付けられた格子が牢屋を連想させるあたりだな。
室内で露呈される人間の醜さを「ここだけのもの」として封じ込めるかのように、あたかも団地全体が大きな監獄の役割を果たしているように感じるのである。だからこの家族は一歩も団地から出ない(出られない)し、横領した息子が逮捕される決定的瞬間を迎えることなく映画は終わってしまう。法が裁かずとも、既にこいつらは囚人なのだ。
牢屋をイメージさせる格子。
無論、若尾や社長のような外部の人間は「面会」に訪れただけなので自由に団地を出入りできる。しかし、外部の人間が団地を出入りするためには謎の階段をのぼって行かねばならない…という奇妙なルールがあるようだ。
このシーンに出てくる階段がどこか普通ではないのだ。いわば観念としての階段。なんとなく刑務所を連想させる造形で、ある種のメタファーとして画面を彩っているのである。
そうだな…、まるで絞首台に続く十三階段のような雰囲気が漂っているのだ。
明らかに現実感を欠いた階段。
映画終盤、若尾に大金を貢いだ男のひとり・船越英二が思いつめた顔で団地を訪れ、若尾が来ていないことを知って屋上から飛び降り自殺をする。
すれ違いざまに団地にやってきた若尾は「人が死んでるわ!」と大騒ぎする住人とともに階段をおりて船越の死体を見にいこうとするのだが、あと一歩で団地の外に出られる…というところで急に立ち止まり、まるで結界を破るようにやっとの思いで外の世界に出たのである。
これは数々の男を騙してきた若尾までもが団地=監獄に囚われそうになったことを表しているのだろうか。いずれにせよ若尾は団地から脱出することに成功した。悪女の一人勝ち。
階段を下りきったところで急に立ち止まる若尾。背景が真っ黒なのでやはりこの階段は観念的なモチーフなのでしょう。
そのころ妻はベランダから船越の死体を発見したが、何を思ってか夫や子供たちには教えることなく、いつも通りの日常を演じ続けた。
もう…絵に描いたような異常である。人がひとり死んでいるのにまったく取り乱さないどころか、家族に対してもその死を秘密にしてしまう妻。すべては凪のような日常生活を維持するためか。そして能囃子が鳴り響く…。
どろどろどろ。イョ――――!
ぽんぽん!
イョ――――!
(C)KADOKAWA