シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

タリーと私の秘密の時間

シャーリーズ・セロンがずっと疲れてる映画。

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2018年。ジェイソン・ライトマン監督。シャーリーズ・セロン、マッケンジー・デイヴィス。

 

仕事に家事に育児にと何でも完璧にこなしてきたマーロだったが、3人目の子どもが生まれて疲れ果ててしまう。そんなマーロのもとに、夜だけのベビーシッターとしてタリーという若い女性がやってくる。自由奔放でイマドキな女子のタリーだったが、仕事は完璧で、悩みも解決してくれ、マーロはそんなタリーと絆を深めることで次第に元の輝きを取り戻していく。タリーは夜明け前には必ず帰ってしまい、自分の身の上を語らないのだが…。(映画.comより)

 

おはようやで。

最近暑くておっちゃんかなわんわ。早くも食欲がのうなってきてるわ。

あとなんか、昔に比べて手の指が気持ち太なってきてるわ。いやや。「ピアノやってた?」って言われるぐらい綺麗な手だけが取り柄やったのに。ていうか、なんで手が綺麗なだけでピアノやってたことになんねん。わけのわからん。マッチョな人に対して「軍人やってた?」って言うんやったらまだわかるわいさ。マッチョは後天的に備わったものやからな。でも手の綺麗さは先天的なものやん。神より与えられしギフトやん。そのギフトたるワシの指がどんどん太なってきとる。ぷっくり目の4色ペンみたいに。けったいな話やで。

関西弁って書いててごっつ気持ちええねん。汚いやんか? 汚い文章って書いてて気持ちええねん。だからバカは汚い文章ばっか書きよんねん。それが快楽になるから。バカはすぐ快楽に飛びつくからな。まぁ、読む方にしてみたら堪ったもんちゃうやろうけど、知ったこっちゃないわ。口語文サイコーや。

誰か、指が細なる方法教えてくれへんけ?

ちゅうわけで今日日は『タリーと私の秘密の時間』や。レビュー本文では普段の文章に戻してるから安心しいや。

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◆ボテボテのシャーロン◆

徹底して無害な映画を撮り続けてきたアイヴァン・ライトマンのせがれジェイソン・ライトマンの最新作は有害であらんとする映画作家の野心とは相変わらず無縁な作品だった(褒めと貶しを同時におこなっております)。

二人のキッズを持つ妊婦シャーリーズ・セロン(以下シャーロン)が育児に追われてノイローゼになるという、まるで過去作の『JUNO/ジュノ』(07年)『ヤング≒アダルト』(11年)をフュージョンしたような内容の本作。

 

第三子を爆裂出産したシャーロンが、ベイビーの夜泣き、おしめ交換、母乳供給などに睡眠時間を奪われてげそげそになってしまい、こりゃもう辛抱たまらんと言うのでナイトシッターを雇って安眠を手にすることに。

家にやって来たシッターはマッケンジー・デイヴィス。泥悪魔ことマット・デイモンが火星の自家農園にウンコ巻き散らしてジャガイモを栽培するSF農業映画『オデッセイ』(15年)でNASAの衛星制御エンジニアを演じた女優である。NASA職員からナイトシッターまで、実にいろんな仕事をする見上げた女性だ(本作では泥悪魔に代わってベイビーがウンコを巻き散らす)

マッケンジーはベイビーをあやしたり寝かしつけたりする達人で、シャーロンの愚痴や悩みも聞いてくれる優秀なシッターだった。いつしか二人の間に友情が芽生え、ついにベイビーを放ったらかして夜の街に繰り出す二人。母親とシッターがベイビーそっちのけで酒を飲みに行っちまうんだ。

そんなわけで、シャーロンとマッケンジーの夜間限定のリラクゼーションタイムを描いた静謐な映画。それが『タリーと私の秘密の時間』のあらましである。


シャーロンは産後体型を作るために20キロ以上増量してボテボテの脂肪を獲得した。

私は役作りのために肉体改造することには懐疑的だが、現代映画において美貌はハンデでしかないことを知っているシャーロンは積極的に美を放棄してきた女優である。『モンスター』(03年)では顔面がグシャグシャになり、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年)では顔面がドロドロになり、『アトミック・ブロンド』(17年)では顔面がボコボコになる…といった具合に。

そして本作では肉体がボテボテになっているが、不思議と顔面だけはものすごく綺麗なのである。出産した女性のなかには顔がコシヒカリのようにつるつるになるタイプもいるというが、そういうことではなくて。とても澄んだ眼をしているのだ。それはノイローゼに陥りながらもキッズたちを愛する母性の眼差し。

これだけ眼の芝居ができるのだから肉体改造に固執しなくてもいいのでは…と思うのだが。どうだろうか、シャーロン。肉体改造やめてくれるか。

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ボテボテの肉体を作り上げたシャーロン。


◆フィルムBPMの操作者◆

ジェイソン・ライトマンの作家性は編集リズムにある。

『マイレージ、マイライフ』(09年)のアバンタイトルを思い出してほしいのだが、ジョージ・クルーニーがホテルの一室でスーツケースに荷物を詰め込み、ハンドルを引っ張り出して空港に赴き、ケースをX線検査装置に通して上着と靴を脱いでゲートを通って再び着直し、もう一度スーツケースのハンドルを引っ張り出してスタスタ歩いて飛行機に搭乗するまでの様子がリズミカルなカット割りで描かれている。そしてようやく彼が機内で一息ついたところで、映画もそれに合わせるようにゆったりとしたカット割りに切り替わる。

途中で16ビートから4ビートに変化するワケのわかんねえ楽曲みたいだ。

 

このように、ライトマン作品ではフィルムのBPMが変化する。

たとえば本作のアバンタイトルでは臨月のシャーロンの慌ただしい育児生活がスピーディーな編集で描かれるが、出産後に疲労とストレスのピークを迎えたシャーロンの孤独に焦点を当てた本編では編集リズムがグッと落ち、まるで彼女の鬱気に呑まれたような4ビートを刻みはじめる。

だからマッケンジーと打ち解けて健全な精神を取り戻していく中盤ではフィルムのBPMがまた少しずつ上がり始め、長距離ドライブの車中ではシンディ・ローパーの1stアルバムが軽快なジャンプカットで片っ端から流されることになる。


実際、余裕の笑みを浮かべながらほとんどの映画を100分前後におさめるライトマンの手腕はシャマランと同じぐらい貴重であり、スピルバーグやスコセッシらがとうの昔に失ったミニマリズムの美徳を守り続けるアメリカン・スピリットの番人とさえ言える。

また、スローテンポの『とらわれて夏』(13年)でさえ111分にまとめ上げるという高度な編集技術と優れた時間感覚は、少年時代から実父アイヴァン・ライトマンの編集室でフィルムに触れて技術を磨き抜いた賜物なのだろう。

映画中盤の主舞台がほぼ自宅一階となるので必然的に画面は単調になっていくが、よく練られたシナリオと二人の掛け合いが物語を牽引する。マッケンジーは単なるシッターではなく、ラストシーンでその正体が明かされるのだが、その伏線と反復の配置もさり気ない。

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ベイビーほっぽってバーでしこたま痛飲する母親とシッター。


◆夫へのバイアスすげえ◆

映画はロン・リビングストン演じる夫を「育児に無関心なダメ夫」としてやや批判的に描写していて、終盤ではボロボロになったシャーロンを見た夫ロンが「キミがどれだけ大変か気づいてやれなかった」と反省して心を入れ替える…といった展開を迎えるのだが、これはちょっとどうかね。

ロンは二人のキッズの面倒を見たりナイトシッターを雇うよう妻に提案したりと、ある程度は育児に協力している夫である。シャーロンの精神疾患が思いのほか深刻だったことに気付けなかったのを手落ちとするのは少々酷だし、それはあまりにも彼女に「寄り過ぎ」な作劇。

にも関わらず、この映画を観た男性客はロンに自分を重ねあわせて居た堪れない思いをしているようだが、世の男性諸君がロンのなかに自分を見出して赤面するのは妻の横でヘッドホンしてビデオゲームに明け暮れるという「イメージ」が作り上げた幻影にすぎない。

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これね。

 

執拗に繰り返されるこのイメージが、なんとなくロンというキャラクターにバイアスをかけ、なんとなく「ダメな夫」としてシニカルなニュアンスを醸し、「反省すべき人物」として誇張してしまう(もっとも、このイメージに登場するヘッドホンはラストシーンのために装填されたギミックなのでそこから逆算的にこのイメージが作られた可能性が高いのだが)

たしかにロンはもっと上手に妻をサポートするべきだったが、それにしたって悪く描かれすぎでは。病室で謝罪するシーンなんて明らかに不要。

ジェイソン・ライトマンを観るたびに毎回こうした違和感を覚えてしまうのだ。

『マイレージ、マイライフ』で自由気ままに独身生活を謳歌するジョージ・クルーニーはなんとなく不健全な人物として描かれており、まるで映画自体が主人公に向かって「まじめに恋愛したり家庭を持ったりするべきだよ!」と説得するような鬱陶しさがある。『JUNO/ジュノ』でも16歳で妊娠してしまったエレン・ペイジの「ベイビーへの無関心」を悪趣味なほど過激に描いていたし、『ヤング≒アダルト』のシャーロンも極端なまでの人格破綻者として登場する。

そして映画自体が当人の人格や生き方に口を挟んでより良い方向に導いてあげる…という若干上から目線のスタイルで。そんな映画ばっかり。

はっきり言って余計なお世話だよ!

ほっとったれや!

 

ライトマンの人物造形って一見リアルなように見えてかなり極端だと思うのね。尤も、それが『サンキュー・スモーキング』05年)のようなデフォルメされた風刺劇では良い方に転ぶのだが。

まぁ、いずれも人間の心の機微に肉薄した味わい深いドラマではあるが…薄っすら傲慢なんだよ。唯一、慎み深くて美しい映画は『とらわれて夏』

そんなライトマンの最新作『フロントランナー』(18年)は、トレーラーを見る限り「らしくない映画」だが、却って良いものになるんじゃないかと思っているんだ。特技「フィルムBPMの上げ下げ」が遺憾なく発揮されていることに期待します。

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普段のシャーロンと本作のシャーロン。

 

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