シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ラストナイト・イン・ソーホー

いま見破る! 懐古主義の苛烈なりき現実! 鏡に映った女は己か? 憧れの投影か!? ジャッロ満載でスウィンギングする60's英ポップカルチャーのお雑煮をいまこそ食べるとき!

2021年。エドガー・ライト監督。トーマシン・マッケンジー、アニャ・テイラー=ジョイ。

ファッションデザイナーになるべくロンドンに移り住んだ女の子が、1966年のロンドン・ソーホーにタイムスリップしてくるくるすーん!


あいあいやろけ。
先日、アメコミきちがいのワキリントくんがTwitterアカウントを消し去り、マルチバースへと旅立ってしまいました。なんだってこんなことに。
僕たちはまた大事な仲間を1名失いました。
だが、彼の意思は固かった。『私立アメコミ高校』の最新記事では、Twitterをやめた理由について以下のような陳述をしていた。
「SNSに疲れた」
「誘惑が多すぎて時間がなくなる」
「でも、ふかづめさんのスーパー行った報告が見れなくなっちゃう」
固い意思とは裏腹にちょっとモジモジしてるやん。若干なごり惜しそうにモジモジしながらTwitterやめてるやん。
でもワキリントくんとはブログで繋がっとるさかいな。ブログをやめたわけではないし。いわば「FAX捨てたけど電話はあるからいつでも話そ」みたいな。「ロクヨン売ったけどゲームキューブあるからまたスマブラやろ」みたいな。そういう話なのよ。

それはそうと俺、スマブラ苦手やねん。
なんやのん、あれ。空中庭園みたいなとこで戦うて、すごい速さでしばき合って。ボーン突き落として。
あんなん咄嗟にガードとかできる? 技出すのもさぁ、一瞬の間に「↑↑B」とかボタン押すんやろ?
ようやるわ。視神経、焼き切れるんちゃうか。腱鞘炎なったり。
格闘ゲームが苦手やねん、昔から。友だちとやってても一個もおもろない。こっち来やんといて来やんといて、ゆうてブワァ~逃げて、ステージの隅っちょに追い詰められた末に信じられへんぐらい暴力受けて「コンテニューする!?」みたいな画面出て。
するかあ!!
見てたやろ、今の。
誰がコンテニューすんねん。

でも、スーパーファミコンって格ゲーが多かったよな。あとアクションか。マリオみたいな。
マリオも苦手やな。走ってる最中に「危ない! ドングリみたいな奴にぶつかる!」と思って咄嗟に方向キーから指を離したのに、つるーんってなるやん。ちょっと余熱で走ってる、みたいな。ほんでぶつかって。顔青ざめて死んで。
大体なんでぶつかって死ぬねん。
わけわからんわ。なんで接触しただけで顔青ざめて死ぬねん。ええ大人が。「ヒィ~!」みたいな顔して。
『魔界村』も同じシステムやけど、『魔界村』は何となくわかるのよ。敵が怪物やからな。モロに。接触したってことはド突かれたり噛みつかれたり、なんぞ死に直結するような攻撃を受けたんやろな…って想像できるからいいの。でもマリオの敵は至って可愛らしいっていうか、亀とドングリとフラワーロックやん。顔青ざめて死ぬメンツちゃうやろ。
向こうがぶつかって来ても「おーよっしゃよっしゃ」っていなせば済むんちゃうの?
「おー元気な亀やな。口ぱくぱくして。お腹すいたんか。でもおっちゃん、なんも持ってへんからな。あっち行き。ほなな。ありがとうな」って言うたら済みそうなものを、何をええ大人が「ヒィ~!」みたいな顔して顔青ざめて死んでばっかりいつまでもいつまでもおおおおおおおお!
爾来、格ゲーとアクションゲームに辟易した私は、ターン制の王道RPGや戦略シミュレーションばかりを遊ぶ子どもに育ったのでした。
~つづく~

そんなわけで本日は『ラストナイト・イン・ソーホー』です。



◆夢と欲望がスウィンギングする街◆

 ひとまず映画としての是非は措くにせよ、60年代ポップカルチャーを憧憬する私のこころを躍らせるには十分な光彩を放った『ラストナイト・イン・ソーホー』の監督が、ボンクラ映画オタクから熱烈な支持を集めながらも私個人としては一向にまったくコレッポッチもハマれずにいた『ショーン・オブ・ザ・デッド』(04年)『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』(07年)『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』(13年) といったコメディ群、なんなら『ベイビー・ドライバー』(17年) に関しては当ブログで苦言を呈しもしたエドガー・ライトの作であることに驚きを禁じえないでいる私がここにいるうううう。
唯一、『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』(10年) は気に入ってまーす。

さあ、今夜の私は饒舌ですよ。
右手に「この映画すき」、左手に「でも映画としてはダメ」を装備して、二刀流で空を切り裂いていくんだからね。
ファッションデザイナーを夢見て片田舎の糞田舎からロンドンへ出てきたトーマシン・マッケンジーは、夜ベッドで眠るたび、なぜか意識だけが1966年のロンドン・ソーホーにタイムスリップする。映画や音楽で夢見た憧れの60'sロンドン。ツイッギー、ビートルズ、ヴィダル・サスーン、ジェームズ・ボンド!
目を輝かせたトーマシンは、ある夜、歌手をめざす同年代のアニャ・テイラー=ジョイを見つけ、境遇を同じくした彼女の動向を追いはじめる。ナイトクラブのマネージャーと恋仲になったアニャは、瞬く間に太客(有権者)とコネを結び、社交界の有名人となる。かかるシンデレラストーリーに触発されたトーマシンもまた、現実世界でアニャと同じ金髪へと変身し、奥手な性格もグングン活発に、服飾専門学校のエリートとなってゆく。
ところがある夜、いつものようにトーマシンが66年のソーホーにタイムスリップすると、順風満帆だったはずのアニャの顔に翳りが…。
ようやくステージに立てたアニャだったが、与えられた役は歌手のバックダンサー。それも尻を丸出しにして男を欲情させる“バカ女”の役だった。マネージャーは言う。「歌いたければ、それに見合うだけの“仕事”をしろ」と。
この街で女がのし上がるには、太客という名の馬鹿豚チャーハンどもに身体を売るしかない。
現実を突きつけられたアニャと、夢を打ち砕かれたトーマシン。
ふたり「憧れの60'sロンドンってこんな腐ってんの!?」

いま見破る! 懐古主義の現実! スウィンギング・ロンドンの光と闇! ショウビズの世界に翻弄された女たちの生きざま!
過去の女(アニャ)と現在の女(トーマシン)の魂が時を越えて共鳴したとき、何かしらが起きる!
『ラストナイト・イン・ソーホー』!!
うわああ~。


アニャ(左)とトーマシン(右)。

◆ゾンビのように甦る映画的記憶◆

兎にも角にも、満艦飾のスウィンギング・ロンドン。それしか言えねえ。

スウィンギング・ロンドン…1960年代にバカほど流行った英国カルチャー。アート、映画、音楽、ファッションなどロンドンを中心に若者文化が隆盛を極め、今や文化的アイコンとなったツイッギーの影響でミニスカブームが世界中を席巻。多くの若者が軽快に腰をスウィンギングさした。女の子は「スカートって、こやって履いてもいいんだあ!」と絶叫し、男の子はビートルブーツを買うか007のスーツを買うかでひねもす悩んだ(結局小遣いが足りず諦めた)。

伝説のモデル・ツイッギー。ミニスカート革命とツイッギーカット(横わけショートヘア)で20世紀ファッション史に痛烈な一撃をくわえた。

さて。映画冒頭、ロンドンでの一人暮らしが決まったトーマシンがちょけちょけダンスを披露する自部屋の壁には『ティファニーで朝食を』(61年)『スイート・チャリティー』(66年) のポスターが(よく見ると『Petticoat』のツイッギーも)。
非常にしゃれたオープニングだが、『ティファニー~』『スイート・チャリティー』が、その華やかな世界観とは裏腹に“欲望渦巻く大都会に搾取される女たち”を描いた作品だと知っていれば、このあと上京先でろくでもない目に遭う運命は半ば定められたも同然。あまつさえトーマシン嬢は死んだ母親の亡霊を幻視する力を持っているので、いよいよ『サスペリア』(77年) っていうか、ジャッロ映画の風味が漂ってくるわけですね。

ジャッロ映画…女性が殺人鬼に襲われてばかりのイタリアンホラー。強烈な極色彩と劇的なスプラッターシーンが特徴で、グラン・ギニョール風の頽廃した世界観を偏執病的ともいえるカメラワークで撮っちゃう!

そんなトーマシンを「行っといで」と送り出したのが祖母役のリタ・トゥシンハム。お忘れだろうか。この女優こそがスウィンギング・ロンドンの代表的映画『ナック』(65年) のヒロインだ。ちなみに『ナック』にはジェーン・バーキン、ジャクリーン・ビセット、シャーロット・ランプリングら、今やイギリスを代表する伝説的女優が総出演している。
その後のストーリーは先程紹介した通り。自らの境遇をアニャに重ね合わせるあまり夢と現実の端境で神経衰弱に陥っていくトーマシン嬢の目くるめくソーホー地獄巡りが始まるわけさ。
アニャ「頭の中で迷子にならないでね」

アニャのようす。

とにかく全編引用劇。
やれポランスキーの『反撥』(65年) だの、シュレシンジャーの『ダーリング』(65年) だの、アントニオーニの『欲望』(67年) だの…、スウィンギング・ロンドンの渦中(渦中と呼ばせて下さいよ)に作られたイギリス映画の痕跡がベタベタベタベタぁ!
ジャッロ映画からの影響に関しては『モデル連続殺人!』(64年)『血を吸うカメラ』(66年) などが色濃く、アルジェントの『インフェルノ』(80年) もバーの名前として登場。

もうほとんど「キミに小ネタがいくつ分かる!」っていう大会。

そういう大会が開かれてるし、逆にいえば引用元をしらない見てない興味ないって観客からすれば「これNANI~?」って。「 お母さん、これ皆なにしてんの~~?」ってきょろきょろするだけの個人競技が開かれてしまう。
「意識だけタイムスリップって。こっ…これなにー?」ゆうて。しどろもどろなって。


ジャッロ満載。

◆常識人が撮った変態映画◆

 ただ、出来栄えとしては渋いですよ。
次代のニューヒロインたるトーマシン・マッケンジーのファジーな相貌と、アニャ・テイラー=ジョイのキッチュな魅力は蛇口全開で放出されていたし、ふたりに負けず劣らず60年代ソーホーの街並みも色っぽい。
ちゅか、はっきり言ってエロい。
何かの映画評で蓮實重彦が「性器としての都市」とかワケのわからんことを書いていたが、そんな感じだ。こうも煽情的にソーホーを撮ることは、もはやフェティシズムに貫かれた地区に対する痴漢行為とさえ言えないだろうか。言えるとおもう。
何よりあくまで街が主役という意識が終始途切れなかったあたり、監督のエドガー・ライトをウンと褒めてあげたい。えらいもんで街全体が胎動しとったわ。
撮影に関しては、ショットを撮るというより「ルックを作ってる」って感じね。かっこいい画やしゃれた構図の連発なのだが、それとショットは別。もっとも『ベイビー・ドライバー』だって“ルックがいい映画”としてウケたわけだし、まあ、この人はもうこの路線でいいんじゃないですか。スタイリッシュな映画、みんな好きだし。

街も人もスウィンギング。

ただ、気になる点が2つあった。
1つは演出といい物語といい、意外とワンパターンで飽きがちってことだ。
霊が見えるトーマシンは、かつてのソーホーで死んでいった者たちの亡霊に悩まされており、日常生活の至るところで亡霊にしつこく絡まれてしまう。
で、亡霊に襲われては逃げ、襲われては逃げ…の鬼ごっこがデジャブ並に繰り返される。というか、ほぼそれだけで全部どうにかしようとしてるだろ、エドガー・ライトよ。
この一本鎗への信頼がすごい。
亡霊に襲われては逃げの一本槍で映画一本つくる気でいる。トーマシンさながら、このワンパターンで逃げ切ろうとしてるーっ!
物語自体はすごく突進力があるのに、すぐこの槍を構えだすので、もうなんか、アホの騎馬兵みたいな。「しまえ槍」としかこちらからは言えない。


もうひとつ気になったのは、悪夢的な難解映画というルックの割には思ったよりサラッとしてて、観客に難解攻撃した直後に「っていうのはね…」なんて絵解きしてくれて、なんとも至れり尽くせりな…。
おそらく『反撥』『欲望』のような不条理劇を『マルホランド・ドライブ』(01年) のテイストでお送りしたかったのだろうが、だとしたらアクの強さが足りないわ。狂気も足りないわ。
もっと変態じゃないと。
こういう映画は真性ガチ変態が撮らないとサマにならないのよ。もとよりエドガー・ライト自身が変態じゃないので、変態だったらああするこうするって想像だけで「っぽいモノ」を羅列してるように見えちゃって。変態のマネをした常識人の映画というかね。
そう。これがPO☆SAである。
ジャッロ映画っぽさ。スウィンギング・ロンドンっぽさ…。ぽさと戯れ、ぽさと踊る、オマージュ舞踏会「PO☆SA」の実態や!


自分で自分のいってることが順当にわからなくなってきたところで、ぼちぼち総括に入ろかな。技術的な話とかは…もういいか。細かいとこまで覚えてねえし。
私の目に『ラストナイト・イン・ソーホー』は甘く映ったが、好き嫌いでいえば断然好きやで。私自身、引用元となった映画群や60's英国文化に慣れ親しんできたので、そもそも嫌う余地も素地もハナからねぇって感じで。ええ、ええ。
この作品に対する感情はあれだ、ちょうど『キル・ビル』(03-04年) を擁護したい感情と瓜二つなのだ。頭のいいキルビル否定派と斬り合った場合、確実にこっちがキルされてしまうわけだが、それでも感情論の一本槍で「青葉屋でフッフーフッフッフーが流れるのに!?」って食い下がってくスタイルな。それと似たようなスタイルを『ラストナイト・イン・ソーホー』では取っていきたいとおもった。ありがとう。

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