話の次元が大和田伸也。
2019年。エイドリアン・グランバーグ監督。シルベスター・スタローン、パス・ベガ、セルヒオ・ペリス=メンチェータ。
ランボーは祖国アメリカへと戻り、故郷のアリゾナの牧場で古い友人のマリア、その孫娘ガブリエラとともに平穏な日々を送っていた。しかし、ガブリエラがメキシコの人身売買カルテルに拉致されたことで、ランボーの穏やかだった日常が急転する。娘のように愛していたガブリエラ救出のため、ランボーはグリーンベレーで会得したさまざまなスキルを総動員し、戦闘準備をスタートさせる。(映画.comより)
みんな、おはよう。
最近フクロウを脳内飼育しています。
オスの中型で、名前は「メソポタミア」。飼育スタイルは室内における放し飼い。
いつもまどろんでいるけれども、エアロスミスの「Walk This Way」をかけてやると首を揺らしながらヒョコヒョコ踊るので、根はファンキーなんだと思う。過去に人間を攻撃した経歴あり。現在は考えを改め、まずは防御を固めて相手の出方を窺うという戦闘スタイルにシフトした様子。座右の銘は「兵は神速を尊ぶ」。
ちなみに、ひと月前に脳内飼育していたのはメスのボーダーコリー。名前は「無血革命」。
朝から晩まで布団にくるまって過ごすことを良しとするスタイル。高い知能を持て余しているらしく、誰かのために行動したいと常々思いながらも布団にくるまっている。過去に人間を攻撃した経歴あり。現在は考えを改め、まずは相手が鞭を装備してるか否かを確認してから戦闘態勢に入るスタイルにシフトした様子(鞭を装備していた場合は叩かれるので戦闘を避ける)。座右の銘は「兵は神速を尊ぶ」。
脳内飼育してる動物は他にも沢山いるし、その全員が「兵は神速を尊ぶ」を座右の銘にしているけど、今日はここまで。また機会があれば紹介するね。もっとも「脳内飼育してる動物を紹介する機会」なんてそうそうないけどな。そもそも。
そんなわけで本日は『ランボー ラスト・ブラッド』。年内最後の映画批評です!
◆たまたまランボーと題されたから一応ランボーってことになってるだけ◆
洋画劇場最後の世代として、周囲の同世代の友人の中にはロッキーシリーズのファンこそ大勢いるがランボーファンは一人もいない。悲しむべきことだが、じつは私自身もランボーファンかと問われればノンと答えざるをえないのだ。なんとなれば、私はランボーファンではなく『ランボー』(82年)のファンだからだ。
要するに、コンテンツとしてのランボーシリーズが好きなのではなく、独立した一本の映画として『ランボー』を深く愛しているのである。
というのも元来、キャラクターやシリーズという大きな括りで映画を愛でる…という感覚が私の中には存在せず、例えばターミネーターなんかがそうで、ジェームズ・キャメロンの1作目と2作目はお気に入りだが、かといってターミネーターをシリーズやコンテンツやキャラクターとして捉えているわけではないので、いわばこの2作品は「同じ監督が撮った個々別々の映画」として評価しているのであるるるr。
話を分かりよくするためにあえて極論を言うが、シリーズモノにおける「続編」などという概念は原理的に存在しないと思っている。まったく、ふざけるな。「ツー」とか「スリー」などという呼び方は、物語や設定が引き継がれているシリーズ作品を区別するための便宜上の数字でしかなく、本来的に『ターミネーター2』(91年)は「ターミネーターの続編」ではなく『ターミネーター2』という1本の自律した映画ではないのか!
誰に対してなんで怒ってるんだ!?
私の好きな『ランボー』は遅れてきたニューシネマであった。
ベトナム帰還兵のジョン・ランボーが戦友の故郷を訪ねたところ、悪徳保安官から裸にされて放水攻撃を受ける。とても嫌な気持ちがしたランボーは山に逃走。追手の州警察のヘリに石をぶつけて墜落させ、周到な計画のもと警察署を襲撃するも、元上官のトラウトマン大佐から「もういい。戦争は終わったんだ」と説得され投降。だがランボーは言う。「俺の戦争は終わっちゃいません!」
『ランボー』はPTSDに苦しむベトナム帰還兵の苦しみを内省的に描いた戦争映画である。もちろんここでいう戦争とは他国との争いではなく自国との闘争を指すが、2作目『ランボー/怒りの脱出』(85年)以降は単なる爆破バラエティと化し、人助けという名目でベトナムやアフガンに出張しては大量殺戮をおこない、敵のヘリも毎回しっかり墜落させるような筋肉映画と化した。20年ぶりの『ランボー/最後の戦場』(08年)では暴力描写が過激さを増し、機銃でばらばらにされるミャンマー軍の肉塊をスクリーンに塗りつけることに成功。観る者をポカンとさせた。
昔のスタローンが男前すぎます。
そんなランボーの完結編が今回の『ラスト・ブラッド』。
アリゾナ州の牧場で家族とスローライフを送っていたランボーは、実父に会うために黙ってメキシコに行った孫娘が人身売買カルテルに誘拐されたと知り「ランボォーッ!」と憤激。アジトに潜入して救出しようとするも敷地内でソッコー見つかり、カルテルを束ねる兄弟にど突き回されて「ランボォー…」と鳴く。
そのあと再挑戦して見事に救出したが、すでにカルテルによってシャブ漬けにされていた孫娘はあえなく死亡。「ランボォーッ!」。憤激したランボーは再度アジトに踏み込んで大勢を惨殺したあとアリゾナにとんぼ返り。牧場の至るところに罠を仕掛けて追手を待ち構えるのであった!
これ…ランボーかね?
実際、今年5月にトレーラーを見たとき「これでランボーの名を冠せるなら『エクスペンダブルズ』(10年)も『バレット』(13年)も『バトルフロント』(13年)もランボーだよね?」と思ったものが、いざ映画を観終えてみて、私はこう思いました。
これでランボーの名を冠せるなら『エクスペンダブルズ』も『バレット』も『バトルフロント』もランボーだよね?
そうなのだ! この映画はランボーと冠してるからランボーなのであって、別の映画としてパッケージしようと思えばいくらでも出来るっていうか、『シルベスター・ホームアローン』と冠すればシルベスター・ホームアローンになるし、『シルベスター・スタローンの要塞警察』と冠すればシルベスター・スタローンの要塞警察だし、『リオ・ブランボー』と冠すればリオ・ブランボーなのだ!
早い話が、いつも通りスタローンが筋肉アクションしてるだけで、そこに無理やりランボーの題を冠してるだけなのよね。今回はたまたまランボーと題されたから一応ランボーってことになってるけど、山岳救助隊の手伝いをしているランボーが鉄砲水から遭難者を救うも2人死なせてしまったことを悔やみ続けるファーストシーンを見るにつけ、たとえば『クリフハンガー2』なんてパッケージで売り出しても普通に成立するわけさ。
逆にいえばランボーシリーズを一度も観たことのない人でも、古参ファンと同じ目線でご覧頂ける作品にはなっているのだけど。
罠づくりに励んでいます。
◆一応ランボーってことになってるけど実質フォードよね◆
もはや『ランボー』というより混じりっけなしの西部劇だわな、これ。
やけに力を入れていた土煙と乗馬のイメージ。何よりさらわれた孫娘を奪還するという筋書きからもジョン・フォードの『捜索者』(56年)への愛がひしひしと伝わるし、スタローンは律儀にもジョン・ウェインのコスプレ。イーストウッドさながらに一度死んで復活するという儀式もおこなう上、これまた律儀に聖痕まで付けちゃって(リンチされたあと顔を切り刻まれる)。
で、罠だらけの自宅に誘い込んで敵を一網打尽にするラスト20分に至ってはひとり『リオ・ブラボー』(59年)っていう。フォードになぞらえるなら『モホークの太鼓』(39年)でもいいけど。
ちなみに本作は内容的にも映像的にも凄惨極まりなく、クライマックスではメキシコカルテルの皆さんが四肢バラバラにされた挙句に頭部をこそぎ落とされる…みたいな衝撃映像のオンパレード。その過激な乱暴描写から、一部では「メキシコ人に対する人種差別だ」と非難されているが、スタローンにしてみれば「そう言われても、こっちは『捜索者』をやってるわけだしなぁ」てなもんでしょ。
『捜索者』は白人とインディアンによる血の報復合戦を描いた作品で、愛する姪がコマンチ族に誘拐・殺害されるという大変ショッキングな内容だ。復讐の鬼と化したジョン・ウェインが酋長の頭の皮を剥ぐシーンが物議を醸したが、そのアンチヒーロー像は後年『タクシードライバー』(76年)や『ハードコアの夜』(79年)へと受け継がれ、レオーネ、コッポラ、スピルバーグらにも影響を与えている。
ちなみにランボーが孫娘を捜して夜のメキシコを徘徊するシーケンスはモロに『ハードコアの夜』で「まんまやってるやん」て思った。
やたら馬に乗ります。
身も蓋もないことをいえば、やはり本作に『ランボー』と冠したのは口実というか建前に過ぎず、スタローンの本音としては「西部劇やりたい」という、ただそれだけのモチベーションだったと。
これは私の想像だが、おそらくスタローンは、シュワちゃんが『ラストスタンド』(13年)で『リオ・ブラボー』を現代風に完コピしたときに「ずるい。俺もやりたかったのにー!」と思ったんじゃないの? なんなら「馬に乗りたかっただけでしょ?」とまで邪推してますけど。
そんなわけで、多くのランボニストたちが大層ガッカリしてることにも合点がいきました。そりゃそうよねぇ。ジョン・ランボーの生き様や精神性に惚れ込んだファンからすれば、この改変(というより原点爆破)は結構ショックだろうし、とても褒める気にはなれんわなぁ。
ちなみにやなぎや評では「“という名の戦争”じゃ満足できない」や「これ…『96時間』じゃダメなの?」など数々のパワーワードを放っておられるのでランボニストは急いで読みに行こう!
◆殺戮行為を楽しむ始末◆
映像面は割と引き締まっていたし、クライマックスの殺戮ショーも快楽原則に沿っており「あなた、相変わらず悪趣味ねえ」なんて笑いながら楽しみました。
実は『最後の戦場』だけでなく『怒りの脱出』も十分残酷だったことを人は忘れてはならないけれども、今回の『ラスト・ブラッド』は過去作の比じゃなかったねぇ。
短期集中DIYにより無数のブービートラップが敷かれた自宅地下の全殺しトンネルに敵軍を誘い込み、その後はショットガンで頭部狙って風船みたいにパンパン破裂させるわ、皮膚の上から拳をぶち込んで握力だけで胸骨引っこ抜くわ、サバイバルナイフで胸かっさばいて素手で心臓とり出すわ…と、さながらゾルディック家の所業。
極めつけに大量殺戮の最中にドアーズの「Five to One」を大音量で流し、終盤戦に向けて気持ちを作っていくランボー。
「Five to One」…ベトナム戦争時に作られたドアーズの反戦アルバム『太陽を待ちながら』(68年)に収録。
人体破壊というよりマグロ解体ショーに近い、芸技ウルトラバイオレンス。そして、それを演じてるスタローンの目が完全にイッていて、“孫娘を殺された復讐”という大義名分のもとに殺戮行為を楽しんでるようにも見えるのね。か…完全に暴力の呪いに取り憑かれていらぁ…。
決して故意には人を殺めなかった1作目『ランボー』から、殺人や暴力がエンターテイメント化した2~3作目、実際に起きてるミャンマーでの大量虐殺への問題提起として暴力描写を“政治的に”エスカレートさせた4作目…と、さまざまな角度からさまざまな暴力論を提唱してきたランボーシリーズだが、行きついた先は無前提的な暴力とそこに悦びすら感じてしまう狂気の性。
戦争によって狂った男の末路は、だからすべてを失ったあとに玄関ポーチで椅子に揺られながら味わう虚無だけ。ペキンパー風味もほんのり漂うというか、『わらの犬』(71年)みたいでもあったよね。
怒りすぎてゴブリンみたいになってます。
それにしても不満は多い。
なんといっても、アリゾナのランボー牧場とメキシコの敵拠点をエッチラオッチラ往復するだけというロケーションの貧しさが映像のみならずストーリーまで質素なものにしていたのだ!
また、敵役の極悪兄弟は小物すぎて張り合いがないが、ランボーもランボーで間の抜けた一面があって。不用意に敵の根城に近づいたことでごく穏当に警備隊に見つかり、そうとも知らずに路地裏をポケーッと練り歩いてるうちに大勢に囲まれ、フツーに拳銃を取り上げられてオヤジ狩りに遭い「こりゃたまランボー…」って。
なんですのん、これ。
不用意にチンピラに近づいてオヤジ狩りに遭うって…
ハナシの次元が大和田伸也なのよ。
また、アリアナ・グランデ崩れみたいな孫娘もいまいち同情できないお馬鹿さんだし、瀕死のランボーを助けたパス・ベガ(なっつー。『ルシアとSEX』!)の扱いもぞんざい極まりない。それに極悪兄弟よりも遥かに大物と思われる商談相手の出番……あれだけェーッ!?
目先のドラマを繋げるためにその場限りのキャラクターが大量に消費されていくさまは、クライマックスで築かれる死屍累々よりも醜くて。
なにより一番がっかりしたのは「もうやめておきなよ」と諭すパス・ベガに向かって口角泡を飛ばしながら復讐論をまくし立てるランボー。
「オレは嫌だ! 愛する人を奪われた! この悲しみは生涯癒えないんだ! 誰がなんと言おうと、奴らを地獄の底に突き落としてやるんだから! ランボォーッ!」
そういうのは言葉にしない方がいいんだけどねぇ。野暮も野暮だわ。
しかもシルエットに象られたランボーの横顔は少しシャクレてました。
アリアナ・グランデ崩れの孫娘。
(C)2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC.