「追いつき追いこせキューブリック感」に満ちた、ちょっとイタい映画。
2018年。ヨルゴス・ランティモス監督。オリヴィア・コールマン、エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ。
18世紀初頭、フランスとの戦争下にあるイングランド。女王アンの幼なじみレディ・サラは、病身で気まぐれな女王を動かし絶大な権力を握っていた。そんな中、没落した貴族の娘でサラの従妹にあたるアビゲイルが宮廷に現れ、サラの働きかけもあり、アン女王の侍女として仕えることになる。サラはアビゲイルを支配下に置くが、一方でアビゲイルは再び貴族の地位に返り咲く機会を狙っていた。戦争をめぐる政治的駆け引きが繰り広げられる中、女王のお気に入りになることでチャンスをつかもうとするアビゲイルだったが…。(映画.comより)
おはようございますねぇ。
私はドラゴンボールをあまりよく知らない。空を飛べる超人諸兄がずっと荒野で争ってる作品ということぐらいしか知らない。あと、シェンロンという龍が『まんが日本昔ばなし』のオープニングにも登場しているということ。でんでん太鼓の少年が巧みに乗りこなしているよね。
過日、そんな私がドラゴンボール好きの知人相手に知ったかぶりしてドラゴンボール・トークをしていたのだけど、まー出るわ、ボロが。
まず「スーパーベジタリアン」などとわけのわからぬことを言ってしまったことを正直に告白しておく。「スーパーサイヤ人」と「ベジータ」を混同した結果「スーパーベジタリアン」というやけに強そうな菜食主義者を創造してしまったのです。
次に間違えたのは「精神と時の部屋」のことを「無限の輪」と言ってしまったこと。もはやカスってもいないので知人は相当悩んでおりました。すでにトークは破綻の兆しを見せております。知人の言ってることが僕にはわからない。僕の言ったことも知人に伝わらない。まさに不毛の極北にして無理解の極致。ディスコミュニケーションの到達点とはこのこと。
そもそも「ブロリ」というキャラクター名を聞いてブロッコリーしか思い浮かばないような私にドラゴンボール・トークを仕掛けてきたのが運の尽き。スーパーベジタリアンとは僕のことなのかもしれません。野菜トークならできるんだけどなあ。
そんなこって本日は『女王陛下のお気に入り』。
◆今度のランティモスは「脱走」ではなく「侵入」の物語◆
ギリシャが生んだ異形にして気鋭の新人作家、ヨルゴス・ランティモス。
この男の『籠の中の乙女』(09年)に心を奪われた人間は、ある種の倒錯した愛ゆえか毎作ごとに厳しい目で彼の新作に立ち会っている。「おまえさん、まさかニセモノじゃあないよな?」と疑うように。
なぜそこまでセンシティブになるのかと言えば、一流だと信じていた作家が三流だったと知ったときに映画好きは自我崩壊を起こすからです。
己の鑑識眼のなさを恥じ、「なぜこんなものに夢中になっていたのか…」と阿呆らしくなり、挙げ句の果てにその作家を憎悪してみせることで訣別の儀式を完了させるのだ。面倒臭いでしょ?
だからランティモスが『ロブスター』(15年)を撮ったとき、前作『籠の中の乙女』に魅了された映画好きはこの男が玉か石かを早期診断するのである。この時点で快哉を叫んだファンは安心してのちの作品に身を委ねることができるが、「まだちょっと怪しいぞ」と思ったファンは半信半疑のまま次の作品に臨むことになる。実際、ランティモスファンには用心深い連中が多い。
というのも、この作家の魅力はいかがわしさなのである。明らかに下手くそなショット、狙いすぎの演出、鬼才ぶった振舞い。さしずめ鬼才を自己演出する術を知り尽くしたハッタリの名手といったところか。
それゆえに全幅の信頼が置けない作家でもあるのだが、そもそも全幅の信頼を起きうる表現者ほどつまらないものはないから、よく「非凡」とか「変態」と言われるこの作家は実はきわめて健全な表現者ではないかと思う。
そんなランティモスが『聖なる鹿殺し』(17年)の翌年に撮りあげたのが『女王陛下のお気に入り』。
スペイン継承戦争に揺れるイギリス王室を舞台に、没落貴族の娘アビゲイルが女王アンと女官サラの蜜月を引き裂いて女王の寵愛を独占しようとする宮廷愛憎劇が描かれる。
常用される魚眼レンズが「閉じた世界」を表しているように「コミュニティとその崩壊」という主題においては過去作と軌を一にする箱庭世界がポップに彩られているものの、過去作に一貫する「外部への脱走」というモチーフが「内部への侵入」へと逆転しているあたりがおもしろい。
エマ・ストーン扮するアビゲイルは貴族に返り咲くために従姉妹のサラ(レイチェル・ワイズ)を頼って宮廷へ上がり、女王アン(オリヴィア・コールマン)と公私に渡るパートナーであるサラを出し抜いて“女王陛下のお気に入り”になる。
アンに取り入るためなら恩人サラを貶めることさえ厭わないアビゲイルは、『聖なる鹿殺し』の魔的少年バリー・コーガンにも通じる「侵入者」。
一方、アビゲイルの神算鬼謀によって宮廷を追い出されたサラは、コミュニティに反旗を翻した『ロブスター』でのレイチェル・ワイズとは真逆の「侵入を試みる者」としてアンへの愛とコミュニティへの接近に固執する。
他方、国の命運を担ったアンは、どれだけ政治的な無知・無関心であろうと脱走などできるはずもなく。
コミュニティという狂ったシステムから「脱走」を目論むランティモス的人物が掌を返したように「侵入」を目論む本作。だからここで描かれているのは(ラストシーンを思い出すまでもなく)抵抗ではなく屈服なのだ。
左からアビゲイル(エマ・ストーン)、女王アン(オリヴィア・コールマン)、サラ(レイチェル・ワイズ)。
◆過剰と誇張の剛腕演出◆
まったく外交能力のないアンは極度の肥満と痛風により歩行もままならず、何かにつけてサラやアビゲイルに「足を揉んでぇ」と要求する。彼女は過去に死産した17人の子供たちのかわりに17羽のウサギを飼っているようなファンシーな王女で同性愛も嗜む。これまでに夜の相手をしてきたのは側近のサラだったが、サラ以上の交友関係を結び始めたアビゲイルを「舌使いが滅法よい」と評価してアビゲイル贔屓を加速させるのだ。
当然、無知なアンに代わって宮廷の実権を握っていたサラは焦りはじめる。ちょっと舌使いがうまいだけの没落貴族ごときに地位が脅かされるなんて。
イングランドの未来が女中の舌使いなんかで決まるなんて。
このアホらしさである。
国の存亡が一個人の趣味や感情で決まってしまうというブラックコメディ。ヨルゴス・ランティモスであります。
物語はアン役のオリヴィア・コールマンを中心に、マールバラ公爵夫人サラに命を吹き込んだレイチェル・ワイズと、狡猾なアビゲイルをキッチュに演じたエマ・ストーンの三者によって力任せに引っ張られていく。
どれぐらい力任せかというと、アンは自分の気に入らないことがあるたびに窓が割れるぐらい絶叫し、サラは意識を失ったまま馬に引きずられて顔がズタズタになり、アビゲイルは「じゃれ合う」と呼ぶにはいささか過激な身振りで将来の夫にタックルをかます。
鬼才と呼ばれる作家のほとんどがそうであるように、ランティモスもまた「過剰」と「誇張」を好む極端人間(もっとも、この男は鬼才ではないのだが)。
もちろん女優陣以上に力任せなのはランティモスの映画術だ。
これ見よがしに常用される魚眼レンズ。『バリー・リンドン』(75年)への接近というよりも『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(17年)の悪夢を思い出させるような自然光へのこだわり。でも空間設計は相変わらずキューブリック。
アンが側近に揉ませる足が男根を表象しているにも関わらず、サラとアビゲイルが銃を構えて鳥撃ちを競うシーンはしつこいほど挿入される。極めつけはアビゲイルが夫に対しておこなう映画史上最も事務的な手淫。
また、「身分の凋落」はそのまま「落ちる」というモチーフで視覚化される。
アビゲイルは馬車から蹴り落とされて人糞にまみれ、サラは馬から落ちて大怪我を追う。そしてベッドから派手に落ちたアンが跪くアビゲイルの頭を押さえつけながら屹立を維持するラストシーン。
このラストの構図はアンとアビゲイルの主従関係をはっきりと示しているが―おそらくランティモスは観客の想像力を信用していないのだろう―アビゲイルの戸惑う顔に大量のウサギがオーバーラップするという演出まで加えられているのだ。要するに「おまえはウサギに過ぎないのよ」ということの二重表現である。極めつけはこのラストシーンを補足するかのようにエルトン・ジョンの「Skyline Pigeon」が鳴り響くエンドロール…。
もう言ってしまおう。
まだるっこしい。
馬車から蹴落とされるアビゲイル。没落貴族だけに「落ちる」。
◆ヨルゴス・ランティモスのお気に入り◆
性的イメージと落下モチーフのメタファーが何度も繰り返されるまだるっこしさ。
アンがアビゲイルの頭を押さえつける最後のショットが二人の関係性を明確に示しているにも関わらず、ウサギのオーバーラップでさらに明確化し、エンドロールの「Skyline Pigeon」で補足までしてみせるようなはしたない身振りにはいささかうんざりする。
「演出を説明するための演出」や「演出に驚いてもらうための演出」がしつこく繰り返されるのだ。
まぁ、元々はしたないのがランティモスの魅力とは言え、キューブリックから受けた薫陶は(『聖なる鹿殺し』と同じく)技巧との戯れに傾いていて、やはり今作でも映画の因数分解の披瀝に終始しています。
全編通してドヤ感がすごいのね。
まるで目立ちたがり屋のシェフの料理風景を見せられているようだ。
じつは効率が悪いだけの派手な包丁さばきとか、意味もなく食材を宙に放り投げるといったパフォーマンス重視の料理ショー。「普通に作った方が美味しいのでは?」と思っちゃうような、そんな一品でした。
また、まだるっこしさの極みとも言えるのがカメラを回し続けるという奇癖。
サラが紳士とダンスする様子を眺めるアン、手紙を燃やしたあとに涙するアビゲイル、そしてアンに屈服するアビゲイル。いずれも顔のアップショットが1分ほど続くロングテイクである。
この「引き延ばされたショット」はそれ単体としては自律しておらず、観る者がサブテクスト(言外の意味)を読み込むことでようやく説話装置としてその機能を全うする。すなわち、アンは楽しそうに男性と踊るサラに嫉妬しており、アビゲイルが流した涙は自身へと向けられた哀れみであり、屈服したアビゲイルはしょせん女王のウサギ=愛玩動物に過ぎないことを思い知る…という具合に。
このように、映画を遅延してまで「意味」に執着するロングテイクは物理的にまだるっこしい。要は 眠い。
本作最大の特徴である魚眼レンズと自然光も「ランティモスの美意識」を免罪符としてただ単に見づらい画面を組成するのみ。なんと押し付けがましい映画なのでしょう。
一番ワガママなのは女王じゃなくランティモスだった。
この映画は『ヨルゴス・ランティモスのお気に入り』だった。
魚眼レンズでグンニャアァァと歪められた空間。ここぞという時に放つべきケレン味であって、本作のように乱発されるとただウザいだけ。
今回の映像技法は『聖なる鹿殺し』のズームアップ/バックの通奏。『聖なる鹿殺し』評では「気を衒おうとしているが上手く衒いきれてない」といったことを述べたが、それは今回も変わらず。
随所でごく僅かなストレスを感じながらも全体を通してはそこそこ楽しめたのだが、ランティモス全作に漂う追いつき追いこせキューブリック感が輪をかけてイタくなってきた中期症状的作品である(ランティモスに限らずキューブリック症候群の作品はえてしてイタいものだが)。
とはいえこのイタい感じ、思い上がってる感じ、自己陶酔してる感じがランティモス映画の魅力でもあるので、美点と欠点が一体化した作家だということが言えるとおもいます。
過去作に続いて「床を這う」というモチーフも忍ばされているのでランティモス・ウォッチャーにとっては考察し甲斐のある作品ではないでしょうか。
追記
今回のMVPはサラ役のレイチェル・ワイズさんに決定しました!
映画前半は二人の存在感に押されていたが、アビゲイルの陥穽にハマる中盤からは落ちぶれるほどに魅力を増していくサラを好演。がんばりました。
落馬事故で大怪我を追って売春宿で介抱されるシーンではイーストウッド的余喘を保ち、顔の傷痕を隠すために黒いレースをつけた装いは某人気海賊をも凌駕する格好よさ。シビれんばかりにクールである。鳥の血が顔にかかる瞬間もいい。
余談ではあるが…レイチェル・ワイズとエーデルワイスがややこしい。
ふかづめ陛下のお気に入り。
©2018 Twentieth Century Fox