シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

血槍富士

傑作という語でみだりに褒めること躊躇わせるガングニル時代劇。

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1955年。内田吐夢監督。片岡千恵蔵、島田照夫、加東大介。

晴か嵐か、霊峰に轟け千恵蔵の雄叫び! 東海道は涙旅、富士は夕焼け仇討日和、血槍権八どこへ行く!(Amazonより)


どうも皆さん、おはようございます。
「この映画は全てのカットが美しい~~」とか言ってる人に対して「おまえが言いたいのって『カット』じゃなくて『ショット』じゃない?」と思うことがよくある。映画好きなのに映画好きの大部分がカットとショットの意味を混同してるっていう、伝説の現象ね。
最前からおのれが言うてる「カット」は、ショットや。
腹たつわー。ショットのことを頑なに「カット」と呼び続ける謎の人生を、おまえは送ってきました。今からでも遅ない。辞書、訂正せい。吾輩の辞書の「カット」の欄に「ショットのこと」ゆうて書いとけ。ほいで「ショット」の欄に「カットじゃないこと」ゆうて書いとけ。ほいだら間違えへんやろ。書いとけ。吾輩のヘンな辞書に。このアホレオンがぁ。

アニメの場合でも、これと同じレベルで「おまえが言いたいのって『作画』じゃなくて『絵柄』じゃない?」と思うことがある。
ただ単に、絵が上手い/下手とか、かっこいい/ダサいとかを指して「作画がいい」とか「作画がひどい」なんて言ってるヤツが多いけど、ウン…それたぶん絵柄ね。もしくはね。おまえが言ってる「作画」は、単に「絵」だよ。
通ぶりたいのかチョケたいのか知らんけど「作画」って言葉を使いたいあまり意味もよう知らんうちから「作画」って言葉放ってもうてるやん。似合ってるかどうか知らんけど試しに着てみたブラウスじゃないんだから。「絵」や。大人しく「絵」言うとけ。作画という名のブラウス、着ようとすな。ちょけんな。

しかし、なんだな。先ほどカットとショットの話をしたが、ショットもショットで大概ややこしくて、ショットという言葉にはローコンテクストとしての「ショット」とハイコンテクストとしての「ショット」が同居するため、話し手と聞き手の映画リテラシーが合致しないと、それぞれがまったく違う意味で「ショット」という同一の単語を使っちゃうみたいな伝説の齟齬が生じるわけだよね。
たとえば私が、映画評の中である女優のことを「とても綺麗だ」と褒めたとする。
この場合、ローコン的な解釈だと「端正な容姿を褒めている」といった額面通りの意味になるわけだが、ハイコン的な解釈だと「挙措や言葉遣いから窺える品のよさを褒めている」だったり「画面によく映えている」といった別の意味合いになるわけである。
その最たる例が、私がたまに発する「ショットが撮れない」という物言い。「あの監督はショットが撮れない」みたいなさ。もちろんショットは撮れる。カメラさえ持っていれば誰でも撮れる。ただしローコン的な意味ではな。
つまり物理的にはな!!!
でも、ここで言う「ショット」は物理の方じゃないんだよねぇ。ややこしいよねぇ。
事程左様に、ひとつの言葉でも複数の意味を持つ、このややこし味。ずるっこいよねぇ。埒が明かねーよ。もう面倒臭ぇから、いっそ誰かルール作れ。
一単語につき意味一個!
もう、そうせえ。1つのシュウマイに1つのグリーンピースがちょこんと飾られてるように…。

そんなわけで本日は『血槍富士』ですねぇー。
今回は映画批評の不可能性についてタラタラと喋ってます。mixi時代から私の映画評を読んでくれている古代読む者にとっては少しく懐かしい難文の随筆調でお送りして候。反対に、シネトゥで初めて私のことを知った近代読む者からすれば、とてもじゃないが読んでられない文章がググイとあなたに襲いかかるだろう!

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◆槍持ちロォドムービー  ~東海道をありく、ありく~◆

 褒め下手な人が多い。
滅法おもしろい映画を見たとき、「この映画は滅法おもしろいから君も見給へ」と人に説くのはご法度である。かかる話し手の興奮が「滅法おもしろい」という凡なる語句に埋没するためだ。なんとなれば、「おもしろい」という言葉は天下にすでに浸透しており、そんな言葉を幾ら連呼したところで何の力を持たず、聞き手をして「へえ」と思わしむるだけザッツオールだからである。
これは、何でもかんでも「神」をつけて「神映画」とか「神アニメ」とか「神回」と絶賛する現代人の堕落せし語彙貧困にも通じる話だが、たとえば「おっとろしいほど素っ晴らしい作品」ということをアピールせんがために「神」をつけてはいるものの、この「神」を連呼すればするほど、その賛辞は安っぽく聞こえてしまい、俗物風情が一時の気の迷いで興奮しているだけの世迷事として他を思わしむる。
つまり、心底から「神映画だな」と思ったときほど「神」なる語は使わない方が、却ってその作品のすばらし味を他にアピールできるという逆説的修辞だ。そも、「神」という語を安易を用いる人物ほどおよそ神とは程遠い俗物であるから、同様に他の俗物諸君が用いる「神」だらけの言論空間に埋没。早い話が、現代人はすでに「神」なる語を聞き飽きているから、むやみに神、神と言ったところで何ら言葉の効力がなく、聞き手が反射せし言葉の一切は「へえ」なるドライな感嘆詞に収斂さるるるるるる、ちゅわけだ。

 これとまったく同じ論理から、言葉を気安く使う人間のために、いまや映画批評の磁場において「傑作」や「名作」といった賛辞は言葉としての力をすでに失効している。何が傑作で何が名作かという判断もつかぬ無知蒙昧な映画評論家、カタログ知識だけで語っている映画コメンテーター、サブカル気取りのスノッブ野郎、小遣い稼ぎの下衆ブロガーなど、多種多様な腐れ外道ブラザーどもが、やれ傑作だ名作だと言葉だけを大袈裟に喧伝したために、それを鵜呑みにした一般人は総じてバカ化。あるいは、すぐれた映画評論家や映画ブロガーが残した切っ先鋭き批評に感銘を受けし一読者が「自分もあんな風に書いてみたい」と憧憬し、受け売り、浅学、付け焼刃の耳学問。見様見真似で文体模写なぞおこない、斬った風なことを書いてはいるが、しょせんは人のフンドシで相撲を取るが如し。はっけよいよい。よかぁない。
かくして現代の映画批評は映画を置き去りにした単なるレトリックゲーム(言葉遊び)として一人歩きしてしまっているのであるるん。るるん。るん。…ん♡

 さぁ、そこへ現れたは『血槍富士』
『宮本武蔵』シリーズで知られる内田吐夢による1955年の作だ。見る人こそ見る時代劇だが、見ぬ者は意地でも見ぬ時代劇。さらぬだに66年前の作品であるが、映画好きにとって60余年前といえば“一昔前”という感覚だが、広く一般にこれは“大昔”と感じるらしい。編集技術が確立せし音声付きの映画、という意味では現代映画と何ら変わらぬというのに「大昔」とはまこと失礼な話であるよなー。
 さて内容は、主君・島田照夫の槍持ちを務めて東海道を江戸へと向かう片岡千恵蔵加東大介ら3人の股旅を描いたロォドムービーと相成る。どうやら主人公は武士の島田照夫ではなく、その部下の片岡千恵蔵であるらしい。いま一人の部下・加東大介はコメディリリーフ。小津安二郎の『秋刀魚の味』(62年) において、世界一醜い「軍艦マーチ」のミュージカルを披露した肥満体型のプリプリ男である。
そんな3人が東海道をありく、ありく!

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浮浪児に槍を持たせてやる片岡千恵蔵。

主君の島田は、情け深く、思慮に富んだ好人物で、足を痛めた千恵蔵を気遣いながらスローペースで旅の先陣を切る、温和なハンサム。ごく控えめに言ってDAKARETAI。日本語にすると「抱かれたい」という筆者の願望が剥き出しになってしまうのでロォマ字にしたのであるが、自らニッポン語に変換して「抱かれたい」と書いてしまったので、もう明言する。
島田照夫に抱かれたい。
だが島田は度し難いほどの酒乱で、酒を飲んだ途端にヤカラの如く誰彼構わず突っかかる悪癖を持つ。ウーム。こりゃ恋人候補には迷いどころ。基本的には心優しい爽やかハンサムだが、酒に呑まれる潜在的ヤカラ。ウーム。迷いどころ。でも抱かれたい。
さて。すっかり色気づいた私を瞬時にして冷静に戻したるは加東大介。腹の突き出た、尻ぶりぶりの、ほぼハゲている、ブスの肥満児である。この男の前では性欲という性欲がヒョコリと巣穴にこうべを引っ込めるという、セクスィ全醒めの才に恵まれし三枚目。
加東も一応は千恵蔵と同じく槍持ちなのだが、主君・島田の槍は1本しかなく、その槍は千恵蔵が携えているので、事実上の手ぶら。事実上の手ぶらの腹の突き出た尻ぶりぶりのほぼハゲてるブスの肥満児としての加東大介がテクリテクリと歩いている。なんて光景だ。

f:id:hukadume7272:20210707220457j:plain島田照夫(右) と加東大介(左) 。

この3人をメインに、娘を連れた旅芸人の喜多川千鶴、槍持ちに憧れる浮浪児の植木基晴、小商人の進藤英太郎、江戸で娘を身売りさせる横山運平、および同伴者の田代百合子らが同道する。といってしかし、彼らは目的地が同じというだけで、互いに殆ど面識は持たない。よって映画は群像劇の体を取りながら、江戸へと向かう庶民たちの珍道中を個々に捉えてゆくのじゃ。

◆周到に計画された“映画=記憶装置の解体”◆

 特になんてことのない作品である。
野点を愉しみ人々の通行を阻害する大名行列を浮浪児の基晴が野糞のフレイバーで退散させたり、素朴な小商人の正体が最近巷を騒がせている“風の六衛門”なる大泥棒であったりと、大小さまざまな珍エピソードを矢継ぎ早に放つなどして、フィルムはこれといった物語の輪郭も捉えぬままスクリーンの表層を滑っては刹那的な事象の描出と感情の生起とを見つめていく。
べつだん旅の目的があるわけでなし、行く手を阻む悪役が出てくるでなし。どこか飄々とした喜劇調の長閑な雰囲気が打ち続く94分が当てもなくスクリーンを駆け巡ってはいるが、なぜか観る者は片時たりともショットの推移から目が離せず、もはや意思とは関係のないところで抗しがたく凝視を強いられる。それが『血槍富士』の傑作性である。
いやぁ、難しいよなー。あまねく批評というのは、“特になんてことのない事”の傑作性を説明するときが一番難しい。およそ殆ど、いや、全くといっていいほど技巧の跡が見えない本作には、だから論ずる上での取っ掛かりがなく、あらゆる批評言語を封じてしまい、かといって筋を説明するだけで評が成立するような物語優位の作品でもないから、いやはや困った。

 当ブログにおいて、私が映画を絶賛するときの話法には大きく分けて2つあり、ひとつは「話の筋を面白可笑しく説明する」パタアン、いまひとつは「映像/編集の効果をつどつど解説する」パタアン。
前者は、私が観ておもしろかった映画を「みんなも観て」と広く浮世に拡散せんがためのパフォーマンス行為に過ぎず、厳密にこれは批評ではなく“映画紹介”である。それに比して後者はより研究的な視座から映画のカラクリを解いており、これは浮世に狭く点在する映画好きのためだけの“教育行為”である。このトゥーパタアンの撃ち分けによって「ライト読む者」と「ヘヴィ読む者」の双方に訴求する…というのが当ブログの戦略的実態なのだが、かなしい哉、ああ、くやしい哉! どちらのパタアンでも太刀打ちできないのが本作のような映画。作家でいうならジャン・ルノワールや川島雄三、それにクリント・イーストウッドなんかもこのタイプに分類されるが、要は「凄いしおもしろいけど何が凄くて何故おもしろいのか説明できない」というような映画群/作家勢の、まるで煙に巻くような深遠な魅力への午睡的埋没によって撹拌された不確かな記憶および判断のすぐれて自己反省的な文章によってしか完結しえぬ文学的ジャーゴンへの演繹を辿ることでしか言語表現を許さぬ純粋映画領域において密やかに映画理解の錯覚を抱かせてやまない“不可知の映画”に対する格闘の痕跡としての映画評の遺体を横たえることしかできないのであ――――る――――――――――――――…………はぅああ!

 畢竟、「神」だの「傑作」だのといった語の濫用者には到底たどり着けぬ境地がまだまだ映画にはある…ということだけは心に留めて頂いたうえでの第二章の論旨―それは“技術”と呼ぶにはあまりに基礎的な映画撮影の妙が、ただ「見ている」だけの者を「観る者」に変えてしまうという映画精髄の不可逆性を炙り出すような現象についてのごく簡素な記述である。

 本作の映像面における最たる特徴は移動シーンとエピソードシーンの撮り分けであろう。
この映画はロォドムービーであるからして、道を歩いては誰かと交流する。すなわち“移動と交流”の反復によって構成されているわけだが、凡百のロォドムービーと一線を画すのはその刹那性。一般的なロォドムービーの場合、過去に交流した人々とのさまざまな経験を通じて少しずつ主人公が成長し、ファーストシーンの自分とは違う新たな自己を獲得するまでの物語が描かれる。これが俗に「貴種流離譚」と呼ばれる物語類型の花形だ。
ところが本作では、先述の通り「フィルムはこれといった物語の輪郭も捉えぬままスクリーンの表層を滑っては、刹那的な事象の描出と感情の生起とを見つめていく」ので、いわば過去の経験が蓄積しないという珍しい説話形態が採られている。
さらに噛み砕いていえば、主人公が得た経験はその都度リセットされ、何ら記憶も記録もされず、成長もなければ変化もしないまま旅の終わりを迎えてしまうということだ。そしてそれを台詞でも物語でもなく映像言語のみで表現してしまったことが『血槍富士』の凄絶なりき技巧の片鱗。しかもこれ見よがしの技巧ではなく馬鹿のように初歩的な映像技法によって実現しえた、という点こそが『血槍富士』の2枚目の片鱗なのである。めくっていくで、鱗!
トリックは単純明快。“移動と交流”を逆構図化してるだけ。
島田照夫らメインキャラクターが江戸に向かう“移動シーン”は下手から上手へ…、つまり画面左側から右側へと進んでいくが、これが“エピソードシーン”になった途端に上手から下手へ…、あるいは画面上手に立ったキャラクターが下手に向かってアクションを仕掛けるといった風に構図が逆行してるンである。

f:id:hukadume7272:20210707215958j:plain全編この調子。

これによって、わざわざ画面下手から上手へと歩を進めてきた旅人たちの軌跡はエピソードシーンでの逆構図によって物の見事に打ち消され、これまでの道中の出来事がなかったことにされてしまう。いわば島田照夫をはじめとしたメインキャラクターらは、一歩進むごとにその経験が白紙と化してしまう呪いに掛かったというわけだ。
 「特になんてことのない作品」というのは、斯くの如く生み出される。
話が遅々として進まない映画や、何ら進展性なき映画の多くは、作り手の無能によって生み落とされたフィルムの失敗だが、そうでなく戦略的に「特に何も起きない映画」の場合は、本作の内田吐夢のように周到に計画された“映画=記憶装置の解体”を疑った方がよい…ということが、この際言えていくわけである。この際ね。

 では、そうまでして高度に組織化された「特に何も起きない映画」を内田吐夢が志向したその創意は何かというと、これは本編を見れば弥が上にも得心する。
封建制度への風刺という一大テェマさ。
部下2名を従えて江戸へ向かう島田照夫は、武士でありながら武士が支配する封建的な世相に矛盾を感じ始める。部下の千恵蔵が世紀の大泥棒“風の六衛門”を捕えると、その手柄は主君たる島田のモノとなり、おまけに千恵蔵が後生大事に携えていた神君家康公より拝領した槍は贋作ときた。
「つまり、偽物の槍で賊を捕え、偽物の手柄を立てたというわけだ。ははっ、ははっ。おもろ」と笑ったは主君・島田。空に谺する、ペーソス溢るる自嘲の高笑い。
こんなものが武士なら、武士など願い下げ。『水戸黄門』においては助さん格さんによって「これが目に入らぬか!」と示された印籠は木から落ちた浮浪児を治療するための薬として使われ、酒屋に入れば下郎同然の加東大介とフェアに酒を酌み交わす。それが島田という男であった。
良くいえば「庶民派の武士」、悪くいえば「武士になりきれぬ半可通」としての島田の一進一退スピリッツ。この男のプライドが、一歩進んだ端から一歩後退する「特に何も起きない映画」として構造化されているわけだ。また、そんな進退の紙一重に見え隠れするコノテーションこそが近代民主主義の萌芽。
だからこそ本作は現代人の鑑賞にも耐える、圧倒的な強度を誇る。名もなき部下の功績はすべて社長の手柄として十把一絡げにされたり、偽物として掴まされた“槍”にプライドを持ちながら発奮する阿呆を奇異に感じつつも、好奇心から「それ偽物ですよ」とは言わずにその動向を見守り続ける底意地の悪さなど、現代人たるわれわれとて決して他人事ではない“武士の滑稽”は至るところで演じられているのである。

f:id:hukadume7272:20210707214623j:plain世紀の大泥棒を捕まえたのに手柄は主君のものとなり、褒美は「ようやった」と書かれた紙切れ一枚。世知辛い。

◆うなれガングニル! 敵を突っつけ◆

 ようやく物語終盤では『血槍富士』の真骨頂を語れそうやわ。
これまでは山田洋二のごときハートウォーミンな下町人情物語がさんざ綴られてきた。槍持ち千恵蔵と仲良くなった浮浪児との疑似親子ウォーミン。千恵蔵と三味線弾きの女芸人との疑似夫婦ウォーミン。泣く泣く娘を身売りさせた百姓が親切な旅人の計らいで娘を取り戻すという…人身買い戻しウォーミン!!!
しかし、ラストシーンは所変わって旅程の宿場。目と鼻の先に江戸を臨んだ島田が加東を誘って酒を酌み交わしていると、ガラの悪い侍の一団に絡まれ「下郎と同席するなど武士の風上にも置けん! ばかっ」と因縁をつけられる。これに反応したる島田。普段は温和な男なのだが、酒が入ると勝気になってしまう癖があり、「下郎だろうと同じ人。盃を交わして何が悪いのだ。ばか!」と食ってかかった。すっかり怒った侍たちが一斉に刀を抜けば、これに臆した加東、島田と侍たちの間に割って入り、土下座をしながら双方に向かって「どうかやめて…。どうか…」と制止とも仲裁とも取れぬ半泣きの面持ちで事態の収拾を図ったが、興奮した侍の一人により「ええい、邪魔だ!」と一太刀のもとに頭を真っ二つにされ死亡した。

カトゥ――――ゥ!!

カトゥーの死を悲しむ間もなく侍に囲まれた島田。かかる諍いを見守っていたギャラリィの一人が海辺で安らっている千恵蔵を呼びに行ったが、報せを受けた千恵蔵が慌てて宿場に戻ったころには時すでに遅し。奮闘虚しく島田は惨殺されていたのである。

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千恵蔵「主君――――ン!

死体の前で慟哭した千恵蔵は、やおら片手に握りしめていた獲物を振り回した。贋作の槍……いわばガングニルである。グングニルもどきと名高い、伝説の贋作の槍。ガングニル。その破壊力は「まあまあ」を極めたとされる…。
そこからは血煙の大殺陣が演じられる。宿場の庭にて縦横無尽にガングニルを振り回した千恵蔵は、泥だらけになりながら敵を突きに突く。突くにあたって「えい」とも言った。外した一撃が酒樽に刺さったことで庭全域が3センチほど浸水し、その中で演じられる血と酒にまみれた殺し合いは壮絶そのもの…と言えすぎた。
死闘の果てにガングニルで敵全員を殺害した千恵蔵は、数刻後、主君とカトゥーの頭部をおさめた首入れをぶら下げ、何処ともなく出立する。映画は地平線の彼方へと消えゆく千恵蔵を見送りながら「海ゆかば」と共に幕を閉じる。
完グニル。

 歌舞伎めいた舞踊が主流だった当時の剣劇にあって、すこぶる泥臭く生々しい殺陣ゆえに『血槍富士』は日本映画史にその名を刻んだ“異色作”として今なお不気味な存在感を放っています。
『七人の侍』(54年) における大殺陣のダイナミズムこそが近代剣劇の精髄だと信じてやまない人にはなかなか理解しづらいだろうが、この“無駄だらけの動き”というのか、緩慢さと重々しさに覆われた身体性や、突きがなかなか当たらないというリアリティは、むしろ最近(2000年代~)の映像スタイルであって、これを『七人の侍』と同時代にやってのけた内田吐夢の感覚たるや、当時の観客からすればもはや理解すらできないほどに鋭敏だったのだろう。
さらに言えば、編集さえこの“泥臭い殺陣”に合わせて、あえてカットをずらしたり、割る必要のないショットを割ることでわざわざカッティング・イン・アクションに持ち込んだりと、映画それ自体が“泥臭い剣劇のリズム”を取っており、マァ、久しぶりに震えるような映画体験をしたわけでございます。

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総パニック状態下でのぐだぐだの大殺陣。

また、ずっと喜劇調だったにも関わらず島田照夫と加東大介が惨殺されるラスト5分の凄まじいショックもこの殺陣シーンを伝説たらしめた遠因。そもそも観る者は、この2人が惨殺され、その復讐のために千恵蔵がガングニルを振るい出して、そこで初めて本作の主人公が千恵蔵だったことを知るのだ。そして、これら入念に織り込まれた三重のショック構造が行き着く果てこそ、ただの虚無。
なんの爽快感もない復讐行為の挙句、松平家の侍を5人殺した千恵蔵は「当藩には下郎に斬られる不束者はいない」としてお咎めなし。ラストは中国抑留者でもあった内田吐夢がすべてを失った千恵蔵に自らを重ね合わせ、自虐のように「海ゆかば」を流す…。
 先にも申し上げたようにかなり技巧が見えづらい作品ではあるが、「これ見よがしに技巧を披歴する映画が却って幼稚に見えもするようなヘヴィ観る者」の目には、そのすべてが端倪すべからざる奇跡の連続であり、撮られるにしたがって切れ味を増すような“畏怖に値する映画”であることだけは保証しておきましょう。
ただし何度もいうが、ショットの淵源に息づく内田吐夢の創意はジャン・ルノワールの『ゲームの規則』(39年) と同等以上の不可視性を持つので、これに挑むには相応の体調を整えたうえで臨まれたい。

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