シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

(ハル)

星の夜、願い込めて、CHE.R.RY~ 指先で送るキミへのメッセイジ型キーボードばち叩きチャット映画の金字塔。

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1996年。森田芳光監督。深津絵里、内野聖陽。

速見昇は“ハル”というハンドル名でパソコン通信の映画フォーラムにアクセスする。仕事も恋もうまくいかず鬱屈していた(ハル)に、励ましのメールを送ってきたのは(ほし)という人物だった。互いの実像をわからないまま二人は次第に本音を伝え合うようになる。やがて、(ほし)の住む盛岡に出張することになった(ハル)はそこで会おうと提案するが…。(Yahoo!映画より)


よう、そろう!
航海士ならではの掛声を陸に居ながらしていく男。どうも。大地と共に歩む者、ふかづめです。
まあ、「大地と共に」っていうか、歩むのはオレだけなんだけどね。大地が歩んだら、それはもう動く歩道になってしまうのだし。ジャミロクワイの「Virtual Insanity」の動く床じゃあるまいのだし。
…でも、ここだけの話、床じゃなくて壁を動かしてるんだってね、あのMV。

ジャミロクワイ「Virtual Insanity」YouTubeより

1996年に一世風靡した「Virtual Insanity」は、のらりくらりとしたアシッド・ジャズの心地よさだけでなく、その斬新なMVが天下万民に与えたインパクトは計り知れない。
曲名を知らずとも「ジャミロクワイのアレ」と言えばだいたい伝わるからな。私なんか『インセプション』(10年) を初めて観たとき「ジャミロクワイのアレやん」と思ったわ。「どこが」とかではなく、どことなくジャミロクワイのアレやん?

…てなことを以前、知人に言ったら「はぁ? ジャミロクワイ? どこが?」と言われてしまった。
や。だから「どこが」とかではなく、どことなくジャミロクワイのアレやん、て。

なんで分かってくれんのん。すると知人、眉間に小皺を寄せながら「ジャミロクワイのアレは知ってるけど、それのどこが『インセプション』なの?」と楯突いてくる。
や。だから「どこが」とかではなく、どことなくジャミロクワイのアレやん、て。
1ターン前とまったく同じやり取りしてんぞ、俺ら。なんかの円環入ったんか?
そしたら知人、ちょっとイライラしながら「はあ? ぜんぜん共通点ないじゃん」と尚も楯突いてくる。
共通点なんかねえよ。当たり前だろ。『インセプション』と「ジャミロクワイのアレ」の最小公倍数って何だよ。こっちが知りてーよ。だから「どことなく」つってんだろが。
「どことなく」で「ジャミロクワイのアレやん」て!
なんべん同じやり取りすーん? 家庭裁判所か、ここ?

すると知人、仕方ねーから折れてやるよとばかりに「まあ…なんだかよく分かんねーけど、要するに“インセプションはどことなくジャミロクワイのアレ”ってこと?」と云ふ。
そゆこっちゃ! インセプションはどことなくジャミロクワイのアレ。
「でも最小公倍数は?」と知人。「求められない」とオレ。動く床の上で、二人とも踊った。でも本当は壁が動いてる。

さて。アシッド感たっぷりの前置きも書いたことだし、そろそろ映画評すっぺ。本日は『(ハル)』です。夏を目前にしての『ハル』。…あかん。このギャグは易きに流れすぎた。仕事なめてもうた。

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◆返事はすぐにしちゃダメだって、誰かに聞いたことあるけど◆

 まぁ、なんだな、森田芳光を一発キメるとすれば『家族ゲーム』(83年) だが、私は自他ともに認める酔狂者なので、こういう時ほどあえて発想の範疇にないモノを選んでしまう性分ゆえ『(ハル)』という事にどうしてもなってしまうのだよな~~。
インターネットが普及する前の「パソコン通信」で知り合った男女による純愛ラブストーリー。
『ユー・ガット・メール』(98年) が公開されるよりも前にユー・ガット・メールしていた…というのだから森田芳光の先見の明にはユー・リアリー・ガット・ミーだ。

主演は深津絵里内野聖陽。2人にとっては映画初主演である。
森田芳光は芝居経験や主演経験のないタレントにいきなり大役を任せることが多い作家なのよね。『の・ようなもの』(81年) の伊藤克信やでんでんをはじめ、『そろばんずく』(86年) のとんねるず、『模倣犯』(02年) の中居正広や伊東美咲、『間宮兄弟』(06年) の佐々木蔵之介とドランクドラゴン塚地。それに北川景子を発掘したのも『間宮兄弟』でした。
大林宣彦、伊丹十三、相米慎二らを脇目に、80年代日本映画の隘路を実験的手法で打破しようとした森田はコマーシャリズムを巧みに利用した“カルト映画”の作り手である。もちろん一般的にはアホみたいにブームを巻き起こした『失楽園』(97年) や、いつの間にか法廷映画の名作という事にされている『39 刑法第三十九条』(99年) で知られているのだけど。

f:id:hukadume7272:20210428043904j:plain久しぶりにスペシャルフォトを作りました。

そんな森田がお送りする『(ハル)』
パソコン通信の映画フォーラムで(ハル)というハンドルネームを使う東京在住のサラリーマン・内野聖陽は、そこで知り合った(ほし)というユーザーと意気投合し、毎晩チャットでその日の出来事を報告し合う仲になる。(ほし)の正体は岩手県在住の深津絵里だ。
 2人は顔も名前も知らない間柄だが、キーボードをばちゃばちゃ打ちながら互いへのメッセージを作成している時だけが唯一の幸せだった。まさに闇夜を切り裂く電脳恋愛であった。まさに「友情」を「愛」に変換してのエンターキーであった。カチャカチャカチャ…タァーン!であった。返信を待ち続けてのF5連打であった。タタァーン!であった。
「星の夜、願い込めて、CHE.R.RY。指先で送るキミへのメッセイジ♪」と歌っていたのはYUIであった。
思わず「っつ~~!」と懐かしむのは我であった。

 だがある日、(ハル)が映画フォーラムに現れた(ローズ)なる淫靡女とオフ会をしたことで(ほし)との関係が悪化する。(ほし)が地元の有権者から求婚されたことに嫉妬した(ハル)が「ローズと交際している」とつまらない嘘をついたためだ。
ちなみに(ほし)に求婚したのは「島唄」や「風になりたい」で知られるサーターアンダギーバンド、THE BOOMのボーカル 宮沢和史
果たして(ほし)のCHE.R.RY=甘酸っぱい恋はどうなってしまうのか?
(ハル)は指先でどんなメッセイジを送るというのか!?
「好きなーのーよ~。あっあっあっあっ」と素直になれる日は来るのだろうか!?

ていうかYUIって今何してるんだろか。「CHE.R.RY」をヒットさせて『タイヨウのうた』(06年) で大根芝居を披露したあとの事は知らないなぁ。そんな私がお送りする『(ハル)』評。始まりまーす。

YUI「CHE.R.RY」 YouTubeより

◆森田は映画を攻撃する◆

 開幕からしばらくは、90年代中期の都市の風景をバックに映画フォーラムでのチャットの様子が映される。映画コミュニティの4人が最近見た劇場作品について語り合うのだが、やがて(ハル)と(ほし)が二人だけでメールのやり取りをするようになると、いよいよ背景もパソコン画面のみとなり、無機質なモニターに浮かぶ字の羅列がスクリーンの全域を支配してしまう。
さらに困ったことに、本作はもっぱらこのメールの受信画面で進行していくのである。
深津絵里と内野聖陽の日常シーンが短くインサートされはするものの、映画の大部分は互いに送り合った長文メールが画面いっぱいに映し出されただけの静止画で、それを熟読玩味する我々は観る者から読む者へと肩書きを新たにする。さながらシネマノベル(読む映画)だ。
そう、本作を通してわれわれが得る体験は“映画鑑賞”ではない。
メールチェックだ。しかも他人の。

 実際、本作の上映時間は118分だが、2人の出演シーン…というか実写シーンだけで言うと40分あるか無いかというレヴェル。それ以外の時間はメール本文をまんじりともせず読み続けるという、およそ映画的興奮とは真逆の黙読という名の事務作業へと没入せねばならない。
最近の日本映画のように劇中人物が画面上に映った字をバカ丁寧に音読してくれたりもしないので、読むことを諦めた者は物語理解に支障をきたし、アッという間に置いていかれるという不親切さ。

f:id:hukadume7272:20210604203941j:plain一事が万事この調子で、メールやチャット画面がひたすら映される。

 この字の主役化前衛精神あふれる森田のことだから、さしずめゴダールあたりを意識した“反映画”の振舞いなのかもしれないが、私に言わせればそんな恰好いいものではなく、脱映画、もとい没映画とも呼ぶべき映画の全的棄権。
なにしろ画面に映っているのが字だけなので芝居の全き不在が映画の呼吸を殺しており、そこで言語化された2人の感情はあくまで論理によって説明される。「昨日こんなことがあったから落ち込んでます」ということを「昨日こんなことがあったから落ち込んでます」という文章で完結してしまうことの趣のヘボさ。随所でインサートされる日常シーンの断片がメール文を補完するための“説明の説明”として逆流していることの本末転倒は、さながら映像言語ならぬ言語映像なるファンシーな従属関係を築いておりました。
 もちろんこうした“演出放棄という演出”は森田の作為から発せられたもので、唯一文字から解き放たれたかに思えた日常シーンでも、天気予報の文字放送、深津の献立表、街の電光掲示板など、たとえパソコンから離れても世界は文字で埋め尽くされているという森田らしいアイロニーが瀰漫しているのである。
極めつけは深津の部屋の本棚に並べられた村上春樹の書籍のカットアウェイ。この背表紙のショットがやたらに挿入されるため、当然そこには「ヒロインは村上春樹の愛読者」という意味が生じるわけだが、この“意味”は芝居やドラマといった映画的要素を発生源にしているわけではなく、ほかならぬ文字それ自体から発せられている…という味気なさを孕んだ、じつに嫌味ったらしい映画への攻撃である。

 思えば森田は、劇映画処女作『の・ようなもの』から遺作となった『僕達急行 A列車で行こう』(12年) に至るまで、故意にオンチな演出や劇的展開の避忌を通してメタ的に…かつ執拗に映画を攻撃し続けていた。そこには70年代への失望と日本ヌーヴェルヴァーグへの羨望があったのかは知らんが、いずれにせよ大林宣彦や相米慎二らともある種の願望を共有していたであろう森田は、80年代のニューウェーブ作家らしく、映画を取り戻すための映画制作ではなく、逆に傷つけ、いたぶり、今度という今度は映画の息の根を止めてやろうとせんが為の映画制作にこそ生涯を捧げたのだろう。
改めて観直すとさすがに青いという気もするが、それだけの“殺意”を持った映画作家が今の日本にどれだけいるか…って考えると、ねぇ。入江悠も園子温もすっかりつまんない人になっちゃったし。

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◆イリュージョン ~99999人の幻影~◆

 てなわけで、映画評は前章で終わり。
ここからはデジタルネイティブの私がお送りするインターネット漫談を楽しんでください。
もう映画なんて1ミクロンたりとも関係ないから、興味ない人はさっさと閉じるのも一つの手だ。
 mixiやTwitterやFacebookが流行する遥か以前に、ザビビこと「ザ掲示板」で猛威を振るっていた伝説の随筆家とは、そうオレのこと…。
まだ「炎上」というネットスラングが存在しなかったころにザの日記に不謹慎な絵を載せて袋叩きに遭った炎上の草分け的存在にして、掲示板に立てた「ブルース・リーよりジャッキーの方がすごい」という幼稚なスレが袋叩きに遭い謝罪文を掲載する事態に追い込まれるなど八面六臂の多岐渡りまくり活動を展開したことで知られる伝説のスレ主である(人生の恥部なのでハンドルネームは公表しないこととする)。

 あの頃のSNS黎明期は本当に楽しかったのだけど、その分、歯触りの悪い違和も感じていた。
(ほし)は映画フォーラムを猥談で荒らす(ローズ)に「女口調だけど、たぶん男性だと思う」とネカマ疑惑を掛けていたように、現在のネット上でも相手の正体は依然不明である。みんな頭ではワカっちゃいるが、感覚の上では相手のことを知った気になってしまうのがネットの怖いところだ。
 電脳という名の洗脳にすっかり頭をヤられてしまった我々は、ハンドルネームや文章の雰囲気から相手の性別・年齢・人柄・お住まい等各種を何となく決めつけ、無意識裡にその虚像を信じきっているけれども、そこには何の確証もなく、仮に私ふかづめが「ぼくは三十代の男だーよ」と告白してもそれが真実かどうかなんて読者諸君には分からないし、たとえ私が「嘘じゃないだーよ!」といって自分の顔写真を晒したとて、それすら“他人の写真を載せてるだけかもしれない”という可能性が残るわけで、これって裏を返せば私が私であることを私自身ですら証明できないってことでもあるんだよね。
すなわちネットを介した言葉は、当人の意思に関わらず、発した端から仮説化されてしまう。
「ふかづめは京都在住のしがない映画好きだーよ」という定説は、しかし読者からすれば仮説に過ぎず、それと同じく読者もまた私にとっては実態なき仮説的人物であり、たとえば1日10万アクセスを達成して「ヤッタダーヨ!」と万歳三唱してみても1人の狂人が10万回アクセスしてただけかもわからない。私は99999人の幻影を見ていただけかもわからないのだ!

だからこそ『(ハル)』の森田は、言葉だけの仮想空間で「誰かと繋がれる」と思い込んだ人々の錯覚を“文字という錯覚のメディア”を通じて撃ったのではないか。

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 それはそうとよ。ネット上で知り合った人の中には、少し仲良くしただけですげぇ急接近してくる人っているよな。あれ苦手だぜー。
私自身も、過去にSNSで仲良くしていた人から「ふかちゃんの家に行っていい?」と言われて「いや」と断ったことがあるけれど、そういう人を見るたびに「なぜそこまで僕のことを信用できるのだろう」と思う。私が包丁片手に玄関で待ち構えてるブギーマンだったらどうするの。戦闘開始よ?
 
現実での付き合いとネット上での付き合いはまったくの別物だし、そこに一線を引く思考がないことに対して、オレは尚も驚愕を禁じえないでいる。
 あとこれは完全に余談だが、“ネット上での付き合いはすべてイリュージョン”とさえオレは考えているよ。そもそも現実での人付き合いに関してさえ“基本的に人と人はあまり仲良くする必要はない”という思想を持っているんだ。馴れ合いの否定とかではなく、もっと根源的に、生物学とか社会学的な意味でな。
もちろん「人が好きだから友達たくさん欲しい!」ってヤツはいくらでも交友関係を広げればいいが、必要かそうでないかでいえば必要ない。本当に気の許し合える友人と、何かあったときに頼れる知り合いさえいれば、それだけで人間関係は万々歳なのである。

 「1年生になったら」という曲が嫌いだ。
だいたい「1年生になったら友達100人できるかな♪」とか歌ってるヤツはロクな2年生にならないと思う。友達は数を増やせばいいってもんじゃねえ。その分しがらみが増えるだけだ。かといって損得勘定で人間関係を形成するのもどうかと思うが、ある程度は付き合う人間を選ばないと将来カネを無心されたり宗教に誘われたりと散々な目に遭うぞ。友達100人も作ろうとすな。
 Facebookなんかでは、友達(フォロワー)の多さがある種のステイタスになってるようだが、オレに言わせれば友達が多いヤツほど信用できない。物事の本質が見抜けないヤツほど数にこだわるからだ。それに自分の体は1つしかなく、大勢の友達と等しく交流することなど土台不可能なので、仮に友達100人できたとして、そのうちの大部分は数字上の友達に過ぎないのである。そしてそれは「友達」ではなく「頭数」と言うのだ。
とはいえ、べつにオレは一匹狼を気取ってるわけじゃない。いわば群れることを嫌うあまり狼に憧れてる犬…ってとこだな。ボーダーコリー希望。お前さんはどうだ?

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星の夜に願いを込める深津絵里。「恋しちゃったんだ、たぶん。気付いてないでしょうお」とはYUIの言。