シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

お遊さま

乙羽プロジェクト。そしてハジメちゃんは二度生まれる。

f:id:hukadume7272:20190620030727j:plain

1951年。溝口健二監督。田中絹代、乙羽信子、堀雄二。

 

見合いの場で男が一目ぼれしたのは、見合い相手ではなく付き添いの姉の方だった。それに気づいた妹は、男に形だけの夫婦になることを提案し、結婚するが、それは姉のことを思ってのことだった。やがて、三人で旅行をしたり、仲良く外出をする姿が他人の噂に上がるようになり、妹夫婦が自分のために犠牲になっていると知った姉は二人の前から姿を消してしまう…。(Amazonより)

 

あっ、おはようございます。

トゥイッターで「質問箱」というのが流行ってございますね。

つい先日、酔った弾みでなんにも知らずに設置してみたのだけど、どうやらこれは匿名で質問を募集してそれに答えていく…といったサァビスらしく、まぁ、考えようによっては卑劣なシステムだなと思います。素性の知れない人から一方的に質問されるわけですから、こんな不躾な話はありますまい。とはいえ設置したのは私ですから自己責任と思って涙を呑むことにします。

そうそう。アクセスするたびに新しい質問がどしどし届いてるんだけど、その内容が「家にプールがあったらいいよね?」とか「幼馴染との恋愛ってあり? なし?」といった実にくだらないものばかりで、これはおそらく運営側が拵えた自動質問なのでしょう。幸いにも「ゴミ箱」という機能があったので届いた質問を片っ端からゴミ箱に入れていきました。

質問箱からゴミ箱に移すだけの不毛な作業。いったい私は何をやっているのだろう。

でも中には「私宛にわざわざ書いてくれた質問だな」と分かるものもあって、そういう質問には丁寧にお答えしております。

そんなわけで、映画に関する質問がありましたら何なりとお寄せください。下記のリンクから匿名で質問を送っていただけると思います。たぶんね。もしお寄せ頂いた質問が多ければ、いっそ当ブログでまとめてお答えするかもしれません。

 

んなこって本日は溝口作品第2弾、『お遊さま』です。

この映画にインスピレーションを得て「お遊さま」という曲を作りました。ここで歌ってもいいのですが、まぁ、遠慮しておきます。

f:id:hukadume7272:20190620031639j:plain

 

世界一慎ましい三角関係

ほいほい。溝口健二の大映作品第一作『お遊さま』である。

もともと溝口健二は日活でサイレント映画を撮っていたが、トーキー作品を手掛け始めたタイミングで松竹に移籍。その後、大映に鞍替えして『雨月物語』(53年)から遺作『赤線地帯』(56年)までの傑作群を残した。そして大映移籍後の記念すべき一作目が『お遊さま』なのである。つまり大映に移らなければヨーロッパ中に日本映画を知らしめた『雨月物語』『山椒大夫』(54年)も生まれ得なかった。

この話のポイントは大映には宮川一夫がいたということである。

いるよねぇー。宮川は。大映に。

すなわち溝口は大映に移籍したことで同社に所属する世界トップクラスの名キャメラマンが使い放題になったわけだ。言い方は悪いがな。まさに鬼に金棒。「ええもん手にしたでえ」と言った溝口は、遺作を含む7作品で宮川を使い倒した。言い方は悪いがな。


そんな宮川のカメラが堪能できる『お遊さま』

どのような映画か、一言で申すなら世界一慎ましい三角関係を描いた作品である。

物語の舞台は昭和初期の京都。多くの縁談を断り続けてきた堀雄二は、あろうことか見合い相手の乙羽信子ではなく、その姉・田中絹代に一目惚れしてしまう。乙羽は堀が姉に惚れていることを早々に勘づいたが、何も知らない姉から「掘さんはええ人みたいやし結婚しなはれや」とガンガン背中を押される。見合いを終えた堀も、今さら「じつは乙羽さんの姉さんに惚れているんです!」とは言い出せずに事態は膠着化。

すると急に結婚に前向きになった乙羽は「形だけの夫婦になりましょう」と堀に提案する。自分よりも姉に幸せになってほしいと願う乙羽は、自らの人生を犠牲にしてまで二人の橋渡し…いわば恋のキュウピットを買って出たのだ。この縁談を断れば姉と堀の関係はスッパリと絶たれてしまう。だがひとまず堀と結婚さえすれば三人一緒に居られるし、その間にうまいこと二人が結ばれてくれればいいと考えたのだ。堀もこれに合意して、表向きは「夫婦」だが実際には「義兄妹」として乙羽との関係を築いていく。

だが当の姉・田中はそんなことなど露知らず、「大事な妹がいい人と巡り合えてよかったわぁ」と完全祝福モード。一人でひらひら踊っている。三人で花見や旅行にいっても嬉しそうなのは田中だけで堀と乙羽はなんだか物憂げ。アイコンタクトでこのような会話をした(はず)。

 

乙羽(早いとこ姉さんを口説いてんか)

 堀  (そない言うたかて俺たち結婚してもうたんやし…、堂々とは口説かれへんて…)

乙羽(そやかて今のままの関係を続けるわけにはいかへんでっしゃろ?)

 堀  (ひょっとしぃ、結婚したんは早とちりとちゃうかったけ?)

乙羽(せやね。失敗したかもな)

 堀  (やってもうたな。雁字搦めや)

f:id:hukadume7272:20190620033045j:plain

花を楽しむ三人。左から乙羽信子、堀雄二、田中絹代。


さぁ、本命の妹と結婚してしまった堀はどのように田中にアプローチするのか?

そして堀と田中が楽しそうにじゃれ合っているさまを悲しそうに見つめる乙羽の心境とは?

そして田中。いっさいの事情を知らぬとはいえ、無自覚にも堀のハートを射止めてしまい、愛する妹にも気遣われてしまうのだ。すべては田中の与り知らぬところで巻き起こる、慎ましやかな三角関係。美しきは罪深き!

このあと物語はどんどんヤバい方向に進んでいきます。

f:id:hukadume7272:20190620032904j:plain

田中絹代。お遊さまであります。


◆溝口パラドックス、あるいは映画の身体性◆

溝口作品の雅(みやび)が横溢した作品である。

これまでの溝口作品は世俗や幽玄を含んだある種の「生々しさ」に満ちていたが、本作には平安時代のような遊戯的な雰囲気がふっくらと行き渡っていて、ある意味、外国人が理解しやすい日本情緒が芽吹いている。

その秘密は「光量の多さ」にあるのだろう。屋内であれ野外であれ、やや露出過多のカメラがスクリーンに野放図なまでの明るさを呼び込んでいて、主要キャスト…わけても田中絹代が大和絵のような平面の美を湛えている。あるいは家屋、庭園、着物、京都弁の気色のよさ。従来の溝口作品に似合わず雨や曇りのロケーションもなく、爛漫と咲き誇る桜並木を明朗に映し取った楽天的なショットがじつに美しい。

だからこそ、この楽天性なショットが「のっぴきならない三角関係の深刻さ」を逆説的に炙り出すのです。

まるで「何も問題はない」とでも言うような晴れ晴れとしたロングショットの中にぽつねんと佇む人物たちが雁字搦めの恋の危機に瀕している…という皮肉な因果だ。

f:id:hukadume7272:20190620032655j:plain

お見合いをする堀と乙羽。実に晴れがましく美しいショットだが二人の表情はどこか浮かない。両想いではないからだ。

 

映画中盤。セリフでは語られないが、田中のために「形だけの夫婦」を演じていた乙羽が人知れず堀を恋慕していることがそれとなく明かされ、一方の田中は子持ちの未亡人だったことが明かされる。雪だるま式に状況が複雑化していく…。事ここに至っては雅とか映像美とか言うてる場合やあらへん。

そして3歳そこらの田中の息子・ハジメちゃんが謎の奇病で急死してしまうという「ハジメちゃん事件」に至って、ようやく不自然にすら思えた楽天的な映像の連鎖は「本来の溝口ワールド」へと流転する。あれほど晴れやかだった映画は錐揉みしながら不幸のどん底へと落下していくのである。

f:id:hukadume7272:20190703020407j:plain

息子のハジメちゃん。夭折。

 

ここでも皮肉の因果は炸裂する。

嘘をついたり本心を偽った人物は皆揃って相手から逃れるようにその場から少し離れる…という身振りが徹底されるようになるのだ。

相手に対する後ろめたさや否定感情が「距離を取る」という形で身体化されているのである。たとえば、恋人に浮気を疑われた男が嘘をついたあとに顔をそむけたり、不憫な女が我が身の苦しさを訴えて泣き伏せたりするのと同じで、本作では「少し離れた場所に移動する」という立ち居振る舞いがパターン化されているのである。

これがなぜ皮肉になり得るかと言うと、このような「負の身振り」に興じれば興じるほど画面が活性化するからにほかならない。

嘘をついたり本心を偽った人物はバツが悪そうにあちこち移動して目の前の相手から逃れようとするが、それをするほどに宮川のカメラは逃げ回る人物をフォローする。つまりカメラもキャラクターもよく動くので動態は豊かになり、暗いストーリーとは裏腹に元気いっぱいのショットが量産されていく…というわけだ。

キャラクターが追い詰められるほど映画が活き活きするという、嗚呼…残酷なりき溝口パラドックス!

これぞ溝口必殺の飛び道具。ちなみに、撮影こそ宮川ではないが『西鶴一代女』(52年)でもこれとまったく同じことをやっている。以下はわたくしが過去に書いた評論から一部抜粋。

 

三船敏郎の求愛をにべもなく断っていた田中絹代が、本心の愛を打ち明けて抱擁するまでを流麗な長回しで捉えたワンシーンの妙技。

田中が顔をそむけた方向に三船が回り込みながら説得を続け、なおも愛の告白を断り続けて座敷から庭へ出ようとする田中の進行方向を、これを逃すまいと三船が阻む。それをもすり抜けて庭に出た田中は、背を向けたままようやく三船の愛に応える。追いすがっていた三船は恋が成就した喜びから田中の行く手を阻むことはしない。ついに田中が着物の袖をひらりと舞わせて三船の胸に飛び込み、泣き崩れて地面に倒れる…。

座敷から庭へ、くるくると移動しながら恋の顛末をワンシーン・ワンショットでおさめた陶酔のショットである。二人の身振りや動線が言葉よりも雄弁にその心情を表している。—『西鶴一代女』

 

早い話が、感情表現を「歩く、追う」といった身体表現だけで伝えるのが溝口健二なのである。

セリフや表情に頼らず人物の足取りだけでドラマを形作る天才。だから溝口作品にはアップショットがほとんどない。顔などさして重要ではないのだ。

私は折に触れて「セリフによる過剰説明」や「表情による芝居」を無価値だと断じてきたけれども、その理由はセリフや表情は映画にぶら下がっている副次的な要素に過ぎないからだ。セリフは説明を司り、表情は感情を司る。映画は司らない。では映画を司るものとは?

当然、運動である。

被写体と画面がまず動くこと。これが第一条件にして絶対条件である。被写体も画面も動かないモノのことを人は映画とは呼ばない。それは絵画とかマンガとか写真のような平面媒体の領域でござります。

「被写体」と「画面」がまず動く。そこで初めて「物語」が動きだして「感情」が生まれる。で、ようやく「映画」。

この先後関係のうえに映画は成り立つと思うのです。溝口は最高だ。

f:id:hukadume7272:20190620032423j:plain

『西鶴一代女』の田中絹代と三船敏郎。

歩く・追う・倒れる・起こすといった身体運動で語られていくメロドラマ。

 

◆乙羽プロジェクト◆

最後の章は少し気を緩めて書きたいことを徒然なるままに書こうと思います。

本作を絶賛しているレビュアーの褒めポイントの大部分が映像面…すなわち宮川一夫の撮影に拠っているように、この作品は「溝口健二の映画」というより「宮川一夫の映画」と認識した方が賢いのとちがうやろか。宮川一夫は時として監督を喰うほどのカメラマンなのだ。

私の所感としても「宮川一夫の映画」として観れば『お遊さん』は実に佳麗な作品なのだが、さて「溝口健二の映画」として観た場合には抗いがたい感情の反撥に苛まれることになります。

 

一言でいえば堀と乙羽がむかつく。

私はキャラクターなどという架空の人物ごときに感情を重ねるほど暇な映画好きではないのだが、この映画に関してはキャラクターに大層むかついた。許せね~。

堀は「形だけの夫婦になりましょう」という乙羽の提案を受け入れるが、それによって一番傷つくのが乙羽だと察して「キミは本当にそれでええんか?」とか「やっぱりよそう…」と何度も思い留まらせる。

一見すると乙羽を気遣っているように思える態度だが、どうも私の見立てではこれは堀の本心ではなく、乙羽の決意が変わらないことを見越した上での善の側に立つための鋭き打算ではないかと思うのだ。あとから誰かに責められないために、あるいは乙羽に対する後ろめたさを掻き消すために「私は乙羽を何度も止めた」という既成事実を作りあげ、それを心の拠り所にして罪悪感から逃れようとしているのである。よくよく考えると卑怯な男だと思います。

乙羽も乙羽である。

「これでいいのです! 姉さんの幸せは私の幸せー!」などと豪語するが、そのあと床に突っ伏してオイオイ泣く。自己憐憫が過ぎていけない。この映画で乙羽が流した涙は合計何リットルになるだろうか。かの名作コンテンツ『1リットルの涙』を遥かに凌ぐほどのババ泣きではなかろうか。

f:id:hukadume7272:20190620032102j:plain

仮面夫婦契約を結ぶ堀と乙羽。

 

そもそも「姉のために堀と結婚して仮面夫婦を演じる」というプロジェクト自体が意味不明なのである。

皆さん、薄々思わなかったですか?

なにこの乙羽プロジェクト。何がどうなったらハッピーエンドやねん。

堀は田中に想いを伝えぬまま乙羽と結婚。義姉となった田中は堀を弟のように可愛がる(恋愛感情ゼロ)。だが乙羽の願いは堀と田中が結ばれること。堀の願いも田中と結ばれること。むりやん。どう挽回したら堀と田中が結ばれるのさ。

案の定、ようやく二人が形だけの夫婦だと知った田中は「私のためにアナタ達がこれほど苦しんでいたなんて…。ていうか二人して私を騙しとったんか!」とワケわからん感情になって失踪してしまう。その後もずっと行方不明、音信不通。飯田やないねんから。

 

※ここからネタバレ※

月日が流れること十数年。結局最後まで夫・堀と心を通わせぬまま乙羽は病死し、悲しみに暮れた堀はやっとの思いでカナブーン田中の住所を特定、乙羽との間にできた幼子を「ハジメちゃんの代わりだと思って育てて下さい」という書置きとともにカナブーン田中の家のまえに捨てます。

いかつい事するやん。

しかし、かつて子を失ったカナブーン田中は大喜びしてひらひら踊る。堀から貰った幼子に「飯田」という名前をつけて可愛がるのでした。完。

f:id:hukadume7272:20190703020407j:plain

新しい息子、飯田。


原作は谷崎潤一郎『芦刈』。小説からはずいぶん翻案されていて溝口お得意の女性視点が導入されているが、大体からして谷崎のアブノーマル文学と溝口の女性映画はすこぶる相性が悪い。

三者の十数年後を追ったラスト20分では田中と乙羽の姉妹愛がきわめて論理的に描き上げられているが、物語としては美しく着地する一方で映画は完全に止まってしまっていた。女性映画を掲げて理屈を通そうとするあまり理屈に足元をすくわれた…という印象。

何はさておき田中絹代が醸す和の美しさがフィルムを活気づけた95分でした。撮影が宮川一夫でなければ派手に失敗していたかもしれない、紙一重の勝利。

 

(C)KADOKAWA