寝る・立つ・座るだけで描かれた権謀術数の四角関係!
1964年。増村保造監督。若尾文子、岸田今日子、船越英二、川津祐介。
弁護士の妻・柿内園子は、美術学校で出会った若き令嬢・徳光光子に恋心を抱いていた。学校内で同性愛の疑いを掛けられた二人は、それがきっかけでかえって仲良くなる。そんなある日、絵のモデルとして裸体を見せて欲しいと園子に頼まれた光子は、二人きりの部屋で白い肌をさらした。激しく感情を高ぶらせる園子。いつしか互いに裸となり、二人は強く抱き合った…こうして、光子と園子の密かな関係が始まり、光子の愛人、園子の夫を加えて、奇妙な愛の物語を紡ぎあげていく。(Amazonより)
おはようございます。
「更新頻度さげます」とお知らせした翌日にいきなり更新するというエンターテイナーのたしなみ。
ふかづめです。
最近、足の爪が伸びてきたんだけど、足の爪って切るのが億劫だよね、手に比べて。
手の爪に関してはカジュアルに切れるっていうか、なんなら映画評を書きながら切ったりもするんですよ。キーボードを打ってると「あ、爪伸びとるな」っていうのが目で分かるじゃない。そしたら爪を切りながら文章を考えるわけです。で、ちょっとタイピングしてまた爪を切る、ちょっとタイピングして爪を切る…の繰り返し。爪と映画を同時に切ってるわけだよね。
だけど足の場合はな~、そもそも爪が伸びてることに気づかない、という問題があるわな。もし私が足でタイピングするようなカブキ者だったらすぐに気づくだろうけど、残念ながら足は使いません。しかも風呂と就寝時以外は常に靴下を履いているので、足の爪は不可視領域になるわけです。
そのうえ、足の爪って固いじゃん。まぁ…固い・柔らかいは人それぞれか。でも親指の爪って比較的固いよね。それが厭なの。手の爪を切るときは「パチッ♩」って気色のよい音を立てるけど、足の爪は「バチッ!」って言うのよ。物々しいのよ。「P」と「B」の違いはでかいよ。
巻き爪の人は大変だろうな…とも思うし。かつて私のマミーが巻き爪を手術で治したんだけど、爪全体がサーキットのコーナーみたいになってるわけですよ。だから爪を切るときは爪切り自体をドリフトさせなきゃいけないという高等テクニックを求められるわけです。イメージできてるけ?
爪トークはこの辺にしておきましょう。もしかして爪トークだけで記事ひとつ書けるかもしれないね。流石ふかづめ。その名に恥じぬ爪マスターとしてのたしなみ。
そんなわけで、本日取り上げる映画は『卍』でーす。
…絶対アレを言うと思ってるでしょう?
マジ卍って。
言うわけないでしょうが、そんなベタなこと。僕がそんな低次元かつビタイチ面白くないギャグを言うようなセンス底辺ヒューマンだと思っているんですか。だとしたら心外だよ。失望だよ。僕とキミの長きにわたる絆って一体なんだったんだろう…って疑わざるを得ないほどのトラブルだよ。「信」と「頼」が駅でバイバイしてもうとる。
見くびらないでよ!
◆日本映画は待たない◆
マジ卍である。
若尾文子を語る上では欠かせない『卍』。監督は増村保造。
ていうか、ほんと最近ごめんなさいね。もはや昭和キネマ特集というより若尾文子特集と化しつつある『シネマ一刀両断』だけど、特別若尾にハマっているわけではなく、私が観た映画にたまたま若尾が出ているというだけなのだ。信じて。
なにせ若尾は160本近くもの出演作を持つ大映のトップスター、そして現在わたしはAmazonプライムで大映作品が見放題の「シネマコレクション by KADOKAWA」の無料体験の恩恵に浴している。どう考えてもかち合うでしょう、こんなもん。
私が若尾を見ているのではない。若尾が私を見つめているのだ。きゃあ。
そんな若尾とダブル主演を務めますは岸田今日子。
『この子の七つのお祝いに』(82年)では娘を洗脳教育していた縫い針高速突きババアを演じて多くの日本国民のいたいけな心に一生拭い去れないトラウマを植え付けた女優としてお馴染み。
ところがアニメ版『ムーミン』ではムーミンの声を長年務めていたように、本来はとてもおっとりした女優で、本作のように30代のころの映画を観るとものすごく愛らしい顔をしていたことが分かる(ていうかフツーに美人なんですけど)。
そして本作『卍』のおもしろさは、若尾、岸田ともにパブリックイメージに合った役を演じていること。これひとつ!
つまり若尾は人を惑わせる妖婦、岸田はおっとりした弱虫女…という見たまんまの役柄なのであります。
よく見るとフツーに美人な岸田今日子(右)、よく見なくても明らかに美人な若尾文子(左)。
あらゆる性的倒錯をテーマにしてきた作家・谷崎潤一郎の『卍』(28年)は女性の同性愛に切り込んだ内容で、当時としては大変にショッキングな小説であった。
だが、本作に先んじてレズビアンを真正面から映画化したのはウィリアム・ワイラー。みんな大好き『ローマの休日』(53年)や、長くてしんどい『ベン・ハー』(59年)などを代表作に持つ巨匠で、まぁ、映画好きの年寄りがだいたい好きな監督である。
この男がオードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンの超豪華W主演でつくった『噂の二人』(61年)という映画があって、これがハリウッドメジャーで初めてレズビアンをはっきり描いた作品なのである(出来はイマイチだが資料的にはたいへん意義深い作品)。
愛し合うオードリーとシャーリーは瞬く間に人々の噂になって差別・迫害・村八分にされ、ラストシーンでは差別を苦にしたシャーリーが首吊り自殺をする…という最悪の後味を残す。
かと思えば、そのわずか3年後に撮られた『卍』の何と軽佻浮薄なこと。
軽い、エロい、エンタメ丸出し!
増村保造の『卍』は実にセンセーショナルなエンタメ・レズ映画なのである。
こういうところが日本映画の強みであるよなーとつくづく思います。
たとえば、アメリカなんかだと「レズビアンを世に問う!」なんてまじめ腐ったポーズで『噂の二人』みたいな物々しい映画を発表したあと、月日が経ってレズビアンが市民権を得始めた途端に『Kissingジェシカ』(01年)とか『キッズ・オールライト』(10年)のようなレズビアンをポップに称揚する作品を作り始める(もちろんそれ自体は好いこと)。
つまり時代が同性愛に対して寛容になるまでの数十年間を待つのである。
だが日本映画は待たない。アメリカがレズビアンをポップに称揚できるまでにかけた40年間を「世の中の空気? レズは気持ち悪い? 知ったこっちゃねえわ」とばかりにあっさり飛び越え、『噂の二人』とほぼ同時期に『卍』のような攻めた映画を作っちゃうわけです。マジ卍でしょう?
なにも同性愛に限った話ではござらん。性描写しかり、残酷描写しかり…、日本映画はあらゆる面で機先を制し、いの一番にタブーを破ってきた。小津に至っては「映画作りの約束事」を世界で初めて堂々と無視した。
日本映画はロックンロールだ!
どの国よりも大胆で激しい前衛精神を持ったイカれた国なのでした。かっこよー。
『噂の二人』のオードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーン。
◆騙し騙され若尾教◆
物語は岸田今日子による老作家への告白・回想形式で進む。
美術学校に通う岸田と若尾には予てより同性愛の噂が立っていたが、事実、一心同体の二人はこの噂を利用して若尾の婚約者・川津祐介を遠ざけようと画策する。
一方、岸田とその夫・船越英二の夫婦仲は完全に冷めきっていた。岸田は夫をないがしろにして、夫は妻と若尾の異常な蜜月ぶりを勘繰る…。
本作は、この男女四人の移りゆく人間模様を描いた文芸まるだし作品となってございます。
ちなみに『卍』という題は愛憎入り混じる四角関係を卍に見立てたもの。
岸田&船越の夫婦(画像右側)。 若尾&川津のカップル(左側)。だが本当に愛し合っているのは女性二人。
縫い針高速突きババアとしての顔を持つ岸田今日子は本作でも狂気を帯びていました。ヌードデッサンを口実に若尾を裸にして、その柔く白い素肌があまりに美しすぎたために「憎たらしい。殺してやりたい!」とメチャメチャなことを言う。この女は若尾の美の信仰者なのだ。
一方の若尾も岸田のことを愛しているが、純粋な愛というよりは信仰してくれた代わりに愛してあげてるという感じで、愛のイニシアチブを取っているのはあくまで若尾。
そして彼女たちの愛欲に男二人が加わり、四者の関係は見る見るうちに複雑化していく…。
若尾と川津が肉体関係を重ね続けていることに嫉妬した岸田は二度と彼女に関わるまいと誓うが、このままだと見放されると焦った若尾はしらこい芝居で許しを乞い、まだ未練が断ち切れない岸田は見え透いた芝居と気付きながらも彼女を許してしまう。
さらに悪知恵を働かせた若尾は、川津に妊娠したとウソをつけば病院に通うフリをして今まで以上に逢引を重ねられると岸田に提案。「妙手じゃん!」と岸田。以前から自分たちの関係を怪しむ夫・船越にお腹の大きくなった若尾を紹介すればレズ疑惑も解けて一石二鳥というわけだ(疑惑というか…実際にレズなのだが)。
さて船越は、腹回りにウンと着物を詰めた若尾を目にして「やや、こりゃ失敬。二人ともストレートだったのね!」と胸を撫でおろす。川津の方も妊娠を信じて「ようやく若尾を俺だけのものにできたぞ!」と欣喜雀躍。すっかり騙された男二人、その間抜けさ。
ところが復讐の川津、恋敵の岸田に近づいて二人で仲よく若尾をシェアーするというアブノーマルな契約を結ばせる。互いの腕をナイフで切って血を飲み合うことで義理の姉弟となるのだ!
さらには打算の川津、この契約書を船越に突きつけたことでレズ関係が露呈。女二人はすべてに決着をつけるべく睡眠薬による狂言自殺を計画するのであった…。
血飲みの川津(ただただキモい)。
この映画、何といっても入り組んだ駆け引きがおもしろいですな。
ことに若尾は権謀術数に長けた相当の策士で、男だけでなく愛のためには岸田まで騙すヴァンプなのである。たとえば岸田に見放されそうになった若尾が仮病で同情を誘うシーン。
若尾「苦しいよぅ。死ぬぅ! きっと死ぬぅ!」
岸田は、それを芝居と見抜きながらもわざと騙されて心配してやるが、若尾はそれすらも見抜いていた。仮病がバレていると知りながら、尚も「きっと死ぬぅ!」などと見え透いた芝居を続けたのである。
岸田が自分との愛を修復するために「騙されたフリ」をしてくれることを知っていたからだ。
まさにウソの五重の塔。裏の裏の裏を掻く悪女である。
仮病と勘づく岸田。しかし仮病がバレてると知りながら尚も芝居を続ける若尾。
かと思えば川津も相当の手練れ。
恋敵の岸田に対して若尾との関係を断たせるのではなく「異性愛と同性愛は別ものですから二人で交互に若尾を愛しましょう」といって逆に同盟・契約を結び、その契約書を船越に見せることで間接的に女二人を追い詰めていく。
そしてすべてを知った船越から事実関係を問い質された岸田もわざと神妙な顔をつくって夫の怒りを和らげようとするタヌキ女。
唯一、船越だけが何の打算も持たない男。それどころか若尾との関係を洗いざらい打ち明けた妻に理解を示すほどのナイスガイだったが、つい、ね…つい出来心で若尾と肉体関係を結んでしまったわな。
だが岸田は浮気した夫の不義理を責めない。それどころか老作家に対して当時の心境をこのように告白する。
「夫は…いっぺん若尾さんと間違いを犯してからは、私にすまん思いながら同じ過ちを繰り返してたらしいのですが、その点は同情できるのです。あたしと夫は肌合えへんし…。私が愛の相手を若尾さんに求めたように、夫にしたかて無意識のうちに同じことを考えたのに違いありゃしまへん」
こりゃ興味深いですなぁ。
岸田は、自分と若尾の関係が不倫であることを自覚していたからこそ船越を責めず、そればかりか同情・共感まで示したのである。
船越の不倫によって夫婦関係は完全に破綻したが、それは第三者たる我々が「常識の目」で見当をつけた事実の一側面に過ぎない。当事者の認識は違う。事ここに至って、頭も身体も合わない岸田&船越はついに「夫婦」になったのだ!
夫婦揃って「若尾を愛している」という共通項で結ばれた 異常な夫婦に…。
夫婦揃って若尾を愛することで逆に仲良くなっていく岸田&船越。
そして映画終盤。
次第に神経衰弱していく夫婦を見た若尾は、岸田との狂言自殺で使った睡眠薬で二人を眠らせる。すると毎晩睡眠薬で床に就かされた二人は疑心暗鬼に陥っていくのだ。岸田は自分が眠っているあいだに夫と若尾が情事に耽っているのではないか…と、船越は女二人が口裏を合わせて自分を毒殺するのではないか…と。
でも与えられた睡眠薬は大人しく飲む。
このシーンは下手なホラー映画よりも恐ろしい。二人は身も心もこの悪女に捧げてしまい若尾信者と化してしまったのだ。
夫婦もろとも骨抜きにする若尾文子の妖しき魔力。現実と妄想が混濁する映像表現もなかなかいい。まぁ、若尾に騙されるなら本望でしょう。
若尾教に入信して睡眠薬を飲まされる夫婦。
忘れてはいけないのが血飲みの川津である。
若尾に捨てられた腹いせに岸田と交わした契約書を新聞社にリークしたことで三人の異常な関係が新聞に大きく書き立てられてしまい、夫婦だけでなく若尾まで社会的な地位・信用を失ってしまうのだ。
絶望の淵に立たされた三人の眼前には たっぷり余った睡眠薬…。
若尾「一緒に死んでくれるわね…?」
岸田「死にまーす!」
船越「死にまーす!」
元気があってよろしい。
三人同時に大量の睡眠薬を飲んで仲良くオネンネ。誰が生き残ったか…というのはここまで読んでくれた読者ならすでにお気づきだろうが、なんとも恐ろしい作品であった。
愛が高じてカルト宗教にまで発展した壮絶な三角関係。互いに疑えど愛することがやめられず、喜んで地獄のお供をする夫婦の憐れ。若尾中毒。
もし私が「よぉ、お前さんはどうなんだ?」と言われたら、まぁ一発で若尾中毒の餌食でしょうね。
若尾文子から睡眠薬を飲ませてもらえるなんて、こんな贅沢な話はないわけですから。
心中。
◆映像言語としての「姿勢」◆
最後の章では映画論に一丁噛みします。
『卍』は横臥のイメージに支配されている。
次いで着座のイメージ。逆に人物が屹立しているショットはほとんどない。
横臥――すなわち身体を横たえた姿勢だが、これは「愛情」を意味しており、互いの心が通じ合う、もしくは肉体的に結ばれたシーンで必ず登場します。「寝る」という言葉が性行為の婉曲表現として使われているけれども、まさに物理的に寝転んでしまうわけだよね。また、映画終盤で繰り返される二度におよぶ自殺(一度は狂言自殺)も、やはり横臥のイメージにぴったりと重なる。
次いで着座のイメージが多いけれど、これが意味するのは「親和」。
岸田と川津が契約書を交わすシーンや、岸田に同性愛をカミングアウトされた夫が寛大に理解を示すシーン、それに若尾、岸田、船越の三人が運命共同体となるクライマックスでも画面内の人物はおとなしく床に座っている。
ならば屹立が意味するのは当然「衝突」ということになる。岸田と若尾の言い争いや夫婦喧嘩など、諍いが起こるのは決まって人物が突っ立っているときだ。
つまりキャラクターの関係性がすべて姿勢に表れているのです。
立つ・座る・寝転ぶ。この三つのモチーフだけで複雑な四角関係を見事に表現しているんだ、増村って奴は。だからこの映画…音をミュートして観ても大まかな筋ぐらいはわかるはずだよ。映画ってそういうものですから、本来。
岸田&船越夫婦の場合。
1枚目は夫婦喧嘩の様子(屹立)。2枚目は和解(着座)。3枚目は夫婦愛再燃(横臥)。
この三つの姿勢の組み合わせがまた面白いんだな!
たとえば若尾が仮病を使って岸田の気を引こうとするシーン。わざと若尾が玄関先で卒倒しても岸田は立ったまま。岸田が横臥する(愛を訴える)若尾に対して屹立を維持していることから相当怒っていることが分かる。
しかし、ひどく苦しむさまを見た岸田は急に心配になって若尾を抱き起こす。ここで着座のイメージ(和解)。謝り続ける若尾と「ええのよ」と気遣う岸田の親和性がグングン高まっていくぅー。
仕上げは横臥。ベッドに横たわる若尾とこれに寄り添う岸田はすっかり仲直り。愛が復活したのでした。
岸田&若尾の場合。やはり「屹立→着座→横臥」がその時々の関係性を表している。
「屹立」はともかく「横臥と着座」に関しては日本映画の優位性のひとつである。
床に寝たり座ったりする文化がない欧米の映画では滅多に見られない演出だ。
ちなみにイーストウッドは横臥によって「死」を表す作家だが、これをメタファーと呼ぶにはあまりに露骨すぎる。まぁ、イーストウッドでもせいぜいその程度なのである。同じ横臥でもそこに「愛情」を表象する増村…ひいては日本映画の寝そべり力には到底かなうまい。
日本映画は寝そべってナンボや!
(C)KADOKAWA