市川流の小津映画 ~ぷすーっとする女たち~
1959年。市川崑監督。若尾文子、京マチ子、野添ひとみ。
カー・デザイナーの和子には大阪に半次郎というフィアンセがいるが、失業中の父とスチュワーデスの妹・通子の世話があるため、なかなか結婚に踏み切れない。そこで友人の梅子に婚約解消の話をつけてくれるように頼むが、梅子は半次郎に会ったとたん、恋に落ちてしまう。(Amazonより)
はい、おはよう。はぁ…。
昨日、ライオンみたいな勢いで映画評を書いていたら急にパソコンが落ちて文章が吹っ飛んじまいました。しかも起動後なぜかネットに繋がらなくなって…すっかりヘソを曲げちゃった。
こういうとき、私は消えた文章の復元作業をしません。諦めるか書き直すか、ふたつにひとつだ。これひとつ! 仮に一番いいところで文章が消えてしばらくしたのち復元できたとしても、もうあの頃の気持ちにはなれないからです。あの情熱は戻ってこない。「あの素晴しい愛をもう一度」とか歌われてもムリです。縁がなかったと思って評を見送るか、別の切り口からもう一度トライするか。これふたつ。どっちかひとつ!
まぁ、もう一度書いてみようと思います。第一章の途中で飛んだのが不幸中の幸い。傷は浅い。この程度でへこたれる私ならとうの昔にへこたれています。その私が今現在ノットへこたれということはイエスがんばりということに他ならないのです。どういうことでしょうか。
そんなわけで本日は皆さんも大好きなあの映画! そう、あの映画!!
ご存じ『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』。市川崑2連続、若尾文子に至っては4連続です。ええ加減にせえ。
◆小津やん◆
市川崑は一流か二流か?
そりゃあ「好き」という人民なら幾らもあるが、では市川の巧さを理詰めで証明できるかと言われれば、これには難儀してしまう。
一般に市川といえば『東京オリンピック』(64年)、『犬神家の一族』(76年)、『ビルマの竪琴』(85年)あたりで知られる作家だけれども、黒澤明からは「金の亡者」と揶揄されたほど無節操な男で、特に決まったテーマを持つことなくさまざまなジャンルを横断しながら商業映画を撮り続けてきた。
まぁ、横溝正史の推理小説の映画化に没頭し始めた70年代以降からガタガタッと品位を落として三流作家になり下がった感はあるけれども、とはいえ50年代末~60年代初頭までの市川は(一流カメラマン宮川一夫との蜜月もあって)たしかに才気走っていた。
『炎上』(58年)、『鍵』(59年)、『野火』(59年)、『ぼんち』(60年)、『おとうと』(60年)、『破戒』(62年)。大体このあたりである。
まさに掛け値なしの美しさと王道のおもしろさがギュッと詰まった市川玉手箱。
なお『穴』(57年)と『黒い十人の女』(61年)はまだ観れておりません。スイマセンでした。すぐ観ます。
しかしだなァ、この市川黄金期に撮られた『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』がたいへんな珍奇作だったので、ぜひとも俎上に載せたいと思う次第なのである。
先に結論めいたことを申し上げます。
度を越した実験精神について行けない。
映画全体があまりにキテレツすぎて、これが良いのか悪いのかすら判断がつかない。そういった作品なのであるるるる。
本作は、市川が過去に手掛けた『あの手この手』(52年)のようなホームコメディだ。
『氾濫』(59年)と同じく佐分利信と若尾文子が親子を演じており、次女が野添ひとみ、この家に入り浸っている親友を京マチ子が演じているので、キャストは相当に豪華であります。イェイ。
若尾は菅原謙次と婚約していたが、妻に先立たれた佐分利は失業までしちゃって不憫の権化みたいなことになったので「このまま結婚したらパパンが一人になる」と心配した若尾は、もともと大して好きでもなかった菅原との婚約を解消する。
しかし、娘の気遣いを察した佐分利は「パパンは一人でもダイジョブだよ」と言ってみたり「パパン、再婚しようと思っているんだよ」とウソをつくなどしてどうにか娘を嫁がせようとするのだが若尾の心は変わらない。
まさに「子を思う親」と「親を思う子」の思いやり型ハートウォーミングやさしみホームドラマ。
おや? おやや?
これって何かに似てますね。
何かを連想させてやまないですね。
小津やん。
モロに小津安二郎の世界なのである。小津映画って大体このパターンですからね。とりわけ『晩春』(49年)。これとまったく同じ内容でした。ええ加減にせえ!
小津安二郎『晩春』。パパンを思ってなかなかお嫁に行かない原節子(娘)にやきもきする笠智衆(パパン)。
◆ぷすーっとする女たち。そして市川は飽きちゃう◆
『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』は市川崑が本気で小津をやろうとした実験作である。もちろん「小津をやる」というのは、単に小津的なホームドラマをなぞるといった脚本上の模倣に終始するものではない。
小津をやることの異常性については誰もが知っていることなので軽い復習に留めておくが、小津は「カメラは決してイマジナリーラインを超えてはならない」という世界共通のお約束を大胆に無視した作家なので、いわば小津をやること自体が映画の大いなる違反にほかならないのだ。
本作で徹底されているのは、①抑揚のない台詞回し、②切り返しショット、③ローポジション。いずれも小津の代名詞的な技法である。
まず最初に、若尾の職場に京マチ子から電話が掛かってくるファーストシーンをご覧頂こう。
電話に出た若尾は、まるでロボットのような無表情と平坦な口調で京に語りかける。
「はい、若尾です。なぁに。京さん。驚いた。いつご上京。たった今。電話。東京駅から」
これは若尾の台詞を一語一句違えず書き起こしたものである。
通常の台詞回しだと「はい、若尾です。なんだ、京さんじゃない、驚いた! いつご上京なさったの? え、たった今? 東京駅から電話してるのね?」という具合に抑揚をつけながら笑顔で話すところを、まるで自動音声ガイダンスのように無感動なのだ(顔も能面みたいだし)。
非常に短いセンテンスで言葉を区切りながらの棒読み。実際、小津映画に出てくるキャラクターは全員こんな喋り方なのだ!
そのあと若尾と京は甘味屋で落ち合って母の墓参りに行くのだが、そこでの切り返しショットも極めて小津的。つまり被写体をほとんど真正面から撮っており、よく見ると二人の目線や距離がチグハグなのである。こんな具合やで。
ショット①
京「あの…、えらいこと立ち入って訊くようやけど、おじさん、会社辞めて困らへんの」
ショット②
若尾「家計のこと? さあ。お父さんにも心算はあると思うけど。いざとなったら私と妹のサラリィで何とかする」
ショット③
京「大変やね」
ショット④
ぷすー。
この明らかな違和感こそ、またしても小津なのである。
まずショット①を振り返って頂きたいのだが、このバストショットだと二人の顔は1メートル近くまで接近しているように見える。ところが、続く②と③の切り返し(構図=逆構図)では明らかに両者の間には1メートル以上の距離がみとめらやしまいか。
つまりこの三つのショットには空間的な繋がりがない。
第一、これほど近くにいる二人をわざわざカットを割ってまで切り返す必要すらないわけだが、この独特なカット割りと台詞回しが小津作品のリズムを作り上げているのだ。
おもしろいのはショット④。「大変やね」と言った京の顔を無言で見つめ続ける若尾のアップショットだが(ぷすーっとした顔がかわいい)、ここだけは小津の模倣ではなく市川が自分の持ち味を発揮したキテレツショットなのである。
せっかく京が「大変やね」と心配してくれているのだから何ぞ返事するべきだし、それでなければ無用のショットである。なぜ市川はこんな無為なショットを紛れ込ませたのだろう。ことによると小津映画の違和感を市川なりに表現してみたのかもしれない。それほどまでにこのショット④には小津作品に似た妙な調子がある。
前章でわたしが「良いのか悪いのかすら判断がつかないほどキテレツ過ぎる実験作」と申した理由は小津をやったからだけではない。
むしろその逆で、ファーストシーンではあんなに張りきって小津を模倣していた市川が、映画が進むにしたがって徐々に小津を無視するようになって普段通りの市川流映画術へと移行してしまうのである。
飽きとるやないか。
「小津をやる」というコンセプトを掲げておいて、映画後半では目に見えて小津に興味を失っちゃう市川崑のデタラメさ。まさにコンコンチキの崑ちゃんとは彼のこと。いわば、そう…、人気歌手が往年の名曲をカバーする歌番組「The Covers」に出演しておきながら急に自分の曲を歌い始めた吉井和哉ぐらいメチャクチャ。「The Covers」だっつってんのに。オリジナルソング歌うなよ!
そんなわけで、市川のオリジナリティは野添ひとみの初登場シーンに顕著である。
キッチンでお湯を沸かした若尾が振り返りざまにギャッと驚くと、野添がぷすーっと小首を傾げて突っ立っていた…という恐怖シーンだ。「こわっ!」と「かわいっ!」の緩急。この洒落っ気こそが市川なのである。
ちなみに、虫歯の野添はほっぺを氷で冷やすためにタオルで顔を固定しているのだが、その様がちょっぴり憎たらし可愛いのである。
ぷすー。
◆女事務員は不機嫌になる◆
物語は佐分利と若尾の親子愛が中心になっているがラブコメ方面にも寄り道をします。
若尾がフィアンセの菅原謙次をフったあとに京は菅原に片想いしてしまうが、老舗料理屋の船越英二はそんな京に片想い。そして若尾に片想いしているクリーニング店配達係の川口浩は若尾の妹・野添から片想いされる。
まさに六角関係の全員片想い。恋していないのは若尾だけで、彼女だけが俗世間の色恋事にタッチしない巫女的なキャラクターとして特権的に映画を支配するのである。
一方の男性陣。互いにいっさい面識がないまま居酒屋でたまたま一緒になって「女というのは分からんものですなぁ…」と悩みを打ち明けるさまが実にコミカル。ビリー・ワイルダーのロマンティック・コメディを思わせます。
左から菅原謙次(『青空娘』の先生役)、川口浩(探検隊)、船越英二(船越英一郎のパパン)。
自作のまじめな文芸作品ではお目に掛かれないが、市川崑は突拍子もなくシュールなシーンをぶっ込む男でもある。本作屈指の迷シーンを担当したのが倉田マユミ。
彼女は菅原が働いている会社の女事務員で、若尾が菅原に婚約破棄を伝えるために京を連れて会社を訪れた際、若尾と二人きりで話がしたい菅原が事務員の倉田に「電話です、とでも言って若尾をエレベーターの前に呼び出してほしいんだ」とお願いする。
だが倉田は、かねてより菅原から「気の利かない女」と邪険に扱われてきた怨みがあるので、ブスっとした顔で「そんな難しいことできんわ。ウチは気が利かんから」と自虐気味に言い放つ。
それでも必死に頼み込む菅原に「電話です、言うだけですな?」と渋々折れて二人が待つ応接室に赴き、機械的なトーンと仏頂面で…
倉田「電話です」
京「電話? 私ですかっ?」
倉田「違います」
若尾「私に?」
倉田「電話です」
かくして若尾を呼び出して菅原と二人きりにさせてやった倉田であるが、まぁ愛想のないこと。めっちゃキレてるやん。
二人を見下したような構図といい、倉田の味のある顔といい…、それに京の「私ですかっ?」というはきはきした声と倉田の冷淡な声の落差が絶妙な諧謔味になっているのである。このシュールな一幕に市川の洒落っ気が横溢しております。先ほど紹介した小津の構図=逆構図も取り入れてるし、市川独特の洗練された気持ち悪さを小津のリズムに乗せた見事な融合。
映画が進むにつれて小津の映画術は少しずつ忘れ去られていくが、それでも最後まで遵守していたのがローポジ。地面すれすれの低い位置にカメラを置いて卓袱台を囲う家族を水平に捉えたショットだ。
…結局のところ、この市川による世紀の小津実験は成功だったのか、失敗だったのか。
途中で飽きてる時点で失敗だったとも言えるし、小津流と市川流が高次で結びついた弁証法的作品という意味では大成功だったような気もする。映画の面白さとしても非常にあやふやで、面白いといえば面白いが小津だったらもっと面白く撮れただろう…なんて相対評価してしまうと、もう何が何だか分からなくなっちゃうンである。
市川崑は一流か二流か…という難題にはまだまだ取り組む余地があるようです。さようなら、こんにちは。
小津のローポジはもうちょい低い気もするのだけど。
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