シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

銭形平次捕物控 まだら蛇

謎解きの方法がただの連想ゲーム。しかも犯人を教えてもらう…という底抜けミステリー時代劇。

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1957年。加戸敏監督。長谷川一夫、木暮実千代、美空ひばり、山本富士子。

 

大川端にひとりの男の死体が上がった。その男は、贋小判鋳造工場で無理やり働かされていた源太だった。工場の用心棒・一の木らは囚人の腕にまだら蛇を入墨して脱走の際の目印とした。機を見て逃げた源太は、兄・清兵衛の一人娘・お吉に、工場の所在を示した偽小判を渡そうとしたが、果せぬまま、一の木に殺されたのだった。若衆姿で船頭をしていた小吉ことお吉は、源太の死骸を見て悲嘆にくれる。そこへ現われた流し芸人・新三こと銭形平次。かねて偽金造りに眼をつけていたのだが小吉に協力を約束した。(Amazonより)

 

あい、おはよ。

「死後の世界はあるかないか」とか「宇宙人はいるかいないか」みたいな議論にまるっきり興味がない。周囲の人間がこの手の話をするたびに「しょうもな」と思いながら静かにその場を去ってしまう。

なんとなれば「死後の世界はあるかないか」などと疑問に感ずること自体が生者の発想だからである。

我々は生者であり地球人…ひいては人間だい。人間は「人間的な発想」から抜け出すことができないため、死後とか宇宙といったスケールの話は、ある程度までは突き詰めることはできたとしても、やはり最後は観念的な次元に留まってしまう。したがって推測の域を出ないわけだが、先にも述べた通り、人間は「人間的な発想」に囚われているので、その推測もタカが知れている。これを認めたくないがために「スピリチュアル」とか「ロマン」という言葉が使われている、ちゅうわけだ。便利な言葉よね。

要するにオレは論理的に証明できない話には興味ねえってこった。

はい、そんなわけで今日は皆さんお待ちかねの『銭形平次捕物控 まだら蛇』。銭形平次はみんな好きだよね? 待ってたよね? 待ってたに決まってる!

論理的に証明できないけど。

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◆マジひばり◆

パッパーン!

はい登場。弱きを助け強きを挫く江戸の目明し、銭形平次!

事件の匂いを嗅ぎつけては持ち前の推理力で謎を解き、その人徳に寄ってきた協力者にさえ正体を隠して内偵をする。メインウェポンは殺傷力の低い十手なので、斬りかかってくる敵には小銭をぽいぽい投げつけて抵抗。ご存じ、寛永通宝の「投げ銭」である。

なんとも小ざかしい。

銭形平次を演じた役者は多いが、最も有名なのは長谷川一夫であろう。不世出の剣戟俳優として絶大な人気を誇り、衣笠貞之助『地獄門』(53年)、溝口健二『近松物語』(54年)、市川崑『雪之丞変化』(63年)ほか300本以上の作品で昭和の日本映画を支えた生涯スターである。大映が手掛けた長谷川版『銭形平次』シリーズは10年間に渡って17作品がしつこく製作された。本作はちょうどその10作目にあたる『まだら蛇』よ!

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銭形平次を演じる長谷川一夫。没後に国民栄誉賞をゲットした。

 

いきなりこんなことを言うと本作を全否定することになってしまうが、わたしは金太郎飴のごとく粗製乱造されるプログラムピクチャーを快く思わない。マンネリズムの美学が安穏たる商業的快楽のなかに自足しているからである。映画に何かを与えることも奪うこともしない人畜無害な作品をただスケジュール通りに提供するだけの「3時のおやつ」みたいな存在の浮薄さは長い歳月をかけて緩やかに観客をスポイルさせたと思う。

アメリカではスタジオ・システムが早々に崩壊したことでB級映画が衰退し「二本立て」という興行形態が消滅したわけだが、かかる抱き合わせ商法を引きずっていた日本はプログラムピクチャー大国になっちまいやした。

『網走番外地』『緋牡丹博徒』『男はつらいよ』『トラック野郎』『仁義なき戦い』『座頭市』『眠狂四郎』、それに『若大将』『無責任』シリーズ。

いろいろあらぁな。作家性のよく出たモノから、各映画会社の社長ないしプロデューサーの意向の移植にすぎないモノまで玉石混合。であるから十把一絡げに唾棄するつもりはないが、多かれ少なかれダシを取ったクタクタの昆布であることには相違なし(もっとも『13日の金曜日』シリーズを全作楽しんだ私がクタクタの昆布と言ってみせたところで大して説得力もなかろうが!)。


そんな私がこの映画を観た理由は至極単純。

キャストがえぐかった。

相当にえぐいのである。主演の長谷川一夫は先に紹介した通りだが、脇を固める女たちに山本富士子木暮実千代、そしてトドメの美空ひばり…と実にデラックスな面々が私をお迎えしてくれました。山本富士子と木暮実千代は以前べつの評で語ったので、今回は当ブログ初登場となる美空ひばりについて一寸。ちなみに私の好きな曲は「真っ赤な太陽」「むらさきの夜明け」などGS系。

美空ひばりは11歳で歌手デビューした1949年に女優デビューも飾っており、爾来、歌手活動と並行して女優業でも並々ならぬがんばりを見せた。いかほどのがんばりを見せたかと言うと、15年近くにわたって年間10本以上の映画に出演していた(そのほとんどが主演作だった)ほどのがんばりを見せた。

…うそだろ?

歌手活動をする傍らで年間10本を15年…。本業は歌手なのに生涯映画出演本数が170本、うち主演作が158本って…。いやいやリアリティ沸かないリアリティ沸かない。

だが歌手活動はもっと忙しい。人気絶頂期など1年間にシングル20枚も出しておられるのだ(あほか?)。生涯でリリースしたシングル曲は341枚。これが通算レコーディング曲数になると1500曲である。

どういうことなの。

ただでさえ美空ひばりは52歳の若さで亡くなっている。本格デビューが12歳なので実質的な芸能生活は40年間だ。40年間で1500曲のレコーディングと170本の映画出演、そして数では計れない感動を人民の魂に届けたというわけか。マジひばり。

そんな美空ひばりが20歳のころに出演したのが本作。いったいどんな作品なのでしょうか。

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昭和の歌姫・ひばりちゃん。

 

◆普遍的ぷりぷりと薄板的ギシギシ◆

文政年間の江戸。当時流通していた文政小判よりも元文小判の方が金の含有量が多く、同じ額面価値でも元文小判の方が値打ちが大きいため、人民は日々の支払いを文政小判でおこない、レアな元文小判は意地でも使わないという珍奇現象が起こっていた。かかる問題を解決すべく、幕府は割増金付きで元文小判の買戻しをおこなったが、これに目をつけたドグサレ役人たちは贋小判鋳造で暴利のむさぼりを企てる。そこへ現れた銭形平次(長谷川一夫)が役人たちの詐欺行為を看破してこれを取っちめちゃう…といった意味内容のストーリーである。

「悪貨は良貨を駆逐する」を地で行っとる。

 

このように物語は少々グレシャムチックだが、きわめてオーソドックスな時代劇であった。おそらく人並みに時代劇を見てきた人民にとっては退屈すら感じるほどオーソドックスであり、本作でしか味わえない唯一性のようなものは特にみとめられない(キャストの豪華さを除いて)。

はっきり言って結構つまらない。

もっとも、ポピュラーな時代劇に比べて少しだけ性格を異にする点があるので、どうやらここに悦びを見出した方が賢明なようである。

まずひとつは身分制度だろうか。虐げられた下民のために一肌脱ごうとする銭形は、しかし与力(銭形の上司にあたる役職)の黒川弥太郎から「岡っ引には出すぎた所業」と止められてしまい、ぷりぷりします。

岡っ引…、すなわち警察機関の末端にいる銭形は、だからヒーローにもアウトローにもなれない社会組織の歯車のひとりに過ぎず、制約された行動範囲においてその不自由な身分に煩悶したり、時に黒川に逆らってみせたりするのである。アメリカ映画なんかを観ていても、よく地元警察の主人公が「FBIの管轄だから首を突っ込むな」と蚊帳の外に追いやられてぷりぷり怒るシーンを目にするが、まさにそれと同じ憂き目に遭っているのが銭形というわけだ。

こうした組織階級による制約は時代劇にも刑事アクションにも横たわっており、いわば国や時代を超えた普遍的ぷりぷりなのである。

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上司に「出しゃばるな」と折檻される銭形。

 

また、特筆大書に値するのはセット至上主義

先に自白しておくが、わたしは時代劇の老舗ともいえる東映時代劇についてはまるで暗い。したがって、大映が作った本作が東映時代劇と比べてどこがどのように優れているか(または劣っているか)という分析は…すまん、出来ん、知らん。

その上で無責任な批評をさせてもらうなら、どうも本作はプロットやキャラクターよりもセットに力を注いでいるらしい。特に本作の場合、美空ひばり演じる屋根船の漕ぎ手がキーパーソンになっているので川に架かる橋がよく出てくる。

全編オールセットにおいて、川というのは海よりも遥かに撮影・造形が難しい。

海のセットであれば撮影所のプールに水をため、背景をスクリーン・プロセス(今の時代ならCG)で合成してしまえばいいわけだが、川となると川沿いの遊歩道や橋、周辺の建物も映り込んでしまうので背景を合成するわけにはいかず、マジで実物大の街の巨大セットを作り、その人工河川に大量の水を流し込んで、実際に水の流れだけで船を動かさねばならない。想像を絶する時間と労力と予算と技術が必要なのだ。

ちなみに、この人工河川のすばらしさで知られる映画と言えばマルセル・カルネの『北ホテル』(38年)。パブリックドメインなのでぜひ観て丁髷ね。

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『北ホテル』のオープン・セット。

 

さすがに精巧細緻な『北ホテル』に比べるといささか見劣りする本作。

役者が橋を歩くたびにギシギシ軋むのはご愛嬌。

いや「ご愛嬌」で片づけるのはどうなのかしら。

人がセットを強く意識してしまう時というのは、造形の粗悪さでもなければ現実感のなさでもない。音である。軋むはずのない立派な橋がギシギシ軋んでしまうと板が薄いという製作の裏側が見えてしまい、たちまち観る者は「そういえば此処はスタジオだったな」と現実に返ってしまう。あじゃぱーである。

人が音を立てる分にはいいが、セットが立てるのはまずい。ましてやギシギシなどと耳障りな音を…。

軋んでいいのは優しさを持ち寄ったベッドだけと相場が決まっておろうが。

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ギシギシうるせえ橋のセット。

 

◆ポンコツ映画をリカバーした三人の女◆

『銭形平次』が他の時代劇シリーズと一線を画しうる要素はミステリである。腕力のかわりに知力を武器にする銭形は卓越した推理力で黒幕の正体を暴くのだ!

しかし、黒幕のドグサレ役人たちはファーストシーンで姿をモロ出ししているので我々観客には謎解きの楽しみはない。謎解きを楽しんでいるのはもっぱら銭形だけ。こいつ一人で勝手に謎を解いて勝手にスッキリしている。銭形のオナニーショーがすげえ。

しかも肝心の推理がズサンの極み。小判を手掛かりに敵の牙城を突き止めるシーンで、銭形はこんなことを考えた。

「小判に三角の符牒…。三角といえば鱗型…。鱗型はオロチ…。ヘビ…。タツ…。龍神…。龍神社だっ

そして龍神社の近くにある黒幕の拠点を見事探し当てた!

マゲずれるまでシバいたろか。

なんやその推理。「○○といえば△△」って…もはや推理ですらねえわ。ただの連想ゲームだよ。

そのうえ贋小判鋳造に関わって殺された男の娘・山本富士子(お富士と呼ぶ)に接触した銭形は彼女から黒幕の正体をぜんぶ教えてもらうという体たらく。

曲がりなりにもミステリなのに…「教えてもらう」とかあるん?

ここで製作人、タダで教えるのは味気ないと思ったのか、なぜかお富士は発声することなく唇の動きだけで黒幕の正体を伝える。たまたま読唇術ができた銭形は「なるほど!」と言ってお富士の口パクを見事に読み取った!

意味ねえ。

こんなことする意味がねえ。

たとえばお富士が聾啞者という設定だったり、二人の近くに黒幕がいて核心に迫った話ができない…といった状況ならともかく、そうした「読唇術を使わねばならない理由」が一つもないのである。じゃあ意味ねえよ。

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口パクで犯人を教えるお富士(無意味)。


この底の浅さである。実にどうしようもない銭形なのであるが、一寸のダメ映画にも五分の魂、麗しの女たちが名誉挽回に努めておられます。

船頭の美空ひばりは父親を救い出すために銭形と共闘するボーイッシュな闊達娘だが、クライマックスでは芸者になりきって敵の牙城に潜入。そのコスプレが思いのほか可愛らしい。

また、屋根船の漕ぎ手という職業を活かした「川渡り」も説話的機能を持っている。ついでに舟を漕ぎながら歌をうたうという美空ひばりならではのミュージカルシーンもあって、明確な必然性に裏打ちされたキャラクタァとなっている(都合3回も歌っちゃう)。

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ここぞとばかりに歌いまくる美空ひばり。


そんなひばりの舟に運ばれるのが木暮実千代。

黒幕と繋がっている博奕打ちの女だが、銭形のやさしさに触れて味方に転ずる色女!

銭形への秘めた恋心が物語の通奏低音になっているが、われわれ観客は「銭形は決して彼女を選ばない」と直感する。なぜならヒロインの資質をとうに超えて色っぽいからである。

ここまで色っぽい女は却ってヒロインにはなれないし、主人公への恋も成就しない。適度な色気や愛嬌を超えたところに木暮実千代はあるのだ。着物との親和性も相変わらず素晴らしなぁ。

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私がプロデュースしたTHE祇園バンドのメインボーカルです。


そして特別出演の山本富士子である。

当ブログでは『黒い十人の女』(61年)『私は二歳』(62年)で取り上げたが、その品格は写真では到底伝わるまい。むしろ写真一枚で魅力が伝わる役者など二流である。映画俳優はスクリーンにおいてのみ本来の輝きを発するのだ。

お富士の登場シーンは10分そこらだが、このシーンを満艦飾の見せ場たらしめたのは赤の配色。着物や小道具に赤をちりばめた華やかさが、このわずかなシーンに高級感を付与しております。発色もいい。

また、深く計算された挙措や姿勢が構図の美しさを際立たせている。気を抜いたらウットリしちゃう。

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絶品のショットたらしめる挙措や姿勢。お富士とカメラの主従関係は斯くも鮮やかに逆転しております。

 

女たちの輝きによってポンコツ映画の誹りを免れた銭形は、相も変わらず敵を見るなり小銭をぽいぽい投げつけていた。

そもそもオレは銭形平次なんてキラいなんだ。

人に向かって銭を投げるようなバカタレなど、とても応援できない。

銭形ときたら銭を撒き散らかすだけでなく、戦闘後もそこら中に銭を散らかしたまま帰っちゃうのである。私がこんなことを言うと「でもお金なんだし、ゴミに比べれば価値があるだけよいではないか」なんて銭形擁護論を唱える者もいるが、そういう話をしているのではない。私が言っているのは風紀道徳のことで、「道にモノを撒くな」という話である。

それに、こいつが投げた銭はぶつけた敵の血液等が付着しているため、いくらお金といえども甚だ不気味であるし乞食でもなければ拾わぬだろう。

結論としては、小銭を投げる銭形平次とウンコを投げるゴリラは同じ地平ということが言えると思います。

投げてもいいけど後でちゃんと拾っとけよ?

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何こっち見とんねん。

拗ねとんのか?

 

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