シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

刺青

痴情の男殺し、詩情の蜘蛛退治。

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1966年。増村保造監督。若尾文子、長谷川明男、山本学。

 

質屋の娘・お艶は、ある雪の夜、いとしい手代の新助とともに駆け落ちを果たす。二人きりで短い蜜月を過ごすが、かくまってくれた船宿の住人・権次は札付きの悪党で、新助を殺しお艶を宿に売り払ってしまおうと考えていた。(Amazonより)

 

おはよう、思わぬ伏兵たち。

浮世の映画好きがこぞってテン年代ベストを発表する時節到来の折、伏兵たちはいかがお過ごしか。やっぱりアレなの、物陰で何かをジッと待ってるの? 伏兵だから。

さて私はと言うと『2010年代ベスト映画十選』なる記事を書き始めた矢先、よくよく考えたら「面倒臭えな、これ」という大変な発見をしてしまって即刻中止。ハンパに書き出した記事を一度保存してパソコンを閉じ、創作ダンスの練習に鋭意取り組んだ。

というのも、ベスト10を決めるのが面倒臭いのではなく、ひとつひとつの映画にコメントを付ける作業が面倒臭いのだ。なんとなれば、ベストに選んだからにはよほどの傑作なのだが、なぜ傑作と思ったか…という理由をすっかり忘れてしまったのである。たとえば2010年の映画をベストに入れたとして、そんな9年前に観た映画の傑作性をロジカルに説明できるほど私の記憶は新鮮ではない。よってコメントが書きづらい。

まぁ、当時書いたレビューを読み返せば、過去の自分が「この映画はこういうところが素敵やよ」なんつって教えてくれるのだが、基本的に過去の自分なんてものは。敵から送られた塩をぺろぺろ舐めてるようではヒヨッコなのである。わかるか。わかるか!?

うおおおおおお、未来とは「過去の自分を乗り越える」こと!

はああああああああっ! ああん!

12月なのに騒いでごめん。だが、気合いを注入したので今のオレは英気に満ちている。まぁ部屋は冷気に満ちているが。あと自分の頬をパンパン叩いたら存外痛かった。やるべきじゃない。

そんなわけで本日は『刺青』ですよ。昭和キネマはおとなの読者層に好まれるので割とまじめに論じてます。

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あたいの蜘蛛の巣は鋼線仕様さ!

増村保造リターンズだよ。文句あるなら来い!

今年の6~8月までやっていた「昭和キネマ特集」で13本もの増村作品を扱って一度は満足したものの、そこで取りこぼした『刺青』を扱わぬことには終われまいと思惟、いまいちど増村ワールドの扉を開くものだぞ!

 

 若尾文子が男を喰い殺す毒婦を演じたのはこれで何度目か。数えたところでキリも意味もないので数えないことにする。

さて、この物語。手代の長谷川明男と駆け落ちした若尾は、家を間借りさせてもらった夫婦に裏切られ置屋に売り飛ばされる。命を狙われた明男は刺客を殺して逃亡の身となり、若尾は芸者として数多の男を騙し続けた。その肉体に惚れた彫り師(山本学)は若尾の背中に女郎蜘蛛の刺青を入れ「ついに最高傑作ができた」と欣喜雀躍。見せかけの愛に仕込んだ毒で男を喰い殺す若尾は女郎蜘蛛そのものである。この刺青が彼女のなかに眠っていた妖しい血を呼び覚ましたのだ!

若尾の毒婦ぶりは日増しにエスカレートし、明男をそそのかして邪魔者を次々と殺させた。その様子を陰から見ていた彫り師は「えらい怪物を生んでもうたぁ…」と自責の念に駆られてぐぅ~~ってなった。

そんな折、若尾がある侍に惚れたことで明男が逆上、「おまえのために何人殺したと思ってんだ!」とわめきながら短刀を振り回したが、「愛するあんたに殺されるなら本望さ」と真珠のような涙を流した若尾にぐらり揺れたる男心、瞬間、短刀を奪った若尾は、ぐさり、「飾りじゃないよ涙はハッハー」といった意味のことを絶叫して明男を刺殺してしまう。

「勝った、明男に勝った! あたいの蜘蛛の巣は鋼線仕様さ!」などとまるでわけのわからぬ雄叫びをあげていると、ぐさり、彫り師が背後から刀を突き立てた。背中の女郎蜘蛛はまるで生きてるがごとく鮮血のなかで蠢いていたが、やがて若尾が事切れたのを見届けた彫り師は、やっぱりぐさり、自害して一同全滅。これにて御仕舞い、蜘蛛退治。

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要するに痴情のもつれ。

 

監督が増村保造、撮影に宮川一夫、脚本は新藤兼人と、まるで7が揃ったスロットのごとき強固な布陣でお届けする『刺青』。原作は谷崎潤一郎

若尾文子は60年代末に銀幕からフェードアウトしてテレビに活躍の場を移すので映画女優としてはキャリア終盤にあたる主演作である。とはいえ当時36歳。最も色香を放っていた女盛りの真っ只中。本作では勝気で荒々しい女を演じており、縄で縛られ拉致されても威勢よく啖呵を切り、別れたくないと泣きすがる長谷川明男の頭を「女々しいんだよ!」と足で蹴り飛ばすタフネスガール1等賞。

かと思えば甘え上手な一面もあり、昼夜ぶっ通しで情交をせがみ「お前だけだよー」と喘ぎ悶えるのだから、なるほど、男が骨抜きにされるわけである。事が終われば着物の乱れも直さず、壁に寄りかかってキセルを吹かす。そのクールなこと!

また、着物をはぎ取られるシーンが何度もあり、そのたびに美しい肩が露わになる。背面ヌードはすべて吹き替えだが、むしろスタントマンの裸体よりもチラリと見せたる若尾の肩の方がよっぽど艶やかだ。

他の出演作にも通じることだが、テクニカラーでこそ映える若尾のなめらかで丸味を帯びた玉肌は「女」を可視化する。女の欲や情や狡猾さが素肌に現れているので、今度のような谷崎文学の映画化では若尾が素肌を見せただけで半ば自動的にフィルムが文芸性をまとうのである。

それはそうと、この時期の日本のカラー作品は色彩感覚が強烈だよなー。宮川一夫さまさまだわ。

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魔性の女郎蜘蛛。

 

◆惚れたが負けだよ!◆

この映画のおもしろさは若尾と彫り師が蜘蛛=刺青に狂わされていくさまである。

劇中では「背中の女郎蜘蛛が若尾を毒婦にした」と語られるが、これは劇映画としてストーリーを単純化するための方便に過ぎない。ファーストシーンの明男に対する態度を見るにつけ彼女は刺青を彫られる前から毒婦だったのだ。

その後、ますます盛んに男殺しを繰り返すようになった彼女は、まるで自らの悪行を責任転嫁するごとく「背中の蜘蛛がさせたのさ!」と口にする。結句、刺青が男殺しをさせたのではなく刺青にかこつけて男を殺すという世にもタチの悪い女なのである。

一方、その契機を作ってしまった彫り師は若尾を抹殺することで責任を取ろうとする。

彼にとっては刺青だけでなくそれを施した人間も含めて「自分の作品」なのだ。それが独り歩きして暴走したとあらば自らの手で鎮めねばならぬ。

かくして彫る側・彫られる側の運命はひとつの刺青に絡み取られてしまう。蜘蛛の糸みたいにな!

一番憐れなのは若尾に利用された長谷川明男であろう。

気の弱いタコ飯ボーイゆえに彼女の甘言にそそのかされて若尾専用殺人マシンと化し、そのたびに気が違っていく悲しみ。

自首や自害も考えたが、彼に死なれると邪魔者に対するダメージソースを失う若尾は「私のために生きてよ」とかなんとか言って明男の恋心につけ入り、優柔不断なその身を縛り付けるのだ。女郎蜘蛛みたいにな!

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タコ飯ボーイ・明男に邪魔者を殺させる若尾(この悪そうな顔ったら!)。

 

昭和キネマ特集をしていて思ったが、どうも増村作品には惚れたが負けという法則性があるようだ。

惚れた人間はすべてを奪われ、とことん不幸になり、必死を免れない。魔性の若尾は自分に惚れさせることで男から幸福を奪う女郎蜘蛛だったが、そんな彼女も侍に惚れたせいで最後にゃ彫り師に殺された。

増村は恋愛を悲観的に捉えているのだろうか? 違うね!

たとえ僅かばかりでも情愛の炎を燃やし、その最高温度の愛に焼かれて破滅してゆく男女はむしろ幸福だと言えるねッ。

はっきり言って、増村作品の前では愛だの恋だのと知ったふうな口を利く恋愛映画の多くはケチで生ぬるいカップラーメンのようなものである。即席のインスタント・ラブだ。食えたもんじゃねえ。本当の恋愛映画は恐ろしいのだ。

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罪の意識のなかで何度も身体を重ねる若尾とタコ飯。

 

◆ガス切れの100円ライター◆

『卍』(64年)と同じく横臥のイメージに貫かれた作品である。

アバンタイトルでは背中に蜘蛛を彫られ、その後のファーストシーンでは明男との甘き閨房の一時。芸者になったあとの若尾はさまざまの男から床に押し倒されるが、それらの横臥は「情交」の比喩としてスクリーンに瀰漫する。

しかし明男が殺人を重ねる中盤に至って、横臥の意味は音もなく「死」へとすり替えられる。やがて、床に倒れるのは若尾ではなく男たちとなり、甘い声音は断末魔に変わってゆく。寝転ぶ、倒れるといった所作を通してエロスからタナトスへと越境した愛憎劇の代償は、その宿命の帰結として三者の横臥(死)によって支払われるのだ。

シネスコ一杯に横たわった若尾の匂い立つような凄艶、付かず離れずの中距離からフィックスで捉えた不機嫌なカメラ、恐らくわざと狭く組んでいるであろう置屋のセットなども相俟ってむせ返るような力感が画面にみなぎっている。

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シネスコを贅沢に使った横臥のイメージ(押す男倒れる女の逆転にも注目)。

 

レビューサイトを閲していると脚本的な瑕疵を論う者を見かける。若尾と彫り師の動機や人物性が不明瞭だと言う者もいれば、この映画の若尾文子はおもしろくないと言う者もいる。

話は逸れるが、いろんな意見を無責任に発言できるからこそレビューサイトはおもしろい。

個人の映画ブログでは批判的なリアクションを危惧するあまり角の立たない言葉を選ぶブロガーが多いが、レビューサイトだと第三者の反応が返ってくることもないので一歩踏み込んだ批評を一方的に発言できるのだ。私が普段覘いているのも専らレビューサイトで、個人の映画ブログは基本的には読まない(物怖じすることなく映画を批評できる一部のブログを除いて)。

話を戻そう。

私には脚本的な瑕疵はよくわからんが、終始えらく小さくまとまってるなという印象を持ち続けながらの鑑賞であった。若尾は熱演だったし、宮川のカメラも安定の出来、新藤の「動機や人物性が不明瞭な脚本」についても不明瞭な脚本を目で補うのが映画じゃないのかという考え方なので問題なく楽しめた。

だが、それにしては何かが足りない。全体的にはよく出来ているが、どこか単調なんである。30秒ほど熟考した末、こりゃ増村の演出だろうと結論。

たとえば第一幕、刺青の施術後に合わせ鏡で背中の蜘蛛を見せられた若尾は、特に驚いた様子もなく彫り師に挑発的な言葉を浴びせかける。何しろ元々毒婦なのだからな。

しかし、ここで鏡を見た若尾に少しばかり吃驚の表情をさせてはどうだろう。「何なのよ、この刺青は!?」という顔である。このあと浴びせた挑発的な言葉には一抹の強がりが見え隠れし、刺青を罪の口実にする女の弱さがウエットな襞となり、ひいてはこの不浄のヒロインをより人間味豊かなものにする演出的好機だと思うのだが、如何。

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 刺青を見させられる若尾。

 

ほかの増村作品では、悪女には悪女なりの道理があり、罪人には罪人なりの正義があって、そうした複層的なキャラクターが善悪二元論を超えて自己矛盾に葛藤する止ん事無き人間の性が厚く塗り込まれていた。夫を戦地に送りたくない一心から両目を突いて盲にした『清作の妻』(65年)とか、愛を与える側だった看護婦が愛を求めたことで戦場の兵士を次々と死なせてしまう『赤い天使』(66年)とかな(ぜんぶ若尾じゃねえか)

こうした相剋がごっそりスポイルされたことで、物語はいくぶん平板なものとなり、フィルムに着火された情念の炎は瞬く間に勢いを弱めてしまう。ガス切れの100円ライターのようにな。

まぁ、でもいいさ。先にも申し上げたように全体の出来は良好だし、着物をはだけた若尾の肩見せルックをルッキングできただけで我が心はウキウキウッキングなのだから。

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男たぶらかしまくりの若尾をウォッチングするべき。