シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

古典映画十選

ご無沙汰ニーハオ。

昭和シネマ特集を終えたあとに5日間だけサボるつもりだったのだけど…なんか10日も放ったらかしにしちゃってたや。

最後の2日間なんてブログの存在自体忘れてた。

さっきアクセス解析を確認したところ、この空白の10日間でガックリPV数が落ち込んだ模様。必衰の理。とはいえ固定読者は毎日ノコノコやって来ていたようだ。「今日は更新してるかも」って淡い期待を胸にな。してないのに。なんだか申し訳ないです。

固定読者たちは不安よな。

ふかづめ 動きます。

というわけで早速始まりました。

読者を取り返せキャンペーン!

別に誰かに奪われたわけではなくむしろ自分の行いのせいでPV数がガタ落ちしただけの事なのでこの場合「取り返せ」という言葉は不適当なのかもしれないが関係ねえよぶっ殺す。

というわけで、逃げた読者が帰って来てくれること間違いなしのスーパー企画を思いつきましたっ。

『古典映画十選』です。

みんなの好きな古典映画ですよ。ほら。あの白黒の。そう。ガサガサの。誰が誰だかわからない。ビデオ屋にあまり置いてない。そうそう。年寄りがよく見るやつ。

あら…、もしかして全然うれしくない? うれしいよな?

なぁ?

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◆人が古典を見ない理由◆

モノクロの古典映画。それは映画芸術という魔境に足を踏み入れた先人たちの「知恵の結晶」と「探究のドラマ」である。

…と、まぁ、こんな堅苦しい書き方をすると古典を観ない層(情けないことにとても分厚い)に訴求できないわけだが、もとより今回は訴求する気などサラサラないから大丈夫だ。

これまで私は色んな人間に色んなアプローチで色んな古典映画をすすめてきた。そして分かったことがひとつだけある。

結局なにを言っても見ない奴は見ない。

それを言っちゃうと元も子もナース。身も蓋もナース。だけどトゥルー。それこそがトゥルーなんだ。

では、なぜ人は古典を見ないのか?

「そりゃ興味ないからでしょ」とあなたは思う。私もそう思って、なるべく興味が持てるような勧め方をしてきた。だがムダだった。奴らは見なかった。というか見向きもしなかった。たとえどれだけ面白そうな古典映画でも「古典だから」という理由で見ないのである。奴らは。それが奴らだ。

同じく、人は苦手なジャンルの映画を見ない。意地でも見ないし、テコでも見ない。どれだけ面白そうでも、やはり「苦手なジャンルだから」という理由で見ないのである。

私はぐるぐる考えて結論した。

人が古典映画や苦手ジャンルの映画を見ない理由は興味がないからではなく拒否しているからなのだと。

だから勧めたところで意味がない。閉じた門は外からは開けられない。そういうことだ。考えてみりゃあ、そりゃそうだよな。興味はないだけまだマシ。「ない」が「ある」に変わる余地があるからな。

でも「拒否」されてしまうとお手上げ、音を上げ、竜田揚げなのである。むしろ、そんな拒否者たちに古典の意義・魅力を説いても意味ナース。それがトゥルー。それこそがトゥルー。

というわけで、少なからず古典に興味を持っている読者だけを対象に書いたものが本稿『古典映画十選』である。


私に本稿を書かせたのはG女史オレンチ氏である。

G女史からは、以前に「クラシック映画の入門特集をして丁髷」という厚かましいリクエストを受けていたので『クラシック入門5選』と称して気軽に楽しめる作品を5本ピックアップしていく。

対してオレンチ氏、近ごろ熱心に映画の勉強しておられて「理論! 理論! ふおー」とかずっと言ってる方なので『クラシック獄門5選』と称して映画研究に適した作品を5本ピックアップする。

まぁ、挙げたところでご両人が実際に見るか…というと甚だ怪しいのだが。

そしてこれら10本を合わせて『クラシック映画十選』と相成るわけでございます。先に言っておくけどかなり読みづらい記事になっております(後半にいくに従って)。

 

◆クラシック入門5選◆

ここでは比較的とっつきやすい映画を挙げているよ。

でも「ここが見所!」みたいなプレゼンテーションは一切しておらず、ただ好き勝手に映画エッセイじみた散文を書き散らかしております。やたらな熱量で。

それでは一本ずつ参りましょう。

 

『ローラ殺人事件』(44年)

ローラ! 君を…誰が…

ローラ! そんなにしたの!!!

美女のローラがショットガンで頭を吹き飛ばされちまった!

…といった充実のストーリーである。面白そうでしょ? ていうかあの曲が聴こえてくるでしょ?

ダナ・アンドリュース演じる刑事はローラの頭を吹き飛ばした犯人を探すが、捜査を続けるうちにローラの幻想に取り憑かれてしまう。くたびれたダナ刑事はローラの肖像画の前で居眠りをする。目を覚ますと、なぜか目の前にローラが立っていた。なにこれ。どうなっちゃってんだい!

なぜ刑事はローラに妄執するのか。そもそもローラとは何者なのか。そして死んだはずのローラがなんで現れるん…。このあたりが本作の面白いところで、ミステリだと思って観ているとあれよあれよという間にサイコロジカルな方向に転がっていくのである。事件を追うというより登場人物たちの精神の揺らぎを追うといった感じね。

ローラを演じたのはジーン・ティアニー。40年代のトップスター。と言っても殺されたという設定なのでほとんど出番はなく、もっぱらローラに執着する刑事や容疑者たちのドラマを中心に映画は進んでいくのだが。

奇しくも監督のオットー・プレミンジャーは本作とよく似た『バニー・レークは行方不明』(65年)というカルト映画を撮っている。『バニー・レーク』の方は、シングルマザーが行方不明になった幼い娘を捜す…という内容なのだが、なぜか周囲の人々は口を揃えて「そんな娘は知らない」と言うのね。消えた娘はどこへ行ったのか…、あるいはすべて母親の妄想なのか…?

この不在への妄執という主題を持った類似作には、ヒッチコックの『バルカン超特急』(38年)『レベッカ』(40年)、それに『フライトプラン』(05年)『チェンジリング』(08年)などがあるけれども、なかでも圧倒的な評価を得ているのがこの『ローラ殺人事件』

モノクロームの映像が非常に美しく、私のように謎解きに一切興味のない人間でもウットリしながら楽しんで頂くことが可能。

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ノワール調のパキッとした陰影がとても美しい作品ですよ。

 

 

『第十七捕虜収容所』(53年)

イヤな話をして申し訳ないが、「脱獄映画といえば?」という質問はその相手がどの辺りにいる映画好きなのかを測る物差しになる。物差しって言葉は悪いけど、まあオブラートに包んでもしょうがないので…物差しです。

まず大体の人は『ショーシャンクの空に』(94年)と言う。いい映画だね。仮にこれをステージⅠとしましょう。

また、ある種の人たちは『大脱走』(63年)『暴力脱獄』(67年)『パピヨン』(73年)あたりの骨太娯楽大作を挙げる。はいはい! 僕ここに含まれますよ。これがステージⅡね。

より硬派な映画を好む人種は『ミッドナイト・エクスプレス』(78年)『アルカトラズからの脱出』(79年)を挙げるかも。ステージⅢ。

そして最後にシネフィル、彼らは『抵抗 (レジスタンス) - 死刑囚の手記より』(56年)『穴』(60年)なんか挙げちゃう。ステージⅣ。

さて。不思議なのは天下のビリー・ワイルダーが撮った『第十七捕虜収容所』がどこにも属さないことだ。

 

ワイルダーといえば一人シルク・ドゥ・ソレイユの名を欲しいままにする超娯楽作家。単純な「おもしろさ」だけならヒッチコックやスピルバーグなど比ではない。TwitterとLINEしかすることのない近ごろの無知で非常識なバカヤングが見てもドン嵌りすること請け合いである。

…にしては、どうも知名度の低い『第十七捕虜収容所』

筋は紹介しない。そんなことをいちいち紹介しなくても、ちょっと気の利いた読者なら「脱獄」というワードに紐づけて「第十七捕虜収容所という所に収容された主人公が脱獄する話なのだな」と推考するだろうからな。それが「論理」というやつだ。

そしてワイルダー作品は美しいほどの論理によって統制されている

A=B、B=C、すなわちA=Cって感じ。いい感じ。特にGさんのようなリアリスト、もしくは私のような屁理屈人間にはぴったんこカンカンの作家だということです。…私は今ふざけているのだろうか?

『サンセット大通り』(50年)『麗しのサブリナ』(54年)『情婦』(57年)『お熱いのがお好き』(59年)『アパートの鍵貸します』(60年)…。

どれもすばらしいが、ここはひとつGさんの気持ちになって『第十七捕虜収容所』あたりが好みかなと思い、これを選ばせてもらいました。

なんでおれがGさんの気持ちにならなきゃいけないんだ。

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右っちょにいるのがウィリアム・ホールデンです。

 

 

『嘆きの天使』(30年)

これは女性客が見ることを考えて作られた作品ではないので、ぜひとも世の女性たちの感想が聞きたい。

謹厳実直な老教授がスケベな教え子たちを取り締まるためにキャバレーに行き、そこの踊り子に惚れてしまったことで身を滅ぼす…という「男ってバカよね映画」の金字塔である。

ジョセフ・フォン・スタンバーグの監督作で、踊り子役は本作がデビュー作となったマレーネ・ディートリヒ。「100万ドルの脚線美」の異名で知られる伝説のヴァンプである(この異名は比喩でも何でもなく本当に100万ドルの保険がかけられていた)。ヴァンプというのは妖婦の意ね。

「男」というものについて考えたときに、いつも脳裏をよぎるのがこの映画なのである。

ヴァンプに入れ込んだがために破滅する映画…いわゆるファムファタールものなんて腐るほどあるが、そうした映画ではだいたい主人公の男は破滅も止む無しといったいい加減なタコ男。しかし本作の老教授はちがう。深い見識、分別、道徳によって人格は磨き抜かれ、その理性と知性によっていかなる欲望をも跳ね返す聖人君子のようなジジイなのだ。

その彼をもってしても太刀打ちできないディートリヒの魔性。不詳。不肖・男のLOVE LOVE SHOW。殊勝な男も依存症。微小の化粧で無償の微笑。恋の詐称は心の致傷。「好き」の保証は「だけど」で故障。後生だからとダンスで飛翔。終われば冷笑、ならばと二章。女が二勝で男は苦笑。多少は楽しかったでしょ? 合掌。

…という感じなのである。やっぱり今日の私はふざけているのだろうか。

とにかく本作は、理性が野性に負けた残酷ラブゲームの顛末を描いている。トラウマになるほど恐ろしいラストシーンが待っていますよ。

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ドイツに生まれてアメリカに渡りハリウッドの頂点に上り詰めた伝説の女優、マレーネ・ディートリヒ。

 

 

『鉄道員』(56年)

『鉄道員』といっても高倉健の方じゃないよ。汽車ぽっぽじゃないよ。まぁ、汽車ぽっぽと言えば汽車ぽっぽだけど、高倉健が汽車ぽっぽする方じゃなくてピエトロ・ジェルミが汽車ぽっぽする方です。

この映画は、鉄道機関士の男が家族と仕事のために必死をこくけれども最後はギターを爪弾きながら死んじゃう…といった意味内容のさくひんである。

ちょうどルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(60年)を裏返したようなイタリアン・ホームドラマだ。『若者のすべて』は渇いているが、本作は湿りまくってる。イタリア映画はホームドラマの宝庫だしな。

監督はピエトロ・ジェルミという奴で、イタリアの映画監督、脚本家、俳優である。この『鉄道員』でも主演のパパンを演じている。ちなみに『ライフ・イズ・ビューティフル』(97年)のロベルト・ベニーニも監督、脚本、主演を務めたイタリア人。ことによるとジェルミの影響を受けてんじゃねえか?

そんな『鉄道員』、何といってもキング・オブ・パパン映画なのである。

正義を貫こうとして職場でハミゴにされたパパンは、その鬱憤を家族にぶつけてしまうが、幼い息子に諭されてシュン…と反省。病魔に倒れたあとに訪れるクリスマスのラストシーンが号泣モノなのである。無理して病み上がりの体を起こしてまでパーティを楽しもうと張りきるパパンの姿は、ともすればただのいちびりに見えなくもないのだが、親戚や友人を狭い家に招いてパーティを楽しむその顔には一抹の寂しさがあり、大喧嘩の果てに家出した長女と長男がひょっこり顔を出すのを待っているかのよう。

そして数年ぶりに家族が一堂に会して束の間の幸福に酔い痴れたパパンは、みんなが帰ったあとの散らかった部屋で長年連れ添ったママンに改めて感謝を伝え、薄暗い寝室のベッドで満たされたようにギターを奏でながら、やがて台所から話しかけるママンに応答することなく、弱々しくもやさしさに溢れたギターの一音を最後に人生という列車の旅を終えるのでした…。

バカ泣き!!

尤も、この映画の真の価値はネオレアリズモを継受した点にあるわけだが、まあいい、この話はやめる。兎にも角にも最高のパパン映画です。

ていうかラストシーン全部喋ってすみませんでした。

でもいいでしょ? どうせ観ないでしょ?

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ギター持ったおっさんがピエトロ・ジェルミ(監督/脚本/主演)。

 

 

『居酒屋』(56年)

このコーナーの最後は『居酒屋』で締め括りたいな。しっぽりと。

これはフランスの名匠ルネ・クレマンが『禁じられた遊び』(52年)『太陽がいっぱい』(60年)の間にしれっと撮った秘境の傑作である。マリア・シェル演じる薄幸女がクズの夫に捨てられて酒に溺れる…というペシミスチックな作品だわな。

19世紀のパリの風俗がたっぷり描れていて、まるで都市全体がダメな生き物みたいに野蛮なエネルギーを放つこの映画! 物語は悲劇の流転モノだが「めそめそすんなよ」「それでも生きていけばいいじゃん」なんてエールを贈るような地べた的なパリの活力が漲っていて逆説的な人生讃歌になってると思うんです。

それに、ルネ・クレマンという作家は主人公がどん底に陥る映画ばかり撮るヒネクレ者、いわばヒネ・クレマンなので、こういう形でしか人生を描けないのである。どうか許してやってほしい。

フランス映画といえば古典の中でもムズい・ねむい・世知辛いと散々なイメージを持たれているが、ヒネ・クレマンの作品はどれも観やすくておもしろい。おっさんが保証したる。

おっさんは思うんだが、フランス映画に対するそのようなイメージはヌーヴェルヴァーグによって付いたものであって、ヒネ・クレマンみたいに親しみやすい映画を撮るフランス人だって大勢いるわけだ。「じゃあ10人挙げろ」と言われたら厳しいのだが。

たしかにフランス人はぼそぼそ喋るから眠い。おっさんなんて開幕20分で眠っちまうのだが、この映画は大丈夫だ。だいたい叫んでるから。ていうか誰がおっさんやねん。

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「それでも生きていけばいいじゃん」と語りかけてくるパリ。アイロンを当てているのはマリア・シェルです。

 

◆クラシック獄門5選◆

みんな、いま何してるん。これ読んでるん? 好きね、あんたも。こんなブログ読むより道端アンジェリカのブログを読んだ方がいいと思うよ。画像ばっかりでほとんど文字が書かれていないけど。

さぁ、ここでは映画に対して人一倍の知的好奇心を持っている方だけを対象として「映画研究に適した5本」を挙げております。紹介でも解説でも推薦でもなく示唆するつもりで駄文を綴りました。偉そうに。少々うるさい話もしているので、うるさいと感じた方は「うるせえよ」と毒づいたのちに静かな世界に帰って頂ければと思います。

ていうかチョイスが難しいなー。正攻法としてはメリエスの『月世界旅行』(1902年)、グリフィス『國民の創生』(15年)、エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』(25年)あたりから順を追って話すべきなんだろうけど、なにしろ5本しか選べないので…この3人については既に知っているものと信じて飛ばします。


『市民ケーン』(41年)

「アホか。そんなもん言われなくても見てるわ」と言われてしまうかしら。野郎~、歯向かいやがって。私だって今更こんなものを挙げたくて挙げているわけじゃねえんだよ!

監督、脚本、主演を務めたオーソン・ウェルズの処女作、『市民ケーン』

これは映像技法を研究するうえでは避けては通れない作品で、とりわけパン・フォーカスや長回しといった現代映画の映像技法のイロハが詰まったデラックスな映画である。ダッチアングルや時系列の操作なんかは近ごろの映画にも通じる技法であるし。

だけど『市民ケーン』の真の価値は豊かなショット体系にある。な?

ショットについて知るだけならジョン・フォードを観ろという話になるけれども、ウェルズの功績はショットを体系化した点にある。紙幅の都合もあるのでガッツリ語ることはしないが、たとえばフォードの得意分野が油絵だとすれば、ウェルズは油絵も水彩もアクリルも使う。な?

「な?」で全部説明したことにする…というアルティメット横着。

したがって映像技法を手っ取り早く学ぶならウェルズほど適当な作家はいないということです。

ただひとつ問題があるとすれば、手っ取り早く学んだところで学んだことはならない…ということだろうか。

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 いろんな映画雑誌の「名作映画TOP100」みたいな企画でとかく1位に輝きがちな『市民ケーン』

 

 

『周遊する蒸気船』(35年)

ジョン・フォードである。そう、ジョン・フォードである。大事なことは繰返し何度も言うことでみんなの頭脳に刷り込めるんだ。みんなの頭脳ってそういう仕組みになっているんだ。

さて、ちょっとうるさいこと言いますよ。

フォードを近代文学に例えるなら芥川龍之介と太宰治と夏目漱石を合体させたような人なので、本腰入れて映画を観るぞという人民にとっては「興味ない」とか「観たくない」とか言ってる場合ではないレベルの巨人。圧をかけるような言い方で申し訳ないけれど絶対に観ておかねばならない作家です。

「押しつけないで!」とか「何を観るかなんて自由だろ!」といった尊い御意見は実にありがたいのだが…フォードにあってはそんなお行儀のいい議論など時間の無駄でしかないのでグチグチ言うまえに観ろ、ということにどうしてもなってしまう。

もしもあなたが「ちょっとマジな映画好き」なら、たとえ今は観なくてもゆくゆくは観ることになるわけで、人生の黄昏時…そうだな、82歳になって病院のベッドで初めて『駅馬車』(39年)を観て「あぁ、やってしまった。もっと若いころに観ておくんだった。慚愧の念に堪えません」とかなんとか言って後悔しながら春先に死ぬ…みたいなチョベリバな幕切れになってしまうわけです。惜しい人を亡くしました。

これは何も映画に限った話ではない。人生には「なるべく早めに済ませた方がいい用事」というのがあるよね。役所関係の手続きとか、台風の前の買い出しとか。

フォードも然り。

そう…フォードを観ることは用事です。

役所に行く。風呂を洗う。法事をする。フォードを観る。

これ全部繋がってますね。はい。僕たちの生活の端々にはフォードがいるのです。カーテンの隙間からフォードがこっち見てるわけです。ベランダにフォード。ベッドの下にフォード、天井裏にフォード。止まり木にも、あの…!

な?

だから、観たいとか観たくないとか、そういう「気持ちの問題」じゃあないんだ。気持ちなんてどうでもいい。べつに私だってフォードが特別好きってわけじゃないし。でも「フォードが特別好きってわけじゃない」というのは私の気持ちです。どうでもいい。

フォードは気持ちじゃない。

スゲェ、なんだこのおかしなパワーワード感。やばい奴と思われそうだ。

 

ムダな話にずいぶん字数を使ってしまった。焦っている。この記事そもそも成立してるんだろうか。

要点だけ述べると『周遊する蒸気船』投げる映画である。安酒を売る男が出てくるのだけど、その酒が手から手へと投げ渡され、蒸気船レースの劣勢を逆転させ得る燃料として活用されるクライマックスがいかにも見事なんだ。ほかにもフォード的人物は色んなものを投げますね。

たとえばホークス映画における「投げる」という主題はシンプルに物体の往復運動を意味する。ハンフリー・ボガートがローレン・バコールに向けてライターを投げ、それで煙草に火を点けた女は再び男へとライターを投げ返す『脱出』(44年)。あるいはジョン・ウェインの手から一度離れたライフル銃が仲間との連携によって驚くべき迅速さで再び持ち主の手に戻る『リオ・ブラボー』(59年)

投げた物は持ち主に投げ返されるのがホークス映画の運動法則だとすれば、投げた物は投げた先で然るべき機能を果たすのがフォード映画だ。燃料代わりに投げられた安酒のように。

そういうことが観えてくる映画です。

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ジョン・ウェインと出会う前の初期作です。

 

 

『詩人の血』(30年)

ジャン・コクトーは映画作家というよりは芸術家だろうな。

詩人、小説家、劇作家、画家、評論家。そして余技として映画を撮る。ディズニーより早くに『美女と野獣』(46年)を映画化した人としても有名…なのかな?

コクトーは我々が皮膚感覚として漠然と抱いている「映画の形」という固着観念を溶解すんだぜ。言ってる意味わかるけ。つまり我々の「これが映画だ」という認識に対して「あなた…すごい思い違いしてない? 映画ってそういうことじゃないよ?」と、その誤認を根本から揺さぶってくるんだぜ。こわい奴である。

そも、映画とは見えないものだ。10人の人間が同じ映画を見たあとに「今見たのはどういう映画だったか、なるべく正確に教えてください」と言っても10人全員がてんでバラバラの回答を示す。自分勝手な映画の解釈で。ある者はストーリーを語り、ある者はキャラクターの心情に寄り添い、またある者は映像の表層をなぞる。この時点で映画に共通認識などないということが言えるわけです。だとすれば誰に正しく映画を見ることができるのだろう?

大事なのは映画を理解することよりも映画を理解していないことを知ることである。あなたが思っている映画の定義はたぶんメチャメチャに間違ってるし、私が考える映画の定義もたぶん激烈に見当違いだろう。

この「諦めの境地」に立たせてくれるのがコクトーの『詩人の血』である。

どういう映画なのかについては説明できない。おかしな重力の廊下。少女の空中浮遊。銃殺されたメキシコ人がフィルムの逆回転によって再び立ち上がる。男が鏡のなかに飛び込むと鏡面が水飛沫をあげて飛び散る…などなど、わけのわからないトリック撮影がひたすら続く。

おもしろいのは、コクトー自身がこの映画のモンタージュに絶望するような字幕が挿入されるというメタ言語です。これはエイゼンシュテインとグリフィスによって提唱されたモンタージュ=映画制度の否定と、否定しながらも制度に取り込まれゆくコクトー自身の二律背反を嘆いたものだ。

早い話が、コクトーすら本作の中で「映画って何なんだろな…」って途方に暮れてしまってるわけ。これはもう敗北ですよ、敗北。芸術家が芸術に敗北宣言した映画。そこから芸術家の逆襲が始まるのです。

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『詩人の血』から89年経った現在。未だ誰も映画を理解せず。

 

 

『赤ちゃん教育』(38年)

ひゃっほ! 『赤ちゃん教育』

ハワード・ホークスは見える映画理論を使うので批評眼を鍛えるには持ってこいの作家だと思います。それに単純に滅法おもしろい。世界がでんぐり返りをする面白さです。

これと似たタイプにはビリー・ワイルダーがいるが、ワイルダー作品は脚本優位のおもしろさ。対してホークス作品はまず運動ありき。人だけでなく物もよく動く。そして運動が画面を形作り、物語を推し進めます。

スクリューボール・コメディの金字塔として名高い『赤ちゃん教育』は、恐竜の骨格再現に苦心する考古学者のケイリー・グラントが豹の赤ちゃんを飼っているじゃじゃ馬娘のキャサリン・ヘプバーンに振り回されて散々な目に遭う…という愉快な映画だ。

標本を完成させる最後の骨の一片を犬が持ち去って土に埋めてしまったことで、ケイリーは犬のように四つん這いになって土を掘り返し、ようやく手に入れたかと思えばキャサリンが梯子から転げたせいで完成間近の骨格標本がバラバラになってしまう。かくして復元作業という運動は逆行運動によって元の木阿弥と化す。

また、ホークスは人間を描かない。動物として描くのだ。「四つん這い」とか「転倒」のモチーフも多い。そして静物まで動物化してしまう、きわめて本能的な作家である。『赤ちゃん教育』『ヒズ・ガール・フライデー』(40年)なんて並みの反射神経では捉えきれない映画ですからね。

で、映画というのは感情でも物語でもなく運動ですから、映画に接近するにはホークスを観るのが一番手っ取り早いと思うのです。グラスが落ちた。ガラスが割れた。女がコケた。男が投げた。そうした被写体の運動のすべてに意匠が凝らされている。

ていうか そろそろ眠いです。

1万字以上書いとるぞ。かれこれ5時間も。ビール飲みながら。くだらないジョークも思いつかないよ。

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豹の赤ちゃんかわいい。

 

 

『アメリカの影』(59年)

最後はこの一本。『アメリカの影』で決まり!

「インディーズ映画の父」ことジョン・カサヴェテスは『グロリア』(80年)で知られる作家ですよ。妻ジーナ・ローランズ主演の『グロリア』は唯一の商業映画だけど、普段は自主映画ばかり撮ってる人です。

そんなカサヴェテスはフレームの外に映画を撮る。

彼の作品には超クローズアップが多いけれど、ご存じの通りクローズアップというのは被写体に接近することで心理や感情を表現する撮影技法。と同時に見せたくないものを隠すという効果もある。

『フェイシズ』(68年)『こわれゆく女』(74年)では神経衰弱に陥ったジーナ・ローランズの顔面が超クローズアップで何度も切り取られます。カメラは憔悴するジーナを接写しながらも「同化」ではなく「異化」を試みるので(メロドラマの廃棄)、ショット自体が強力なサスペンスになっている。

画面いっぱいに広がったジーナの目、鼻、口。毛穴。

だが、もちろんこのフレーミングの外には不可視のオフ・スペース(画面外の空間)が広がっているわけで、たとえば夫役のピーター・フォークが今どんなリアクションをしているのか?…という想像も掻き立てられるのですね。

カサヴェテスは、クローズアップという対象をじっくり見せる手法を用いていながら対象を見せない。いわば曝け出された秘匿、可視のサスペンスと不可視のサスペンスの同棲、結婚、ハネムーンてな具合なのである。

わけのわからない話をしてごめんなさいね。要するにカサヴェテスから学べることは撮らないという撮り方もある、ちゅうことなのです。

 

おっと、もう10本か。ほんまか!

じゃあこれを以て『古典映画十選』を終わる。

俺はもう寝ようと思う。キミたちは好きにしたらいい。明日からまた数日サボるかもしれないが、キミたちは自分の人生を好きに送れる。言いたいことがわかるか? 俺にはわからない。

たぶん眠すぎて意味のわからないことを書いている。後日読み返して後悔するやつだ。俺にはわかる。なぜなら俺の人生はいつもそんな感じだからだ。人生はクローズアップで見ればナントカだがロングショットで見ればナンチャラってやつだな。チャップリンが言ってた。チャップリン黙れ。名言ばっかり吐いて偉人になろうとすな。

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顔を切り取ったクローズアップは顔以外を隠してもいる。