シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

静かなる男

写実主義から新古典主義への斯くも陽気な横断。

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1952年。ジョン・フォード監督。ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ、ヴィクター・マクラグレン。

 

アメリカでボクサーとして暮らしていたショーン・ソーントンは、戦いの場から身を引き、故郷のアイルランドに戻ってくる。他人の手にわたっていた生家を買い戻し、静かに暮らそうと考えていたショーンだったが、村の大地主で乱暴者のレッドもその家を買い取ろうと計画していた。ショーンは村に着いてすぐに出会った娘メリー・ケイトと恋仲になっていたが、彼女がレッドの妹であったことから、事態はさらに面倒なことになってしまう。(Yahoo!映画より)

 

らい、おはようございます。

月イチぐらいのペースで蜘蛛の巣に引っかかる夢を見る。蝶ちょが見る夢やん。道を歩いていると急に顔面に蜘蛛の巣がへばりついてすこぶる嫌な気持ちがする、という中身の夢である。蝶ちょが見る夢やん。手で払って再び歩き出すと、またぞろ蜘蛛の巣が顔にヘチョっとへばりついて嫌な気持ちがするのだ。蝶ちょが見る夢やん。

なぜに私は蝶ちょが見る専用の夢を見ているんだ。蜘蛛の巣に引っかかる夢なんて蝶ちょだけが見ればいいのに。ていうか、蝶ちょだけが見るべきなのに。なぜ人間である私が、蝶ちょが見る専用の夢を見なきゃならないの。ことによると私の前世は蝶ちょなのかもしれない。前世が蝶ちょだから、蝶ちょが見る専用の夢ばかり見てしまうのかもしれない!!!

だとしたら、私の敵は、前世が蜘蛛だった人間、たとえばスパイダーマンとか、そういう感じの奴なのかもしれない。よろしい、敵が明確化した。一歩前進だ。

そんなわけで本日は『静かなる男』。ただでさえ今回は趣味性の高い文章になったというのに、第一章に至っては大いなる雑談と化しちまいました。読んで。

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静かなる男になりきれない男(それはオレ)◆

アメリカから故郷アイルランドに帰ってきたボクサーが横暴な地主とのいざこざの果てに生家を買い戻したが、恋した羊追いは地主の妹だった。気のいい村人たちは二人の縁談に反対する地主を村ぐるみで騙して結婚まで漕ぎつけたが、騙されたと知った地主は妹から持参金を巻き上げてしまう。アイルランドでは持参金なしに嫁入りすることは女の恥とされたが、アメリカ暮らしが長かったボクサーにはどうしてもこの風習が理解できない。だが、持参金を取り戻すまでは仮の夫婦でいましょうと言われたボクサーは、ついに重い腰を上げて地主の家に殴り込む。いま、アイルランドの大自然を背景に繰り広げられる、空っ風オトコたちの熱きファッファファイト!

 

空っ風ボクサーを演じたのはジョン・ウェイン。羊追いの娘はモーリン・オハラ。監督は天下のジョン・フォードである。

アイルランドへの郷愁がオーケストラを奏でる、実におおらかな人情喜劇。とても気前のいい作品だし、すべてのショットが自信に満ち溢れている。竹を割ったようなウェインと、じゃがいもを剥いたようなオハラ。その気っ風のよさと土臭さは、これといった出来事もなく進行するドラマにイモータルな輝きを与えていた!

f:id:hukadume7272:20201218080754j:plain花をむしってオハラにプレゼントするウェイン。

ジョン・フォードの『静かなる男』は、正確に“緑を見る映画”なので、2014年にHDリマスターでリバイバルされたことは人類にとってのごくささやかな僥倖と言ってよい。

本作のようにリマスター版でリバイバル上映された映画は、たとえそれが何十年前の作品であれ“新作映画”として迎えるのがわれわれの風儀というものだし、また著作権法に鑑みた場合も同様であり、あくまで新作映画として扱われている。だが、なぜか人は68年前に作られた『静かなる男』のリマスター版を「68年前の映画」だと捉え、ニタリ笑いのしたり顔を浮かべながら躊躇も留保もなく「古臭い」などと吐き捨ててみせるのだ!

要するに、そういうバカタレは“そこに何が映ってるか”という事しか見えておらず、“いかに映ってるか”に関してはとんと無頓着であり、言うなれば一級のアングルと抜群の照明でブスを映した完璧なショットを見てもそれを単に「ブス」としか見れないような鑑識眼の持ち主なのであり、そのショットに「美しい」と息を呑んだ人間にブス専のレッテルを貼ったり、ひどい場合はその人間のご家族と連携して精神病院に送り込みさえしてしまう。よくも…!

実際、目のいい映画好きそうでない映画好きとでは同じ映画について語っていても“見えてる世界”がまったく異なるために話が噛み合わない。数年前の体験談だが、2人の映画好きとパク・チャヌクの『イノセント・ガーデン』(13年)の話をしていたとき、目のいい方の映画好き(これをAとする)が「見事なフランス映画でしたね」と言うと、いま一方のBが「フランス? あれって米英合作でしょう?」と真顔で訊ねており、その様子を傍から見ていた私は「すれ違っとんなー。クオリアが」とその場でギュルンともんどり打ったものです。

つまりそういう事なんだよな。たしかに『イノセント・ガーデン』はアメリカとイギリスの合作映画だが、Aが言ったことはそういう事ではない。同作はフィルムの呼吸や肌触りが完全にフランス映画のそれなのである。まあ、厳密には「韓国」人監督のパク・チャヌクが「アメリカ」のテネシー州の郊外を舞台に「イギリス」人のマシュー・グッドに翻弄される「オーストラリア」人のミア・ワシコウスカとニコール・キッドマンの愛憎劇をクロード・シャブロルばりに「フランス」っぽく撮った無国籍映画なので、かかる無国籍の匂いからフランス映画の仄かな薫香を嗅ぎ分けながら楽しむべき作品…という方が正確かな。

もちろん「そんな難しい見方はできないし、映画の楽しみ方は自由。人それぞれじゃん」という意見もわかるが、大体において何かを知ったり学んだりする姿勢を放棄した奴ほど「自由」や「人それぞれ」といった耳障りのいい言葉で怠惰な自分を守ろうとする。本当に映画が好きなら「難しい見方」もできるようになるために批評や専門書に触れてみるなり、普段観ないような映画を観てみるなり、八方手を尽くして自分なりに試行錯誤した方がよっぽど「自由」に映画を楽しめると思うのだけれど。そのうえで「こんな難しい見方はできないし、やっぱり映画の楽しみ方は人それぞれだ」と結論するのならその意見は大いに尊重するし、すでにオマエはある種の高みに達していると思うから「おめでとう」と書いたハガキを送らせてくれ。

やれやれ。『静かなる男』の評なのにまったく関係ない話を誰よりも饒舌にしゃべる男ですオレは。

第一、なんでこんな話になっちまったんだ? まったくわけがわからないし、静かにもなれないし…。

f:id:hukadume7272:20201218080831j:plain壁ドンもばっちり押さえてる。

◆枠外の世界、新古典主義の女◆

『静かなる男』には静かなる名場面が沢山あるが、ひとまず私は「結婚式を挙げたウェインとオハラが馬車のブライダルカーに乗る場面」を挙げておく。

酒飲み御者のバリー・フィッツジェラルドいわく、いかな夫婦とて馬上の男女がべたべた触れ合うことはスケベの所業であるらしく、が為に馬車の左右に新郎新婦を背中合わせに座らせることで不純異性交遊を断たんとするのであるが、これに退屈したウェインとオハラ、「歩きます」と言ってブライダル馬車から降りたはいいが、スケベ根絶運動家のバリーは「手を繋いではなりませんぞ。見てますからな!」といって二人の20メートル後ろから馬車でパカパカ付いてくる。

するとウェインとオハラ、路駐していた二人乗り用の自転車にパッと飛び乗り、漕ぐよ! 漕ぐよ!

イングランドの可愛らしき家々の隙間をイカれたシャチみたいな速度で駆け抜けるタンデム自転車と、さながら執念深いサメのように追いまくるブライダル馬車。

牧歌的な結婚式の一幕が突如としてカーチェイスに変わりながらも、“ペダルを漕ぐ”という初の共同作業に興奮を隠しきれないウェインとオハラ。その空っ風ロマンス!

そのあと、急に酒場の前で停まった馬に「さすがワシの子。よく分かってるじゃないか」と言って早々に追跡を諦めて一杯ひっかけようとするバリーのチャランポラリズムも含めて、実に愛すべき名場面だ。

f:id:hukadume7272:20201218080556j:plainブライダル馬車を降りて散歩を楽しむ二人(このあとタンデム自転車で逃走)。


それはそうと、先ほどからあっちゃこっちゃに貼っ付けてる画像をご覧になればわかる通り、本作はきわめて写実主義的なショットが満載している。

まるでミレーやクールベの絵画を見ているような落ち着いた味わいと、恐ろしく繊細な色使い。リマスター前のプリントとは比ぶべくもない緑の発色に度肝を抜かれない奴がいるとすれば、そいつの肝はすでにダメになってるかもしれない。

なにより素晴らしいのは、決して状況説明の為だけに消費されない雄大なエスタブリッシング・ショット(およびオフ・スペースの映画化)である。もちろんフレームの枠外にも似たような景色が地続きになってるわけだが、下手な人間はフレームを“箱”と捉え、その中だけで世界を描こうとしたり、あるいはシネスコを単に「箱の面積が大きいから世界をより広く見せられるもの」という浅い考えに囚われている。

このスタンダードサイズの宇宙を目にした者は、フレームに映らなかったオフ・スペースをこそ観たいと思い、ほとんど全編にわたって「カメラを振ってくれ。頼む振って。はよ振れ」と念じ続けるが、この映画にパンはない。だからこそ枠外にも宇宙は広がっているのだと夢想することができるのだよね。

例えばコレとか

f:id:hukadume7272:20201218080402j:plain「完璧」という言葉は好きじゃないが、まあ、なんだ。完璧だ。


まさに圧倒的なスペクタクル。これは…ちょっと言葉を失ってしまう。こんな画が毎秒24コマで動くのだから「あうあうあうあう…」と私、感電するパペット人形のごとき珍奇な動きで感動を表現してしまった。あうあう言いすぎて顎関節症になりそう。

かように、ウェインが大自然に身を預けるショットは写実主義風に撮られているわけだが、その一方ゥ! ウェインとの愛の問題に悩むオハラ…いわば「女のショット」に関しては新古典主義のように撮り分けられている…というあたりが本作の精髄かも。

先に紹介した絵葉書のような気持ちいい映像の肌理とは裏腹に、憂い惑うオハラの女心はビビッドな色彩に富んだ独特の危機感と、エナメルのようなフィルムの肌触り、それに濃淡を利かせた見事な照明術によって画面化されている。

見てコレ

f:id:hukadume7272:20201218080451j:plain モーリン・オハラ。

先の写実主義風のショットよりも更にわかりやすく絵画的というか、むしろ絵画から逆算して導かれたような画面構成だ。

『わが谷は緑なりき』(41年)『三十四丁目の奇蹟』(47年)では確かに実体感のあったモーリン・オハラを西洋美術の平面世界に放り込み、且つあっけらかんと撮ってしまえるフォードの眼。彼が見せようとしている世界を、我々はどこまで見れているだろう。

◆たとえそれが大事な物でも、大丈夫さ、火にくべよう◆

クライマックスでは、持参金を取り返そうとしないウェインに失望して、ひとりダブリン行きの汽車に乗り込んだオハラを客車から引きずり降ろして地主の兄ヴィクター・マクラグレンの家に殴り込みにいくウェインと、ふたりの因縁の対決を見届けるために村人総出で彼に追従する壮大なパレードが見ものだ。

オハラの首根っこを掴んだまま野を行進するウェイン。ぞろぞろと付いてくる村人たちの間ではどちらが勝つかで賭けが行われ、その騒々しさに危篤の老人も飛び起きる。ようようヴィクターの家に辿り着いたウェインは「持参金を渡さないなら結婚はナシだ」と言ってオハラを突き返す(というか投げ飛ばす)わけだが、一見乱暴に見えるこの振舞いは、ようやくヤンキー(アメリカ北東部の白人)気質のウェインがイングランドの風習に従ったことを意味するのであり、ひいてはオハラへの逆説的な愛の形を示した“キスシーンの代わり”である。キスの代わりに女を投げ飛ばす。それが“代わり”になるのだからフォードはすごい。

気圧されたヴィクターは渋々と持参金を返したが、この瞬間に晴れて正式に夫婦となったウェインとオハラは親しげな目配せを交わし、念願叶って戻ってきた持参金をいともあっさりと焼却炉に投げ捨てちゃう。そして「さあ、これで結婚のいざこざはカタがついた。ここからは私的制裁のお時間です」とばかりに腕まくりしてヴィクターに殴りかかるのだ。

f:id:hukadume7272:20201218080636j:plain燃えよ、アイルランド魂!

フォードを観ていると“燃えているボイラーの中に物を放り込む”という運動を頻繁に目にする。最も顕著なのは、健康飲料と称してがぶがぶ飲んでいたものが実はラム酒で、それが蒸気船レースの劣勢を逆転させうる燃料として活用される『周遊する蒸気船』(35年)

“火のなかに物を投げる”という運動のモチーフは、もっぱら証拠の隠滅であったり儀式の一環として描かれがちだが、本来の目的としては火の勢いを増すための薪を焚べる作業である。フォードの場合もこれと同じ。エネルギーを再生利用するために火に投じる。

本作でいえば、返してもらった持参金をむざむざ焼却炉に放り込むことでアイルランド的婚礼―その風習をいちど無効化し、“不仲の男ふたりが殴りっこで決着をつける”という純粋な闘争の場へと互いの関係性を組み替えうるエネルギーを作り出しているわけだ。その契機を作るためにこそ持参金は廃棄されねばならない。

そんなわけで、ウェインとヴィクターは村全域を大きく使いながら派手に殴り合い、いつの間にやら村人全員を巻き込んだ組んず解れつの大乱闘へと発展。途中で審判バリーによるタンマが宣言され、一休みしようと酒場で黒ビールを煽ったウェインとヴィクター。「おまえが気に入ったよ」「俺も気に入った!」「ここは奢ろう」「いや、オレが奢る」「何を。オレが奢ると言っているんだ、このばか」なんつって喧嘩再会。最後は肩を抱き合ってオハラの待つ家へと返り「メシだ、メシだ!」って。

なにこれェ――――ッ!?

ワケはわからんが…楽しいじゃ~ん!

このノリのよさ。本日晴天。フォードです。

まったく、爆竹のような人情喜劇だ。もう一度言うが、この作品は2014年に公開されたばかりの新作映画なので、古い映画を観ない人もぜひどうぞ。

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