シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

バーニング 劇場版

蜜柑が『ある』と思い込むのではなく、蜜柑が『ない』ことを忘れればいい。

f:id:hukadume7272:20190811050702j:plain

2018年。イ・チャンドン監督。ユ・アイン、スティーブ・ユァン、チョン・ジョンソ。

 

アルバイトで生計を立てる小説家志望の青年ジョンスは、幼なじみの女性ヘミと偶然再会し、彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。旅行から戻ったヘミは、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベンをジョンスに紹介する。ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」という秘密を打ち明ける。そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。ヘミに強く惹かれていたジュンスは、必死で彼女の行方を捜すが…。(映画.comより)

 

おはようございます。

『古典映画十選』がエグいぐらい反響呼んでるやん。

でもアレはさぁ…「PV爆上がり確定のスーパー企画!」って散々大口を叩いておいて誰も興味ない白黒映画の話をする…という私なりのジョークなので反響がなければないほど面白いわけですよ。

ほんまにPV爆上がりしてどないすんねん。嘘から出たまことやないか。読者を減らすために昭和キネマ特集をしたり半月も放置していたというのに。まぁでも、楽しんで頂けたら幸いなのですが。

さぁ! 昭和キネマ特集で精も根も尽き果ててから15日ぶりの映画評。この15日間、Twitterでは何人かの市民から「充電期間だね」なんて言われたけど、私はこの長期休暇を使ってヤケクソみたいに映画を観て評を書きまくっていたので、ハタから見れば充電でも私にとっては放電なんですよ。

というわけで、今後はバリバリ放電していきますよ。復帰一発目は『バーニング 劇場版』。扱う映画が扱う映画だけに、ことによるとけっこう難解な文章になっているかもしれない。ちなみに明日も『バーニング』評をアップします。

f:id:hukadume7272:20190811051815j:plain


◆『バーニング』について語るときに僕の語ること◆

僕はこの1ヶ月半のあいだ、「昭和キネマ特集」と銘打って1950~80年代の日本映画ばかり観て過ごしていた。そのせいである種の時差ボケ(あるいは昭和ボケ)が抜けきらない。こんな状態でいきなり欧米圏の映画を観ると心臓マヒを起こして帰らぬ人となってしまうかもしれない。まずは韓国映画でも観て少しずつ身体を慣らしていこう。

そんなわけで、僕は『バーニング 劇場版』を観た。

これは村上春樹の短編小説『納屋を焼く』イ・チャンドンが映画化したものだ。なぜ邦題に「劇場版」と付くのかといえば、日本公開に先駆けてNHKが95分の短縮版『特集ドラマ バーニング』と称してテレビ放送をしたためだった。

やれやれ、と僕は思った。映画はテレビ屋さんの玩具ではない。


イ・チャンドンは、まるで聡明なゴリラのような顔をした映画作家であり、ホン・サンスやキム・ギドクに並ぶ「韓国映画三羽ガラス」として知られている(あるいは「韓国映画三羽ガラス」なんて言葉は存在しないのかもしれない)。

彼は長編映画デビューしてから22年のキャリアを持つけれど、監督作はわずか6作品しかない。今回の『バーニング 劇場版』は、前作『ポエトリー アグネスの詩』(10年)から実に8年ぶりの新作となる。彼のような人間を世間では「寡作」なんて呼ぶのだろうけど、本来的に映画作家というのはこのくらいのペースを維持する方が好ましいのではないかと思う。バカみたいに毎年撮るホン・サンスやキム・ギドクよりもよっぽど確実性のあるキャリアを築いているからだ。

だから人は『ペパーミント・キャンディー』(99年)『オアシス』(02年)さえ観れば、肩で風を切って「イ・チャンドンを知ってるぜ」と言いふらせるのだ。まるで新品の靴を履いた水兵のように。

まぁ、そんなことを言いふらしたところで何がどうなるわけでもないのだけれど。

f:id:hukadume7272:20190811052912j:plain

イ・チャンドンのフィルモグラフィ。

 

話を続けよう。村上文学の映画化はどれも調子っ外れな印象を受ける。

『風の歌を聴け』(81年)『トニー滝谷』(05年)『ノルウェイの森』(10年)

一通りは観たのだけど、どれも小説の持つ心象風景の映像化や、その近似値を埋める作業に気を取られて、かえって核心から遠ざかっているように僕には思えた。

もちろん核心というのは「映画」のことだ。この三作品にはそれぞれに意図と計算がある。その努力の跡は見えるのだけど、要するに僕たちを“ここではないどこか”へと運んでくれる大きな川の流れのようなものが致命的に欠如していた。それは映画の体力であり、霊感であり、明確な座標のことだ。

村上文学を映画化する以上は、もっとタフでなくちゃあならない。

その点、イ・チャンドンは『納屋を焼く』をまったく別の形で自分の映画にした。まるでピークォド号を丸呑みにするモビィ・ディックのように、この原作小説を奥歯でゴリゴリとすり潰し、巨大な胃袋に流し込んでしまったのだ。

あるいはこういう言い方ができるかもしれない。この映画は『シークレット・サンシャイン』(07年)と表裏一体の連作なのだと。

共通点は多い。どちらもロングショット主体で、“消失”についての物語であり、黒電話が凶兆のモチーフとなる。また、『シークレット・サンシャイン』は逆光ショットを効果的に使った昼間の映画だったけど、本作はマジックアワーを前面に押し出した夕暮れの映画だ。

しかし結局のところ『バーニング 劇場版』『シークレット・サンシャイン』を超えることはできなかったと思う。理由はわからない。映画作家というやつは、好むと好まざるとに関わらず自分の過去作に影響を受けてしまうものだ。断ち切ろうとしてどうにかなるものではないし、誰もその呪縛からは逃れられない。

ねえ、わかるかい。どこにも辿り着けないんだ。

f:id:hukadume7272:20190811052339j:plain

 

◆「ある」と思うのではなく「ない」ことを忘れればいい◆

あ~、もういい!!

村上春樹のなんちゃって文体模写で最後までいこうと思っていたが…もういいっすわ。話が一個も前に進まねえ。

『納屋を焼く』は村上春樹の初期の短編小説である。どういう物語か。こういう物語だ。

パントマイムを学んでいる“彼女”とちょくちょくデートを重ねている“僕”が、彼女に新しくできたボーイフレンドの“彼”から「時々納屋を焼くんです」という告白を受ける。この男は農家の納屋に火を放つというルーティーンの持ち主で、もうじき“僕”の家のすぐ近くにある納屋も焼くつもりだと言う。好奇心を掻き立てられた“僕”は近所にある納屋を調べあげて毎日観察していたが、納屋は一向に焼かれる気配がない。そのあと“彼女”が突然姿を消した。街で偶然“彼”に出会った“僕”は、しばらく世間話をしたあとに「納屋を焼くのではなかったか」と尋ねると「すでに焼きました」と言う。小説はここで終わってしまう。

じつに不思議な物語である。納屋は一つも焼かれていないのに「焼いた」と言う男、そして突如消失した一人の女…。


約40ページの短編小説だが、イ・チャンドンはこれを大幅に翻案して148分の長編劇映画に仕上げた。おまけに舞台は2018年現在の韓国(原作が書かれたのは1983年)。キャラクター造形も大幅に改変されており、とりわけアンチ派が村上春樹を嫌う最たる理由の「主人公のキザな言動がいけ好かない」(という只の感情論)も、本作で“僕”を演じたユ・アインの朴訥とした人柄によって刷新されている。

“彼女”役のチョン・ジョンソと“彼”役のスティーブ・ユァンに関しては過不足なく村上的な相貌におさまっているが、よくよく見るとセリフにも思想にも大胆なアレンジが施されていた。

つまり原作ほぼドン無視。

まずはこれに賞賛を贈りたい。

だいたい、オリジナルを忠実に再現した作品がオリジナルを超克できるわけがないのだ。

なーにが「忠実に再現」だ、バカタレが。忠実であろうとする態度は従属することにほかならない。本当のリスペクトとはリスペクトなどしないことだ。オリジナルがどれだけ偉いのか知らんが、そんなものは無視して踏みつけて乗り越えろ。でなきゃ映画化する意味がない。原作ファンに媚びるな。奴らを見たら敵と思え。

その意味でイ・チャンドンは最高。

ネタバレは避けたいので詳しくは言わないが、原作小説を内側からばりばりと食い破るような狂暴な映画化だった。ことに結末など村上文学を根本から否定している。上等、上等。文学に対して映画でアンチテーゼを唱える。このうえなく健全だ。


イ・チャンドンは存在の不確定性に揺れる現代の若者を撃つことで、原作小説の主題とはあまりにかけ離れた「青春映画」として本作を撮った。

主人公のユ・アインは作家志望の若者だが世界の広さに戸惑うあまり何も書けない…という甘えきったガキであり、幼馴染のチョン・ジョンソもアフリカ先住民のグレート・ハンガー(生きる理由に飢えている人々)に共鳴する孤独な現代人。まさに現代の若者である。

そんな二人が街でばったり出会って意気投合、パントマイムを習っているジョンソは空想上の蜜柑を剥き、感心するユにコツを教えた。


「そこに蜜柑が『ある』と思い込むんじゃなくて、そこに蜜柑が『ない』ことを忘れればいいの」

 

f:id:hukadume7272:20190811051506j:plain

見習いパントマイマーのジョンソ。


その後、仲良くなったジョンソから「旅行中に猫にエサをあげてほしい」と頼まれてアパートに招かれたユは、部屋中どこを探しても猫が見つからないことを不審がるが、ジョンソは「人見知りして出てこないだけ」と言い、ユをベッドに誘ってセックスをした。

ユは彼女が旅行に出かけたあと、いるのかいないのかも分からない猫のフードボウルに毎日エサを入れ続けたが、前日入れたエサが翌日にはなくなっているところを見ると確かに猫は存在しているようである。その猫は一度も姿を現さないが、ユは猫が「いる」と思い込むのではなく「いない」ことを忘れてエサを入れ続ける。

この猫はユでありジョンソである。そして我々だ。

確かに存在してはいるが不可視の実態。自分が何者かも分からず、SNSの中でしか本心を曝け出せない、みじめな俺たち。まるで幽霊だ。

寂しくなったユは、ジョンソの部屋で彼女を思いながらマスターベーションをした。

かなり何度もした。

村上文学のなかで幾度も出てくる自慰だの夢精だのといった主題が、ここでは存在の不確定性を埋めるための儀式としておこなわれる。ユにとって「猫にエサを与えること」と「ジョンソを思ってマスターベーションをすること」は、ある意味では等価なのだ。そして彼自身もまたモノが書けない物書き。どこまで存在していて、どこから存在していないのか…彼自身にもわからない。

そこでユはジョンソから教わったパントマイムのコツを応用した。

必死になって「自分は存在している」と思い込むのではなく「存在していない」ことを忘れたのだ。

そして今日もまた彼女の部屋でマスターベーションに耽った。

マスターベーション万能説が持ち上がった。

f:id:hukadume7272:20190811051407j:plain

マスターベーターとしてのユ。

 

◆ひとりラ・ラ・ランド。あるいは焼け落ちるビニールハウス◆

そんなジョンソの前にユァンが現れたことで奇妙な三角関係が始まる。

彼は職業不明の資産家で、たびたび高級マンションにハイソサエティーの友人を集めては高級なパーティを開いている。とても知的な人物だが気取ったところがなく、自然に着こなした品のいいシャツにはシワひとつなかった。ユとジョンソの関係にもいっさい立ち入らず、むしろ三人で遊ぶことにある種の悦びや新鮮さを感じているようでもある。

しかしユは、いつも三人で行動するうちにこの男の奇妙な一面に気付き始める。ユァンはジョンソがパーティの席でグレート・ハンガーの話をしているときに欠伸をしながら愛想笑いを浮かべていたのだ。また、ユに対して自分には悲しみの感情がないことも吐露した。どことなくいかがわしくて空虚な人間である。

そんなユァンが「僕はたまにビニールハウスを焼くんだ」と告白した直後にジョンソが行方不明になる。のちにユはこの男の家に招かれ、そこで一匹の猫と出会う。ユァンは「道で拾った」と言ったが、ユにはその猫がジョンソの飼い猫のように思えてならなかった。

つまり…、この男はジョンソの失踪に関わっているのか?

もしかして彼女を殺したのか?

「ビニールハウスを焼く」とは「人を殺す」ことのメタファーだったのか?

ユの猜疑心は極限まで膨れあがり、ついに映画は原作小説から大きく離れ、村上春樹の意図しなかった「ある大事件」と「ある顛末」へと至る…。

 

本作はいわゆる現実的なミステリではないので、消えたジョンソはどうなったかとかユァンは殺人鬼なのかといった興味は一刻も早く夕闇の中に捨て去ってほしい。

それより目を向けるべきはマジックアワーが描いた青い夕闇のなかでジョンソが舞い踊るひとりラ・ラ・ランドの儚さであり、ユが夢で見たドロドロと燃え落ちていく真っ赤なビニールハウスの強烈な触覚性である。

そうそう。本作では「納屋」が「ビニールハウス」に置き換えられている。その理由は2つある。

ひとつは、現在の韓国では住居用ビニールハウスで暮らす貧困層が年々増加していて火事でよく死んでいるという社会背景を通して、それを定期的に焼くユァンがきわめて危険な男ということを描くためである。片や、小説版に出てくる納屋焼き男はわりに無害な奴で「僕はべつに火事をおこしたいわけじゃなくて納屋を焼きたいだけなんです」と言っており、焼いたところで誰も残念に思わないような寂れた納屋だけを焼く男なのだ。

ところが、納屋がビニールハウスに変わっただけで人を殺してしまう可能性が生じるよね(少なくとも現在の韓国では)。ユァンは決して残酷な人物ではないが、心の内にはとてつもない残酷性を秘めており、それは彼に人の心がないことを示す「欠伸の身振り」にも顕著である。

彼がジョンソを殺したかどうかは問題ではない。いずれにせよ社会に潜む悪魔であることには違いないからだ。

f:id:hukadume7272:20190811051255j:plain

謎多きユァン。『ウォーキング・デッド』のグレン役で人気らしい。

 

納屋をビニールハウスに変えたもうひとつの理由。これは単純。画としてのインパクトだろう。

ユが夢で見たビニールハウスはアホみたいに燃えまくっており、溶けたビニールが火に包まれたままボタボタと地面に零れ落ちる。この鮮烈なイメージはジョンソのひとりラ・ラ・ランドと対をなす本作屈指のキラーショットだ。

ちょっぴり小難しい話をするが、ユァンはモラリティーというものを「同時存在」だと考えている。つまり罪を犯すユァンがどこかにいて、罪を赦すユァンが別のどこかにいる…という考え方だ。彼がビニールハウスを焼くのは同時存在の均衡を保つためである。自分の中の悪魔にビニールハウスを焼かせることで社会や日常での自分を悪魔から切り離しているのだ。少しずつ彼のことを理解し始めたユがビニールハウスの前に呆然と佇み、あやうく火をつけそうになって我に返るシーンが印象的だった。

対して、ジョンソのひとりラ・ラ・ランドのダンスシーンはグレート・ハンガーから教わった「人生の意味を求める舞い」。私が私としてここに存在するための舞いだ。これはビニールハウスを燃やすことで同時存在を試みるユァンとは真逆の同一存在の儀式である。人は、蜜柑が「ある」世界と「ない」世界を同時存在することはできない。ならば「蜜柑が『ない』ことを忘れればいい」のだ。

そう考えると、同一存在するジョンソが同時存在するユとユァンの前から姿を消したのは極めて自然な事のように思える。食べ終えた蜜柑は、もう「ない」。

f:id:hukadume7272:20190811051207j:plain

ドロドロと焼け落ちるビニールハウス。

 

村上春樹はなぜ映画化しえないか。それは彼の文学がきわめて示唆に富んだ形而上的な物語だからである。ゆえに映画では「美しげなショット」とか「思わせぶりなテリング」といった小手先に頼り、ただムードに傾斜しただけのなんちゃってアート映画に堕してしまう。

イ・チャンドンが偉かったのは、一見ムード的な映像美の裏側に膨大にして深遠な意味論を接着した点にある。いちいち絵解きはしないが、西日が象った奇妙な影、洗面所の引き出しにあった装飾品、毎晩掛かってくる無言電話…。尾行する者とされる者は瞬時にして入れ替わり、決定的な隘路に立たされたユは青い夕暮れのなかを闇雲に走る。そしてフロントガラスとリアガラス越しに「炎上」を捉えたラストのショット。 前後二枚のガラスに閉ざされた車中のユはついに同一存在を余儀なくされる。

 

この映画は「村上春樹の短編小説をアジアの映画監督がめったやたらに映像化するプロジェクト」の第1弾として制作された。

このプロジェクトはいいプロジェクトだと思う。「アジアの監督」なんて広範囲なことを言わず、いっそ韓国人監督に丸投げしてみてはどうだろうか。奴らは形而上的な物語――いわば「ハッキリしない映画」がヤケに得意だからだ。

ポン・ジュノの『殺人の追憶』(03年)も、キム・ギドクの『サマリア』(04年)も、ナ・ホンジンの『哭声/コクソン』(16年)も…最後までモヤッとするよね。 

イ・チャンドンも含めて、こいつらの映画は意味と映像が等価なのである。アート映画でも文芸映画でもなく、もっぱら知的で腰の入ったエンターテイメントだ。

韓国映画は足腰がすごい。

f:id:hukadume7272:20190811051121j:plain

ジョンソによる演目「ひとりラ・ラ・ランド」。本作屈指のキラーショットです。