シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

マリッジ・ストーリー

傷つけ合うために別れるわけじゃないのに

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2019年。ノア・バームバック監督。スカーレット・ヨハンソン、アダム・ドライバー。

 

女優のニコールと監督兼脚本家のチャーリーは、かわいい息子がいる仲のいい家庭を築いていたが、夫婦の関係は少しずつ悪化していき、離婚を決める。円満な協議離婚を望んでいたが、ため込んできた相手への怒りを爆発させ、負けず嫌いの二人は離婚弁護士を雇って争う。(Yahoo!映画より)

 

おはようございます。昨日むっちゃ面白いコント番組見てん。

変なマスク付けたおじさんが「全世帯にマスク2枚配布する」みたいな訳のわからないことを言い張ってたんだけど、その中で 「全国で五千万あまりの世帯」とか口走ってたんだよね。世帯を枚で数えていく男。小ボケが効いてる。じわじわくる。

調べてみると、どうやら安倍政権っていうコント集団のリーダーらしいじゃないですか。彼が主催した「桜を見る会」というお笑いイベントでは多くのタレントと絡んでたので、たぶん芸人さんじゃないかなって睨んでます。

そんなわけで、本日からはNetflixオリジナル映画を5本ぐらいリャーッと取り上げていきます。まずは手裏剣一発、『マリッジ・ストーリー』です。

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◆バークバック、カムバック!◆

ジム・ジャームッシュやハル・ハートリーのようなNYインディーズが好きな人間を大いに魅了してくれるノア・バームバックが遂にグレタ・ガーウィグとの間に男児をもうけた。名前は不明。たぶん「グレナカッタ」とかではないかと予想。

マンブルコア映画運動の女神として数多くの自主映画に関わってきたグレタ・ガーウィグは、バームバックの『フランシス・ハ』(13年)で主演を務め、その後『レディ・バード』(17年)を監督した。

どうでもいいが、このガーウィグの2作品にバームバックの代表作『イカとクジラ』(05年)も加えて、3本すべてが『大人は判ってくれない』(59年)を下敷きにしたモラトリアムについての映画である。彼らだけでなく、多くのNY派作家が大なり小なりこの映画に影響を受けているのだ。なぜかNYインディーズ一派の作品にはトリュフォーの血が流れてるわけだ。このチャレンジングな試論をより具体的に深掘りしてもいいのだが今は眠たいのでやめておく。

さて、『マーゴット・ウェディング』(07年)『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(14年)でも大人になりきれないニューヨーカーたちの情けなくも愛おしい日々を描いてきたバームバックがちょっぴりシビアな映画を作った。モラトリアムを打ち切られ、大人になることを迫られたある夫婦の離婚劇だ。

子供が生まれた端から離婚映画作んなよ。

グレナカッタがグレるぞ。

 

離婚弁護士を雇って親権や慰謝料を奪い合う夫婦をスカーレット・ヨハンソンアダム・ドライバーが演じているので話題性はたっぷりだ。

制作・配給はNetflix。配給だけならともかく制作にまでガミガミ口を出してネトフリカラーを打ち出してくるのでNetflixオリジナル映画はあまり好きじゃない。Netflix映画には映像的な共通点があるのだ。まるで「ウチが作ってるのはテレビ映画じゃないぜ」という矜持を見せつけるかのように画面全体が執拗なほどデジタライズされていて、照明や色彩設計はいかにも人工的。多分ナメられたくないんだろうな。「映画を肯定すること」よりも「テレビを否定すること」で映画たり得てしまった画面の無機的な冷たさ。好きになれない。

しかし、本作を撮るうえでバームバックが意識したのは『仮面/ペルソナ』(66年)を始めとしたイングマール・ベルイマンの諸作品で、コダックの35mmフィルムとヨーロッパビスタ(1.66:1のアスペクト比)が採用されてます。フィルムとLED照明の相性がとてもよく、従来のNetflix映画のツルツルしたテクスチャーに抗い、より自然な発色に近づけてたわ。

f:id:hukadume7272:20200312064500j:plainそれでもNetflix作品だと一目で分かる画面。

 

◆『レッツ・ダンス』だよ馬鹿!◆

さて映画の内容だが、夫のアダム・ドライバーはニューヨークで前衛劇団の舞台監督をしており、妻スカーレット・ヨハンソンはその旗揚げを手伝うためにロサンゼルスから移ってきた女優である。決して売れっ子ではないが、アダムの作った演劇をスカーレットが演じることで夫婦生活もうまくいっていたし、二人の間にうまれた息子も可愛かった。

ファーストシーンでは、そんな二人が互いの長所を愛おしそうに挙げるボイスオーバーをバックに幸福だった頃の結婚生活が素描されていくが、実はこのボイスオーバーは離婚を踏みとどまらせるために調停委員が二人に書かせた互いへの手紙だった。

で、手紙を読んでくれという頼みを拒否したスカーレットが「男同士でしゃぶり合ってな!」と捨て台詞を吐いてアダムと調停委員の前から立ち去ってしまったことで、両者はいよいよ離婚に向けて動きだすことになる。これまで通り夫婦二人三脚で息子の世話をしながらも、それぞれに弁護士を立てた二人は血で血を洗う泥沼離婚裁判に備えるのだった!

この話のポイントは、ボイスオーバーで朗読された手紙の内容が観客だけに耳打ちされた情報だということ。そして、先に離婚を切りだしたスカーレットは手紙の朗読を拒否しながらも一応書きはしたという事実だ。つまりこの時点では、まだスカーレットの中に(搾りカスみたいな量だとしても)愛が残っていたし、アダムと仲直りする余地も(小さじ一杯の可能性だとしても)残っていた…というわけだ。

 

スカーレットが雇った弁護士は離婚調停界の武則天ことローラ・ダーン

依頼人に寄りそう気持ちなど微塵もなく、自分の評判を上げることしか頭にない蛇のような女で、話を大袈裟にしたり芝居がかったパフォーマンスを弄してアダムを貶めようとする。

派手な身なりがいかにも胡散臭く、苦しみを吐露するスカーレットに「あ~ん、わかるわァ~」などと上っ面だけのくそったれ理解を示して観客の不信感を買ったミソッカス女だ。ローラ・ダーンはこの激イラ若作りババアの役でアカデミー賞助演女優賞を初ゲットしている!

一方のアダムは、離婚調停界のターミネーターことレイ・リオッタを雇う。

リオッタは相手の言葉尻を捉えてはサメのように食らい付き、相手が「マイッタ」と言うまでリオッタする剛腕弁護士で、商売敵のローラをして「かなりウザッタな相手」と言わしめた。

見た目がモロにやくざである。レイ・リオッタと言えば『グッドフェローズ』(90年)で麻薬密売に手を出したヤクザを演じ、『不法侵入』(92年)では不法侵入するヤクザを演じるなど、どちらかと言えば弁護される側の俳優だが、本作では強面の離婚弁護士をハイボルテージで熱演シオッタ。

f:id:hukadume7272:20200312063651j:plain対立する両弁護士、ローラ・ダーンとレイ・リオッタ。

 

離婚など本来は「夫婦の問題」だが、裁判が始まると「弁護士の問題」に変わる。当事者を差し置いて弁護士たちの空中戦が激化するのだ。

スカーレットはなるべく円満に別れたいと思っており、アダムの方も離婚後は善き友人としての関係を築こうとしている。ファーストシーンの手紙で互いの長所を楽しそうに挙げていたように、決してこの二人は憎しみ合って離婚するわけではないのだ。

しかし、酒を飲みすぎて階段から足を踏み外したスカーレットをアダムが咄嗟に支えてやった…というハートフルな一幕も、リオッタの手に掛かればたちまち離婚裁判の攻撃材料となり「酒に依存した女に育児は任せられない!」となる。ローラも負けじと「アダムはチャイルドシートも満足に設置できない。育児に不適格なのはどちらかしら?」と舌鋒鋭くリオッタ軍を攻める。

弁護士たちが容赦なく牙を向けあう横で気まずそうな表情を浮かべていたアダムとスカーレットの居た堪れなさたるや。内心では互いが自分の弁護士に「もうやめたげてよぉぉぉぉ」と思っているのだ。

傷つけ合うために別れるわけじゃないのに、自分たちが雇った弁護士によって自分たちの心の傷口に塩を塗り込まれる…という離婚裁判のおぞましさがよく描かれてたわ。

f:id:hukadume7272:20200312063821j:plain気まずそうな夫婦。

 

裁判によって互いを思いやる術を知った二人だが、それでも一度すれ違った心は二度と出会わない。

ハロウィンの夜に息子をアダムに譲りに来たスカーレットはデヴィッド・ボウイのコスプレに身を包んでいる。橙色のジャケット、斑点のネクタイ、掻きあげたパーマ。ここで大体の観客が「あぁ、レッツ・ダンスね」と思う。

だが彼女に一瞥くれたアダムは「お、デヴィッド・ボウイ? 『ステイション・トゥ・ステイション』?」などとバカなことを言ってしまう。スカーレットは溜息をついて「『レッツ・ダンス』よ…」と言った。

おそらく彼女はボウイの熱心なファンで、仲のよかった頃はボウイの魅力を楽しそうにアダムに説き、息子を寝かしつけたあとに間接照明だけのリビングで白ワインでも飲みながら一緒に『レッツ・ダンス』を聴いていたのだろう(踊りもしたはずだ)。

だが、今の夫は『レッツ・ダンス』の頃のボウイに扮した妻を見て『ステイション・トゥ・ステイション』などと信じられない誤答をしてしまう。私はこの何気ないやり取りを見たときに「あ、この夫婦は修復不可能だ」と確信した。もはやアダムには妻が見えていないんだ! 現にこのシーンのアダムは透明人間の仮装をしている。スカーレットの方も夫が見えていないのだ。

モダン・ラブは潰えてしまったのです!!

「Modern Love」『フランシス・ハ』でも使われた『レッツ・ダンス』のオープニングナンバー。

f:id:hukadume7272:20200312062349j:plain『レッツダンス』の頃のボウイに扮するスカーレット・ヨハンソン(似合うなぁ)。

 

スカーレットが最後の思いやりを見せたラストシーンはとても切ないが、この愛に満ち溢れたシーンに、人は思わず「ええええ。二人は本当に別れなければならないのォー?」と問いかけるだろう。最初にあの手紙を読んでいれば…、あるいは冷静に話し合いを重ねていれば、また違った未来が待っていたかもしれないと。だがダンスの時は終わったのだ。

最後までボウイを流さなかったバームバックはやはり信頼に足る作家だと思う。ただしラストシーンではスカーレットと息子に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の頃のビートルズの仮装をさせてもいる。

音楽の直接的引用を避ける手段として「いっそ視覚化してしまう」という荒業に笑いながらも、エンドロールは少し切なく、心地よく。

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『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の頃のビートルズに扮する母子。スカーレットはジョン、息子はリンゴ。


ローラ・ダーンがダーンする映画

最後にチャッと批評をしてパッと終わりたい。

いい映画だったですよ。いい映画だったですけど……ん゛ーッ!

ん゛ーッ!!

スカーレットがアダムの髪を切ってあげるシーンの反復や二人の顔のディゾルブなど、そこかしこで小技の利いた映画ではあるが、全体的には技巧を排したウディ・アレン的な作りにおさまっている。

それゆえに136分を耐えうる画面の強度にはちょっぴり乏しく「ストーリーに入り込む」という無用な作業を強いられもするし、入り込んだストーリーの中では大声で罵り合うスカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーの“迫真の演技”とやらが『叫びとささやき』(73年)を意識したような殺風景な部屋の中で10分以上に渡っておこなわれるさまをやり過ごさねばならない。事あるごとにスカーレットが流す大粒の涙も正直しんどい。ぽろぽろ泣かないでよ。

 

しかし、離婚手続きを通して描かれるマリッジ・ストーリー(結婚の物語)という逆説はクリアに描き出されていて「へぇー」という感嘆詞に値すると思った。

なんだろね、うーん、多分あまり興味ないんだと思う、この映画に。俺は。

主舞台となるNYとロスの対比が「仕事に生きるアダム」と「家庭を大事にするスカーレット」の構図にオーバーラップしている…といった初歩的なテクニックを褒めたところでこの映画を肯定することにはならないし、夫婦の危機を扱った映画としても『クレイマー、クレイマー』(79年)はもとより、それこそNYインディーズの旗手ジョン・カサヴェテスの『フェイシズ』(68年)『こわれゆく女』(74年)のような一級の映画が既にあるわけで。

だもんで私の興味は、これらの作品群と差別化するために装填されたローラ・ダーンに集中してしまうんである。

映画終盤でスカーレットは親権争いに勝つが、弁護士のローラは親権割合(別れた両親が息子と会う頻度)を50:50にしたいという彼女の意思を無視して55:45にしてしまう。法曹界の仲間に「引き分けに持ち込まれた」と思われたくないからだ。

依頼人の人生よりも自分の評判を優先する悪辣な身振りには吐き気すら催すが、「差はつけたくないの」と言う彼女に「2週間に1回息子と多く会えるのよ。人生楽しんじゃって!」と笑顔で返して風のように去っていく姿には逆に清々しいものがある。

結局ローラ・ダーンがダーンする映画だった(レイ・リオッタもリオッタしてた)

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そしてこのドヤ顔。

 

 Netflix映画「マリッジ・ストーリー」