シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ブリムストーン

ダコタんがずっと悲惨な目に遭う映画(つらみ)。

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2016年。マルティン・コールホーベン監督。ダコタ・ファニング、ガイ・ピアース、カリス・ファン・ハウテン。

 

小さな村で助産師として働く女性リズ。年の離れた夫や2人の子どもたちと幸せに暮らしていたが、ある事情から言葉を発することができずにいた。そんなある日、鋼のような肉体と信仰心を持つ牧師の男が村にやって来る。牧師から「汝の罪を罰しなければならない」と告げられたリズは、脳裏に壮絶な過去をよみがえらせ、家族に危険が迫っていることを伝えるが…。(映画.comより)

 

こんばんは、と挨拶するのは初めてでしょうか。いつも朝にアップしてますからね。今回は初の夜更新です。新鮮味。

それはそうと、ふと私が夜空を見上げたとき、なぜかいつも満月な気がする。たまたま私が満月の日に夜空を見上げているだけなのか、それとも月が私に合わせて無理やり満月になってくれているのか。

さすがに見飽きたので、近ごろは夜空を見上げる前に「今日こそ欠けてろ、今日こそ欠けてろ」と念じるんだけど、パッと見上げるとやっぱり満月ー。そんなわけで満月にうんざりしています。

あと、お月見の意味が根本的にわからない。花見も大概だが、月見の意味のわからなさは一頭地を抜いてると思う。以前、ニュース映像か何かで月見をしている人たちの様子を目にしたことがあるが、ほとんど月を見てなかった。だったら何なんだ、この行為。「月を見る」と書いて月見なのに、ずっと隣の人の方を向いてお喋りしたり、酒飲んで寝たり、中には俯いてスマホを触ってる人民もいた(夜空を見上げてこその月見なのに下向いちゃってるよ)

畢竟、月見という名のただの月光浴でした。花見も然りで、ただの野外宴会である。

私はこうした季節行事や風習が好きではありません。なにか大事なものがすり替えられてる気がして。今年のハロウィンはどうなるのでしょうね。逮捕者が何人出るのか、今から楽しみです♪

そんなわけで本日は『ブリムストーン』以前『シネ刀』にも遊びにきてくれたダコタ・ファニングの主演作だよ。

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◆無駄大作のニューウェイブ◆

「無駄大作」という言葉をたったいま作った。

この言葉は分不相応にも無駄に大作化された作品のことを指す。いま決めた。

物語のスケール、セットや視覚効果、上映時間などが無駄に大作仕様になっていて、映画がその器に収まらずダルーンと間延びしているような作品のことだ。大作であることを持て余した大作、とでも言えばいいだろうか。

そうした作品は、なんというか、一人暮らしなのに3LDKの部屋を借りてみたり、ちょっと梅田まで遊びに行くだけなのにボストンバッグを持ち歩くことのアホらしさを私に思わせる。「そんなに要るけ?」ということである。わかるか。

 

そんな無駄大作のニューウェイブが『ブリムストーン』だ。 

どういう中身かというと、悪徳神父のガイ・ピアースから何十年もいたぶられ続けた村の助産師ダコタ・ファニングが思いきって仕返しを決意する…といったリベンジムービーである。まぁ、「よくある話じゃん」って感じだよね。

ところで、この映画の上映時間って何分だと思いますか。90分? 100分? 120分? なんと我々の予想を遥かに上回っての148分。早くも無駄大作の香りが仄かに漂っております。はっきり言って首元ダルダルのシャツみたいに締まりのない映画です。

物語は章仕立てになっていて全4章から構成されている。無駄大作の名手ラース・フォン・トリアーを思わせる身振り。しかもなぜか各章の時間軸がバラバラなのである。無駄の畳み掛けがすげえ。

物語の舞台は西部開拓時代のアメリカなので一応カテゴリーとしては西部劇になるわけだが、実はこの作品はアメリカ映画ではない。本作はオランダ、フランス、ドイツ、ベルギー、スウェーデン、イギリス、アメリカの7ヶ国合作映画であり、なぜか世界各国でロケをおこなったキング・オブ・無駄大作なのだ。

…なんのこっちゃさっぱりである。世界各国でロケをおこなった「西部劇」? はぁ?

さすが無駄大作のニューウェイブ。無駄なだけでなく意味すら不明という多重構造にもんどりを打ちながらの祝福。

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ガイ・ピアースとダコタ・ファニング。

 

◆長き受難の道◆

映画は「第1章 啓示」と告げたのち、年の離れた夫や2人のキッズたちと慎ましく暮らしている発話障害者のダコタんの村にピアース神父が訪れるシーンに始まる。

ピアース神父は村人たちを言葉巧みに扇動してダコタんファミリーを孤立させ、自らの手で彼女の夫を刺殺して家を燃やした。なんでそんなことすん…。恐怖したダコタんは子供たちを馬車に乗せて無事に逃げおおせました。

ここで第1章が終わってスクリーンが暗転する。

 

「状況不明」と私は呟いた。すべてが唐突で、話がまったく見えてこない。だがそれゆえに興味を掻き立てる。なかなかイカした第1章だと思った。

ピアース神父は何者で、なぜダコタんを虐めるのか。こんなにも可憐なダコタんを。

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残酷非道の暴君・ピアース神父。

 

「第2章 脱出」はこういう話だ。

荒野で行き倒れていたところを中国人家族に拾われて娼館に売り飛ばされた「ある女」は、やがて純潔を捨てて身体を売るようになる。

ある日、女の前にピアース神父が現れて「ようやく見つけたぞ」と言い、彼女を鞭でシバき回した。するとそこへ同じ娼婦の友人が現れて神父を止めに入り、揉み合ううちに二人は刺し違えてしまう。

娼館を脱出した女は死んだ友人になりすましてその後の人生を送ることになる。その友人は娼館の極道オーナーに舌を切除されていたので、女も自らの舌を切り落とし、遠く離れた地で年上の男性と結婚して子をもうけた…。

 

すでに皆さんお気づきの通り「女」とはダコタんのことである。つまりこの章では第1章から遡ってダコタんの過去が描かれているわけだ。と同時に、ある矛盾に気付かないだろうか。

ダコタんの友人と刺し違えたはずのピアース神父がなぜ第1章に登場しているのか。

死んだのではなかったか。たしかに神父は娼館の一室で喉を掻っ切られた。あまつさえその直後にダコタんは娼館に火をつけて全焼させたのである(友人になりすます為に彼女の死体を抹消した)。もっとも、章題から察するに本作はキリストの受難を西部劇に置き換えているようなので、ことによるとピアース神父は悪魔の類なのかもしれないが、だとしたら宗教的メタファーを巧みに配置すべきだろう。

それにダコタんが友人になりすます意味もよく分からんのだが。もうピアース神父から逃げ回る必要もなくなったわけだし(少なくともこの時点では死んだ事になっているので)。まったく無駄な筋書きである。これだから無駄大作はやめられねえ!

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娼婦に身を堕とす若き日のダコタん。

 

やべぇ、そろそろ書くことに疲れてきたが「第3章 起源」について書こう。

「ある少女」のパパンは聖職者として村人たちから慕われていたが、セックスを拒否するママンを「神は我々のセックスを望んでおられるのに!」と叫んで鞭でシバき回すようなサイコ野郎であった。そう、ピアース神父だ。イカれたパパンに毎日怯えていた少女にとって唯一心安らげる場所は手負いの心優しいガンマンを匿った豚小屋。少女はガンマンに恋をしていた。彼とお喋りしているときだけはパパンの恐怖を忘れることができた。豚小屋の臭さも忘れることができた。

だが最悪の出来事が起きる。反抗的なママンに情欲を抱かなくなったパパンはついに自分の娘に手を出そうとしたのだ。パパンは悲憤に狂うママンを教会に集った村人たちの前で折檻し、その屈辱と絶望に耐えかねたママンは首吊り自殺した。パパンに犯されそうになった少女を救おうと現れた豚小屋ガンマンもパパンに殺害された。そして少女は実のパパンにレイプされる…。

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ピアース神父に虐げられるママン役カリス・ファン・ハウテン(実生活ではガイ・ピアースの妻!)。

 

もうお気づきか。「少女」とはダコタんのことである。つまりこの章では第2章からさらに遡ってダコタんの過去が描かれている。この構成うぜぇ!

「第3章 起源」と題にあるように、すべての起源、発端、創世記が描かれたシーケンスであるが、画面の動態に乏しいため大いに退屈した。参っちゃった。

とかく起源を描いたパートは退屈に陥りやすい。それは宿命なのだ。昨今のMCU系のアメコミ映画でも主人公がヒーローに目覚めるまでの最初の40分は退屈。ましてやそこで描かれているのが主人公=ダコタんのバックボーンともなれば猶更である(だから通常、キャラクターのバックボーンは説明台詞や短いフラッシュバックでサラッと語られる)。

しかもこの物語は時間軸を逆行していくため、本来であればクライマックスに当たるポイントにこの退屈極まりない第3章が配置されている。まったくのナンセンスだ。

ちなみに「第3章 起源」に突入するのは本編が始まってから正確に79分の時点である(この映画のランタイムは148分なので上映時間の半分以上が過ぎた時点)。本作のような商業映画では「さぁ、いよいよ話が動き出したぞ」というタイミングなのだ。一番盛り上がるタイミングなのだ。

そんなタイミングで今さら「起源」なんか描くなよ!

どうしても「起源」をぶっ込むというのなら穏当に第1章、もしくは奇を衒って第4章でしょうが。なんで一番盛り上がるタイミングで一番盛り下がる章をぶっ込んだのよ。

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ピアース神父「神えらい! 神すごい! 神えぐい! 神ナウい!」

アツい説教かまして村人から信頼されるピアース神父。

 

すべての気力を使い果たしての「第4章 報復」である。ここでは「第1章 啓示」の続きが描かれている。

夫を殺されて村から逃げ出したダコタんは追跡してくるピアース神父を雪山で迎え撃つ。神父は彼女の息子(夫の連れ子)をライフルで射殺し、ダコタんを木に縛りつけ、幼い娘を鞭でシバき回したが、怒り狂ったダコタんは両腕の間接をゴキゴキ外して腕の縄を解き、至近距離から散弾銃を浴びせてピアース神父への報復を成し遂げた。撃たれた神父は「あひゃーん」と言いながら5メートル後方に吹っ飛んで絶命されました。

それから数年後。ダコタんは立派に成長した娘と平穏に暮らしていたが、そこへ保安官がやってきてダコタんを取り押さえた。保安官は「数年前にある娼婦が客の喉を掻っ切った」と言う。

そう、ダコタんは「舌のない友人」になりすました代償として彼女の罪を引っ被るはめになったのだ。しかもその友人は神父を止めに入る前に娼館のオーナーを刺殺してもいた。舌を切り落とした憎きオーナーを。

ダコタんはその友人になりすますべく自らの舌を切り落としたが為に犯人とみなされ、イカダに乗せられて連行された。弁明しようにも言葉は話せない。手足には鉄の重り。保安官とともに川を渡る母を不思議そうに見つめる娘。そんな娘への愛を心のなかで静かに語ったダコタんは自ら川に身を投げた。神父に大事な人たちを大勢奪われたが、娘だけは守った。川底に沈みゆく彼女はかすかに笑みを湛えていた。

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娘を守るために銃を手に取るダコタん。

 

◆ガイと蛸田(二人は好対照)◆

時系列に沿って話をまとめると3章→2章→1章→4章の順になるが、このイレギュラーなプロットの功罪は大きい。

先に指摘したように「第1章 起源」の配置を誤ったことでかなりチグハグな構成になったのが無念千万ではあるが、どうもそれだけで唾棄するには少しく惜しい。いきなり物語のクライマックスから始まって過去へ遡っていく…というフックの効いた構成自体はよくある手法だが、いわば「ある一族の大河ドラマ」とも言える内容でこれをやるというのはなかなかの実験精神なのであります。しかも効果覿面。そうなんす、この映画、最初の2章までは滅法おもしろいんす。

言葉を話せないことで夫に危機を伝えられずに焦燥するダコタんの「コミュニケーションの断絶」と、その断絶を利用して彼女を孤立させ追い詰めていくピアース神父の邪悪な立ち回り。そうした二者の対立構造が「村社会」という冷たい繭のなかで描かれていく。古き因習、信仰心、大衆心理。村人たちを巧みに操るピアース神父は狼というより狼使い。真に恐ろしいのはピアース神父の言葉を信じて疑わない村人たちだ。信仰とはすなわち思考停止である。この恐ろしさ!

 

それにしてもピアース神父の行動原理がまったくの意味不明であった。

ダコタんへの執着心の根底にあるものが何かしら提示されていればよかったのだけど、神がドータラとさんざんゴタクを並べた挙句「結局、私が神なんだよね」なんてことをおっしゃる。ゴタクの着地点がすごい。結局のところ、この男は神父という立場を利用して自分の性欲を満たそうとする変態サドおじさんなのだが、ガイ・ピアースがやたら異形感たっぷりに演じたことで却って分かりづらいキャラクターになってしまっていて。ガイってこういう失敗をよくやからす俳優なんす。

そんな芝居の組立てをちょいちょい間違えるガイ・ピアースと好対照なのが今回もバキバキに作り込んできたダコタ・ファニング。

優しき母としての顔と、かつて娼婦だったときの顔。現代パートでは台詞なし。壮絶な暴力に屈した彼女が武器を手にするまでの内面的変化…。かなりの難役だったと思うが、そこはやはりダコタ、逆から読めば蛸田、天賦の技巧を駆使して立体的なお芝居を展開しておられます。

さすが蛸田ファニング。いつになったら妹エルたんと共演してくれるのでしょうか(二人がずっと凧揚げしてる映画を希望)

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今回もすばらしい芝居を見せた蛸田ファニング。