シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

群衆

新聞など読まなくても世の中がおかしいことぐらい分かっとる!

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1941年。フランク・キャプラ監督。ゲイリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック、ウォルター・ブレナン。

 

解雇されそうになった女性記者アンは、ジョン・ドゥーという人物が社会抗議のために自殺しようとしているという内容の記事をでっちあげる。大反響を呼んだその記事を利用して発行部数を伸ばすため、オーディションで選ばれた元野球選手の男がドーを演じることに。一躍時の人となった彼は、民衆の偶像として祭り上げられるが…。(映画.comより)

 

野菜スティックを作りすぎて大量に余らせてしまったので欲しい人がいたら抽選であげてもいいと思っている俺です(ふかづめ特製ソース付き)。どうもおはよう。

昨日は野菜スティックをずっと齧ってました。「今日食べた野菜スティックをタテに繋げたら全高何メートルになるのかな」と楽しい想像に花を咲かせて、そのあと「タカが知れてるな」つって花を踏みにじりました。

というわけで、この世の半可通、不肖ふかづめがお送りしています、オールド・キャンペーン、第7弾は『群衆』

「評を読んで興味沸いたけど観る術ねえわ」という好奇心旺盛のくせに怠惰な連中のために、今後はなるべく動画配信サービスにも上がってる映画を優先的に取り上げていこうと思う(前回の『駅馬車』もAmazonプライムビデオに上がってるようだ)。

「ていうかオールド・キャンペーンいつまで続くの?」という質問もあるかと思いますが、どうだろうなぁ、ずっと続くかもしれない。でも最近あれ観たわ。『半世界』(19年)とか。そういうのも端々に噛ませつつ、まあいい加減にやっていきます。

あ。いい加減って「でたらめ」とか「投げやり」という意味ではなく、書いて字のごとく好い加減、つまり「適度」、「程よい」という意味で言っているのだからね。「いい加減な奴」という揶揄はむしろ誉め言葉。

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◆大衆心理こわいわーって映画◆

未だフランク・キャプラへの評価を定められずにいる。いる。いる。いい監督という気もするし、大した監督ではないという気もするのだ。

最初に観たのは『或る夜の出来事』(34年)で、これは大変なお気に入りです。ヒッチハイクに失敗するクラーク・ゲーブルを見かねて「さあ、私の番ね!」と息巻いたクローデット・コルベールが生足をちらりと見せて車を止める有名なシーンや、不仲だった二人が「ジェリコの壁」を取り払うラストなんてシーンで見せる映画の教科書的な作品だと思うし、実際おおいに心を動かされもした。

だがその後『素晴らしき哉、人生!』(46年)『スミス都へ行く』(39年)と観ていくうち、私のなかでキャプラに対する敬意のようなものがありありと鈍化していくのが感じられたのである。

アメリカ人は『素晴らしき哉、人生!』をやたらに有難がって毎年クリスマスに観ているようだし、日本においても誰が押したか「不朽の名作」の太鼓判効果で無前提的に称賛されているが、なるほどキャプラ作品の多くは「好い話」ではある。だが「好い話」であることと「良い映画」であることの間にはいささかの相関性もありはしないので、私はこの名匠のことを「美談監督」と呼ぶことにしたわけだが、かつてこれを連呼していたところ某キャプラ好きに怒られてしまったので、反省に反省を重ねた私は、もう金輪際「美談監督」とは呼ぶまいと心に誓った。

 

さて、そんな美談監督が1941年に手掛けた『群衆』は社会派ロマンスの決定版である。

ある州の新聞社が政財界の大物に買収されたことで新編集長は断腸の思いで人員整理をおこなう。解雇を言い渡されたコラムニストのバーバラ・スタンウィックは、ヤケを起こしてデタラメの投書記事を書き殴り会社を飛び出した。

州の悪政のために私は失業した。この嫌悪すべき世界に抗議するため、クリスマス・イヴの晩に市庁舎から飛び降り自殺をする

差出人 ジョン・ドゥー

この記事は大反響を呼び、新聞は飛ぶように売れた。編集長が慌ててバーバラを呼び戻すと、記事がでっち上げだと告白した彼女は「私を復職させてくれたら毎日記事をでっち上げるわよ!」と持ちかけて見事復職。やりィ~。

さらなる発行部数を夢見て手を組んだバーバラと編集長は、失業者を集めてジョン・ドゥーに仕立て上げる人物を選抜し、その中から大衆人気が見込めそうなナリをしたゲイリー・クーパーを抜擢した。彼は元野球選手で、現在は乞食仲間のウォルター・ブレナンとともにホーボーをしている。

かくしてクーパーはジョン・ドゥーなる架空の男を演じ、バーバラは世を憂い世相を斬る記事をでっち上げるのであった。

本作のおもしろさは、世を嘆いて自殺するつもり(という設定)のジョン・ドゥーに共感した一般大衆が、瞬く間にこの架空の男を「貧困層のヒーロー」として祭り上げていく大衆心理である。それを演じるクーパーは街の人気者となり、バーバラが代筆したラジオ演説では全国民がクーパーの声に酔い痴れ「ヨッ、庶民の代弁者!」と掛け声を発する。まさにジョン・ドゥー神話。バーバラの新聞社は爆発的に売上を伸ばし、人々から尊敬を集めたクーパーも鼻高々のご様子。

だがこの時、ジョン・ドゥー神話の恐ろしさに気付いていたのはクーパーの親友ウォルター・ブレナンだけだった…。

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結託するバーバラと編集長。

 

そんなわけで、この物語の主人公はバーバラでもクーパーでもない。二人に踊らされる『群衆』である。

ぺらぺらのニュースーペーパー1枚で簡単に扇動される群衆は、やがて二人が政財界の大物に盾突いたことでジョン・ドゥーがでっち上げだと暴露されたとき、クーパーに罵詈雑言を浴びせかけ「予告通り自殺しろ!」とヤジを飛ばすのだ。

クーパーが演説する大雨のクライマックスでは、黒い傘とレインコートに身を包んだ群衆が狂った死神のように集団ヒステリーを起こす。故意にマイクのコードが切断されて謝罪もできぬまま壇上から引きずり降ろされたクーパーに石を投げつける群衆は死神よりも恐ろしい。死神は石を投げつけたりしないからね。

 

まぁ、元はと言えばこの二人の悪事に端を発した騒動だが、当初チャランポランだったクーパーは次第に自らが演じるジョン・ドゥーの精神に感化されていき、その精神を作り上げたバーバラも貧困や差別に立ち向かう心を手にしてジョン・ドゥー越しにクーパーのことを愛するようになる。

自分たちがでっち上げたジョン・ドゥーによって自分たち自身が変わってゆくのだ。

この人間描写の深さこそがキャプラだというのかー。まじかー。

群衆から猛批判を浴びたクーパーはバーバラの前から姿をくらまし、クリスマスの夜に市庁舎から飛び降り自殺しようとする。かつて自分が演じたジョン・ドゥーの設定と同じように。その行動を読んでいたバーバラは市庁舎に先回りしていたが、果たして聖夜の奇跡は起きるのだろか…。

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バーバラがジョン・ドゥーのフリをして書いた原稿を、クーパーがジョン・ドゥーのフリをして読む。二人一役のジョン・ドゥー。アイドゥ。

 

◆俺たちみんなメディアの奴隷◆

ジョン・ドゥーというのはアメリカ版の「名無しの権兵衛」や「山田太郎」みたいなもので、名前のわからない人(誰でもない人)を指した仮名である。

女性の場合はジェーン・ドゥーと呼ばれる。

誰でもないジョン・ドゥーが群衆の心を動かし、「隣人を愛せ」とか「やさしみを忘れるな」といった健全な精神で国民の意識を変えていくさまは実に感動的だが、その一方で少しゾッとしてしまう。この程度の自作自演を信じ込んでまんまと啓発される群衆の底の浅さ。ジョン・ドゥーなどいないと知った途端に「やさしみを忘れるな」という教えをさっそく忘れてクーパーに罵倒を浴びせる凶暴さ。

何より恐ろしいのは、広く大衆というものを見下しながら生きている私自身も大衆の一人に過ぎないわけで、知らず知らずのうちにジョン・ドゥー的メッセージを刷り込まれたり印象操作を受けていることである。特に今の時代なんて一歩外に出れば視界に入るすべてのものがメディアだからな。広告、看板、ビラ、モニター。すべてがメッセージを発している。やめろ。おれに余計な情報をすりこむな。頭がイカれそうだぜ。

 

では『群衆』は暗澹たる映画なのかといえば断じてノンである。

第一幕はでっち上げコメディ、第二幕はバーバラ&クーパーのバディムービー、第三幕はいじらしのロォマンスなど、お楽しみポイントが盛り沢山。とりわけ、バーバラとクーパーが二人三脚で命を吹き込んだジョン・ドゥーが二人の心をひとつにする…という粋な作劇が見事だった。

奥手のクーパーは、彼女が惚れているのは自分ではなくジョン・ドゥーなのだと決めつけて勝手に苦悩する。そして爽やかな微笑とともに「自分がジョン・ドゥーを超える男になればいいだけじゃないか」という結論に辿り着く(勝手に)。この単純さはひとまず愛でておくべきだと思う。

惜しむらくはバーバラの心理が全くの謎で、あまつさえクーパーに惚れたきっかけも濁されているので、いささか精彩を欠いた人物像におさまっている。他の作品でも感じたが…キャプラは女性を描くことに関心がないのだろうか?

その補償としてウォルター・ブレナンがやけに活き活きしていた。ブレナンは新聞社に懐柔されそうなクーパーに「金の亡者どもに食い散らかされるぞ!」と警告を発し続ける親友役で、「一部どう?」とすすめられた新聞をはたき落とし「新聞など読まなくても世の中がおかしいことぐらい分かっとる!」と叫んだ一言が最高にロックしてた。いいセリフだ。

 

それではここで役者紹介のコーナーです。

ゲイリー・クーパーは20~50年代にかけて大活躍したドル箱スターだが、いわゆる「日本人ウケのいいクラシック映画」を代表作に持たないので、同世代のクラーク・ゲーブル『風と共に去りぬ』、ケーリー・グラント『北北西に進路を取れ』、ジェームズ・ステュアート『素晴らしき哉、人生!』に比べると認知度はやや落ちる(それでも大スターなのだが)。

しかしこの三者に引けを取らないほどの色男で、パラマウントの社長をして「この男はうしろ向きに立っているだけで女性ファンの心をつかむ」と言わしめたナイスガイだが、よく考えるとこの言葉は少しおかしい。もとよりファンならすでに心を掴まれているからだ。パラマウントの社長はアホなのだろうか。

そんなクーパーの代表作は『オペラハット』(36年)『誰が為に鐘は鳴る』(43年)『真昼の決闘』(52年)など。よろしくお願いします。

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「クーパーと言えばランキング」においてブラッドリー・クーパーを押さえ堂々の2位に輝いたゲイリー・クーパー(1位はミニクーパー)。

 

そして無冠の女王バーバラ・スタンウィック。

大女優キャサリン・ヘップバーンに優らずとも劣らない元気印のチャキチャキ娘をどうかよろしく。スクリューボール・コメディのイメージが強いが、ギャング映画でスンとした顔をしたり、物騒なサスペンスでファム・ファタールを演じるなど芝居の引き出しが無限にあり、いつまで経っても一向に人気が落ちなかった好感度1等賞女優である。

スクリーンでは屈託のない笑顔を所構わずまき散らすバーバラだが、その生い立ちは実に不憫。4歳のときに自動車事故でママンを亡くし、その葬儀の2週間後にパパンが仕事に行ったきり帰ってこず孤児と化す。だが、そこから這い上がってブロードウェイの主演を射止め、ハリウッド入りしてキャプラに拾われトップスターになったのだ。孤児からトップスターになれるのが当時のハリウッド。一発逆転のアメリカン・ドリームってやつだな。

代表作は『レディ・イヴ』(41年)『教授と美女』(41年)『深夜の告白』(44年)

そうそう、『教授と美女』もクーパー&バーバラの共演作なんだよね。

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「バーバラと言えばランキング」ではドラクエのバーバラに敗れて2位に甘んじたバーバラ・スタンウィック。ドラクエはしゃーない。

 

そして忘れちゃいけねえ、『高齢俳優十選』にも食い込んだ歯抜け俳優の草分け的存在ウォルター・ブレナン。

西部劇の撮影中、駄馬に顔面を蹴られて歯のほとんどを失い絶望の淵に叩き落されたが「歯がないのが逆にいい」と評されオファー殺到。歯と引き換えに名脇役としての地位を確立した口の中真っ黒俳優の第一人者と言えちゃいます。

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「ウォルターと言えばランキング」では堂々の圏外を記録したウォルター・ブレナン

 

◆スクリューボール・コメディとホークス的女性像◆

物語自体はスクリューボール・コメディではないが、本作のバーバラ・スタンウィックは「ホークス的女性像」に当てはまる。

「なんのこっちゃい」と思われてはかなんので一応説明しておくと、スクリューボール・コメディとは30~40年代に流行ったロマンティック・コメディの一種で、軽妙な会話、突飛な展開、破天荒な登場人物などが特徴のドタバタ恋愛劇のこと。ひとまず『うる星やつら』を想像してもらえればいい。

一方「ホークス的女性像」というのは私がテキトーかました造語ではなく、れっきとした映画理論用語である。この言葉はハワード・ホークス作品に共通する逞しいヒロイン像を指し、たとえば『脱出』(44年)のローレン・バコール、『赤ちゃん教育』(38年)のキャサリン・ヘップバーン、『教授と美女』のバーバラなどがその筆頭。あとラムちゃんも。彼女たちは女性の性役割を超えた奔放さと野性味を持ち、口八丁手八丁で男性キャラクターを圧倒する(現代女優の中で当てはまるのはサンドラ・ブロックとキャメロン・ディアスか)。

スクリューボール・コメディとホークス的女性像の蜜月は、言うなればラスカルとスターリングみたいなもので、切っても切り離せない関係にある。

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そしてこの二つに欠くべからざる要素こそがユーモアとツンデレ。ときに笑いを誘発し、ときに萌えで誘惑するヒロインパワーなのである。

その点ホークスとワイルダーは一流だったが、さてキャプラはと言うと…どうにも足んねーっ!!

映画冒頭では新聞社が買収されたことで看板の社名が塗り替えられるシーンに始まり、そのあと作業員が編集長室のガラスにカッティングシールを貼る様子が時々インサートされる。このインサートがやけに多く(そして長く)、何の為にこんなショットを…と思っていると、クビを言い渡されたバーバラが編集長室の扉にモノを投げつけて新編集長の名前が貼られたばかりのガラスを割った(買収による方針転換への抗議だ)。

なるほど、なかなか知的なユーモアだが…まだるっこしい!

ここでは簡潔に書いたがこのフリとオチだけで5分以上も要してるからね(たかがギャグ一個に)。ホークスならその間に5つの笑いを放り込んだだろうし、ワイルダーであればより精度の高い笑いを起こしていただろう。

そして萌えの不在。先述した通り、やや精彩を欠いたバーバラは発行部数を伸ばす為だけにでっち上げたジョン・ドゥーに入れ込んでゆくが、やがてクーパーを愛するようになるまでの心境変化を描き損なっている。これじゃあホークス的女性像どころか、男にとって都合のいいマニック・ピクシー・ドリーム・ガール*1じゃん。

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クーパーとバーバラ。

 

あと一点、かなり気になったのは台詞量の多さである。

クーパーのラジオ演説は台本10ページ分ぐらいあり(時間にしておよそ5分)、それを聞いた市民Aが街でクーパーに感謝を述べる台詞が台本12ページ(およそ6分)。これを気にしてか、作り手たちは市民Aに「おっといけねぇ、喋りすぎたかな!」という台詞まで言わせている。

分かってるなら削らんかいボゲッ!

心底うんざりしたのは、クーパーが突然バーバラに向かって「昨夜見た夢の話」を語り出すシーン。台詞量はさほど多いわけではなく台本2ページぐらいだが、たっぷり間を取ってるのでおよそ4分だ。もうええって。

ちなみにクーパーが語った夢の話とは、自分がバーバラの父親になって彼女の結婚式に列席するというハイパーくだらない内容で、これは遠回しに「キミを他の男に渡したくない=ちゅき~!」ということを仄めかしているわけだが、当のバーバラにはうまく伝わっておらず「はぁ…」みたいな顔をされてしまう。ほな何やってん、この4分。メタファーを伝えることに失敗しただけの完全に無為な4分やないか。

このように無為・惰性・単調・空洞きわまりない会話劇という名の「死に時間」への苛立ちは、しかしラストシーンで市庁舎を白く染める雪の演出によって辛うじて鎮められはしたものの、やはり未だフランク・キャプラへの評価は定まらない。

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クリスマス好きすぎ監督キャプラ。

 

*1:マニック・ピクシー・ドリーム・ガール…ある日突然目の前に現れて内気な主人公を明るく奔放な振舞いで翻弄しながらも人生を楽しむことを教えてくれる夢の妖精のような女の子のこと!!! 『あの頃ペニー・レインと』(00年)のケイト・ハドソンや『イエスマン “YES”は人生のパスワード』(08年)のズーイー・デシャネルなど。もちろん『ローマの休日』(53年)のオードリー・ヘップバーンも。