シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

モンパルナスの灯

ジャック・ベッケル考―技法の自覚/無自覚な殺傷。

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1958年。ジャック・ベッケル監督。ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・ヴァンチュラ。

 

1917年の春、モンパルナス。モディリアーニは肺結核に冒され、また麻薬と飲酒の中毒でどん底の生活を送りながら、僅かの知己に支えられ画業に取り組んでいた。ある日彼は、ジャンヌという画学生に街で出会い、激しい恋に落ちたが、彼女の父の反対で二人は引き裂かれ、絶望から彼は昏倒した。画商ズボロフスキーは彼を南仏ニースに静養させ、ジャンヌもそこへ家出して来る。幸福な半年を過ごしてパリに戻った彼を待ち受けていたのは、再びの無理解と屈辱。ついに運ばれた病院で不帰の人に。それを看取った冷酷な画商モレルは待ち構えていたかのように、その傑作の数々を買い叩くのだった。ジャンヌに彼の死を告げず…。(Yahoo!映画より)

 

何かに集中するあまり話しかけても返事してくれない人がイヤです。どうもおはようございます。

相手が集中してる時に話しかけてしまうこっちも悪いけど、どうしても話しかけなきゃいけない時ってあるじゃん。そういうとき、集中しすぎて私の声がぜんぜん届いてないのよね。「あのさ」と言っても無視されてしまうし。

と言って、私の声が届いてないのをいいことに「あっの頃っはー、ふったっりとっもー。ハッ!」などと和田アキ子を歌っていると「うるさい」と言われてしまうのです。聞こえとるやないか。

そういう私は注意散漫なので、周囲の音が聞こえなくなるほど集中力を発揮できた試しがない。映画評を書いてるときも執筆に身が入らず、途中で本を読んだり爪を切ったりジッポの手入れをしてしまう。こないだなんかは書くフリをしながら居眠りをしていた(目が覚めたら画面に訳のわからない文字を刻みまくっていたのだ)。

そういう意味では集中できる人が羨ましくもあるんだけどね~。生まれ変わったらベーシストになりたい。

さて! そろそろ読者諸兄が「まじで古い映画ばっかりいつまで続くの。フォーエバーなの?」と辟易しきった頃合いかと思うので、今回で一旦オールド・キャンペーンは終わります。一旦ね。

というわけで本日は『モンパルナスの灯』です。最後ぐらい硬派に決めるでェ。

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◆序章:ベッケルを語ること◆

ブログなど始めてしまったばかりに映画的筋肉がゲッソゲソに落ちてしまったのでジャック・ベッケルでも観てリハビリに励むことにする。

今やベッケルを語った文章が歓待されるとは思えないが、だからこそ人はベッケルを語らねばならない。こないだ居酒屋で斜め前方の席に座っていた若い女の二人組が『氷菓』(17年)の山崎賢人はよかったワー、交際するにやぶさかではないワー、などとカスみたいな 他愛もない話をしながら変な魚料理を食っていたが、そんな話をする暇があるならベッケルを語れと思う。ただでさえ変な魚料理を食っているのだから、せめて話題ぐらいはもう少しマシなものにするのが人情ではないのか。どんな情操教育を受けてきたんだ。

また、私は各方面の映画ポッドキャスト(インターネットラジオ)のライト以上ヘヴィ以下といった塩梅のリスナーであるが、ベッケルについて語られた放送をついぞ聞いたことがないし、これまで知り合った映画好きの口からベッケルの四文字が発されたこともない。

かくしてベッケルを語る映画的風土は音もなく失われ、人はベッケルを数え漏らしたままフランス映画史を幸福に誤認し続けるのです。どんな情操教育を受けたんだ。

まぁ確かに、もはやカイエ・デュ・シネマの連中によって「語りしろ」を奪い尽くされた作家でありながら、人は今なおベッケル作品に対する感覚の曖昧な鋭化を説明できずにいる。ベッケルを観ることで生じる何らかの感覚や感情に名前をつけられないのだ。谷川俊太郎の『春に』よろしく「この気もちはなんーだろーう! この気もちはなんーだろーう!」と訴え続けても、ただ時間だけが無為に過ぎ去り、やがてバカみたいに朽ち果てるだけだ。「この気もちはなんだろう」と自問自答する暇があるなら、少しでも早くベッケル的感情を規定しうる言葉を探した方がよい。

われわれには変な魚料理を食いながら悠長に山崎賢人を讃えている暇などありはしないのだ。

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山崎賢人を語るまえにベッケルを語るべし。

 

◆エコール・ド・パリ、存在せず◆

さて。エコール・ド・パリの燦爛に浴した夭逝の天才画家アメデオ・モディリアーニの半生を描いた『モンパルナスの灯』には死の匂いがこびりついている。

ジャック・ベッケルは本作の2年後に他界し、主演俳優ジェラール・フィリップは翌年この世を去っている。奇しくもモディリアーニと同じく36年の生涯だった。

だがヒロインのアヌーク・エーメだけは現在もピンピンしており、フェリーニの『甘い生活』(60年)『8 1/2』(63年)のミューズとして、あるいは『男と女』(66年)から53年経った今年『男と女 人生最良の日々』(20年)なるシリーズ3作目で御年87歳の老体をスクリーンに晒し倒した「生ける伝説」として仏映画界の頂点に輝いてはいるものの、本作で彼女が演じたジャンヌという実在した女性画家はモディリアーニの死の2日後に後追い自殺を遂げている。色々死んどるなぁ…。

 

さて、物語はジェラール・フィリップ扮するモディリアーニの自堕落な生活と、美術学校で出会ったアヌーク・エーメ扮するジャンヌとの蜜月を描いてゆく。

この上なくシンプルな内容なので、観る者はただ整然とドラマタイズされゆく画面の連鎖に身をゆだね、時おり発される「水を飲みながら描く絵などたかが知れている」「おれは大勢の中にいるのが好きだ。 孤独になれるから」「人間には教会にないものがある。それを描きたい」といった名言のつるべ打ちに酔い痴れてごく少量のおしっこでもチビっていればよいわけだ。

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フランスの美の貴公子ジェラール・フィリップ(左)、フランスの美の女神アヌーク・エーメ(右)。

 

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アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)の作品。お豆みたいな人物をよく描いた。

 

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実際のモディリアーニ(左)、実際のジャンヌ・エビュテルヌ(右)。ジャンヌはモディリアーニが愛したモデルで、自らも画家だった。

 

本作がおもしろいのは、物語の舞台が1920年代のパリだというのに、都市の相貌が限りなく1930年代のそれに見えることである。ここにはウディ・アレンが『ミッドナイト・イン・パリ』(11年)でいささか美化したような光り輝く狂乱のエコール・ド・パリの姿はなく、モディリアーニが属していた芸術家コミューンのピカソ、ダリ、シャガール、デュシャン、サルトル、ブルトン、コクトー、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドなど錚々たる芸術家・知識人たちへの目配せもない。混乱的なまでの文化栄耀と物質主義に華やぐベル・エポック=怪物的都市パリの輝きは、ベッケルの仕掛けたフィルムによる大恐慌の前に褪色を余儀なくされ、酒と麻薬に溺れるジェラール・フィリップの虚ろな表情の中へと溶かされてしまう。

ベッケルの撮るモンパルナスには、およそ元気と呼べそうな人間はひとりも歩いておらず、バーで踊ったり芸術論を戦わせたりする若者たちの顔にもまるでベル・エポックの終焉を予期しているかのような焦燥感がみなぎっている。つまり1930年代的に1920年代を描いてるわけだ。ベッケルは何故そんなことをしようと思ったのか? 俺が知るかよ。

とにかくフィルムの焦燥感がすさまじい。まるで2年後に死ぬことを予期していたかのようなベッケルの眼差しが空虚なベル・エポックへと注がれているわ。

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『ミッドナイト・イン・パリ』で描かれたベル・エポック(1920年代―パリ狂乱の時代)。

さまざまな画家・小説家・哲学者・文化人(エコール・ド・パリと呼ばれる人々)がモンパルナスやモンマルトルでコミューンを形成。芸術談義に花を咲かせたり乱痴気騒ぎに興じるなどしてボヘミアンのような生活を送っていた。当時のパリは文化/芸術のプラットフォームだったが1929年の大恐慌を受け自然消滅。エコール・ド・パリの面々は各地に散った。

 

それだけに、ジェラールと肉体関係にあるリリー・パルマーのカラッとした人物造形が殊のほか貴重なのである。

ジェラールがエーメに一目惚れしたことで別れを切り出されたリリーは「あの娘にあんたは耐えられない」とだけ忠告して笑顔で別れを受け入れる。リリーは酒と結核に蝕まれたジェラールが自ずから死に向かっていることを知っていたし、いいとこ育ちのエーメが埃臭い生活に身をやつしているジェラールについて行けないであろうことも看破していたのだ。

そして来るべき悲劇を予見していたもう一人の人物がイジワルな画商リノ・ヴァンチュラである。彼はジェラールの才能を認めながらも死後評価されることを見越して寄生虫のようにジェラールに張りつきその死を待ち続ける金の亡者。ジェラールが死んだ後にまとめて絵を買い取るつもりでいる芸術の敵だ。

リリーとヴァンチュラ。この二人にだけジェラールの末路が見えているだけに、なんとかそこに希望を見出そうとするエーメの視点を多分に含んだカメラがこの上なく残酷なのだ。

エーメが感じた幸福度に比例して映画の残酷度が増していくのである。

ジェラール自身も心のどこかでは我が身の破滅を予期している風でもあるし、当然われわれ観客も、過度な飲酒と薬物依存と肺結核で心身ともにボロボロのアメデオ・モディリアーニがジャンヌに結婚を誓った半年後に死んだという史実を知っている。すなわちエーメだけが「物語の結末」を知らず、いずれ状況が好転して全てがよくなるだろうという僅かな希望をその澄んだ瞳に讃え続けるのである。

むご…むごすぎるゥー!

彼女の瞳は、美術学校でモディリアーニと出会い恋に落ちるファーストシーンにおいて最高度の光彩を放つ。デッサン中の二人がモデル役の生徒に目もくれず、それぞれを盗み見合って互いの顔をデッサンする様子がクローズアップによる無言の視線劇だけで語られてゆくのだ。

通常、ロマンスを約束する儀式は「視線の結びつき」であって「視線のすれ違い」ではないはずだが、ベッケルは二人の視線がすれ違えばすれ違うほど(半ば勝手に)愛が壮大化してゆくシステムを、いとも容易く構図=逆構図というカメラのごく単純な運動の中に組み込んでしまう。

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すれ違う視線によるロマンス=サスペンス。

 

◆自覚する技法、無自覚な技法◆

ヌーヴェルヴァーグ前夜のフランスには、ジャン・ルノワール、ルネ・クレール、マルセル・カルネ、ロベール・ブレッソンなどがいたが、ベッケルはこの中で最も見やすい作家かもしれない。

見やすいというのは自覚的な技法が必要以上にスクリーンを騒がせたりしないということだ。

あまねく映画技法は技法を自覚するか否かを選択するところから既に始まっている。技法に自覚的な技法は、より存在的な技法となるので、観る者はその映像技法の大胆さや美しさに酔い「こりゃすごい」と拍手を贈る。その一方で、技法に無自覚な技法はどれだけ凄いことをやってみせても誰にも気づいてもらえない。技法そのものが己が身振りに無自覚なのだから、これは蓋し当然の話といえる。

 

『モンパルナスの灯』には自覚的技法が2つだけ存在する。

ファーストシーンではカフェで男の似顔絵を描いたジェラールが「おれは金のために絵を描いちゃいないのさ」とばかりに報酬を拒んでみせたが、やがて病魔に蝕まれ生活も逼迫したクライマックスでは、これまで描き溜めたデッサンをカフェの客たちに売って回るものの誰からも相手にしてもらえない…という反復技法。これが一つめ。

二つめ、「すぐ戻るわ」と言ってアパルトマンの階段を駆け下りたエーメを「本当に戻ってくるのだろうか…」といった不安げな表情でジェラールが呼び止めるシーンはどうか。やはりクライマックスでは、カフェに絵を売りに行くべく部屋中のデッサンを搔き集め「すぐ戻るよ」と言い残してアパルトマンの階段を駆け下りたジェラールを、今度はエーメが「本当に戻ってくるのかしら…」といった不安げな表情で呼び止めるのだ。

ジェラールがエーメを呼び止める一度目のシーンでは後に二人は再会して結ばれたが、次にエーメがジェラールを呼び止めるシーンではこれが二人の間で交わされた最後の言葉となる。這う這うの体でカフェを出たジェラールが往来で頓死してしまうからだ。

映画的としか言いようのない強度で切り取られた幸福の構図は、ちょうど我々がそのイメージを忘れかけたころに不幸の構図として不意に甦り、急転直下の悲劇へと反転されたのである。

この「技法を自覚した技法」の説話的有効性については、既におおかた定まったであろう本作の評価が雄弁に物語っている。『モンパルナスの灯』を観た人間は、必ずこの2つの演出にハッとさせられる。「恐らく」でも「大体」でもない。「必ず」だ。

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階上から呼び止める2つのシーン。一度目は幸福の始まりを、二度目は不幸の始まりを告げている。

 

では技法に無自覚な技法とは何か。

たとえば、カフェでリリーに別れを告げたジェラールが街頭の花売りから二輪のバラを買い、一輪を別れたばかりのリリーに届けさせ、一輪をエーメに渡そうとするプレイボーイならではの振舞いが、ジェラール・フィリップという絶世の美男子の優雅な身体性によってさり気なく完遂されてしまうフィルムの儚さ。

たとえば、真夜中に酔って帰ってきたジェラールが今にも死にそうな顔でキャンバスに向かうさまをベッドから身を起こして眺め続けるエーメの憂惧とも恐怖とも取れぬ不思議な眼差し。

たとえば、死神のごとくヴァンチュラに付け狙われたジェラールがいよいよ往来でぶっ倒れて息絶える瞬間の映画史上類を見ないズームアウトの禍々しさ。

そうしたフィルムの瞬発性にはベッケルの意図を超えた演出効果が大爆発しており、技法は無自覚に暴走を始める。大袈裟な言い方だが、無自覚な技法はフィルムを、物語を、観る者を殺傷する。ゆえにジャック・ベッケルは危険なシネアストだと思う。近寄らない方がいい。だから誰も語ろうとしないのか? あ、なるほど。

どうやら変な魚料理でも食いながら山崎賢人を讃えていた方がよっぽど平和らしい。あの居酒屋の女たちはすべて悟っていたというのかっ!

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瀕死のジェラールとその死を待つ死神ヴァンチュラ。