ハリウッドとボリウッドを割ったワリウッド映画(オカンのラドゥ入り)。
2012年。ガウリ・シンデー監督。シュリデヴィ、メーディ・ネブー、プリヤ・アーナンド。
専業主婦のシャシは、2人の子どもと忙しいビジネスマンの夫サティシュのために尽くしてきたが、事あるごとに家族の中で自分だけ英語ができないことを夫や子どもたちにからかわれ、傷ついていた。ニューヨークに暮らす姉から姪の結婚式の手伝いを頼まれ、渡米したシャシは、「4週間で英語が話せる」という英会話学校を見つけ、姉にも内緒で英会話学校に通うことを決める。仲間とともに英語を学ぶうちに、次第に自信を取り戻していくシャシだったが…。(映画.comより)
ははぱやー。みんな、ははぱや。 無から新たな挨拶を生み出して憚らない男、ふかづめです。
近ごろ記事をアップする気が全然起きない。平気で1週間ぐらいサボってやろうかとも考えている。あ、コロナは関係ないよ。
記事の見出し・章題・前書きはいつもアップする直前に書いているのだけど、この作業が本当に億劫で…「もういいか今日は。面倒臭いし」といって幾日更新をサボったことか。
中でもいちばん面倒なのは前書きね。私はこの前書きシステムを蛇蝎のごとく嫌っているけれども、もし未だに「そんなこと言って。どうせそういうポーズ取ってるだけでしょ?」なんて思ってる読者がいるとしたら大変遺憾っていうか、心外っていうか、しばいていく。
正味の話、この前書きでは(1)パーソナルに関わる話はしない(2)深刻な話はしない(3)時事ネタは扱わない…という原則のもと、なるべく意味のないことだけを書くよう努めている。あくまで映画評が主役であって私個人の我が出てしまうとイクナイんである(その割には我だけは強い意味のない話ばかりしてる気もするが)。
で、この「意味のないことを書く」というのがなかなかどうして難儀するんである。意味のないことを書くという行為は結局どこかに意味を見出す行為だからな。
日に何度もツイートしてる人たちはすごいと思った。
そんなわけで本日は『マダム・イン・ニューヨーク』です。
◆インド映画なのにNYが舞台◆
映画を観ていると、たまにエンドクレジットで「〇〇に捧げる」みたいな献辞が出るじゃない。
大抵は監督の近親者や激烈に影響を与えた先人の名前が刻まれることが多いが、私はこの文言が出るたびに「ワシら関係あらへんやん」と思ってしまう。ワシらというのは我々観客のことね。特に、捧げた相手が近親者の場合だと「それ誰やねん」のマインドもひとつ乗っかるし。
なんというか、大勢の人間が金を払って観る映画を特定の誰かに捧げる行為は表現活動の公私混同なので願わくば控えて頂きたいというか。まあ、そんな大袈裟な話じゃないんだけどさ。
でも、どれだけその映画に感動しても「ぜんぜん知らない奴に捧げられた映画でうっかり感動しちゃったよ!」って思うとちょっとビミョーな気分になっちゃうのよね。ニコラス・ウィンディング・レフンの『ネオン・デーモン』(16年)のエンドロールで「FOR♡LIV(妻のこと)」と出たときもイラッとしたわ。「ワシ関係あらへんやん」の殻に閉じこもってしまうよ。
だから特定の人間に映画捧げんな。
そういうことは個人間でやればいいじゃない。「実はこの映画はキミに捧げるつもりで撮ったんだ」とか言って。書くな。わざわざエンドクレジットに書くな。
ふとそんな思いに駆られたのは、本作のオープニングが「母に捧げる」という献辞のほかに「インド映画100周年とアミターブ・バッチャンの70歳を祝して」という祝辞で塗りたくられていたからだ。
セレブレーションが渋滞しとる。
さすがドカ詰め文化のインド映画。オープニングから祝い倒してきたなぁ。百歩譲って自分の母への献辞は分かるけど、アミターブ・バッチャンってインドの国民的スターでしょ? たしかに本作にもカメオ出演しているとは言え…古希祝うかね?
ワシら関係あらへんやん。しかもその下に「HAPPYBIRTHDAY. THANK YOU!」って書いてるからね。インドの人たちには申し訳ないけど「バースデーカードでやれ」のレヴェルだよ。
そんなわけで、のっけから関係あらへんやんの殻に閉じこもった私を「ふかづめさん、いじけてないで出ておいで!」と優しく殻から出してくれたのは主演女優のシュリデヴィだった。
シュリデヴィは1960年代末から300本以上の作品に出演してきたインド映画界の伝説的女優で、「インド映画史100年国民投票」という謎のランキングでは女優部門ベスト1に輝くほどインド国内では凄まじい人気を誇るが、2018年に54歳の若さで急逝。
『マダム・イン・ニューヨーク』はそんな彼女が49歳のときの主演作なのだが、よよんよんよん49歳て! 39歳と聞いても「そんなに?」と思うほど若々しいのに。いかついなぁ。
よよんよんよん女優シュリデヴィ。
そんな『マダム・イン・ニューヨーク』。どんな中身か。マダムがニューヨークに行くという中身なんである。
世界中を飛び回るビジネスマンの夫や賢い子供たちとは違い、うまく英語が話せないことを家族にからかわれているシュリデヴィは、ラドゥというインドの伝統菓子を作って近所に売り歩く泣きむし主婦だ。
ニューヨークに暮らす姪の結婚式の準備を手伝うために先に一人でニューヨークに向かうことになったシュリデヴィは、幼い息子と離れるのが悲しくて、まるで今生の別れみたいにしくしく泣く。
さぁ、やってきましたニューヨーク。怪物都市の喧騒に圧倒された彼女は、スタバでうまくメニューが伝えられず「早くして! 列ができてるの! 何が食べたいの! さっさと選んで!」と店員に責められてすんすん泣いてしまう。
そこで活路を見出したのが英会話教室である。周囲にナイショで教室通いを始め、そこで出会ったさまざまな異邦人たちと文化を超えた友情を築いたり驚異の語学力を発揮するうち、夫や娘に見下されていたシュリデヴィは「自信」と「尊厳」を獲得していくのだった!
マダムがニューヨークで英会話レッスン!
本作は異文化コミュニケーションに主眼を置いているようで、実際は人間の尊厳という普遍的な主題と向き合った純度100%のヒューマンドラマである。「インドの主婦がニューヨークで悪戦苦闘!?」なんて三流コピーライターが考えそうな要素は人をこの映画に向かわせるためのフックに過ぎない(そこも楽しいんだけどね)。
欧米人ともバリバリ仕事をする夫は根っからのクズ野郎というわけではないが、文化と環境ゆえに「妻は家を守るもの」という固定観念に囚われていて、英語を話せない妻に「まぁ、主婦だから仕方ないよな」などと言って完全にナメている。要は無意識に妻を見下しているわけだが、果たしてこの男をクズと呼べるほど自分は誰のことも無意識に見下していないかと言われると、ウーン、答えに詰まっちゃうな。だが、まぁ…クズだ。
それでもシュリデヴィは夫のため、子供たちのために、どれだけ蔑ろにされても家庭に尽くすのだ。そんな彼女が、英語という苦手分野を克服するためにニューヨークの英会話教室に通う。そこには自分と似たような境遇の非英語圏の人々が「ペンパイナッポーアッポーペン」などとピコ太郎的ジェスチャーを駆使しながら英語学習に精を出していた。
英語を学ぶため『雨の朝巴里に死す』(54年)を観る。にエリザベス・テイラー主演の古い映画ですよ。
◆良妻賢母なめんなムービーの金字塔◆
本作は純然たるインド資本の作品だが、ニューヨークが舞台なのでボリウッド感はやや控えめ。
ボリウッドといえば猫も杓子も発作みたいに踊りだす乱痴気ミュージカルが呼び物だが、たしかに本作にもミュージカルシーンはあれど嬉しがりみたいには踊らない。
映画のタッチも、まるでノーラ・エフロン(『ユー・ガット・メール』)やナンシー・マイヤーズ(『マイ・インターン』)のようなニューヨーク派に倣ってるので、コテコテのインド映画に比べればずいぶん落ちついていて洗練されている。この20年間アメリカで「2時間40分の病」が蔓延するなか、上映時間も134分と割に良心的だ。
ちょうどハリウッドとボリウッドを割ったような…いわばワリウッド映画としてバランスよく折衷していた。
だからこそシュリデヴィ演じるヒロインがインド人としての誇りを貫く姿が、ほかでもなく本作がインド映画であることを傍証しているのだ。
ニューヨークだろうが何処だろうが額にビンディーをつけ、サリー以外の衣装は纏わない。どれだけ夫が無神経でも家長として尊敬し、背負える苦労はすべて背負う。家族と会えない期間がたった1ヶ月だけでも今生の別れのように悲嘆に暮れ、英会話教室に通っているあいだに息子が怪我したと知れば母親失格だといって自分を責める。
それでも夫や娘はシュリデヴィを蔑ろにして、相変わらず拙い英語を小馬鹿にする。彼女は「英語が話せるようになりたい」と願っているのではなく、ただ誰かに尊敬されたり必要とされたがっているだけなのだ。それは誰もが求める人としての最低限の尊厳だ。
女性の社会進出化が進む中、ともすると「良妻賢母になってはいけない」と考える現代人の、それも日本に住む我々の目には時代錯誤に映りもしようシュリデヴィの「古風」な母親像は、だから「母に捧げる」というオープニングの献辞にもあるように女性監督ガウリ・シンデーの母親を投影したもので、映画はシュリデヴィ越しに良妻賢母の強さを打ち出していく。
この息子が後にとんでもない事をやらかすとは夢にも思ってないシュリデヴィ。
古風な生き方を貫くことで「現代の自由」を掴み取っていくさまが実に痛快だ。
夫は彼女が手作りのラドゥを訪問販売するのが気に入らず「俺だけのために作ってくれ」と言ったが、英会話教室の教師からは「立派な事業主じゃん!」と讃えられる。教室で仲良くなったフランス人シェフのメーディ・ネブーは「あなたの料理はアートだけど、私のラドゥはただの家庭料理だわ」と自らを卑下する彼女に「きみのラドゥだって立派なアートだ」と拙い英語で返す。
だからこそ結果的には、自分が自分らしくいられる英会話教室よりも家族への献身を優先することが「自分らしくいられる場」を形成し、夫が働いてるときに家で作り続けていたラドゥ=ステレオタイプな主婦像の象徴が「ステレオタイプな主婦像から脱却する自由へのチケット」となるのだ。
昨今加熱するフェミニズムに否定されがちな良妻賢母が「とはいえ良妻賢母は強いわよ!」とばかりにフェミニズムに殴りかかったオカンムービーの真骨頂。
また、シュリデヴィがフランス人のメーディに母国語で心情吐露して「言葉が通じない会話もいいものね」と言う場面はお気に入りだ。メーディには彼女の話すヒンディー語が一言も分からなかったが、それでも何となくは伝わっていた。それに毎日地下鉄でシュリデヴィと手を振り合う駅員とのコミュニケーションもすてきだったな。同じ言語を話してコミュニケーションすることだけが相互理解ではないとする、これまた古風な…と言うより原始的なメッセージであるよなー。
ちなみに私は外国語こそ苦手だがジジ語・ババ語には長けており、お年寄りのわけのわからない繰り言を高いレベルで理解できる。
逆上してる老人をケアするのも得意だ。まかせろ。
シュリデヴィに惚れてしつこくデートに誘うメーディ(本作唯一のノイズ)。
◆悲劇のラドゥぶちまけ事件◆
このように物語としては好感が持てる反面、映画としては、まぁ、ね…。
第一インドは「映画としては」という連語に耐えうるほど「映画としての」歴史を重ねてきたわけではないので、この言葉を使うこと自体があまり建設的ではないのだけど。
そういえば2年ほど前の『バーフバリ 伝説誕生』(15年)評で「インドは映画のノウハウを持たない国」的なことを言ったらブクマコメントでインド映画クラスターから「はぁ? インド映画は100年の歴史がちゃんとあって、毎年1000本の新作が公開されてるっちゅうねん。舐めたこと吐かしてると象騎兵で踏み潰すぞ!」と脅されてしまいました。こわい。
しかしまぁ、ああ言えばこう言うのイムズで日々闊達に生きている私は「ふっふーん。じゃあインド映画100年史がどのようなノウハウをもって世界映画史の文脈に位置づけられているのかぜひ教えて下さい」なんて減らず口を叩きたくなってしまうのだが、あえてサタジット・レイに言及しなかった私の物言いも少々卑怯だったので、そこは申し訳なかったと思います。あと象騎兵で踏み潰すのだけはやめて。おねがい。
また、英語の上達過程がまるで描かれてないだとか、行動原理を欠いたキャラクターが作り手との示し合わせのもと予定調和なストーリーを演じていく…といった部分は、たとえ脚本的な欠点だとしても実害がないので特に問題ではない。もっと小道具を活用すればいいのになと思うシーンも随所に見られるが、もういいよいいよ、活用しなくていいよ!
そんなことより、私の業腹ポイントはシュリデヴィの家族がどうしようもない奴らばかりという点である。これは映画論ではなく感情論だ。
夫はシュリデヴィを見下すくせにベッドの中では一丁前に身体を求めようとするなど(このばか!)、一片の愛情も見せない冷たい人間として描かれる。 それなのに、作り手は映画終盤になって「こんな夫でも本当はイイとこあるんですョ」とばかりに急に妻を気遣ったりプレゼントを送らせたりと明らかに不自然なムーブをさせるのだが…どういう風の吹き回しだよっ。ラストシーンで慌てて好感度上げにきても巻き返せないよ!
この夫はちょっと淡泊で愛情表現が苦手なだけだった…ってことが最後の最後で分かるのだが、もっと劇中の端々で仄めかした方がドラマに奥行きが出たのになぁ。「イヤな奴」から急に「イイ奴」に転向しようとしても無理やねん。それは。
姪の結婚式で夫の皿にラドゥを2つ置いたシュリデヴィに、忸怩たる面持ちで「まだ俺を愛してるか…?」と訊ねて「愛してなきゃ2つもあげませんョ!」と言ってもらうシーンはほっこりしたけどさ。
妻に救われたな、おまえ!
基本クズだが100%クズとは言えない男。それだけにリアルというかズルイ。
レビューサイトを見るにつけ反抗期の長女が不人気らしいが、私は幼い息子にイラっとしてしまった。
膝を擦りむいただけで大袈裟に泣き喚き、そのためシュリデヴィは自分をひどく責めて英会話教室を辞めてしまう(息子は絆創膏貼って復活)。
その後、姪に説得されたことでどうにか教室通いを続けたシュリデヴィだが、姪の結婚式と英会話教室の卒業試験が重なってしまったので、朝一番でラドゥ作りを終えて即行試験に向かうというハードスケジュールを立てた。そこで事件は起きる…。
シュリデヴィがやっとの思いで完成させたラドゥを運んでいるときに息子が物陰からワッと驚かしたせいでラドゥを床にぶちまけてしまうのだ!
やっとんな、おまえ…。
子供だからしょうがない?
ううん、聞こえない。殴りたい。
それだけじゃないぞ!
シュリデヴィのほかにラドゥを運んでいた人間がもう一人いるのだが、そいつにもタックルをかましたせいでラスト・ラドゥまで床に撒き散らしてしまったのである!
完全にやっとんな…。
このクソガキ!
ショックを受けたシュリデヴィに、姪は「お菓子屋で買うから叔母さんは試験に行って!」と気遣うが、首を横に振った彼女は「ラドゥで失敗したのに試験に受かって何になる?」とニッコリ笑って一からラドゥを作り始めたが、その目には今にも溢れそうな無念の涙が…。
夫にしばき回されて正式に謝罪しにきた息子を「いいのよ、坊や」なんつってシュリデヴィが愛おしそうに抱きしめるシーンで目頭熱夫! ええオカンや! ええオカンやぁぁぁああ!
海よりも深い母の愛に免じて息子をゆるす。
つつがなく結婚式が進む中、この忌わしい「ラドゥぶちまけ事件」によって試験を受け損ねたシュリデヴィは教室の仲間と会わぬままインドに帰ってしまうのか…というあたりがクライマックスのお楽しみポイントです。
「古いタイプの人間が新しい世界に飛び込む映画」なので面白くないわけがないのだが、それにつけてもシュリデヴィの優美で威厳に満ちた佇まいが本作の魅力をぐんぐんに高めている。
ちなみにエンドロールではみんな踊り狂ってた。
結局…猫も杓子も…!
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