「ヘイ・ジュード」ならぬチョイ重度な珍奇作。
2019年。ダニー・ボイル監督。ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ、ケイト・マッキノン。
イギリスの小さな海辺の町で暮らすシンガーソングライターのジャックは、幼なじみの親友エリーから献身的に支えられているものの全く売れず、音楽で有名になる夢を諦めかけていた。そんなある日、世界規模の瞬間的な停電が発生し、ジャックは交通事故で昏睡状態に陥ってしまう。目を覚ますとそこは、史上最も有名なはずのバンド「ザ・ビートルズ」が存在しない世界になっていた。彼らの名曲を覚えているのは世界でただひとり、ジャックだけで…。(映画.comより)
ヘイ、チョット。
私はハードロックが好きなのだけどなんとなく小物感が漂うバンド名というのが沢山あって、それが妙に味わい深いんだ。愛おしいんだ。
例えばなんだろ…。サバイバーとかさ(ジョジョ6部でも史上最弱のスタンドに名付けられた)。
「Eye of the Tiger」と「Burning Heart」が『ロッキー3』(82年)と『ロッキー4/炎の友情』(85年)の主題歌になったことで一時期は売れたものの音楽業界でのサバイバルには失敗。鳥打帽にいかり肩という出で立ちでストリートを練り歩く「Eye of the Tiger」のMVはいかにも味わい深い。
「Eye of the Tiger」はやっぱりリフが格好いいのでやめられないな。それ以上に格好いいのは「Burning Heart」のサビだけど。「いざバーニンハー!」やで。
Survivor「Eye of the Tiger」(YouTubeより)
でもチャンピオンはラット。完全にただの鼠。
LAメタル全盛の80年代にモトリー・クルーと人気を二分した人気バンドだが、やはりこちらも味わい深いのだ。ロックンロールに引っ掛けてラットンロールという意味不明な造語が大ウケしたことでも有名。ラットンロール…。言えばいいというものじゃない。
また、代表曲「Round And Round」のMVは、ある食事中の家族が天井から聞こえる鼠の足音に困ってると、実はラットの面々が屋根裏で演奏していた…という箸にも棒にもかからないコンセプトなのである。80年代のMVって大なり小なりネタを仕込んでるから好きだ。ちなみにラットの曲はグルーヴ重視なので変化に乏しいが、それゆえに文章が捗る執筆のお供。
Ratt「Round And Round」(YouTubeより)
まだまだ紹介したいが、そうもいかぬが渡世の常。音楽の話は本文でします。そんなわけで本日は『イエスタデイ』。
多くの否定派とまったく同じことを思ったのでオリジナリテー溢れる回とは呼べないかもしれないが、まあ知ったこっちゃない。
◆邪悪の化身◆
ここ10年あまりパッとしないダニー・ボイルの最新作は「もしもビートルズのいない世界で自分だけがその存在を知っていたら…?」というタラレバ話を映画化したロマンチック・コメデーだが、あくまでロマコメであって音楽映画ではないというあたりが本作最大のミソ…というか争点です。
イギリスの田舎町でアルバイトをしながら音楽活動を続けてきたヒメーシュ・パテルという別に姫でもパテでもない男は、マネージャーを務める幼馴染みリリー・ジェームズに励まされながらもオリジナル楽曲「サマーソング」がまったく評価されず、自分が便器に吐かれたタンカスにも劣る無才の凡愚であるという現実を受け入れようとしていた。
そんなパテルが肩を落としてバカヅラひっさげ帰途に就く途中に交通事故に遭い、その瞬間にわずか12秒だけ世界同時停電が発生。昏睡状態から目覚めるとビートルズが存在しない世界になっていた。誰もビートルズを知らないことをいいことに彼らの楽曲を次々発表したパテルはエド・シーラン(本人!)の目に留まり地位と名声を得ていくものの…!
まあ、こんな具合の中身である。
あまり気持ちがいいとは言えないハナシというか…「腹を立てようかな」と思えばいくらでも腹を立てられる映画なんだよなぁ。観る者の大らかさに凭れかかった物語というか。
なにしろ、曲がりなりにもシンガーソングライターの端くれがビートルズを盗作し、「曲はすべて僕が書いた」と嘘をついてファンやメディア、何よりパテルの才能を信じて献身的にサポートしてくれたリリーをも騙し続けながら音楽業界で成り上がっていくのだし。エド・シーランとお遊びでやった即興作曲バトルでさえ「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を披露してエドのプライドを打ち砕きもする(表現者としてはマジのゴミ)。
物語中盤では盗作したことを今さら悔やんで背徳感に駆られたり、リリーの気持ちに気付いて恋を取るか音楽を取るかで葛藤する様子が描かれるが…、これほど「背徳感」や「葛藤」が同情を引かない主人公も珍しい。
そして終盤では、コンサート中にリリーを巨大モニターに映しペラペラ喋って愛を伝えるという音楽映画である意味がまったくない告白方法で晴れて結ばれ、そのあと盗作をカミングアウト。「お詫びにこれまでの楽曲はすべて無料配信します」などと勝手な采配振ってモラルの帳尻を合わせてくる。無料配信なんかしちゃったら自分をスターにしてくれたレコード会社の利益がパーになるんだけど。そしてリリーを奪い去って夜の街に消えていくのであった!
なんだこのパテルとかいう奴。もはやクソ野郎どころの騒ぎじゃないよ。
邪悪だよ。こいつは邪悪の化身だ。
これまでにどんな情操教育を受けてきたのか。
監督のダニー・ボイルは、サブカルチャーのアイコンになったユアン・マクレガーの出世作『トレインスポッティング』(96年)で世界的成功をおさめたあと『28日後...』(02年)や『スラムドッグ$ミリオネア』(08年)でにょきにょきと頭角を現したイギリスのおじさんである。2012年のロンドンオリンピック開会式では式典演出を担当し「圧巻じゃん」と民から褒められた。
ダニー・ボイルの映画では登場人物がよく走る。本作のパテルも走ってた。あと神経症的トリップ映像も満載だが、それは今回なし(サイケデリック文化に傾倒していた中期ビートルズの楽曲にはハマりそうだが)。
そして脚本がリチャード・カーティス。脚本家としては『ノッティングヒルの恋人』(99年)と『ブリジット・ジョーンズの日記』(01年)で知られ、監督としても『ラブ・アクチュアリー』(03年)や『アバウト・タイム ~愛おしい時間について~』(13年)といったスイーツムービーばかり手掛ける万年ロマコメおじさんである。
本作でもビートルズをBGM代わりにしてロマコメパートばかり描き込んでた。
ここらで一丁、字数稼ぎのために「ビートルズとわたし」みたいな与太話でもしておこう(興味ない方は次章へどうぞ。いっそページを閉じるのも乙)。
私自身はリスナー以上ファン未満という……いや、せっかくビートルズの話をしてることだしカブトムシに喩えて幼虫以上 成虫未満だと告白しておこう。
最も好きなアルバムは『リボルバー』(66年)、次いで『ラバー・ソウル』(65年)なので中期支持者に当たると思う。東洋思想や薬物乱用といったヒッピー・ムーブメントに傾斜していた頃がいちばん好みだ。推しメンはジョージ。
ただし最も好きな1曲を選ぶとなると困っちゃう。沢山あるから困るのではない。
『アビイ・ロード』(69年)のB面から始まる「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」~「ジ・エンド」までの8曲15分から構成された通称「アビイ・ロード・メドレー」を“最も好きな1曲”に選んでいいものなのかァァァァァァァァ…という数的葛藤と誠実に向き合わねばならないから困るのである!!!
この章の終わりに動画をひとつ貼り付けるが、あえてビートルズではなくスティーヴン・タイラー提督(エアロスミスの絶叫係)による名カバーを聴いてほしいって思ってる。
まあ聴かなくてもいいけどな。
2010年の「ケネディ・センター名誉賞」に輝いたポール・マッカートニーに「アビイ・ロード・メドレー」のメドレーを捧げ倒すスティーヴン・タイラー62歳。(客席にいるのはジョン・リスゴーやフォレスト・ウィテカー他。YouTubeよりやで)。
◆どういう設定でアレやってる映画なのコレ…◆
なんだかな、って感じである。この映画を撮るのはダニー・ボイルではない気がするし、脚本を書くのもリチャード・カーティスではない気がするのだ。
出来はさておき『アクロス・ザ・ユニバース』(07年)の方がリスペクト作品として素直に楽しめるし、極論めいたことを言うならビートルズ主演の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(64年)や『ヘルプ!4人はアイドル』(65年)が存在する以上、ただ彼らの楽曲を流していくだけのリスペクト作品など作る必要も観る必要もないのだが、この『イエスタデイ』などというダニー・ボイルからビートルズへ捧げられた“ラブレター”は、ロマコメにしか関心がない脚本家との足並みを最後まで揃えられぬまま、ほとんど「ビートルズ」という語の響きだけで人をスクリーンの前に招き寄せてしまう。
だが『アクロス・ザ・ユニバース』と比定して大きく見劣りするのは、もっぱらビートルズが設定のための設定としてしか扱われていないからであり、映画を彩るメロディの提供者として処理されてしまっているからだ。
もはやビートルズである必要なし。
事実、ビートルズが存在しない世界線に困惑するパテルはビートルズ以外にも抹消されたモノがあることに気づく。そう、消えたのはビートルズだけではなかった。
まずはオアシス。なるほど、ビートルズが存在しなければ当然オアシスも結成されるはずがない。自他ともに認める「ネクスト・ビートルズ」だからな。そんなわけで、パテルが「オアシス」でググっても砂漠の泉しか出てこないという具合(この辺の描写はユニークだった)。
すると、ビートルズに影響を受けたバンドはすべて抹消され、ビートルズが変化をもたらした社会の形も根本から修正されるんけ?…と疑問を抱くのが普通だよね。
だが、どうやらそういうワケでもないらしい。
ビートルズがいなくてもポップカルチャーは現在のまま歴史を重ねていて、ロックンロールも然るべき歴史を辿って今に至っているのだ。
なんでええええええええ。
もし本当にビートルズが存在しなかったらエラいことよ、奥さん。大衆文化や芸術思想だけでなく反戦運動にも影響があっただろうし、イギリスも今とは違う国になっていたはずだ。ファッションの歴史も大きく変わっただろう。出会わなかったカップルや生まれなかった人も大勢いるだろうしね。
そういうところを想像しながら世界観を作り上げていくのがifストーリーの醍醐味なんじゃないの?
バタフライ効果起きろよ!!!
また、パテルはビートルズとオアシスの他にもコカ・コーラや煙草やハリー・ポッターも存在しないことに気づく。嗜好品やハリポまでイかれてもうてるやん。しかし、こうなると話が変わってくるというか…もうビートルズ関係あれへんがな。どえらい事になっとる。
ちなみに監督いわく抹消対象は“ランダム”なのだそう。ランダムなん!?
だがそんな裏設定は劇中でアナウンスされないので、鑑賞中の人間は「え、どういう設定でアレやってる映画なのコレ…」と周章狼狽。オアシスが抹消されたところまでは辛うじて付いて行けるのよ。「わかった! オアシスが存在しないのはギャラガー兄弟に影響を与えたビートルズが存在しないからだ。だから芋ずる式に消えちゃったんだ!」とね。
だけど、ビートルズと関わりのある他のバンドは普通に存在してるし、その一方では全く関係ないコカ・コーラやハリー・ポッターまで消えちゃってるので「基準がわからん」と設定理解に苦しみながらこの恣意まるだしの謎システム搭載映画に付き合うことになる。
よしんば、このifストーリーをどうにか呑み込めたとしても、いよいよ頭を抱えてしまうのはパテル以外にもビートルズを知ってる人間が2人もいたという急展開。
なんでええええええええええええええええ!!!
なぜこの3人だけがビートルズ不在の世界でビートルズの記憶を保持できてるのおおおおおおおお。パラレル免疫すげええええええええええええ。
まあ、今挙げた設定上の数々の疑問点には「恐らくこういう事ではないか」という仮説を無理やり立てることもできるが、問題は“疑問点を絵解きすること”ではない。
“疑問点が物語理解を妨げるノイズにしかなってない”ということが一番の問題なのだ。
オアシスがランダムで抹消対象に選ばれた…というのは表向きの説明であって、実際のところ、作り手の意図には「オアシスを抹消すればどちらのファンも笑ってくれるよね」というユーモアがあったのだろう。現にハリー・ポッターの抹消もクスッと笑えるギャグとして描かれてるし。
だがこの抹消システムをヘタに弄くり回したせいで辻と褄が駅でバイバイしてもうとる。この「ちょっとした笑い」のために物語や設定がグッチャグチャになってるんだよ!
エド・シーラン騙くらかしてツアーに参加。
次に、音楽映画としての瑕疵はパテル一人でビートルズをコピーしてもビートルズの音にはならないという点だ。鑑賞中ずっとモヤモヤしてたわ。
ジョン、ポール、ジョージ、リンゴが同時に鳴らして初めて成立する奇跡のバンドアンサンブルを邪悪な素人が自分一人で弾き語りしたところで原曲のポテンシャルは引き出せないし、再現できるのもせいぜいメロディぐらいである。現にビートルズをパクり始めてもしばらく売れない時期が続いていたパテルは「曲はいいのに僕にカリスマがない…」と悟る。
その通りだよ!
にィィィィも関わらず、アホのパテルがエド・シーランの目に留まり、とんとん拍子で世界的成功をおさめるに至った理由がメロディなんである。メロディが評価されたのだ。どうやら本作曰く、優れたメロディさえ思いつけば演奏や思想や外見やカリスマ性やプロモーションや時代背景がどうあれ誰でも簡単に売れるらしい。この並行世界、チョロ過ぎでは?
なんだか、複雑多面を極めるビートルズの魅力が“メロディメーカー”という一点に矮小化されてしまう…というビートルズを聴かない者特有のビートルズ像を見せられているようで、オイラなんだか悲しいよ。よくぞこれを「ビートルズへのラブレター」などと言ってのけたなーって感じで。この映画…やっぱり脚本がダメだわ。
戦犯はリチャード・カーティス。
盗んだソングで歌い出す。
◆恋にはためらうパテ公◆
時期的な問題から『ボヘミアン・ラプソディ』(18年)とダブるイメージも多かったが、とはいえダニー・ボイルはイギリス各地の美景(当然リヴァプールも)をすばらしい感度で収めていたし、人物の顔も演奏風景もカッチリ捉えているので「あれ、ダニボってこんなにちゃんとした人だっけ」と地肩の強さに初めて感心した。とりわけ橙色の照明にそっと照らされる夜間のレストラン、トンネル、田舎道のショットは忘れがたいので『ウォールフラワー』(12年)とか『世界一キライなあなたに』(16年)あたりの映像感覚にウットリした人は必見かもしれないし、必見ではないのかもしれない。
ここからはリチャード・カーティスに照準を合わせて集中砲火していく。
ビートルズを前座にしてまでパテルとリリーのロマンスをショーアップした割にはビタ一文ときめかないのだから、まったく大した脚本家である。
幼馴染みでありマネージャーでもあるリリーは幼少期からパテルに片想いしていたが、深夜アニメの主人公にも比肩しうるほど鈍感なパテルは彼女のことを家族のように思っており、痺れを切らしたリリーが「ラヴ・ミー・ドゥ」と言ったことでようやく恋愛対象として見始める。しかし売れて図に乗ったパテルを見ているうちにリリーは寂しくなっちゃうわけです。今のパテルに私は釣り合わない…と。
腹立たしいのは、どこまでも献身的なリリーに対して、パテルの方は果てしなく優柔不断なのだ。ためらわず盗作したのに恋にはためらうのな。
急にリリーのことを好きになり始めたあと、涙の乗車券を買った彼女を追いかけて「大事な話がある!」と言いながらも一向に話を切り出さず、まるでグラス・オニオンみたいに固まって聞き役に徹し続けたアホのパテル。
リリー「大事な話ってなに」
パテ公「………………………………」
リリー「私たちのこと?」
パテ公「………………………………」
パテルがウンともスンとも言わないので、リリーは余計に寂しくなってしまいます。
パテルときたら、事ここに至ってさえ「もう行って。マジカル・ミステリー・ツアーがあるんでしょ?」と涙を堪えるリリーの前でただ何もせず陰気な顔で宙を睨むばかり。グラス・オニオンみたいに(グラス・オニオンて何なんだ)。
パテ公「………………………………」
寝てるんか?
ゴールデン・スランバーきめてるやん。
なんなんだろう、この言論空間は。彼女は泣き顔を見られたくないから「もう行って」と言ってるのに。ガーゴイルみたいに黙ってジーッとして。泣き顔を見るまで帰らへんつもりけ?
僕にはもうパテルという人がわかりません。オマエの方から「話がある」といって追いかけてきたのに一言も話さず、「もう行って」と言われても行かないなんて。斬新すぎるんか?
結局パテルは何も話せないままマジカル・ミステリー・ツアーに向かうべく飛行機に乗ってアメリカに帰ってしまいます。ゲット・バックやん。
『シンデレラ』(15年)におけるシンデレラ、リリー・ジェームズ。
デイ・トリッパーみたいなスケジュールでゲット・バックしたパテルはようやく大事な話をする気になり、すっかり友達になったエド・シーランのコンサートに飛び入り参加させてもらいます。会場の巨大モニターにリリーを映したパテルは「彼女は僕の大切な人です。ようやく気付きました。愛こそはすべてだと。彼女は僕の最初のファンになってくれた人で…オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ…」と誰ひとり興味のないトークをおっ始め、最後に「これまでの曲、全部パクってましてーん」とドサクサ紛れにカミングアウト(会場は一瞬ざわついたが何故かブーイングする者は一人もおらず。ナンデエエエエエエエエ)。
だが、その時すでにパテルへの想いを断ち切ったリリーには素敵な恋人がいたが、大衆のまえで愛を告白されたことで再びパテルを抱きしめたいと思い、付き合ったばかりの恋人に「ハロー・グッドバイ」と告げ、パテルに「カム・トゥゲザー」と言われてようやく結ばれたのである。愛し合う二人がア・ハード・デイズ・ナイトの闇に消えていきます。
ジ・エンド!!!
俺の心はヘルタースケルター。
語ってんちゃうぞ。
ロマコメの名手として知られるリチャード・カーティスは稀に中身スカスカのイタい脚本を書くが、今回ばかりは「ヘイ・ジュード」ならぬチョイ重度。
告白が成功したのもただの吊り橋効果だしな。
名声は失ったもののリリーと結ばれたパテルがプラマイゼロみたいな顔して爽やかに映画は終わっていくが、いや待たれよ待たれよ。ファーストシーンで歌ってたパテルのオリジナル楽曲「サマーソング」は結局最後まで日の目を見ることなく、もっぱら盗作お騒がせ野郎として音楽史に名を刻んだだけなので…どちらかと言えばマイナスじゃない?
ちなみに映画後半ではビートルマニア爆泣き必至の“あの人”が画面に出てきます(“あの人”というヒントの出し方自体がすでに答えなのだが)。ダニボ組のロバート・カーライルが特殊メイクで大変身しとったわ。
プラマイゼロみたいな顔。ふてこい。
(C)Universal Pictures