シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

リラの門

リビドーを対岸に臨んだ豊穣なりき映画の大地にこそ詩的リアリズムは芽吹く ~ほんでムードンの森には可憐な花が咲いとる~

1957年。ルネ・クレール監督。ピエール・ブラッスール、ジョルジュ・ブラッサンス、アンリ・ヴィダル、ダニー・カレル。

飲んだくれの太っちょ中年とギター奏での芸術家は、ひょんなことから逃亡中の殺人犯を匿った。ところが太っちょが秘かに恋焦がれていた町娘は殺人犯に惚れてしまい…。
いま始まる、太っちょと芸術家による危機一髪の匿い生活。待ったなしのスリルだけがこの部屋には充満しているぞ!


やろけー。
数年ぶりに木屋町を歩いたよ。森鷗外の『高瀬舟』で知られる高瀬川沿いを通る街路だよ。また、春にゃあ幻想的な灯篭が桜並木をライトアップする京都屈指のパワー風情スポットだが、ひとつ大きな欠点があるよ。
ド低俗。
年々風紀が乱れる夜の木屋町には、ホスト、キャバ嬢、キャッチ、立ちんぼ、ゲボ吐き、路上スリーパー、謎の車、ぴかぴかの車、通行人を見定めては何かを売ろうとしてる謎の外国人、どこぞの店に身ぐるみ剥がされスンスン泣いてる大学生各位がふらついている。
いっやー、すごかったねえ。ますます治安悪化の一途を辿っとる。『北斗の拳』の1ページ目やないの。
夜。木屋町通りの喫煙所で煙草を喫んでたら、バックパッカー風の欧米人がおれの隣にきて、体じゅうを自己点検してライターを探す身振り。
うわあ…この人ライター持ってへんやん。「ライター貸して」って英語で頼まれたらどないしよ。「ディス・イズ・ライター、フォユー!」ゆうてボーンって差し出したらええんかな。でもライターで通じるんかな。大丈夫か。さすがに和製英語とかじゃないよな。でも一応ファイヤーにしとくか。そっちの方が確実やしな。「ギブユー、ファイヤー」でええんかな。まあ、間違ってても伝わるやろ。
刹那、バックパッカーと目が合ったおれ、くるぞっと身構えて「ギブユー、ファイヤー」を用意したところ、
「ライター貸してもらえます?」
日本語でくんのかい。
おどれ、美しいまでに流暢な日本語喋りよるのぅ。なんじゃこの旅人。めちゃめちゃ日本語うまいやないの。発音も完璧。おれは自らを恥じた。外国人は外国語を話すもの、という固定観念に囚われすぎていた!
おれは旅人を見直しました。評価しました。
「ええで」
そう言って、おれは旅人が咥えた煙草の先っちょにライターを持っていって火を点けてあげようとしたのだが、ピュウ、ピュウ。風が強くてなかなか旅人の煙草に火がつかない。着火しては風で消える。着火しては風で消える。そのうち旅人はムシャクシャしてきたのだろう。
旅人「もっともっと! 点いてないから!」
なに文句言うとんねん、こいつ。
「もっと」てなんやねん。ガスバーナーちゃうねん。ただのライターやぞ。火力調整でけへんねん。火ィ借りてる分際で「もっと」やあるか。ジュディマリか。
旅人「ぜんぜん点かないよ!」
おれ「うるせえ。もう自分でせえ」
そう言って、旅人にライターを渡して、自分で点けさせた。腹たつ。人の煙草に火をつけてあげるって、なんか映画のワンシーンみたいで格好いいからやりたかったのに。
旅人「ありがとー」
なにが「ありがとー」やねん。あっち行け。

3分後、煙草を吸い終えた旅人は、スマホでエド・シーランを爆音で流しながら夜の木屋町に消えていった。うるさいな。でも達者でな。
おれが2本目の煙草に火をつけたとき、こんどは地雷メイクを施したゴス風の女が隣にきて、体じゅうを自己点検してライターを探す身振り。
おいおい、もうええぞ。
「お兄さん、ライター持ってますぅ?」
もうええて。
こいつら、喫煙者やのにライター持ってなさ過ぎやろ。
ゴスはふらふらと左右に揺曳していた。酔っ払っているのか。ことによると麻薬を食べてるのかもしれない。仕方なく火を貸してあげたところ、喜んだゴス、きっかけもクソもなく突然話しかけてきた。
ゴス「私、いくつに見えます?」
この世で一二を争うほどおもんないクイズきたなーと思いながらも、見たところ22~25歳ぐらいの風体をしていたので、それより若く言ってあげた方がいいかなと思って、おれ。
「21歳」
「違います」
「20?」
「違います」
「17!」
「違います」
「12」
「違います」
「2」
「2…?」
合わんなぁ、この子。ウマが合わん。
17とか12は、もうテキトーに言っとんねん。「いや、煙草吸える年齢じゃないから」くらい返してくれてもよくない。
しまいにゃ「2」って言ったときに「2…?」って軽く引いてたからさ。おれの友人2人なら「煙草吸うインドネシアの2歳児やないねんから」ぐらい返してくれるけどなぁ。なんならダメ押しで「でも禁煙成功したらしいよ、あの子」まで言ってくれるのに。


なんやのん、このゴス。AIみたいに「違います」ばっかり言って。
…AIなんかな?
煙草を吸い終えたおれは、ゴスに問うた。
「酔うとんのか?」
「酔ってま~~す」
おれはその場から立ち去った。
そのあとも、木屋町通りで2~3人の変人に話しかけられては「うるさいな」とか「あっち行け」とか「モスコミュールやろ? コスモミュールやと宇宙のサンダルやん」と此れを撃退。通りを抜けるころにはドッと疲れて帰宅。
もう木屋町には行かない。

そんなわけで本日は『リラの門』です。去年の3月に書いたっきり今の今までアップするのを忘れてたので急いでアップします。

◆ムードンの森には可憐な花が咲いてる◆

 『巴里の屋根の下』(30年) 『自由を我等に』(31年)ルネ・クレールが僕たちのために遺してくれた詩的リアリズムの宝玉。格調高き演出とメロドラマの音色に人は何を思う。何ができる?
「はぅあう…」
そう。「はぅあう」なる不思議の感嘆詞とともに、その感動をパリ20区にばら撒くことしかできないのである。
スタイリッシュだとか映像美といった言葉がことごとく形骸化した現代映画にあって、この白米のように甘く瑞々しいフィルムの連続体に人は何を見る!?

「天衣無縫の妙…?

その通りだ。
ここには現代映画が愚かにも手放した“慎ましさ”が儚くも美しいドラマを織り上げている。
マルセル・カルネの『北ホテル』(38年) といい、ルネ・クレマンの『居酒屋』(56年) といい、なぜこうも詩的リアリズムは人びとの心に明かりを灯すというのかッ!!

忘れ去られた映画の風趣がここにはある。
どっこい近年の映画では、誰とは言わないが、いかにも得意げにテクニックをひけらかすレフンやランティモス、あるいは、誰とは言わないがアッと驚かせるテクノロジーの発表会に躍起なノーランやキュアロンといった厚顔無恥な連中ばかりがやたらに持ちあげられているが、つまるところ奴らが撮っているものは映画ではなく「こんな映画が撮れるオレ」という自尊心を満たしうるためのすぐれて利己的に可視化されたリビドー(Lサイズ)そのものと言える。
Lサイズのリビドーが君たちに襲いかかってるわけだ!!
怖いだろう?
泣いたって、もう遅いよ…。
そんなリビドーを対岸に臨んだ豊穣なりき映画の大地にこそ詩的リアリズムは芽吹く。まるで粛々と木をなぎ倒していく春の嵐のようにな。ハッ。

 物語の舞台は、パリ東北部のポルト=デ=リラというドヤ街だ。
夜霧に包まれた大通りを過ぎゆくは、荷車を引きし老夫婦。その一角の酒場には今宵も酒に呑まれる男あり。ピエール・ブラッスール扮するプーの堕落中年である。その脇には知己の芸術家がギターを弾き弾き、やけにうら悲しい曲を口ずさんでいた。

俺はだらしなくて みんなに評判が悪い
俺のいい加減さは みんな知ってる
ムードンの森には 可憐な花が咲いてる

もうちょい景気のええ曲なかったんか。
ほんで気になるのう、ムードンの森。可憐な花が咲いとんけ?
この曲を披露した芸術家はジョルジュ・ブラッサンス。いくつかのクレール作品に出演したフランスの吟遊詩人だ。


ジョルジュ演じる芸術家。

ある日、そんな二人のダラッとした日常に雷が落ちる。
この街に指名手配犯のアンリ・ヴィダルが逃げ込んだというので、警察は民家を一軒ずつ調べて回っていた。折悪くその日にフォアグラの缶詰を大量に万引きしたピエールは、芸術家の家に赴き、缶詰を裏庭に打ち捨てた。その裏庭に潜んでいたのがアンリだ。
程なくして警察が芸術家の家を訪れ「お尋ね者を匿ってないか」と問うた。ピエールは「匿わない」と即答した。そんなことより一缶だけ捨て損ねたフォアグラがバレないか、それだけが心配だ。
さて。警察が帰ったあと、入れ違いに家に押し入ったアンリは二人にピストゥルを突きつけ「匿え!」と言った。ピエールは「匿う」と即答した。匿うと言ったり匿わないと言ってみたり、忙しいやつである。
芸術家はアンリを匿うことに賛同しなかったが、ピエールは彼を地下室に隠し、進んで寝食の面倒を見てやった。それは、無職で能なしの自分にもかろうじて善意だけは残っていることを証明するためのレーゾンチューチュル(存在意義)だったのだ。
たとえアンリが人殺しだったとしても…。

 かくして殺人犯を匿ったピエールと、事態を憂う芸術家、そして匿ってもらった割にはやけに態度のでかいアンリの共同生活が始まった。
善意の先に待ち構えた結末はいかに! 裏庭に捨てられたフォアグラ缶の賞味期限とは!?
いま幕を上げる、おっさんたちのテラスハウス。小屋の中にはダニが跳んでる。

ダニ「ぴよいん、ぴよいん」

アンリ・ヴィダル演じる殺人犯。

◆ぴたりシンクロ! 待ち針の一刺し◆

 本作は、缶詰盗みの堕落中年がこれまでのカスみたいな人生を清算すべく唯一とった善行が“殺人犯を匿う”という悪行だったという何とも因果な人情噺だが、さまざまな不信や謀反に耐えながらも己の善行を信じ続け、最後にゃあ泥を落とすように“バカゆえの純粋さ”だけが残る…といった人間賛歌でありながら、そこはやはり詩的リアリズム、苦み走った厳しい現実的帰着で観る者を一刺しにする。
ピエールとアンリの芽生えそうで芽生えぬ情。当初こそ協力的だった芸術家も、やがてアンリが救うに値しない根っからの悪人だと判じ、それでも彼を信じ続けるピエールの盲に失望し始める。

そして酒場の娘ダニー・カレル。もとより叶わぬ恋だったピエールの慕情は、なまじ自分が庇護したアンリによって脆くも打ち砕かれてしまう。恋の横槍に貫かれたダニー嬢は、あろうことか殺人犯のアンリに惚れてしまうのだ。だがそれで彼女が幸せになるのなら…と一度は恋を諦めたピエールだったが、実はこのアンリ、逃走資金を貢がせるためだけにダニー嬢に甘い言葉を囁いていた真性クズ二刀流だったのである。
人を殺しておいて、なお女心を利用する、クズとクズの秘伝二刀流使いとはまさにこいつの事。
なけなしの魂をベットした“善意の賭け”に敗れ、友も女も…すべてを失ったピエールは、ついに不義理のアンリに対して最後の行動を取る。
このあまりに悲しげな物語の結末には触れずにおく(触れたらおまえら観ないからな)

ピエールとダニー嬢(かなわぬ恋)。

  では物語の話から一転、映画の話に移ろう。
アホみたいに当然の話だが、本作はただヨーグルトみたいな頭で撮影や演出だけ見ててもおもしろい映画である。
物語序盤、ピエールが酒場の窓から往来で遊ぶキッズたちを眺めていると、懇意の常連客がアンリ逃走の記事を読み上げて物騒な世を嘆くのだが、そこで読まれた新聞の事件経過と“アンリごっこ”に興じる子供たちの動きがぴたり、シンクロするのだ。
きわめて説明的な演出だが、アンリの犯した殺人事件を無垢なキッズによるごっこ遊びで再現=演劇化することで却ってその行為の残酷さを際立たせながらも、のちに登場するアンリの人間的本質を“説明的演出”の中でさりげなく穿った待ち針の一刺し

あるいは、帰路に着くピエールと芸術家が肩の高さほどある薄板の壁を胯越えながら「やい。なぜ殺人者を助ける?」「お前こそ、やい! なぜ彼に冷たく当たる!?」と仲違いする場面。
ここでは、先に壁を乗り越えた芸術家が薄板に隔てられた先のピエールに向かって口論を仕掛けているので、言わずもがなこの壁は“対立”“無理解”を表象しているわけだが、おもしろいのは口論を終えたピエールが壁を跨ごうとすると、その体重に耐えかねた薄板がグラグラと揺れ始め、ドリフさながらに崩壊して芸術家を下敷きにする形で壁が壊れてしまうというスラップスティック。
対立を表象していた壁が壊れたのだから、当然このあと二人はべつだん仲直りの契機も持つことなく元の関係におさまってゆくわけです。

薄板一枚で語られる人間模様。

物語終盤における酒場での雄弁な視線劇も忘れがたい。
ふらりと店に現れたアンリがダニー嬢に色目を使うと、彼女の目は「ここへ来てはダメ!」と叫ぶ。なにせ常連客は今度の事件に興味津々で、手に広げた新聞にはアンリの手配写真が載っているンだから!
店の奥でギターを爪弾く芸術家もアンリの存在に気付いたが、あえて歌を続けて客の気を引いてくれた。だがその瞳は不信と軽蔑に濁っており、「俺が歌ってるうちに出ていくことだな」と警告しているようである。それでもアンリは薄ら笑いを浮かべてカウンターに肘をつく。まるでこのスリルを楽しんでいるかのようだ。芸術家が見せた最後の情けと、それを無下にするアンリの挑発。その狭間で一触即発を恐れるダニー嬢の不安な魂がよく表現された、至上の一場面だ。

とっておきのラストシーンは夜霧に包まれた大通り。つまりファーストシーンの反復。荷車を引きし老夫婦が反対方向に移動する。つまり街から出ていくわけだ。
あまりに無情なこの街に絶望してか。はたまた生活に困ったか。いずれにせよ誰もが見限るほどに、この街に希望の灯はなかった。