シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

風の視線

今回の『シネ刀』は“居てはいけない貌”が“出会ってはいけない貌”と出会うことの違和感をひたすら訴えただけの回なので読まなくていいです。

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1963年。川頭義郎監督。新珠三千代、佐田啓二、岩下志麻、園井啓介、山内明。

 

日本を代表する作家・松本清張の原作小説を元に映画化、作者本人が特別出演も果たした異色の恋愛ドラマ。虚無と倦怠が蔓延る渇ききった現代を背景に、黒い霧に包まれながらも激しく燃え上がる交錯した男女の愛の形を独特の描写で魅せる。(映画.comより)

 

うむ、ご苦労さん。

近ごろ映画評に身が入らないというか注意散漫になってるというか、はっきり言って思想が薄れているような気がして、まるで時が止まった旧校舎みたいにパソコンの前で静止していることが多い私である。おそらくは、コロナ禍に伴う自堕落エブリデイによって頭が寝ぼけているのだと思う。ぜんぜん思考が線にならず、線香花火のように消えていく。昨日なんてEvery Little Thingをずっと聴いていたんだし。そのあとDIOを全部聴いて、森昌子の「越冬つばめ」 を練習した。ヒュールリー、ヒュールリーララー。そんなわけで映画評は300字しか書けませんでした。

このままいくと、やがてレビューストックが尽きてあじゃぱーになる可能性が高い。そうならない為には執筆へのモチベーションを固めるほかないが、その為には音楽でも聴いて気分転換せにゃならぬ。だもんで再びヒュールリーララー。そんなことばかりしてるから一向に書けんのだ。

てなこって本日は『風の視線』だが、見出しにもあるように今回の『シネ刀』は“居てはいけない貌”が“出会ってはいけない貌”と出会うことの違和感を訴えただけの回なので特に読んで何がどうなるわけでもなし。きみの明日が輝くでもなし。人を救えない文章などタダの紋章である。言葉から意味が剥離していく!

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◆俺の視線◆

まあ、ヒマな御仁だけ読んでくれや。本日取り上げる作品は松本清張が『女性自身』に掲載した同名小説を映画化した『風の視線』である。視線自身である。

ギャーンと映画が始まると、新婚旅行で青森に訪れた園井啓介岩下志麻が十三湖で死体を発見する。さすが清張、いきなり死体。新鋭カメラマンの園井が思わずシャッターを切るとその写真がコンクールに入賞した…。

いかにもミステリ然とした不穏な開幕である。果たして園井夫婦は死体写真を回収せんとする黒い影に狙われるのだろうか。狙われないんである。では恐ろしい殺人事件に巻き込まれるのだろうか。巻き込まれないんである。

本作はミステリではなくロォマンチック・ラブストーリィなんである。

「ロォマンチック・ラブストーリィなの!?」

さよう。

「十三湖で死体を発見した」という一幕は、ツカミというかダマシというか、“挨拶代わりのハッタリ”に過ぎず、原作小説の掲載媒体が『女性自身』であるように、今度の清張は社会派推理モノではなくロォマンス路線をひた走る。といってしかし女学生の乙女心をときめかせるような甘きロォマンスではなく、黒い駆け引きに満ちた大人の恋愛劇なのだ。

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死体バシャ撮りに始まる不穏な物語。しかし…?

 

志麻ちゃんと見合い結婚をした園井は性格の不一致からしばらく距離を置こうと言い出し、秘かに惚れていた年上のマッダーム・新珠三千代に想いを募らせる。愛はなくともよき妻であろうとした志麻ちゃんは、傷心の末、かつて自分を捨てたOL時代の上司・山内明のオフィスを訪ねる…。

一方の三千代は、園井の気持ちに気付けばこそ志麻ちゃんを押し付けるように紹介し、海外出張に行っている夫・山内明に隠れて、妻帯者の佐田啓二と逢瀬を重ねていた。

海外出張から帰ってきた山内は、妻・三千代の不倫を知ってか知らずか、オフィスに現れた志麻ちゃんに復縁を迫る…。

以上、ひどくややこしい相関関係なので図解してみたわ。是非こちらのイラストを参考にして理解を深められたい。

f:id:hukadume7272:20200508050755j:plain理解が深まった?

 

「こんな図解では理解が深まらないよ。なぜなら僕は脳みそ45グラムのスーパーフライ級のバカ肉だからさ。是非すき焼きでどうぞ」などというスットコドッコイ諸兄のためにもっと分かりよく説明するなら全員が浮気心を持ってるわけ。

私は、己が背徳行為を棚上げして自己憐憫に湿る恋愛劇――というかその手の恋愛劇に出てくる甘えきった人間が好きではなく「他人を傷つけた人間が一丁前に傷つくな」と思ってしまうので、まさに本作などは怒りの発火装置として非常によくできた不愉快な作品です。

まぁ、感情論は感情論、技術論は技術論として公平に批評するつもりではいるが、『風の視線』へと注がれた「俺の視線」には相当厳しいものがあった!!

 

◆居てはならない。あってはならない。そんな映画がある◆

まずこの映画、キャストの取り合わせがなんとなく不思議な心地なのである。

この5人で映画を撮りましょうとはならない5人が集まり、いかにも環境にそぐわぬ場違さを露出させ、「居てはいけない貌」が「出会ってはいけない貌」と出会ってゆくので、なんというか…違和感がすごいのだ。

かといって「ミスキャスト」なんて単純な話ではない。本当は存在すべきではなかった…まさに並行世界で作られた映画を観ているような錯覚に陥るのである。

この謎めいた感覚に愉悦を見出すか戸惑うかは各人各様だが、私はフィルムの表層を上滑りしたような5人が示し合わせたように「自然を装う不自然さ」が良くも悪くも奇妙に感じられ、まるで好奇心と警戒心の狭間でカラスの死骸のまわりをぐるぐる練り歩く猫のように「どう観たらいいんだろう、この映画」と戸惑うばかりで、まったくもってキャラクター劇に移入できなかった(もともと移入するタイプではないけれど)。

 

各映画サイトでは岩下志麻の名前が最初に表記されているが、群像劇の本作において事実上の主演をあえて挙げるなら新珠三千代だろう。

全編9時間30分にも及ぶ『人間の條件』(59-61年)トリロジーで成功を収めたあと、橋本忍の『私は貝になりたい』(59年)、小津の『小早川家の秋』(61年)、成瀬の『女の中にいる他人』(66年)などで活躍した宝塚歌劇団出身の東宝スターである。

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その不倫相手役を務める佐田啓二は、前前前世からキミを探し始めない方の『君の名は』(53-54年)トリロジーで日本中の女性を虜にし、その後も小津や木下に重宝された日本映画界きっての二枚目スター。ちなみに面食いの私は「日本のジェラール・フィリップ」と絶賛およびゾッコンの佐田啓二フアン。実息はミキプルーン俳優としてお馴染みの中井貴一。「どうしてあの顔からこの顔が?」と嘆息せざるを得ないほどの雲泥の美。なお本作『風の視線』は、佐田が交通事故により37歳の若さで死去する前年に作られた。

「環境にそぐわぬ場違さ」の一因には、いかにも松竹然とした佐田啓二がいかにも東宝然とした新珠三千代の相手役を務めたこともあろうが、小津作品でのイメージが強い佐田がATG映画のようなローキーの薄暗い画面に佇むことの違和感も挙げられる。

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同様の理由から、我らが岩下志麻もその存在を曖昧なものにしているが、志麻ちゃんにとって本作が作られた1963年は人生最多忙を極めた時期で、この年だけで10本の映画に出演しており―そこには代表作『古都』(63年)も含まれてるん―そのためか、ずいぶん消耗した状態で撮影に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。

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志麻ちゃんの夫役・園井啓介は寡聞にしてまったく知らず、どうやら未見作品の『あの人はいま』(63年)『寝言泥棒』(64年)でも志麻ちゃんの相手役を務めた役者らしいが、そのガチャついた顔は筑前煮と喩えるほかなく、やはりATGのごときインディーズ映画の空気を持ち込んでいる。

誰とツーショットになっても全くケミストリーを起こさず、映画に何も与えず映画から何も奪わないその凡庸な筑前煮フェイスはあくまで無味乾燥としている。

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そして妻を佐田に寝取られながらも園井から志麻ちゃんを奪おうとするダブル不倫の被害者兼加害者を山内明が演じる。

この役者は『原爆の子』(52年)『ゴジラ対ヘドラ』(71年)で知られるバイプレーヤーだが、とにかくスケベを絵に描いたような、まるでイヤらしいチワワ然とした相貌におさまっている。

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たとえ新珠三千代の生々しい色香と岩下志麻の瑞々しい薫香とが二通りの女の対極を結ぼうとも、男優陣がそれぞれに美・醜・凡の顔面バリエーションを実現しようとも、この5人は別々の映画で別々に活躍すべき5人なのであり、ひとつの映画に集結すべきではないという確たる違和が拭い去りがたく観る者の実感を犯すのである。

「新珠三千代、佐田啓二、岩下志麻、園井啓介、山内明」という字の連なりがもたらす強烈なまでの違和感は、そこで描かれるストーリーなどもはやどうでもいいとさえ思えるほどに一つの映像として“あるべきでない姿”を観る者の瞳に映すのでバリ辛かった。

今この文章を読んでいる読者のうちの99.9%は「なんなんだ、このわけのわからない評は。さっきから何をいってるんだ果たしておまえは」と思っているだろうが、それはこっちのセリフだ。

読者以上に迷惑してるのは私自身なんだコノヤロー!

この世の中には「あるべき映画」というのが幾らかあるが、その大部分は「あってもいい映画」である。

「あるべき映画」というのは、この格好をした、この役者で、この角度から、この監督と、このカメラマンが、この光量と、このレンズで、この角度と、このタイミングから、この演出によって、この動きで撮り、この編集で仕上げねばならないショットのみによって組織されたフィルムの連続体のことであり、「あってもいい映画」というのはこれらの条件から大なり小なり逸脱しながらも観る者がその存在を許しえた映画のことである。

逆に本作のように「あってはならない映画」は極めて稀有。主要キャスト5人のうち1人でも別の役者であれば立ちどころに「あってもいい映画」になったのかもしれないが、この5人の取り合わせだけは運命的なまでに“あってはならない”のだ。

たとえば『情婦マノン』(49年)のミシェル・オークレールや、あるいは『バス停留所』(56年)のドン・マレー以上に、この5人は本作の環境に適していない。先ほども述べたがミスキャストとかいう次元の話ではなく、本来ここに存在してはいけない5人なのである。仮に撮影・脚本・演出は一切変えず、ただ主要キャストだけをそっくり別の役者に入れ替えた場合、『風の視線』は何の問題もなく観てしまえる「あってもいい映画」になっていただろう。

出来不出来は関係なく、存在そのものに対して懐疑的になってしまう映画。

同様の理由でここまで混乱したのはポール・トーマス・アンダーソンの『パンチドランク・ラブ』(02年)以来だ。私にはどうすることもできない。だからごめんな。

 

◆弁解≒演出◆

ひどいな、今回の評。ひたすらパニックに終始した前章をお許し願いたい。何度読み返してもパニックと診断するほかない妄言だったが、あまり映画を観すぎると時折こういう症状が出てしまうのだ。どうか養老院の見舞い人のような目で読み流して頂ければ幸いである。

物語自体はさして面白いものではなく、見えない糸で繋がった5人がそれぞれにコミットしたりニアミスを起こすこともないので人間関係に動きがない。唯一、園井だけは「志麻ちゃんと別れて三千代と一緒になりたい」という目的意識を持っているが、あとの4人は膠着状態だ。志麻ちゃんは園井との愛なき生活を捨てるために山内に抱かれるか否かで逡巡するばかりだし、三千代の佐田への情愛は夫・山内によって妨げられ、山内は妻に言い寄る園井を理由もなく牽制するばかり。

監督・川頭義郎の無能はセリフに依存したストーリーテリングが証明しているが、そのほか室内劇に堕すまいとするあまり殊更に移動シーンを盛り込む手つきにも顕著だったわ。山内との密会を終えてホテルから出てきた志麻ちゃんを果てしなく尾行した三千代は、しかしハナから夫の不倫などアウトオブ眼中、なんなら今すぐにでも別れて佐田と結ばれたいと願っているので、ここで志麻ちゃんを尾行するという行為は説話的に何ら意味をなさないのである。ただ志麻ちゃんが抱えた“秘密の影”を「尾行」という記号表現で何となくサスペンスっぽく演出しただけにすぎない。

そんな三千代が、佐田に「大事な話がある」と言って誘いだし、わざわざ電車を乗り継いで川治温泉に向かうのはどういう了見か。道中一言も発さず、旅館に着いても入浴や食事を終えるまで無言を貫いた三千代が、いよいよ就寝間際になって「山内が密輸で捕まったので離婚できない」と“大事な話”を打ち明ける。

どうでもいい情報をどうもありがとうだよ。

f:id:hukadume7272:20200508052610j:plain大事な話をするためにいちいち川治温泉まで行く三千代と佐田。

 

わざわざ東京→栃木に向かって入浴・食事を終え、満を持して発表された“大事な話”がそれかい。

この遅延行為でしかないシーンは川治温泉でロケするための口実なのだ。作り手の事情がことごとく透けて見える「演出ごっこ」は当然ながら機能不全を起こし、したがって山内に三千代への気持ちを見通された園井がそれと気づかれぬように彼女とアイコンタクトを結ぶ瞬間も当然のように撮り逃す。

大体なあ、映画演出というのは作り手のキャパに余裕があるときにしか生まれ得ないんだよ、しみったれのカスッタレもどきのミソッカスがぁ。

キャパのない監督は目先の辻褄を合わせることに一杯一杯なので、演出がすべて“弁解”になるのである。尾行によってしか志麻ちゃんの影を露出させられないという弁解。動態が欲しいので川治温泉まで行って話を切り出させるという弁解。ブラーブラーブラー。

そして本当の演出はどこにも達成されない。ふと生起しかけたナマのサスペンス…たとえば不誠実な言葉を並べる山内に失望した志麻ちゃんが鞄からナイフを取り出すショットなどは一瞬おもしろくなりそうな気配を湛えこそすれ、結局ナイフは山内に向けられることなく再び鞄の中に仕舞われてしまう。なんじゃい、それは。

ここまでくると愚かしいとしか言いようのない川頭義郎の映画破綻術は、ある種見事なまでに105分のフィルムをきっちり破綻させ、複雑なくせに鈍重な物語を手前勝手きわまりないハッピーエンドに軟着陸してみせた。

園井は志麻ちゃんが不倫に走りかけたことで却って愛おしいと思い始め、置手紙を残して佐田のまえから姿を消した三千代は「あの置手紙、やっぱり嘘」とか言い出して佐田との愛を復活させる。

なんとなく美談に終わった不倫劇。唯一の犠牲者はただ裏切られただけの佐田の妻だがフィルムからは都合よく抹殺されている。はいはい美談美談。

f:id:hukadume7272:20200508052845j:plain今度の浮気騒動で夫婦の絆を再確認した園井と志麻ちゃん。