シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

秋刀魚の味

娘を嫁に出した父が激烈にヘコむって映画。

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1962年。小津安二郎監督。岩下志麻、笠智衆、佐田啓二、岡田茉莉子。

 

日本映画界の巨匠・小津安二郎監督の最後の作品で、妻に先立たれた男とその子供達の幸せの中にもなぜか潜む孤独と寂しさを描いた作品。 (キネマ旬報社データベースより)

 

ウム、ご苦労さん。

たったいま唇から血が出てきたので今日は前書きなしです。止血するために舌でぺろぺろ舐める必要に迫られた。そんなわけで本日は『秋刀魚の味』です。

あ、今回で「続・昭和キネマ特集」は終わりやで。次回からはしばらくmixi時代に書いてた映画とは一切関係ない随筆を転載してたっぷり時間稼ぎをしたあとにまた通常運営に戻りまーす。よろしくどうぞねー。

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◆もはや秋刀魚が出てこない◆

初めて小津を見たのが『秋刀魚の味』だった。

ファーストショットは忘れもしない…と言うのは嘘で思いっきり忘れていたのだが、煙突が並ぶ工場街地帯に立つ電柱とドラム缶。赤、白、緑で構成された幾何学的な画面構成。それでいて計算を感じさせない天衣無縫なショット。これには堪らず「うわー」と嘆息した当時の私。噂には聞いていたが、これが小津か。まぁでもなるほどね。理解はしました。

だが会社のオフィスに始まる冒頭で“小津調”に初めて接した私は、あまりに型破りな画面/編集にまったく理解が追いつかず、頭をバグり散らかしながらも「まだあったのか、映画は」と底知れぬ深淵に身震いを禁じ得なかった。

やはりこちらの違和感をくすぐるのは、カメラ目線の構図=逆構図で交わされる不思議な会話。オフィスを訪ねた同窓の友に「きみのところの娘にいい縁談があるんだけど」と言われた主人公が「まだ子供だよ。まるで色気がないし」と言うと「いやぁ、あるよ。十分ありますよ。あるんだ」、「そうかな。あるかな」、「あるある」などと単調に言葉を重ねあう。

「ある」という合意を一生確認し続けるやんと思った。

かように初の小津体験が私にもたらしたのは衝撃でもなければ感激でもなく、ただただ奇妙な違和感と困惑だったのである。

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そんな『秋刀魚の味』を観返してみる。

小津の遺作となった『秋刀魚の味』は、妻に先立たれた初老の父親が娘を嫁がせるという毎度おなじみの内容だが、娘の「結婚」よりも父の「老い」を深く描き込んだ1962年の松竹映画である。高度経済成長期の庶民の生活がよく活写されており、野球中継、ゴルフ、囲碁、歓楽街など当時の娯楽・風俗を散りばめた楽しい作品に仕上げることに小津は成功しました!

 

父を演じるのは笠智衆(りゅう ちしゅう)

戦後の小津作品に全作出演し、その柔和で朴訥としたキャラクターから「日本の父親」像を確立。実年齢49歳で70歳の祖父を演じた『東京物語』(53年)や、老齢期にレギュラーを持った『男はつらいよ』シリーズでは「日本のおじいちゃん」と呼ばれるように。1993年に88歳で亡くなると日本中が笠智衆を自分の祖父と錯覚して泣くという集団パニックが発生。それほど日本中から愛された役者だった。

小津作品でよく言わされるセリフは「そうかね」。

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笠智衆は静かに微笑む。

 

そして娘役が岩下志麻

嗚呼、花も恥じらう21歳の志麻ちゃん! アアアアッ!

端役で出演した小津の前々作『秋日和』(60年)で見出され、わずか2年後の本作ではヒロインに昇格。

だが小津組での撮影は想像以上にハードだったようだ。志麻ちゃんが物憂げな表情で巻き尺を弄ぶ約25秒のショットでは「もう一回。志麻っていこう!」と何度も小津にNGを出され、およそ80回までは数えていたがその先は分からなくなった…というのは有名な話。泣きたいと思っても泣けないので、そのうち志麻ちゃんは数えるのをやめた。

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所作ひとつで80回以上もNGを出した志麻ちゃん。

 

笠家の長男を演じたのは佐田啓二

ミキプルーン俳優・中井貴一の親プルーンなので、思いきって佐田プルーンと呼ぶことにするわ。
『彼岸花』(58年)『秋日和』など後期小津映画でよく見かける佐田プルーンは、まるで少女漫画の世界から出てきたような戦後日本映画界きっての美形。水も滴るイイ男。だが1964年、ミキプルーンを残して自動車事故により他界してしまうのです。享年37歳。溜息が出るほどの男前だった。そして一流のプルーンだった。

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ミキプルーンの親プルーンとしての佐田プルーン。

 

そんな佐田プルーンを尻に敷く新妻役には岡田茉莉子

成瀬の『流れる』(56年)や小津の『秋日和』を代表作に持ち、前衛作家の吉田喜重と結婚した後は『エロス+虐殺』(70年)などカルト映画の道に走った。

歯に衣着せぬ物言いがじつに痛快な女優で、生誕100年を記念した小津安二郎特集番組『小津が愛した女優たち』では当時新人だった工藤夕貴に「最近の若手女優についてどう思われますか?」と訊かれ「あいつらは女優じゃありません。タレントです」とバッサリ斬り捨てた。まあ「あいつら」なんて言い方はしてなかったけど。

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チャキチャキのチャキっ娘、岡田茉莉子。

 

さぁ、映画が始まるぞ。

今宵も同窓の友(中村伸郎北竜二)と酒を飲んで帰ってきた笠智衆、死に別れた妻のかわりに家事をこなす長女・志麻ちゃんからドヤされる。次男の三上真一郎はまだ学生。長男の佐田プルーンは結婚して家を出たので家族3人で暮らしている。

旧友の中村に「キミんとこの娘、そろそろ嫁に出したらどうだ?」と言われた笠は、かわいい志麻ちゃんをまだまだ手放す気になれなかったが、クラス会に現れたかつての恩師・東野英治郎がぐちゃぐちゃに泥酔したので家まで送り届けると、この先生の酒癖のために婚期を逃して馬齢を重ねた娘がぽつり。その不憫な姿を目の当たりにした笠は、やおら志麻ちゃんの縁談を考え出すが…。

まあ、このような内容なのだが、笠が縁談を考え出すまでがヤケに長く、映画は志麻ちゃんをほっぽらかして、笠が呑気に酒ばかり飲んでるシーンを描き倒す。佐田プルーンと岡田茉莉子の夫婦がゴルフクラブを買う買わないで揉めるシーケンスを除けばほとんど全編が飲酒シーンによって構成された酒浸り映画なのである。ろくでもねえな!

料亭でのサッポロラガー、鱧料理屋では熱燗、そしてトリスバーで楽しむウイスキーなど、いかにも美味そうに酒を飲むおっさん勢。ならばこちらもグラスを傾けながら観るほかあるまい。

ちなみに『秋刀魚の味』つってんのに秋刀魚は一匹たりとも出てこない。代わりに鱧(はも)が食卓に並びます。

ほな『鱧の味』やないかと思うのだが、うんにゃ、秋刀魚には苦いところもあれば塩辛いところもあるってんで、それをおっさん達の人生に重ねとるわけだ。夫婦生活をお茶漬に喩えた『お茶漬の味』(52年)と手口は同じ。

f:id:hukadume7272:20200511085303j:plain仕事終わりに昔馴染みと料亭で痛飲。

 

戦後高度成長の中で遺物と化す郷愁

クレジットタイトルでは笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子…の順でクレジットされているが、実際は笠智衆、中村伸郎、北竜二が事実上のメインキャラクターみたいなものである。

三人は同窓の友で、しょっちゅう料亭「若松」で酒を酌み交わしてはクダを巻く仲。

志麻ちゃんに見合い相手を紹介しようとした中村伸郎は、海苔佃煮でおなじみの名商品「ごはんですよ!」のおじさん(三木のり平)を彷彿させる顔立ちなので以降はご飯ですよと呼ぶ。

一方の北竜二は、近ごろ年甲斐もなく若い女房(三宅邦子)をもらったばかりで、「飲んでんのかい。あの方の…」と笠に冷やかされて「いやぁ、俺はまだそんな必要ないよ」と答弁した。精力剤の話をしとるわけだ。

北竜二「ここだけの話、いいもんだぞ。若いのは。けっこう上手くいくもんだ」

ド下ネタやめろ。

ご飯ですよと対になるよう、これ以降は北竜二を勃つんですよと呼ぶことにする。

ちなみに『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』で若松の女将を演じた高橋とよがご飯ですよと勃つんですよからセクハラに遭うのもお決まりのパターン。

f:id:hukadume7272:20200511081459j:plainご飯ですよ(左)、勃つんですよ(右)。

 

酒の席でクラス会の打ち合わせをした笠が微酔気分で帰ってくると、廊下で出迎えた志麻ちゃんからチクリとやられてしまう。

「あら、またお酒臭い」

「いや、今日はそう飲んどらん」

「ホントかな!」

この「ホントかな!」の言い方がめっぽう可愛らしいンである。

また、別のシーンでもこれと全く同じシチュエーションがよく似た構図で繰り返されるが、このあたりが小津の反復法、映画の調子なので見逃さずにおきたいが、ここでの志麻ボイスもすこぶるキューティーなのである。可憐なりき志麻ボイスに酔うばかりなのである。 アアアアッ!

「またお酒飲んでんのね」

「いや、そうは飲んどらん」

「飲んでる飲んでるぅ!」

f:id:hukadume7272:20200511090043j:plain飲んでる飲んでるぅ!

 

その後、料亭で開かれたクラス会では、ご飯ですよや勃つんですよから「ひょうたん」と陰で渾名されている恩師・東野英治郎『水戸黄門』における水戸黄門)が人生初の鱧(はも)をハムと言い間違えて大いに喜ぶが、笠たちはひとり愉快に泥酔する先生の醜態に失笑を禁じ得なかった。

東野先生の何がどうということはないが何となく人に憐れまれてしまう残念老害感がすばらしい。一同も学生時代の恩師だから丁重にもてなしはするものの、今や彼らと社会的立場が逆転したこの老教師はすっかり軽蔑の対象になっており、おまけにクチャラー。もはや公害の域に達するほどクチャクチャと音を立てながらハムを食べる。あ、鱧か。現在は糞不味いと評判の中華そば屋「燕来軒」を営んでおり、その泥酔癖から独り身の娘を毎晩泣かせているような仕様のないオヤジである(ちなみに娘役は文学座の大重鎮・杉村春子東野より年上

だが笠だけは先生を気に掛けていて、しばしば燕来軒を訪れては糞不味いチャーシュー麺を注文する。東野親子の哀れな姿が自分と志麻ちゃんの親子関係の行く末を暗示しているように感じられたのであろう。

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かつての威光もすっかり消え果てた東野先生(クチャラー)。

 

そんな折、笠は燕来軒で海軍時代の部下・加東大介と再会する。『七人の侍』(54年)の七郎次である。

加東に誘われるまま付いて行ったトリスバーには亡き妻の面影を湛えたマッダーム・岸田今日子がいた。『ムーミン』におけるムーミン、『卍』(64年)におけるマジ卍である。

カウンター席で笠をもてなした加東は日本の敗戦を偲び、ムーミン岸田に「軍艦マーチ」のレコードをかけさせ、おもむろに海軍敬礼をして「チャッチャカチャー! チャッチャカチャー!」と絶唱。うるせえな。メタボ腹とブス面を振り回して糞狭い店内を行進し始めた。

世界一小汚いミュージカルが始まった。

しかしまあ、こんなに有難くないミュージカルシーンも極めて稀なので逆に堪能したわ。加東のノリに付き合い、敬礼しながら頭を揺らす笠とムーミン岸田がすこぶる可愛いらしい。

それにしても加東の腹と尻がぷりぷりである。どうしてそんなにぷりぷりとお前はしているんだ。加えて、どうしてそんなにブサイクなんだ。

f:id:hukadume7272:20200511080109j:plainぷりぷり加東の軍艦ミュージカルに付き合う笠とムーミン岸田。

 

他方、このぷりぷり加東の軍艦ミュージカルはかなり重要な場面でもあるわけ。

「小津の映画には軍服を着た人間が一人も出てこない」という有名な言葉にあるように、一見して小津映画は戦争と距離を置いた銃後の人々の庶民生活を描いているように見えるが、その陰では戦争犠牲者への目配せが行き渡っている。『晩春』(49年)の原節子は女子挺身勤労令により身体を壊したという裏設定があり、『麦秋』(51年)では亡き戦友への陰膳と思われる和食器の配置が無人のロングテイクに耐える。また、前回の評では書かなかったが、『彼岸花』では「戦時中は大変だったけど家族みんな一緒で楽しかった」と追想する妻・田中絹代と「あの頃には戻りたくないね」と意見を分かつ夫・佐分利信の何気ない会話が挟まれるほか、ばっさり省略された挙式シーンの代わりに描かれたのは「やれよ。聞かせろよ」と囃し立てられた笠智衆が酒の席で楠木正行の辞世の詩吟を詠じる一幕だ。何より『東京物語』の原節子が夫を戦争で亡くした未亡人だということを忘れてはいけない。

日中戦争に出征した小津は、その戦争体験を自身の映画の主人公たちに共有させるわけだが、必ずしもそれは「忘れたい記憶」だけでなく、ある意味では「懐かしい過去」として回顧の対象にもなり、戦後高度成長の中で遺物と化していく郷愁――すなわち「時代錯誤」や「世代交代」といった言葉で片づけられてしまう年寄りの孤独として作劇化されている。

したがってこの場合、加東に付き合わされた「軍艦マーチ」は笠に老いを自認させるための“勇退の儀”となり、事実このシーンを契機に、酒ばかり飲んでいた笠は少しずつ志麻ちゃんの結婚を真剣に考え出すようになるのだ。もし志麻ちゃんが嫁にいけば激烈に寂しい思いをする上、家事をしてくれる人がいなくなるという懸念も生じるが、それでも笠は「今まで娘に甘えすぎていた」と反省し、彼女の幸せを第一に考えるのである。

 

酒ばかり飲んでる笠と並行して描かれるのが佐田プルーンと岡田茉莉子の些細な夫婦喧嘩。

二人は小汚い団地で暮らしている子なし家庭。友人が安くで売ってくれるというゴルフクラブを喉からプルーンが出るほど欲した佐田プルーンを「あんた程度のサラリーマンがゴルフするなんて贅沢よ。その気、なんの気、小生意気!」と攻撃する茉莉子は先日からぷんすかモードである(むしゃくしゃしながら台所でブドウを食べ続ける長回しがいい)。

とある休日、ゴルフクラブの夢を妻にぶっ潰された佐田プルーンが部屋でベコベコに凹んで拗ねていると妹の志麻ちゃんが訪れ、ややあって佐田プルーンの会社の後輩・吉田輝雄まで現れ「プルーンさん、本当に買わないんですか?」とクラブを持ってくる。すると、あれほどクラブ購入に反対していた茉莉子が「はい」と金を渡し「いいんですか…?」と驚く吉田に一言。

茉莉子「この辺で買っとかないと、あとウルサイもん!」

思わぬ優しさを見せつけた茉莉子。志麻ちゃんは「良かったわね、プルーン兄さん」と佐田プルーンを祝福し、プルーンもプルーンで玩具を与えられたキッズのように急に機嫌をよくして、糞狭い部屋でゴルフクラブをスイーンとスイングする。

茉莉子「そのかわり私も買うわよ、白い革のハンドバッグ。割に高いわよ。買うわよ? ホントに買っちゃうから!」

たくまし可愛い。

f:id:hukadume7272:20200511080227j:plain志麻ちゃんとお喋りする茉莉子(右)。佐田プルーン(左)はこの時まだ拗ねている。

 

さて。このゴルフクラブをめぐる夫婦喧嘩は一体何のために挿入されたエピソードなのだろうか?

このシーンは2つの説話機能を持つ。ひとつは「もし志麻ちゃんが結婚した場合、この兄夫婦のような山あり谷ありの夫婦生活が待っているよ」という示唆であり、いまひとつは「秘かに志麻ちゃんが想っていた吉田をお披露目するため」である。どちらも志麻ちゃんの将来を予断したようなサブストーリーは、やはり彼女のメインストーリーの為に誂えられた「伏線」ならぬ「未来線」なのであった。このへんの作劇も非常に合目的的っつーか、ちゃんと脚本上の役割を果たしてるわ。

帰り道が一緒になった吉田と志麻ちゃんが駅で談笑するシーンはロケ撮影ということもあってか、すこぶる気持ちがいい。

ただしジョー・ペシを思わせる吉田輝雄の顔がなんかイヤだ。

しかもこいつ、『吸血鬼ゴケミドロ』(68年)で異常なほど赤く燃える空を「どうしたんでしょうね」で片づけた能天気さんだぜ。レッド・マインドという通り名でもあるんだぞ!(私が勝手に考えたのだが)

f:id:hukadume7272:20200511080521j:plainレッド・マインド(左)に内心ホの字の志麻ちゃん(右)。

 

ウン。まぁ、そんなもんだよ…

さて、映画も大詰めだ。いよいよ笠が志麻ちゃんを嫁に出す決意をする。

しかし志麻ちゃんは「私はまだまだお嫁になんか行かないつもりでいるのよっ」と言い張る。その刺々しい言葉の端には家事のできない父と弟を残して家を出るわけにはいかないという憂心が顔を覗かせていた。なんて家族思いの志麻ちゃんなんだ。

それでも笠は志麻ちゃんがレッド・マインドに惚れていることを知り、佐田プルーンに頼んで縁談を取り付けようとしたが、なんとレッド・マインドにはすでに将来を誓った人がいるのだと言う。CA友美だろ! (『吸血鬼ゴケミドロ』で仲の良かったスチュワーデス)

しかもレッド・マインドの方も実は志麻ちゃんに惚れていたが、自分みたいにジョー・ペシに似た男では相手にされないと諦め、手近なCA友美で手を打ったというのだ。

なんというすれ違いの悲恋だろう!

この話を笠から聞かされた志麻ちゃんは、ごはんですよが紹介してくれた新たな見合い相手、その名も佃煮との縁談を勧められてしまうのだが、このシーンの志麻ちゃんがまあ不憫でねえ…。

佐田「レッド・マインドもね、お前のこと嫌いじゃなかったらしいんだけどね、もう決まっちゃったんだそうだ」

志麻「……………………」

笠 「いやぁ、父さんがもっと早くその気になれば良かったんだけどね。悪かったよ」

志麻「……………………」

佐田「俺にしたって、お前がレッド・マインドを好きだってこと、まるで気がつかなかったしな」

笠 「いやぁ、お父さんがウッカリしてたことが一番いけなかったんだ。すまなかった」

志麻「……いいのよ、お父さん。そんならいいの」

佐田「じゃあ、どうだい。佃煮と一度会ってみないか」

志麻「ええ」

笠 「会ってみるか、佃煮と」

志麻「ええ」

人形のようなポーカーフェイスでそう呟いた志麻ちゃんは、テトテト歩いて自部屋に行った。あとに残された兄と父は「よかったですね、お父さん。泣かれでもされたら困ると思ったけどな」「ウン、もっとガッカリするかと思ってたけどねぇ」なんて笑い合い、すっかり安心している。

てめぇらには志麻ちゃんの心がわからねえのかああああああああ!

バッコリ失恋して平気なわけねえだろっ。しかも本来両想いだったんだぞ!

涙を見せると父を困らせると思ったからこそ、悲しみを必至で抑えつけてようよう絞り出した「そんならいいの」じゃああああああああねーのかッ!

独身の自分を心配してくれる親心に報いたいからこそ佃煮との見合いを受け入れたんじゃああああああああああああないのかッ!

家族ならそれぐらい汲め、ばかっ。干し柿っ。

ていうか佃煮って誰ええええええええええええ

 

そのあと志麻ちゃんの部屋に行った笠は「本当にいいんだね。ごはんですよにそう言っていいんだね?」と最後の意思確認をおこない、志麻ちゃんは背を向けたまま「ええ…」と答える。安心した笠が一階に下りたあと、志麻ちゃんは机の上の巻き尺を指に巻きながら物思いに耽るのであった。

80回以上もNGを出された渾身の巻き巻きである。

本当はレッド・マインドが好きなのに佃煮と結婚してしまうのねぇ。「ごはんですよ」ならぬ「ご縁ですよ」ってか…。

f:id:hukadume7272:20200511084657j:plain巻き尺を弄る志麻ちゃん(ひどくブロークンハート)。

 

ところ変わって勃つんですよ邸。ご飯ですよと口裏を合わせ、遅れてやってきた笠に「悪いが佃煮の婚約者はもう決まったよ」とトリックにかけて笠を担ぐ。というのも、笠は以前若松で「ゆうべは勃つんですよのお通夜だったんだ」、「腹上死しちゃったんだ。あいつ」と大嘘をついて女将をトリックにかけたのだ。その仕返しを受けた笠は「いやぁ、チョイと慌てたよ」と頭を掻いて一同爆笑。なんもおもんないわ。

このシーンがすぐれて小津的なのは、いよいよドラマも佳境だというのに、娘を嫁にやろうとする笠と見合いを控えた志麻ちゃんの心情や和解がまったく無視され、トリックの掛け合いなどという蓋しどうでもいい一幕がドラマの最深部を犯しきっている点である。

勃つんですよ邸から場面が変わると、モーニングコートを着た笠たちが結婚式場に向かう準備をする場面まで一気に飛ぶ。有馬稲子の挙式シーンがポンと跳躍された『彼岸花』に比べるといくらか説話上の手順を踏んではいるが、やはり本作でも挙式シーンは省略されてしまうのだ。

ここで花嫁衣裳に身を包んだ志麻ちゃんが神々しいまでの光彩を放ちながら「お父さん…」と話しかけるが、ニコニコした笠は「ああ、判ってる判ってる。まぁ、しっかりおやり」と斟酌し、おそらくこれが最後の機会であろう親子関係の結実すら跳躍してしまうのである。

つまり画面上に「親子」は映れど「親子関係」が描かれることは一度もない。

小津は、熱い抱擁を交わすでも「I love you」を口にするでもない日本の家庭が、それでも言葉なき愛情によって互いに結び付くさまを見つめ続ける。

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志麻ちゃああああん!

佃煮と幸せになってねええええええええ!

アアアアッ!

 

ラスト10分は挙式の夜に笠がトコトン痛飲するさまをしっとりと描く。

勃つんですよ邸で友に囲まれながら楽しく飲んでいたが、ふと寂しさが募って早々に帰った笠の傷心を「独りになりたかったんだろう」とご飯ですよが汲んでやる台詞がいい。

「娘が嫁に行っちまった晩なんて嫌なもんだからな」

トリスバーではムーミン岸田がウイスキーを出し「今日はどちらのお帰り? お葬式ですか?」と訊ねると、くにゃくにゃに酩酊した笠、「ウン。まぁ、そんなもんだよ…」と微笑んだ顔はなんとも寂しげで。店内に響く「軍艦マーチ」が笠の孤独にやさしく寄り添うが、その音色はウイスキーの味を幾分しょっぱく変えもした。

帰りを待っていた佐田プルーン夫婦が笠の笑顔に安心し「またときどき来ますからね」と言って去ったあと、過ぎ去りし娘との日々を思い返しながらヘベレケの様相で「軍艦マーチ」を歌い続ける笠に「あんまり酒飲むなよ。もう寝ろよ!」と言って床に就く次男。

「明日も早いんだぞ。俺がメシ炊いてやるから!」

f:id:hukadume7272:20200511085036j:plain娘を嫁に出して激烈にヘコむ父。

 

卓袱台の前で「ひとりぼっちかー」と呟いた笠は、ふらふらの足で台所に向かい、水を飲む。夜のとばりがその姿を塗り潰し、娘のいない殺風景な家の中を映していく。

この父が決して独りぼっちじゃないことはラスト10分に現れた人々のやさしき相貌が証明しているが、それにしても侘しさが漂うのはなぜだろう。

画面はわりに賑やかで、父の孤独を慰めるように家族や友人がひっきりなしに出入りするのだが、それでも娘を嫁にやった父の寂寞たる心は画面の全域に“もののあはれ”を行き渡らせる。それはこのラスト10分が笠の横顔に満ちているからだろうか。小津映画にあって、ほとんど真正面から切り返される対話が、ここでは「横顔を向けた独り言」として娘の不在を視覚化する。

部屋の片隅に置かれた姿見は二度と娘を映すことはない。

f:id:hukadume7272:20200623023801j:plain志麻ちゃんが愛用していた姿見。