シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ふたつの精神が拮抗しくさる。

近ごろ、老いを感じる。私がこんなことを云うと、すぐに「若造が何を云うとるんだ。おまえに本当の老いというものを見せたる」とかなんとか云って全裸を見せてきたりする人がいるが、ちょっとそれは思いとどまってほしい。私が感じているのは肉体的な老いではなく精神的な老いだからだ。

しかしまあ、こうした中年層が抱きがちな「若者のむやみやたらな老いアピールに対する苛立ち」もわかる。二十歳かそこらの女子が自分より年下の子を見て「私ももう歳ね…」とため息をもらす自己憐憫の精神はまったくもって不可解だ。それに対して「そんなことないよ」と慰めると「そんなことあるっ。最近、肌も荒れ放題だし。私たちの時代はもう終わったのよ!」とムキになって怒り出し(私たちの時代…?)、かといって「その通りだね。肌も荒れ放題だね」と認めると「この私をオバサンだというのかーっ」と激昂して肩にぶら下げたカバンを振り回してくる。

ほな、もう、どないせえちゅうね。

 

私が近ごろ感じている精神的な老い。それは批判精神の萎縮だと思う。

私の批判精神がピークで炸裂していたのは正確に20歳の頃だと記憶している。何を食べても「美味しい」としか云わないグルメ番組に業を煮やした私は、口にするものすべてに対して「これは風味の処刑にほかならない」とか「これは魔の森に生えてる毒キノコですか?」と批判した。

また、人体に害を与えるタバコを批判しながらタバコを吸い、「なんたる矛盾野郎だ」と私を批判する人の正論に対して「正論を云うな」と批判したものだし、わざわざ憧れの東京に行って「ビルこんなに建てんな」と都会批判をし、山に遊びに行って「不便。コンセントなさすぎ」と自然批判をした。電車に乗っても「慣性の法則すごすぎ」とか「広告吊りすぎ」といって批判した。

 

そんな飽くなき批判精神で世の中を見つめていた二十歳の私が、近ごろ急速にやさしみに目覚めてしまったのだ。我ながら丸くなったものだなぁ。

食べ物を口にするたびに海の幸と山の幸に感謝し、穀物にも感謝し、その穀物を襲わなかったイナゴにも感謝を捧げています。先週は錦市場で刺身を買って食したが、市場の人々や魚だけでなく、勢い余ってポセイドンにまで感謝してしまった。

趣味のひとつである夜の散歩も、気がつくと道に投げ捨てられた空き缶や吸い殻を拾い集めてポケットに入れるという善行を積みまくっているので、一向に散歩が捗らないばかりか、道行く人には怪しすぎる奴と思われ蔑まされている。それでも私は「まったく。道にゴミを捨てるんじゃねえ」とか「街の清掃活動をしてるだけだ。俺を怪しむんじゃねえ」と人々を批判することなく、むしろ清掃の機会を与えるためにゴミをポイ捨てしてくれてどうもありがとう、こんな私でも蔑むべきひとつの生命体として認識してくれて本当にありがとう、と感謝しているぐらいだ。

 

どうしてこんなことになってしまったのか。

批判精神という名の私の活力は20歳の時点で出し尽くしてしまったのか。ならば今の私は出涸らし状態なのか。ついに私も世界平和とか人類愛とか謳いだして近年のミスチルみたいなことになってしまうのか。基本的に観た映画はすべて褒める退屈なレビュアーになってしまうのか。多方面に気を配って直截的な表現を避けるコメンテーターみたいなオブラート包み野郎になってしまうのか。難病話のVTRに嗚咽する顔をワイプで抜かれて視聴者からの好感度をゲットしてしまうのか。チャリティーコンサートの大トリを飾って「一人ひとりの力には限界があるけれど、みんなで団結すれば無限のパワーが云々」みたいな有難いご高説を垂れてしまうのか。ハウスバーモンドカレーやミキプルーンとかのCMに抜擢されて好青年のイメージを国民に植え付けてしまうのか?

うわあああー。いやだー。自我が反転するうー。

…と、ひとしきり部屋でもんどり打って暴れていると、不意に私を目覚めさせたのが魔法の言葉。エフ、ユー、シー、ケー。これすなわち「FUCK」である。

博愛主義。全肯定。事なかれ的コメント。難病話に嗚咽。チャリティーコンサートでご高説。ついでにハウスバーモンドカレー。ミキプルーン。

ファックだ、そんなもんは。馬鹿野郎が。

この世はまだまだ疑える。夢ばかり見ていては現実がまどろみます。というわけで、ぐるっと一周して元通りのおれ。

ポセイドン、しばいたんぞ!

 

~今日の一枚~

真剣白刃取り。

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