シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

記憶にございません!

オイ、三谷ィッ!

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2019年。三谷幸喜監督。中井貴一、ディーン・フジオカ、石田ゆり子。

 

病院のベッドで目覚めた男は一切の記憶がなく、病院を抜け出して見たテレビで、自分が国民から石を投げられるほど嫌われている総理大臣の黒田啓介だと知る。国政の混乱を避けるため、記憶喪失になったことを国民や家族には知らせず、真実を知る3人の秘書官に支えられながら日々の公務をこなす中、アメリカの大統領が来日する。(Yahoo!映画より)

 

皆おはよう。カボチャの天ぷら踏んで転んでない?

一昨日、執筆途中だったウディ・アレンの『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(19年)の評が消えちまいました。「小癪なっ。もうええわい!」と憤激して、拗ねて泣いて寝たけれど、なんとか立ち直って書き直してゐます。イェイ。七転び八起き、九転んでも十起き。11転べばあの世往き。

書いた文章が保存前に消えてしまうこと。それは物書きにとっては悲劇です。ピザ職人がピザの生地を指でくるくる、遠心力で楽しくやってるときに、ピャッと飛んでって床に落としてしまうぐらいの悲劇です。つまりシェイクスピアです。文章が消えることは、シェイクスピア。

書きかけの文章が消えてしまうことは、シェイクスピアの五大目の悲劇として記録されねばなりません。それくらいのスケールの話を、私は今していることを念頭に置いて、この文章を受け止め、皆さん一人ひとりがこの事と向き合い、しっかり反省もして、明日の暮らしに活かしてください。

そんなわけで本日は『記憶にございません!』です。脳細胞1個たりとも興味がないのでサクッと終わらせます。

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無理のハンマーで道理を叩きつけることはやめて

主要キャストともどもキャリア最大の失点となった銀河をも巻き込む自爆作『ギャラクシー街道』(15年)ほどではないが、かといって全盛期の『ラヂオの時間』(97年)には遠く及ばない。

…レビュー界隈ではこのような辛口コメントが散見されるが、私に言わせれば『ラヂオの時間』とてまったく大した映画ではなく。そもそも三谷幸喜に全盛期なんてあったっけ? 記憶にございません。なんて思っちゃうほど映画人としての彼の才覚をちくとも垣間見たことのない私に、この『デーヴ』(93年)のヘタな模写みたいなミキプルーン主演作に美点を見出すことなど到底できようはずもなく、ってカンジ。

 

この映画は、ミキプルーン俳優こと中井貴一演じる歴代最低の総理大臣が国民から石を投げつけられた衝撃で善人化し、記憶喪失であることを国民に隠したまま良き指導者として公務に励みだす…という総理コメディの決定版です。前半は『デーヴ』、後半は『スミス都へ行く』(39年)が下敷きになっている。ワイルダーの次はキャプラっすか。

しかしまあ、記憶喪失というアイデアによって同一人物でありながら“なりすましコメディ”が成立しているという点は三谷シナリオの妙味だわなぁ。おーん。ほっほーん。『ステキな金縛り』(11年)と同じくらい着想はおもしろい。おもしろいじゃないか三谷。もともと三谷は発想力に一日の長がある。ただ、発想を映画に変える能力がないだけだ。

三谷ィッ!

この人の映画に対する理解の浅さは昔から感じている。たぶん物語と芝居のおもしろさが映画の全てであって、まさに「おもしろさ」という概念だけを追いかけてるんだろうなあって。堤幸彦や宮藤官九郎もそうだが、もともとがテレビ脳なのだろう。それ自体は悪いことではない。ただ、そういう人たち…つまりテレビ屋が映画を撮ると悲惨ってだけだ。三谷ィッ!

しかしまぁ、秘書役のディーン・フジオカ小池栄子は水際立っていた。小池栄子が素晴らしい役者だってことは『2LDK』(03年)を観て知ったが、ディーン・フジオカも相当ディーンしてた。抱かれたいとすら思えた自分がここにいた。他方、毛量俳優の佐藤浩市は相変わらず退屈。どの映画でも芝居が80年代なのよね。けど毛量はすごかった。

あ。そろそろ評を終わりたい。

この映画を語ることに対して一切興味が持てずにいる自分がここにはいるからだ。でもあと少しだけ頑張ってみるよ。やれるだけ。山崎まさよしも「セロリ」で歌ってたし。あれ、パセリだっけ?

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セロリで合ってた。

 

私は、遥かイニシエより三谷映画を論じることにあまり意味を見出せずにいる。テレビ畑の脚本家が撮った映画に対して真正面から映画論で斬りかかったところで馬の耳に念仏感がすごく、また三谷が得意とするユーモアの部分に言及しようにも“笑い”には正否がないので結局は人それぞれの感性に依拠した主観ゴリゴリの印象論としてしか語りえないためである。

だがそんなことを言ってても埒が明かんので“馬の耳に印象論”を開陳するわけであるが、まず今作、笑いが低調ね。同じワードの繰り返し、変な踊り、素っ頓狂な声、それに特殊メイクの巨大な耳タブなんかで目先の笑いを取ろうとするセンスの退行には痛々しさを通り越して悲壮感すら漂っていた。ああ、『ギャラクシー街道』の失敗は偶然じゃなかったんだ、っていう。

次に映画的瑕疵だが、これはもう何から挙げればいいのやら。

全編これ言葉に従属したストーリーテリング。総理官邸の巨大セットに依存にした代わり映えのしないショット。カメラだけが貧乏揺すりみたいに意味もなく動く。腐り気味のシネマスコープ。山のように出てくる小道具はひとつも活かされない。そもそもが映画オンチだからか、全編に漂う図画工作感? なんとなーく映画っぽい画面の数珠繋ぎで2時間凌ごうとする、昔日よりの悪いクセ。フィルムの消耗。中井貴一を筆頭とする出演者もソツなくこなしてはいるが活きがない。

シナリオも…どうなのかしらねぇコレ。政治と人情がすり替えられているのでピリッと利いた政界風刺はひとつもなく。夫婦関係の修復を願うミキプルーンが国会中継を通してカメラ目線で妻に愛を誓っちゃうとか、そういう世界ですから。

いちばん気になったのはご都合主義の展開を“そういう笑い”として剛腕突破してくる益荒男精神。

不自然な展開のあとに「今の、不自然だったでしょう? この不自然さを笑って下さいね!」とセルフケア(…になってないけど)することによって無理のハンマーで道理を叩きつけるという。例えばそうね、ウケなかった芸人が「あれはそういうボケやん…」と言い訳がましく不平垂れるイタさにも通じらァな。

「~という笑い」という傲慢ね。

 

まぁ、総じていえることは紙芝居化がひどい。

極端な話、紙芝居というのは絵が言葉に従属したメディアのことだ。要所要所に大雑把な絵(イメージ)があれば、あとは言葉で滔々と説明すりゃ事足りる。本作もそう。

ボラギノールのCMみたいに、いくつかの止め画に音声だけ乗せてもほとんど支障がないレヴェル。

支障がない時点で、そりゃもう紙芝居なのだ。

それはそうと、三谷ってチャップリンとかバスター・キートンには興味ないのだろうか? いちど無声喜劇でも撮れば外れたネジも見つかると思うのだが。

f:id:hukadume7272:20201102081516j:plainディーンとプルーン。

 

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